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魔法少女れいな☆マギカ 作者:宗田英李
1/1

①帝都の魔法少女たち

PROLOGUE

 普段であれば、市民の往来で賑わう界隈だった。帝都の片鱗に位置し、私鉄の終着駅も隣接するこの鉄道駅周辺は、とりわけ休日には都心へ繰り出す若いカップルと家族連れが目立っていた。
 その日曜日は朝より駅前のロータリーに人影は無かった。いるのは小銃を提げた数名の兵士だけだった。駅全体がまるで呼吸が止まったかのように、駅舎の屋根の国旗が雲ひとつない青空に、音も立てずゆらゆらとはためいていた。時計の針は一時を刻んでいた。
 駅へ通じる道は、兵士と木柵によって封じられていた。間違ってもこの周囲には、行楽を愉しもうという場違いな者は誰一人いない。皆、兵士と目を合わせるのを避け、遠目からチラチラと窺うにとどまっていた。
「兵隊さん、いつになったら終わるんですかえ?」
 その老婆は、兵士達の十メートルほど前を五分ほどウロウロしてから、遂に意を決して尋ねた。
 兵士は答えない。
「せめて、駅長さんか誰か分かる人に会わせて下さいませんか」
「許可の無い地方人を通す事は相成らん!」
 老婆を冷えた眼で見下ろしながら、兵士は怒声で返す。
「娘が嫁ぎ先の甲府から十時の列車で来るはずなんです。臨月なんですよ。もしあの子が列車の中で陣痛でも起きていたら、どうしろと言うんです? 生まれてくる孫だけでなく娘の命にも関わるんですよ! お願いします」
「去れ!」
 通行人達は、眉を顰めながら一部始終を眺めていた。ある者はひそひそと言葉を交わし、ある者は俄かに同情を寄せ、またある者は嘲笑していた。しかし彼らは皆、関わりたくないという思いでは一致していた。やがて老婆は折れ、兵士に背を向けてトボトボと去って行った。
 そもそも何の権限もない兵士にとって、老婆の直訴は不運なとばっちりでしかない。軍隊である。いかなる事であっても命令に背くことは、時として自身の命にも関わる。それは老婆とて百も承知ではあった。が、それは不運と言うには余りに瑣末だった。彼にとっての本当の不運とは、老婆に気を取られて気づくのに完全に遅れたことであった―――けたたましいエンジン音を上げながら猛然と突進してくるボンネットトラックに。

 同じ頃。駅舎から一人の下士官が駆け出して来た。程なくして、駅舎と公用車との間に、十名ほどの兵士の列が二つ形作られた。小さく響く号令。兵士達が互いに向き合いながら敬礼するのに合わせて、二人の将校に伴われ一人の将官が駅舎から姿を現した。将官は歩きながら敬礼を返し、正面に三台並ぶ黒塗りの公用車のうち、中央の後部座席に乗り込んだ。
 田村遼吉陸軍少将は臨時の会議に出席するため、通常の鉄道の運行を停めてまで帝都に帰投した―――表向きの理由は。実際のところ、帝都の妾の機嫌を損ねてしまい、戻る口実として無理矢理会議を自ら設けたに過ぎない。もちろん、会議の議題は緊急とは到底言えるものではなかった。
 ボンネットトラックが兵士と木柵を粉砕しながら猛進して来た時、田村少将と二人の将校がそれぞれ乗車し、まさに発車しようとした矢先の事だった。ボンネットトラックはタイヤを鳴らしながら旋回し、減速することなく公用車に追突した。追突された最後尾は中央の、中央の公用車は最前の車両へと続けざまに衝突する。
 ボンネットトラックのドアが開き、運転席から一人の男が飛び出す。男はトラックの荷台によじ登った。トラックの荷台には重機関銃が積まれていた。
 男の乱射は、狙いすましたものには程遠いものだった。だが、それでも十分であった。最後尾の将校は逃げる間も無く車両ごと押し潰され、最前の将校は車内に居たまま原形を失った。
 中央の田村少将は少し違った。衝突時も致命傷には至らず、直接の被弾もなかった。しかし衝撃でドアがへしゃげた。開かないドアを懸命に押しているうちに、最前の車両から引火した炎が田村少将の車を覆ったのだ。男が重機関銃の乱射をやめていれば、生きながら焼かれる断末魔の悲鳴が響き渡っていただろう。

 男の無差別な銃撃はなおも続いた。それは駅前ロータリーに及ばず、元々封鎖されていない周囲にも向けられた。逃げ惑う者、直撃を受けた者、破砕された建物の瓦礫の下敷きになる者。男は狂気に駆られるでもなく、かといって冷徹に狙いを定めるでもなく、生気そのものが表情になく両眼の焦点の定まらぬまま、支離滅裂に銃口を向けて回すばかりであった。
 なす術がなかったのは、兵士も同じだった。彼らは応戦するどころか銃を放り捨てて一目散に逃げ去るか、さもなければ同じ運命を辿った 。はなっからこのようなテロなど想定しておらず、初めから一発の銃弾も持ち合わせていないのだから、他にそうするしかなかったのだ。
 凶行の場から少しでも遠くへと逃げ惑う群衆。民間人も兵士もみな一様に、駅前の反対方向を目指し死に物狂いで走っていた。奈々恵くるみだけがただ一人、逆方向を走っていた。くるみの左手の中には、自身の命そのものとも言うべき宝石がしっかりと握り締められていた。
 重機関銃の射撃が、くるみへと向けられる。雨あられと降りかかる銃弾とコンクリートの破片をかいくぐり、走るのを止めないくるみ。くるみがスライディングすると、直後に巨大な看板が落下した。たとえ七.七ミリの銃弾が目の前をかすめようが平静さを保つには、十四歳のくるみは既に十分すぎるぐらいの場数を踏んでいたのだ。
 突然くるみの目の前で閃光とともに爆発が生じる。間一髪、くるみは伏せて衝撃波と破片をかわしていた。男は重機関銃で飽き足らず手榴弾まで用意していたのだ。銃弾が切れたのだろう、という事までくるみはいちいち考えたりはしなかった。男は一発、また一発と投げつけてくる。あくまでくるみは、即座に起き上がって爆風をかわし、再び男へと向かって走り出した。
 その次の爆発は、くるみの足元だった。爆煙がくるみを覆う。反応がコンマ秒差で遅れたせいもあり、伏せることが出来なかった。いや、たとえ伏せたとしても、普通の人間であれば(・・・・・・・・・)良くて片手か片脚、最悪全身もろとも吹っ飛ばされることは避けられない。
 周囲は再び静寂に包まれた。かに見えた。その刹那、爆煙を振り払うつむじ風。くるみ――――正確には魔法少女・奈々恵くるみがそこに立っていた。先刻の私服と違い、格闘家然とした俊敏な動作に長けた装束。揺るぎない闘志を湛える、髪の色と同じ褐色の瞳。両手に構えた二振りのマジカルトンファー。そして先刻まで左手にあったソウルジェムは形を変え、首に巻かれたマフラーで輝きを放っていた。
 投擲される手榴弾。それはあたかも、くるみの顔面を狙うかのように目掛けてくる。くるみは冷静に手榴弾の軌道を見極めた上で、トンファーで薙ぎ払う。乾いた音と共に打ち返された手榴弾は、一直線に男の眉間を直撃した。男は仰向けに倒れ、手榴弾は空中で破裂した。
 くるみはゆっくりと男のトラックに歩み寄った。公用車を包む炎が俄かに揺れる。駅の周囲にはくるみを除いて、既に誰もいなかった。トラックの荷台で大の字になっている男を、くるみはトンファーの先で軽くつついた。男は気を失っているだけで、命には別条はなさそうだ。だが男の顔を右に向けて首筋を確かめると、ふぅと小さく溜息をついた。
 そもそも彼女にとっては、今更確かめるまでもないのだ。この刻印――彼女たちは「魔女の口づけ」と呼んでいた――を受けた罪なき者が罪なき者を襲い、掠奪し、犯し、時には殺しさえする有り様を、これまで嫌というほど見せつけられてきたのだから。
 その時、くるみの首元のソウルジェムが反応した。魔法少女にとって、ソウルジェムは魔女を探知するための手段でもある。この不運な男を操る憎むべき魔女は、すぐ側に結界を張って潜んでいる。くるみは踵を返し駅舎へと向かって行った。
 厳密には、駅舎ではなく隅っこに隣接する、朽ちるに任せていた小さな物置だった。錆び付いた南京錠で閉じられていた扉をくるみが蹴破ると、扉のすぐ後ろは蜃気楼のように渦巻く世界が口を開けていた。
「今度こそ逃がさないよ。覚悟しな!」
 くるみは蜃気楼の中へと飛び込んで行った。

 結界。あるいは魔女たちが人知れず身を潜める、この世のエアポケット。邪悪な魔女はその深淵から強欲、憎悪、嫉妬、などなどあらゆる負のエネルギーを撒き、時に凶行をもたらす存在だ。
 そいつらを退治し人々の平和と安寧を護る希望こそ、あたしたち魔法少女なんだ。
 くるみはそう自負していた。
「ええい、しゃらくさい!」
 くるみを出迎えたのは、おびただしい使い魔であった。まるで折り紙で作られたかのような異形の生物たちが、くるみに襲いかかる。空中から覆いかぶさろうとすればトンファーで払い、正面ににじり寄るものに対してはハイキックを見舞った。その俊敏で正確な身のこなしは、くるみの最も得意とするところだった。
 だがいかんせん、これだけの数は誤算だった。使い魔の攻撃をかわし囲まれないようにするのも、百戦錬磨のくるみであっても容易ではない。
 今度はそこへ、巨大なハリボテがのっしのっしと姿を現す。その容貌は熊とも蛙ともつかない、形容し難い代物だった。しかしくるみには一目瞭然ー魔女だった。
 くるみは思わず舌打ちした。余りにも分が悪すぎる。ただでさえ使い魔が一向に減らないのに。魔女はおもむろに拳を振り上げたと思うと、くるみ目掛けて振り下ろす。魔女の腕はびよーんと伸びて、 くるみの足元を穿(うが)った。くるみにとって魔女の攻撃は緩慢過ぎるぐらいなのだが、直撃すればただでは済まされないだろう。続け様に一回、もう一回と魔女の伸びる腕がくるみを狙ってくる。
「しまった!」
 魔女に気を取られていたのがいけなかった。蛇型の使い魔が脚に絡み付いたのだ。魔女のパンチをかわしたは良いが、そのお陰でバランスを崩し転倒してしまった。その途端、犬型、牛型の使い魔たちが何匹も一斉にくるみにのしかかる。地面に組み敷かれたくるみは、もはや身動きが取れない。
 見上げると、真っ正面には魔女がゆっくりと拳を構えてくる。今度こそ、確実にこちらをぺしゃんこに叩き潰すに違いない。
 ゆっくりと、ゆっくりと放たれる魔女の拳。くるみは思わず硬く目を閉じた。
 銃声。
 くるみが目を開けると、さっきまで勝ち誇っていたはずの魔女は腕半分がちぎれ、もがいていた。銃声の方を向こうとしたくるみに対して、
「そのまま動かないで」
 そう言うや否や、再び銃声とともにくるみのすぐ上を通り過ぎるもう一発の衝撃。衝撃波とともに使い魔たちはあらかた吹き飛ばされ、くるみは自由の身となった。
「大丈夫⁉」
「ルリ遅ーい!」
 くるみは起き上がりながら応えた。その相手は、淡い藤色を基調としたドレスを身に纏い、大きな羽飾りの付いた鍔広の帽子を被っていた。ピンク色の髪が、衣装とのコントラストを引き立てていた。その手に構えた双胴のダブルバレル銃からは、硝煙が昇っている。
 (すなお)ルリ。くるみが魔法少女となって以来ずっとコンビを組んできた相棒であり、ルリが契約したのも偶然くるみと同じ時期だった。
「まったく、いつも一人で無理するんだから」
 呆れ気味のルリだが、彼女にとってももはや慣れ切った事だった。
「それじゃ、たっぷりとお礼してやろうぜ」
「ええ!」
 二人が向き直ると、魔女は怒り狂っているかのように地団駄を踏んでいた。右腕は半分消失しているものの、今度は左腕で殴りかからんとばかりにぐるぐると振り回していた。
 魔女が左拳を叩きつけるのと同時に、阿吽の呼吸で左右に別れる二人。くるみがトンファーで使い魔を蹴散らせば、ルリは空いた右手で二発の散弾を召喚し、攻撃をかわしながら装填する。銃身を振り上げカチャッという音を立てるが早いか、別の使い魔目掛けてダブルバレル銃が火を噴き、一度の射撃で五、六匹の使い魔をまとめて撃破した。
 気がつけばあれだけ大勢いた使い魔もほぼ全滅。残るは魔女のみとなった。ルリはこれまでの散弾とは打って変わって、金色に輝く銃弾を召喚する。ルリが左手のトリガーを引くと、銃弾は無数の光り輝く魔法の帯となり、魔女に絡み付いた。
「くるみ、今よ!」
「っしゃあ!」
 くるみが念じると、右手のトンファーは魔力を帯び、光の刃となった。その長さも、通常より長く伸びる。
「はあああああああ〜〜〜〜〜っ‼」
 一閃。くるみは超光速で飛びかかったかと思うと次の瞬間、光の刃と化したトンファーで魔女の胴体を真っ二つに両断していた。爆発とともに、魔女の身体は四散した。

 くるみとルリ、二人の魔法少女は物置の中に立っていた。床は腐り落ち、倒れた棚とその破片が散乱していた。変身を解き、私服姿に戻る二人。
「今日は借りだ。あんたが取りなよ」
 くるみは地面に落ちているグリーフシードに目を遣りながら、ルリに顎をしゃくった。
「じゃ、お言葉に甘えさせてもらうわね」
 くるみも、グリーフシードを拾い上げるルリも、顔からは緊張が消えていた。互いに微笑む二人。
「シッ!」
 突然、くるみは陰に身を潜めながら、唇に人差し指を当てた。入り口越しに、外の様子を窺っている。
「どうしたの?」
「警察だ。もう現場検証を始めてる」
 ルリにとっても、それは魔女に比べたら大したことのない話だった。ただ魔法少女としては、下手に第三者の目に触れることだけは、断じて避けなくてはならなかった。
「まだ向こうに気を取られてるみたいだ。今のうちに線路の反対側へ逃げよう」
 足早に物置を後にする二人。太陽は僅かに傾き始めていた。


  第一章

 Ⅰ

 くるみが直征爾の家にやって来たのは、半年前のことだった。新しい家族のことを父から聞かされた時、ルリは胸が踊った。母を幼い頃に病気で失ったこともあり一人っ子だったルリにとって、きょうだいは叶わぬ憧れでもあった。征爾は娘思いの優しい父親であったが多忙で留守が多く、家にいる時はいつも家政婦のばあやと二人きりだった。母親だけでなく、弟や妹がいつもそばにいる友達が、昔から羨ましくて仕方なかったのだ。
「あ…その…、どうぞよろしくお願いします」
 征爾に伴われたくるみは、玄関の敷居の前でカチカチに直立していた。出迎えたルリはそんなくるみを、興味津々で眺めていた。
「おいで。家を案内してあげる」
 緊張のあまり言葉の詰まっていたくるみの手を取るが早いか、ルリはくるみを連れて廊下の奥へと走り去ってしまった。
「あんな嬉しそうなお嬢様は、今まで見たことがございません」
 一瞬呆気に取られたばあやだったが、すぐに目を細めた。
「そうだな。今回の話を引き受けたのは、本当に正解だった。私もルリにはさんざん辛い思いをさせてきたからな」
 ルリの思いを痛いほど理解していたのは、征爾もばあやも同じだった。
「もし私までが、あの戦場で死んでいたらと思うと…」
 征爾は思わず顔を曇らせた。
「しっかりなさいませ、旦那様。『八卦鎮の不死鳥』の名が泣きますよ」
 八卦鎮の不死鳥。陸軍中将・直征爾は世間一般にそう呼ばれていた。先の大陸での事変において、敵軍に完全に包囲され全滅不可避だったところを、援軍もあって奇跡的な逆転勝利を収めた地名にちなんだ名称である。今や国民的英雄となった征爾は、事実上の陸軍の最高実力者とさえ評されることもあったが、それはあながち誇張でもなかった。
「すまなかった。そうだそうだ、あの子にも感じたんだよ、強い運気をな」
 浅葱(あさぎ)峠という僻地で列車が脱線し、三百名以上もの乗客・乗員が死亡したのはその三日前だった。くるみは、唯一の生存者だった。
「しかし事故のことはおろか、家族や故郷のことも何一つ思い出せないらしい。覚えているのは自分の名前だけだ」
「お可哀想に」
「医者の検査も受けてはいるが、外傷も殆どないとのことだよ。これだけでも奇跡なのだが、よほど怖い目に遭ったに違いないな」
 征爾はしみじみと腕を組んだ。

 ルリはくるみの手を引いて、階段を登っていた。
「ここがあなたの部屋よ。昔お母様が使っていたの」
 二階の一番奥のドアを開け、手を握ったまま部屋へ招き入れるルリ。それはさっきまで、何度もやってみせた事だった。
 が、ルリがこの部屋に入った途端、逆にぐっと引っ張られるのを感じた。振り返ると、くるみは読書机の方を向いたまま立ちつくしている。くるみの顔からは、みるみる血色が失せていた。
「やぁ元気かい? ここで君とまた会えるなんて、僕も嬉しいよ」
 くるみは何も応えない。ただ、読書机の上に座っていた声の主から目を逸らすばかりだった。しかし、動転したのはルリも同じだった。直家ではその声、その存在に気づくのはルリしかいなかったからだ。
「キュゥべえが見えるの⁉ と言うことは、あなたも魔法少女なの?」
 くるみは口をつぐんだまま。だが、ルリはさらに畳み掛けた。
「何か思い出せない? 家族とか友達とか、ねえ」
「放っといてよ‼」
 なぜ怒られなきゃならないのだろう? ただ、失われた記憶を取り戻すがあればと期待しただけなのに。重く張り詰めた空気が、二人っきりの部屋を覆った。くるみは、依然うつむいたままだった。
 まるで頃合いを見たかのように、キュゥべえは読書机を跳び降り、部屋の外へと歩き去って行った。
「…ごめん。少しの間、一人にさせてもらっていい?」
 ルリは無言でうなずくと、息を殺したままドアへと向かった。思わず足がもつれそうになった。ドアがバタンと閉じられる音を背に受けると、一人になった部屋でくるみは立ったまま、深い深い溜息を吐き出した。
 ルリはと言うと、ドアノブを握ったまましばらく息を押し殺した状態から戻れなかった。閉めるときに音を立て過ぎないようには気を付けたつもりだった。それでも音が大きくなかったかどうか、不安に駆られずにいられなかった。
 二人の一部始終を、キュゥべえは欄干の陰から見守っていた。
 せっかく出来た「家族」に嫌われたらどうしよう。ルリの不安はしかし、杞憂に終わった。その後の共同生活は円満そのものだった。そして何より、まだキュゥべえと契約して間もなかったルリにとっては、願ってもない「戦友」であった。誰の手も借りず凶暴な魔女とどうやって戦えただろうか。学校の友達にも、父にさえも打ち明けられないまま、ずっと一人で抱え続けることなど出来ただろうか。くるみの存在無くして、魔法少女であり続けることなどルリには到底考えられなかった。
 くるみの留守を見計らって、彼女の過去についてキュゥべえに何度か尋ねてみたことがある。だがその回答は毎回同じだった。ただ列車に居合わせたに過ぎない、と。必ずしもルリを満足させるものではなかったが、くるみとの二人三脚が充実するにつれ、疑問の思いも次第に記憶の隅のそのまた隅へと次第に追いやられていったのだった。

 魔女との戦いから、一夜が明けた。くるみは部屋から階下の食堂へと降りてきた。食堂では一足先にルリが朝食を終え、食後の紅茶を飲みながら新聞を広げていた。二人とも制服姿である。
「おはよう」
「おはよう、くるみ」
「おはようございます、くるみお嬢様」
 くるみがテーブルにつくと、ばあやがサラダとハムエッグを持ってきた。続けて紅茶と暖めたスープが出てくるのが、直家の朝食と決まっていた。くるみ、テーブルのバスケットに盛ってあるイギリスパンを一切れ取り、イチゴジャムをたっぷりと塗る。
「ねえ、載ってる?」
「あるわよ。端っこに小さーく、ね」
 ルリの素っ気ない答えも、くるみには毎度のことだった。魔女の暗躍でどんなに派手な事件が起きても、それがくるみたちの活躍で退治されても、新聞やラジオニュースが事実をありのままに報道した覚えがなかった。最初は半ば不貞腐れていたが、いつの間にか気にもならなくなった。
 朝食を手早く片付けると、ルリが無造作に投げ出していた新聞を取り上げた。くるみは正直、新聞が好きではなかった。分かりきってはいる。だが分かってはいても、やはり目を通さずにはいられないのだ。一面は激化の一途をたどる大陸戦線の概要だった。
 彼の国を膺懲(ようちょう)せん。この好機を逃していつやるのか。
 音を上げるのは時間の問題。ようやく見えた終局への道程。
 一体、何回見せられて来たことか、こんな文言を。めくって行っても、○○中尉が敵陣に斬り込んで手柄を挙げた、△△村が国旗を振って我が軍を歓迎した、等々。悪くなっているのかどうかは分からないが少なくとも良くはなっていないことだけは、女学生に過ぎないくるみにもルリにも明々白々だった。
 くるみが新聞を眺めている間、ラジオのニュースが流れる。
『昨日夕方、現金輸送車が何者かに襲われ、運転手と同行していた警察官合わせて三名が全員殺害されました……車両は鋭利な刃物のようなもので荷台ごと切断されており、同様の手口は今月だけで三件目です……推定年齢十代中頃の女性二人組の目撃情報が相次いでおり、警視庁は事件との関連性を調べています……』
 くるみが社会面の隅に「田村少将、交通事故で急死」の見出しに目が留まったとき、掛け時計の針がボーンと短く鳴った。
「時間ですよ。そろそろお急ぎ下さいませ」
 時間になるとばあやが促すのも、いつものことだ。
「いっけない。早く出なきゃ」
 くるみはすっくと立ち上がると、カップに半分残った冷めた紅茶を一口で飲み干し、ルリと食堂を後にした。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃいませ」
 ばあはやラジオのスイッチを切ると、再びキッチンへと戻っていった。


 Ⅱ

 直家から二人の通う学校までは、歩いて二十分程度である。くるみとルリにキュゥべえまでが着いて来るのも時々だった。
 二人は共に、府内でも屈指の名門の子女が通うことで知られる聖賢高等女学校の二年生だった。高等と言っても五年制であり当時の制度においては、現代の中学校及び高等学校に相当する。二人とも十四歳だったので、現代であればちょうど中学二年生であった。二人が身にまとうボレロジャケットの制服はきわめて希少で、聖賢高等女学校のシンボルマークでもあった。
「起立、礼!」
 チャイムの音と共に、一日の授業が始まった。
 生徒たちが着席するが早いか、教卓の前に立つ女教師が口を開いた。
「皆さん、今朝の新聞は読みましたか? 今現在も、兵隊さんがお国のために命を賭けて戦っているのです。皆さんは銃後を守る良き妻、良き母として…」
 この一年だけで、一体どれだけ聞かされた事だろう。しかしうんざりするルリをよそに、先生のプチ演説は終わるどころか時折眼鏡をかけ直しながら、ますます早口になっていく。窓際のくるみの席に目を遣ると、早々にうつらうつらを船を漕いでいた。窓の手前のオイルヒーターの上では、キュゥべえもやはりすやすやと眠りこけていた。ルリはくすっと小さく笑う。
「ええと、では前回の続きです。THAT接続詞と時制の一致について…」
 授業も始まってそこそこに、教室の引き戸がガラガラと開く音。生徒たちは一斉に引き戸の方を向いた。クラス担任の川田弘子先生だ。
「直さん、ちょっといいかしら」
「私ですか?」
 今度はルリの方を向く生徒たち。
「警察の方がお見えです。至急校長室まで来るように」
 今度は警察と聞いて教室中が一斉にどよめきだした。さすがのくるみも跳び起きる。
《まさか、昨日の件…?》
 くるみはルリの方を向きながら、テレパシーで会話する。
《いや、それは無いと思うんだけど》
 確かに、昨日あのとき警察に足が着かないことだけは、絶対の自信があった。少なくとも自分に結びつく証拠など何もないはず。だとしたら、一体何のために? それとも何かうっかりまずいことを口にして、特高にでも目を付けられてしまったのか? いやいや、さすがに『八卦鎮の不死鳥』の娘に対してそんな迂闊なことは考えられない。
 ルリは川田先生に伴われ、校長室へと向かった。くるみは不安そうにルリの背中を見守る。
「奈々恵さん、前を向いて」
 先生の一言で、くるみははっと我に返った。

「直ルリ、入ります」
 ルリがノックして校長室のドアを開けると、応接用のソファには若い私服の刑事が座っていた。見たところ、二十代前半そこそこ。仕立ての良く清潔感漂うスーツのジャケットの下からはサスペンダーが見える。眼光鋭く、日に焼けて脂ぎっていて、陰険な中年男。ルリの中では刑事と聞くとそんなステレオタイプであったが、少なくとも第一印象は真反対であった。
「警視庁の愛美(まなみ)星太郎(せいたろう)と言います。この度は突然お邪魔してすみません」
 星太郎は年下のルリに対し、起立して丁寧に挨拶した。ルリは星太郎の向かいの席に、村田先生はルリの隣に座る。星太郎の隣には、校長先生が座っている。
「実は、半年前の演説部部員失踪事件について捜査しており、こうしてお話しをお伺いしている次第なんです。確か、直さんは入部しようとしていましたよね?」
「ええ、前に所属していた弓道部が休部になったため、演説部に入ろうとしたのですが、既に活動を休止していました」
 その件なら、ルリに何らやましいことはない。ただ聞かれたことを答えるまでだ。しかしルリには、今一つ腑に落ちなかった。事件直後に所轄の警察署がやって来て、一ヶ月にわたって捜査した末に真相不明なまま打ち切られたはずだ。なぜ今頃になって、しかも本庁の刑事が再び調べるのだろう?
「確かに、証拠不足なまま一旦は迷宮入りとなりました。しかし演説部には事件前からその活動について良からぬ噂がついて回っていました。また、失踪した部員の中には、政界・財界の有力者も何名か含まれています」
 それ以上のことは、十四歳のルリであっても聞くまでもなかった。
《ねえ、まだ終わらないの?》
 再びくるみのテレパシーだ。休み時間どころか、もうすぐ次の授業が始まる時間だ。
《私の方は大丈夫だから。別に変に怪しまれてるわけじゃないし》

 一方くるみは、机の上に頬杖をつきながらぼんやりと窓の外を眺めていた。すぐ側で寝ていたキュゥべえはくるみの気づかないうちに、どこかへ行ってしまっていた。他の生徒たちはくるみにもルリにもおかまいなしに、めいめいが好き勝手に談笑していた。あんぐりと口を開けながら、ゆっくりと大きな欠伸をする。
《くるみ、魔女の気配だ! 裏庭まで急いで!》
 今度はキュゥべえからのテレパシーだ。
「ったく、こんな時に!」
 すっくと席を立ったかと思うと、独りごちながらくるみは教室を走り去っていった。
 くるみは上履きのまま、校舎の裏庭を走っていた。キュゥべえも合流する。裏庭はちょっとした林のようになっており、休み時間であっても人気は少ない。手にしたソウルジェムは魔女を感知し、不規則な点滅を繰り返している。
「あれっ?」
 くるみは思わず小さく叫んで立ち止まった。さっきまで忙しなく点滅していたソウルジェムが、ぱたりと元に戻ったからだ。ただただ、狐につままれながらソウルジェムを見つめる。
 くるみがソウルジェムから目線を上げると、そこには見知らぬ少女が立っていた。すらりとした身体をブルーのロングコートとブーツに白いパンツで包み、亜麻色の長髪を首の後ろのリボンで束ねていた。一見すると男性にも見えるような出で立ちだ。しかし、右手には刃渡り七十センチほどの直剣、胸元に光るブローチ。ルリ以外の魔法少女を知らないくるみであっても、何者であるかは一目瞭然だった。そして少女の左手にあったのは、他ならぬグリーフシードだった。
「あら。聖賢にもまだ魔法少女はいたのね」
 少女はくるみの方を向いて、余裕たっぷりに微笑む。
「あなたは…?」
「取っておきなさい。くれぐれもソウルジェムは大切にね」
 唖然とするくるみに対して、少女は左手のグリーフシードを放り投げた。くるみは落っことしそうになりながら受け取った。くるみがグリーフシードに気を取られているのをよそに、少女は変身を解き踵を返していた。先程と対照的に、気品と清楚さの漂う白いワンピース姿だ。
「あ、ちょ、ちょっと」
 少女はそのまま林の陰へと消え去っていった。
「愛美れいな…」
 キュゥべえが彼女の後ろ姿を見送りながら小さく呟いたのには、くるみは気づく事はなかった。くるみの両手の上では、濁りがグリーフシードに吸収されソウルジェムが輝きを取り戻していた。

 校長室での事情聴取は授業終了のチャイムが鳴った後も、さらに二時間目が始まりかけた時間までも続いた。質問内容も当時のそれと殆ど代わり映えすることはなく、ルリもただ当時の回答を繰り返すばかりだった。違ったのは、以前の担当警察官がぶっきらぼうな態度に終始し面倒そうな様子を隠そうともしなかったのに対し、きわめて真摯な姿勢だったことだった。それゆえに以前の倍以上の時間に付き合わされ、踏み込んだ問いにたじろくこともあったのだが。
 ドアが再びノックされたのは、さすがのルリも辟易しはじめた頃だった。
「すみません、次の瑞穂さんが待っているので、もうそろそろよろしいですか?」
 ドアを開けたのは、修身の先生だ。確か三年のクラスを担当していたはず。
「あ、これは失礼しました。長い時間、ありがとうございました」
 ルリは安堵の溜息をついた。
 一礼しながら校長室のドアを閉め、その場で川田先生と別れる。川田先生は隣の職員室へと戻っていった。ルリは階段を上がりながら両腕を伸ばした。まだ一時間目が終わったに過ぎないと思うと、この一日が憂鬱で仕方ない。
 ちょうど二階へ続く階段の踊り場に上ったところだった。ルリは思わず足を止めた。
 出会い頭、ちょうど上の階から一階へと降りていく二人だ。二人とも同じ黒い髪、背丈と顔立ち。おそらく双子なのだろう。ただ一方は背中の真ん中ら辺まで伸ばしているのに対して、もう一方はショートボブで切り揃えていた。長髪の緋色の瞳はどこか挑戦的で、さながらネコ科の肉食獣を彷彿とさせた。他方、ショートボブは表情に乏しい反面、本心が読み取れない不気味さが漂っていた。そして左の瞳は長髪と同じ緋色、右の瞳は深く暗い紫色であった。
 既に授業は始まっている。病気でも無い限りこの時間帯に生徒が廊下を歩いていることは考えられない。だがそれ以上に、ルリにとっては久々の感覚だった。鳥肌。強張る手足。冷や汗。何分にも感じられた。
「あんたも容疑者なの?」
 長髪が尋ねる。あからさまにルリを見下ろすような態度だ。
「いえ、私は…」
 ルリ、慌ててかぶりを振る。
「それにしては、随分長いこと付き合わされたわね」
 皮肉を込めているのか。いずれにしてもルリには真意を計りかねた。
「まあいいわ。全く無関係なら、今回のことはきれいさっぱり忘れる方が賢明よ。行こう、和世」
 二人が再び足を進めるのに対して、ルリは咄嗟に壁際に後ずさってしまった。ルリをよそに一階へと降りていく二人。その場で動けないまま二人を見送るルリは、ふと左手に気づいた。自分の左手と見比べるルリ。その指には、常に肌身離さず指輪がはめられている。ソウルジェムが形を変えたものだ。
「間違いないわ、確かにあれは…」
 しかしルリはまだ気づかなかった。いや、一度星太郎から見せられただけの白黒写真では、すぐに気づくのは無理があった。まして行方不明の十四名とも、創始者を除く演説部員十七名とも、ルリはそもそも何の面識もないのだから。
「瑞穂たいら、和世、入ります」
 階下からドアを開閉する音が聞こえた。

 放課後。くるみとルリは並んで家路についていた。側にはキュゥべえも一緒だ。
「ふーん、なんか不思議な話よねぇ。私なら苦労して手に入れたグリーフシードをただで知らない人にあげるなんて、ちょっと考えられないかなぁ」
「君たちも知っての通り、グリーフシードは貴重だ。魔法少女同士で取り合いになることはあっても、くるみのような話は僕も聞いたことがないよ」
「でしょ?」
 くるみは長細く地面に落ちている自身の影を漫然と見つめながら、相づちを打つ。くるみにはもう一つ、引っかかっているものがある。ソウルジェムは大切にね、という言葉だ。何を意味しているのだろう?
「ねえキュゥべえ、もしソウルジェムを浄化しないまま放っておいたら、どうなっちゃうの?」
「ソウルジェムは魔力の源であり魔法少女の証だ。魔力を消耗し続ければ穢れを貯め真っ黒になり、輝きを失う。魔力を失うばかりか、君たち自身の命にも関わるね」
「だったら尚更、そんな事をして平気なのかしら」
 帰り道は途中、駅前の盛り場を通る。夕食の買い出しに出る主婦や、一足早く仕事を終わらせた労働者がちらほらと行き交っているが、本格的に混み出す時間にはまだ早かった。
「ほんといけ好かないわね、そいつ。いきなり容疑者だなんてさ」
「最初の一時間で一日分疲れちゃった。気が滅入るったらありゃしないわ」
 くるみは失踪事件については伝聞でしか知らない。事件が起きたのは、まだくるみが直家の養女となる前のことだからだ。そもそも演説部ってどんな部だったの? そう尋ねようとした矢先だった。悲鳴と共に十人ほどの人々がこちらに向かって走ってくる。くるみとルリは、咄嗟に顔を見合わせた。
「行こう」
「ええ!」
 その向こうでは、一人の男がいた。瞳孔は大きく開き、酩酊さながらによたよたと前に進んでいる。片手には(なた)を持っている。鉈もシャツも、血糊でべったりと赤黒く染まっていた。今しがた、腰が抜けて逃げられなくなった女性の血だ。魔女の口づけを受けた男に、命乞いをする相手が自分の妻である分別などつかなかった。
 くるみとルリは走りながらソウルジェムを手にしていた。男からは二十メートルほど手前、変身すべく構える。
「何してるんだ君たち! 早く逃げるんだ!」
 突然、後ろから同時に肩をがしっと掴まれた。
「君は…?」
「今朝の、刑事さん⁉」
 振り向きざまにルリは星太郎と目が合った。
「とにかく、ここは危ない!」
「いいから行かせて下さい!」
 星太郎の手を振り払って男に向かおうとするルリだが、すぐさま力任せに片腕を捕まれた。
「離して下さい!」
「駄目、離さない! 絶対に!」
 その時だった。急に辺りの空間が揺らぎだした。高速で太陽が東に沈み、月が西から昇る。頭上では星々がぐるぐると回転する。いつの間にか両側の店舗は、崩れた石の廃墟に取って代わられていた。
 周囲は土人形のような使い魔が、三人とキュゥべえを取り囲んでいた。
 くるみとルリには今更驚くことでも何でも無かった。ただし、こんな形で結界に飲み込まれようとは。くるみはソウルジェムを握りしめたまま、舌打ちした。
 星太郎だけは、目の前の光景にただ色を失うばかりだった。

   第二章

 Ⅰ

 一体どうしたらいいの。
くるみにもルリにも、全く思いも寄らなかった。変身して戦えば正体がばれる。隠し通せばやられてしまう。一般の人間ならまだしも、よりにもよって警察だ。無事に切り抜けて現実世界に戻ってきたとして、今後どんな厄介事に巻き込まれるか、分かったものじゃない。この男、何という疫病神なんだろう!
「くるみ、ルリ、早く変身して戦うんだ!」
「んなこと分かってるって!」
迷っているうちに、三人を取り囲む土人形のような使い魔がじりじりとその輪を狭めてくる。
「二人とも、僕から離れるな!」
 叫ぶが早いか、星太郎は背広の中から拳銃を取り出して発砲した。一発目は腕、二発目は頭部に命中。三発目が胴体を撃ち抜き、どうにか使い魔を倒す。
 しかしこの時点で、星太郎は既に詰んでいた。尋常小学校の児童でも分かる算数の問題だ。一体の使い魔を倒すのに三発の銃弾を要したとして、全部で何発あれば勝てるだろう? まして、彼は予備の銃弾など携帯していなかった。
「くそっ!」
 星太郎は弾の切れた拳銃を使い魔に投げつけると、怨嗟の言葉を吐きながら、たまたま足下に転がっていた棒切れを振り回しながら斬り込んでいった。だが、朽ちてスカスカになっていた棒切れは、殴りかかった途端に空しく折れてしまう。逆に使い魔は両手で首を掴み締め上げる。もがく星太郎の両足が宙に浮く。紅潮し苦痛に歪む星太郎の顔。
「仕方ないわ、行きましょう!」
「うん!」
 くるみとルリは、同時にソウルジェムを構えた。放たれる光は輪となって二人を覆う。光の輪は衣へ、武具へ姿を変える。魔法少女へと姿を変えるには、それでもコンマ二秒程度の一瞬でしかない。
「てぇい!」
 くるみは星太郎の首を絞めている使い魔めがけて突進する。トンファーの一撃で使い魔は粉々に粉砕された。地面に投げ出される星太郎。星太郎を気に掛ける暇もなく、くるみは一体、また一体と薙ぎ倒す。
「久しぶりに、これで行ってみようかしら」
 一方のルリは、紫色の銃弾を右手に召喚し、銃身へと滑り込ませた。左手を振り上げると、スチャッと乾いた金属音が鳴る。ルリが引き金を引くと、空中で無数の炸裂弾に分裂した。中華街の旧正月祝いのような連続した激しい閃光と爆音が辺りを包み、使い魔を一網打尽にする。
 かくして一帯から使い魔は一掃された。星太郎は地面にへたり込んだまま、二人の戦いを呆然と眺めていた。頭上では銀色の満月が煌々と輝いている。
「ねえ、どうすんの、ルリ?」
 くるみはやや上目遣いに尋ねる。
「どうするって、何を?」
 やや困惑気味にルリは答えた。
「決まってんじゃん。あたしたちの秘密知られた以上、そのままはいサヨナラで済む話でもないでしょ」
「仕方ないじゃない! あのままだと殺されるところだったんだよ」
「あんたこそ信じていいわけ? あの刑事を」
「あなたこそ何言ってるの!」
 すっかり喧嘩腰のルリに対して、冷ややかなくるみ。
「これはもしもの話だが」
 二人の間に割って入ったのは、キュゥべえだった。
「結界で死んだ人間の死体は、未来永劫現実の世界に出てくることはない。つまり、死んだ事実さえ誰も知る由はなく、原因不明の蒸発として処理されるしかないだろう」
「そうそう。そうだったわねぇ、確か」
「やめてよキュゥべえまで!」
 ここは一体どこなんだ? あの怪物たちは何なんだ? そしてこの少女二人は何者なんだ? ただ目の前の現実が現実だと信じられないまま、星太郎は半ば置き去りにされていた。もちろん星太郎には、キュゥべえの声はおろか姿も見えない。だが二人が何を言い争っているのかぐらいは分かる。星太郎は悪寒が走った。
 突然、激しい地震が襲った。地面が隆起し、巨大な神殿が姿を現す。屋根はなく、左右に直立する石像が列をなし、その奥に本尊のような神像が鎮座していた。あれこそが魔女…否、この神殿そのものが魔女なのだ。
 石像が一体、また一体と垂直に空中へ飛んだと思うと、二人の頭上めがけて落下してくる。
「くそっ、これじゃ近づけねえ」
 くるみは石像のミサイルをよけるだけで精一杯だった。飛び道具を持たないくるみにとっては致命的だ。
 かといって、手も足も出せないでいたのはルリも同じだった。通常の散弾では射程が届かない。届いたところでこの魔女に与えられるダメージは限定的だろう。二人を嘲笑うかのように、石像は次から次へと発射される。
「きゃあ!」
 運悪く、かわしたはずの石像の破片がルリを直撃した。ルリは吹っ飛ばされ、遺跡の瓦礫に埋もれる。
「ルリ‼」
くるみは、相変わらず防戦一方のままだった。
「痛ったーい…」
 幸い、急所は外れていた。瓦礫をかき分け、起き上がるルリ。
「これがそのお礼よ!」
 ルリのダブルバレル銃の先端には、巨大なグレネードが装着されていた。引き金を引くと共に放たれたマジカルグレネードは、襲い来る空中の石像と神殿の左右に並ぶ石像の間を縫うように軌道を描く。反動で宙を舞うルリ。
 爆発。ルリのマジカルグレネードは一発で魔女の急所に命中した。神殿が消滅したと思うと、空は月夜から夕焼けに戻っていた。目の前には、さっきまで鉈を振り回していた男が、うつぶせに倒れていた。
「そ…それだ! 間違いない」
 変身を解き制服姿に戻ったくるみとルリの左手を指して、星太郎は叫んだ。
「えっ⁉」
 驚いて星太郎の方を向く二人。
「色は違うけど、形も大きさも同じだ」
 星太郎はルリの掌で輝いているソウルジェムに、恐る恐る人差し指を近づける。
「あの…なぜ知ってるんです?」
「れいなも…いや、妹も持ってたんだ、これと同じものをだよ!」
 興奮さめやらぬ星太郎。
「てことは、妹さんも魔法少女なの?」
 両手を頭の後ろに組みながら尋ねるくるみ。
「魔法少女?」
「そう。ああやって強大な魔女と戦う愛と正義のスーパーヒロインにして、願い事を何か一つ叶えてもらう代わりに過酷な運命を背負って生きる孤高の戦士」
 ルリはようやく思い出した。同じ姓なのは偶然でも何でもなかったのだ。演説部の創始者で部員失踪事件の核心に相違ない愛美れいなこそが、星太郎の妹なのだ。
「頼む、どうか力を貸して欲しい! 僕はただ真実を知りたいだけなんだ。妹は一体何をしようとして、何が起きたのかを!」
 星太郎はルリの両肩を掴み、真っ直ぐにルリを見据えて訴えた。
「もちろん、君たちのことは絶対に誰にも話さない。どんなことがあってもだ。約束する!」
 気圧されたルリは、言葉を失った。
「…ごめんなさい、刑事さん。私、今朝お話ししたこと以外、本当に何も知らないんです。れいなさんが私たちと同じ魔法少女だったことさえ、知りませんでした」
 ルリは顔を背けて視線を落とした。
「…いや、こっちこそすまなかった」
 はたと我に返った星太郎は、ルリから両手を離した。星太郎は空を見上げた。まだ薄ら明るい夕空に、宵の明星が一つ輝いている。
「れいなは…いつもどこか遠くを見つめているようだった。途方もなく壮大で、とてつもなく危険な何かを目指していた。演説部の活動も、その一環に違いない。僕にはそれが何かは思いもよらないが、そのことだけは薄々感じていんだ」
 星太郎は再び二人に向き直った。
「君たちは命の恩人だ。本当にありがとう。また何かあったら、いつでも連絡してくれ」
 星太郎は踵を返して去って行った。タイミングを合わせるかのように、去って行く星太郎の方に警察が向かってくるのが見えた。くるみとルリは、盛り場の横丁を抜けて再び家路へと戻って行った。


 Ⅱ

 愛美れいなが彼らの前に姿を現したのは、午後七時を少し回った頃だった。銀座の片隅に位置するこの店は看板も何もないが、その日の未明に東北地方で採取された鮑と、西海岸より生きたまま海路で直送されるアンガス牛のステーキが自慢の会員制レストランだった。
 一足先に個室の円卓を囲んでいた八人の男たちは、起立してれいなを出迎えた。れいなは白いドレスの上に淡いブルーのショールを肩にかけ、帽子と薄いヴェールを頭に装っていた。髪はヘアピンで後ろに丁寧に束ねられている。
 程なくして、前菜が運ばれてきた。シチリア産エキストラバージンオイルを用いたヒラメのカルパッチョに、当時はまだ珍しい新鮮な緑色野菜のサラダ。続いて、舞茸とトマトのショートパスタとハーブを添えたフォアグラのソテー、そしてメインディッシュ。れいな以下参加者全員が、一様に舌鼓を打った。あるいは食べながら、流行の活動写真やら歌舞伎やら他愛のない雑談に終始していた。
 メインの皿が片付けられ、銘々がスパニッシュワインをほどほどに嗜んだところで、全員が一様に目を見合わせた。さきほどとは打って変わって、顔は緊張で強張っている。
「みなさん、この度はお足元の悪い中お集まり頂き、改めて御礼申し上げます」
 大手総合商社・盟友物産の羽鳥秀次会長であった。この会合の呼び掛け人でもある。参加者も直接・間接に羽鳥の人脈によるものであったが、 中にはれいなと直接の知己を得てこの場にいる者もいた。
 羽鳥がこのレストランを選んだのは、アンガス牛のステーキを食べるためではなかった。それはあくまで副次的な理由に過ぎない。もとよりこの店は、徹底した秘密主義が本来の一番の商品だった。誰が客として出入りし、そこでどんな話をしたのか。会員には誰がいるのか。相手が政府関係者であろうが、決して口を割らない。まして、マスコミ関係者を店内に忍び込ませるなど、言語道断であった。一般人はその存在すら知らない。それゆえ政財界の要人の御用達であったが、しかしそれでもなお、集まった者たちは予断を許さなかった。
 れいなだけは違った。憲兵にも特高にも、自分だけはほぼ百パーセントに近い確率でマークされることのない、絶対の自信があった。なぜなら、自分は彼らとは違うのだから。
「では早速ですがお嬢様、ご挨拶をお願い致します」
 羽鳥に促され、れいなは起立した。
「亡き祖父並びに私の思いにお答え下さり、心より感謝申し上げます。ご存知の通り帝国は今、存亡の危機に瀕しています。しかし半年前より、少しずつ皆様に地道に呼びかけ続けた事が、今ようやく一つの実を結ぼうとしています。ここにいらっしゃる皆様こそが、希望の証なのです」
 あの事件から、ようやくここまで漕ぎ着けたのだ。祖父の旧知の友人だった羽鳥を切り口に、一人また一人、呼応する者を地道にしかし確実に集めてきた。よほどこちらの方が効果的だ。今思えば初めから、この手を使うべきだったものを!
「私たちには、まだまだ同志が必要です。ですので、今後とも一層この輪を広げて行くべく、引き続きお力添えを、何卒宜しくお願い致します」
 拍手する一同。深く一礼しながら、れいなは席についた。
「さすがはお嬢様。素晴らしい演説ですな」
 手を打ちながら目を細めたのは、代議士の守木だった。
「これ以上、陸軍の好きなままにさせてはいけません。必ずや、元の状態を取り戻さなくては」
 通産省の井村は、腕を組みながら唸った。
「シッ!」
 小さく、しかし鋭く声を発したのは、景山だった。表向きは貿易商だが、陸軍の特務機関に属する情報将校という裏の顔を隠し持っていた。一同に戦慄が走る。盗聴器が仕掛けられていないことは、羽鳥が自ら確かめていた。
 景山、突然豪快な笑い声を上げながら、音を立てずに席を立った。笑いながら一同を見回す。もちろん、目は笑っていない。景山の意を汲んだれいなは、同じく笑う。全員が笑い続ける。景山はそのまま抜き足差し足で、そっと個室のドアに忍び寄りノブに手をかけた。
 景山がノブを引くと、一人のウェイトレスが転がり込んだ。素早くドアを閉めるとウェイトレスを壁に押さえつけながら左手で口を塞いだ。いつの間にか右手には拳銃を手にして、銃口を突き付けている。全員がその場に棒立ちとなった。鮮やかすぎるその手口は、訓練を積み重ねたものであることは明らかだった。
 聞き耳をドアに立てていたせいで、逆に自分から個室に引きずり込まれてしまったウェイトレスは、小さく両手を挙げながら両眼に涙を浮かべていた。十代半ばから後半、おそらくれいなと同年齢か、一、二歳ぐらい年上だろう。だがたとえ年端のいかない十代の少女であっても、自身の命を鑑みると、ここへ出席した者たちに同情するだけの余裕はなかった。
「貴様、憲兵隊の手先か、それとも内務省か⁉」
 景山、声を押し殺しながら詰問する。ウェイトレスは、口を塞がれたまま首を左右に強く振った。
「言わんか、小娘が!」
 強く押し当てられた景山の掌の間からは、恐怖に呻く声しか漏れない。ウェイトレスの目からこぼれ落ちた涙が、景山の左手に滴る。
「景山さん、落ち着いて」
 景山が振り向くと、れいながいつの間にか景山の側に立っていた。
「しかし、お嬢様…」
「気づかれてしまった以上、事を荒立てては却って逆効果です。ここは私に預けて下さい」
 れいなは右手でゆっくりと景山の拳銃を降ろさせると、代わりにウェイトレスの前に立った。ウェイトレスの両頬をなぞるように両手を添わせる。
「手荒なことをして、ごめんなさい。でも信じて。私たちはあなたの味方なのよ」
 ウェイトレスをじっと見据えるれいなの両眼には、殺気どころか慈愛で溢れていた。二人の顔と顔は、十センチぐらいに迫っていた。もはや口は塞がれていないのに、ウェイトレスは依然として声を出せず、怯える眼差しでれいなから視線を反らせないでいた。
「私の願いはね、あなたとあなたの大切な人が、いつまでも笑顔でいられる事。もう誰もあなたを傷つけたり、苦しめたりすることは出来ないわ」
 れいなの優しい笑顔は、少しずつウェイトレスに近づいていった。それはあと僅かで、お互いの唇が密着するであろう距離だった。その間、れいなの左手の指輪が彼女の頬に触れながら俄かに光を帯びていたことは、参加者の誰も気づかなかった。
「だから、受け取ってくれるかしら、私のこの思い…」
 一同は、固唾を飲みながら見守っていた。
「私…私…ごめんなさい」
 ポロっと発したと思うと、ウェイトレスは堰を切ったように泣きじゃくった。その場に崩れ落ちながら、れいなの胸元で号泣する様は、そしてウェイトレスを両腕で抱擁する様は、さながら母親に贖罪する子どもと、その贖罪を受け止める母親であった。
 失業中の父親と病身の母親、そして重度の知的障害の弟を抱えていたウェイトレスは特高に付け込まれ、わずか十円で客の秘密を売ろうとしていた。そもそも解雇のみならず多額の罰金を科せられるはずのものだったが、目先の大金をちらつかされた彼女の判断力は曇った。れいなは雇い主のための偽の筋書きを教え、ウェイトレスもようやく落ち着き始めた。
 ウェイトレスを起き上がらせ、自らも席に戻ろうとした時だった。いつの間にか別のウェイターがドアの前に立っている。片手にはクロッシュを乗せた大皿を手にしていた。
「はて、デザートは要らないと言ったはずだが」
 首を傾げる羽鳥。密談の時間を多く取るため、敢えてデザートは外していた。
 ウェイターは無言のまま、ゆっくりとクロッシュを取る。
 瞬間、れいなは今度こそ戦慄を覚えた。それは、今まで嫌と言うほど経験したものだ。生気のない表情、虚ろな両眼、そして首筋の―――魔女の口づけ!
「みんな、伏せて‼」
 叫ぶが早いか、れいなはウェイトレスを再び抱えて床に伏せていた。参加者も言われるがままに伏せる。クロッシュの中身は、ダイナマイトだった。
 衝撃波と同時に椅子もテーブルも木っ端微塵になり、壁は赤く染まっていた。井村が顔を上げると、ウェイターの下半身が横たわっていた。
「大丈夫ですか⁉」
 れいなが起き上がったとき、左手の指輪は既にソウルジェムに形を変えていた。ソウルジェムはれいなの掌の中で、魔女を感知して絶え間なく点滅を繰り返している。飛散した食器の破片で景山が顔を小さく切ったのと、守木が片耳の鼓膜を破いた以外は、ウェイトレスも含め全員が無事だった。
「そこを動かないで!」
 れいなはそう言うが早いか、部屋を飛び出した。
「お嬢様!」
 レストラン全体が結界に呑み込まれたのは、その直後だった。


 Ⅲ

 一方そのころ、くるみとルリの二人組も銀座界隈にいた。もちろん遊びに来ているわけではない。出来ることなら、魔女が凶行を引き起こす前に結界を見つけ出して、倒さなくてはならない。この三日間、二人は一定の波長を感知しつつも尻尾を掴むには至っていなかった。
 宿命と言えばそれまでだが、毎日が十代の少女にとっては気の遠くなるような日々の積み重ねだ。それゆえに、ルリも契約して以来くるみ以外の友人とは次第に疎遠になり、くるみ自身もプライベートの付き合いはルリを除いて希薄だった。
「あー、歩き回るだけでもうくたくただわ。またお肌が荒れちゃう」
 くるみはソウルジェムを片手に歩きながら、欠伸した。
「ったく、これが十四歳の乙女のやることかっての」
「ダメよくるみ。私たち魔法少女の使命なんだから」
 愚痴るくるみをたしなめるルリも、さすがに眠気を隠せない。
「だってさ、今日だけでもう三回だよ。こんな時間に銀ブラなんて、正義の魔法少女どころか不良少女だわ、どう見ても」
 その直後、くるみはぴたりと足を止めた。
「げっ、四回目…」
 二人の目の前にいたのは、両手を腰に当てて仁王立ちする警官だった。口ひげを蓄えた見るからに頑固そうな強面でまっすぐに睨み、顔はみるみる真っ赤になり額には青筋が浮かぶ。
「こらあぁっ‼ 年端もいかぬ婦女がこんな時間に何しとるかっ!」
 いきなり猛烈な剣幕。さすがのくるみも罰が悪そうに肩をすくめる。
「これはその…私たちの仕事というか何というか…」
「仕事だと? さては街娼か⁉」
「いえ、社会正義のためのもっと崇高で大事な仕事でして…」
「おちょくってるのか貴様!」
 とぼけるくるみだが、当然通じるわけがなかった。さすがのルリも呆れる。言い繕って今日はこれで撤収しようと、二人の間に入ろうとしたその時だった。爆発音が鳴り響く。れいなたちのレストランからだ。周囲の通行人も一斉にどよめく。
「ええい、とにかくさっさと帰れ。次はこうは行かないからな」
 さすがの警官も、このまま二人に構い続けるわけにはいかない。苦虫を噛み潰した顔をしながら、爆発音の方に向かって走り去っていった。くるみは警官の背中に向かって、アッカンベーで見送った。
 同時に、ルリの左手のソウルジェムが鋭く光った。
「くるみ、とうとう見つけたわよ!」
「やっぱり、さっきの爆発は…」
 やがて二人はレストランを探し当て、人目を忍んで結界に突入した。
 変身した二人に真っ先に現れたのは、れいなの密会の参加者たちとウェイトレスだった。彼らを囲む、手足の生えた大根やジャガイモのような使い魔たち。ルリはマジカルナパーム弾をダブルバレル銃に装填すると、一発でまとめて焼き払った。
「君たちは…?」
「話すと長くなります。くるみ、この人たちは私に任せて。魔女をお願い!」
「あいさ!」
 くるみは単身、結界の最深部を目指して行った。

 その頃、最深部ではれいなが独り戦っていた。長剣を片手に、襲い来る使い魔を一つ二つ斬り伏せる。リボンで束ねられた亜麻色の長髪とブルーのロングコートを翻しながら舞うその姿は寸分の狂いもなく正確で、かつ無駄も隙もなかった。
「はッ!」
 長剣をふるうれいな。すると長剣は光の鞭のように伸び、縦横無尽にしなる。それはまるで剣それ自体が意思を持った一つの生き物のようでさえあった。れいなの一閃で、半径十メートルの使い魔たちはたちまち斬り刻まれてしまった。長剣は再び元の長さに戻っていた。
 使い魔を殲滅すると魔女が現れた。その外見は巨大な芋のようだが、それは大小の芋をくっつけ合わせたような歪な様だった。いや、一つの芋から数多くの芋が出芽して凸凹になっているのか。魔女は自身の一部を引きちぎると、れいな目がけて投げつける。最小限の動きで難なくかわすれいな。
「あれは、この前の…?」
 くるみが最深部へ辿り着いたのは、ちょうどその時だった。以前、学校の裏庭で遭遇した、くるみが駆けつける前に魔女を倒していた魔法少女だ。あの後キュゥべえに尋ねてみたが、明確な答えは返ってこなかった。魔法少女同士で争うことさえある以上、僕は中立の立場に過ぎないというのが、彼の言い分だった。
 れいなは、飛んでくる芋の塊を二つ斬り捨てた。三つ目を紙一重で見切ると、その瞬間長剣の間合いに潜り込んでいた。次の瞬間、再び光の鞭と化した長剣が魔女を両断する。くるみはその鮮やかな身のこなしに、舌を巻かずにいられなかった。
 勝った、とくるみは一瞬思った。しかし二体の塊になった魔女の胴体からは新しい手足が伸び、再び動き出した。二方向から攻撃を受けつつも、冷静さを失わないれいな。
「オラあああああああっ‼」
 くるみはその一体に跳びかかり、渾身のトンファーを食らわせた。のけ反り悲鳴を上げる魔女。くるみは間合いを詰めながら、電光石火のごとく連続で攻撃をたたき込んだ。
「あなたは…?」
 れいな、突然の助太刀に一瞬驚く。だが、好機も逃さない。くるみのトンファーが魔力の刃となるのと同時に、れいなの身体は宙を舞い長剣が長く伸びていた。が、先程とは違う。前のそれとは比べものにならないほど太くて長大な、青い光の剣であった。れいな、全身を回転させながら分身した一体をぶったぎる。さらにもう一度、反転してもう一撃。同時に、くるみのマジカルトンファーによる超高速の斬撃が、残りのもう一体を捕らえていた。
 魔女が二体揃って消滅するのを確かめると、二人は変身を解いた。
「また会ったわね。これも何かの縁かしら」
 くるみを向いて微笑むれいな。
「これ、先日のお返しです。借りっぱなしは性に合わないんで」
「そう。なら慎んで頂くわ」
 くるみは足下のグリーフシードを拾うと、れいなに投げてよこした。
「あなたは一体何者なんです? あたしたちの味方…ですよね?」
 くるみは一瞬ためらったが尋ねた。他に魔法少女を知らないだけでなく、れいなが放つ謎めいた雰囲気が、くるみをためらわせたのだ。
「そろそろ結界が解けるわ。続きは明後日の午後三時、日比谷公園でね」
 それだけを言い残すと、れいなは足早に去って行った。結界は解け元のレストランに戻ったが、その際にくるみはれいなを見失ってしまった。
「随分と勿体ぶる人だな。ところでルリは大丈夫かな…?」
 独りごちながらレストランを後にするくるみ。しかしそこでくるみを待ち受けていたのは、ルリではなかった。
「まだほっつき回っておったか、性懲りもないやつめ!」
 さっきくるみがアッカンベーをした警官だった。
「気の済むまで署で相手してやるわ。来い‼」
「痛い! 痛いってば‼」
 再びどやしつけるなり警官は、くるみの耳をつねり上げて引きずっていった。レストランの周りにいた野次馬たちは、ただぽかんとしながら眺めていた。

「た、助かったぞ!」
 ルリが保護した出席者たちは、半壊した元の個室に戻った。お手柄ねくるみ、とルリも胸をなで下ろした。
「皆さん、早く撤収しましょう。すぐに警察がやって来ます」
 そこへれいなが個室へ戻ってきた。ただ魔女を倒すだけでなく、店の帳簿も全て焼き捨ててきたところだった。
「う、うそ…⁉」
 ルリはただ一人、れいなの顔を見た瞬間に硬直した。
「そんな、そんなまさか。一体どう言うことなの?」
 れいなはルリに目もくれず、出席者とウェイトレスを連れて個室を後にした。ルリだけがただ一人青ざめたまま、個室に取り残された。


  第三章

 Ⅰ

 ルリがれいなと初めて出会ったのは、聖賢高等女学校の入学式だった。校長の式辞や担任教師の紹介の後、運動部・文化部が新人勧誘のため代わる代わる登壇したが、一番最後が創部間もない演説部だった。
 れいなが演壇で語ったのは、クラブの紹介と言うより英語のスピーチだった。その内容がアメリカ独立戦争当時のパトリック・ヘンリーによるものをベースにしたものであることを知ったのはもっと後で、当然ルリにはさっぱり理解できなかった。しかし、抑揚の効いた流麗な発音、淀みないテンポ、そして自信に満ちた様子は、ルリの脳裏に強烈に焼き付いた。
 れいなが突然遺体で発見されたのは、雪のちらつく朝だった。葬儀が執り行われたプロテスタント系の教会には直接の学校関係者とクラスメイトだけでなく、クラスも学年も違う生徒も少なからず参列した。実年齢で言えばルリやくるみの一つ上であったが、教師さえ議論で言い負かすほどの図抜けた知性を持つれいなは三学年飛び級、すなわち最高学年である五年生に叙せられ、聖賢創立以来の神童として全校から羨望と尊敬の念を集めていたのだった。
 演説部に入部こそしなかったものの、ルリもその一人だった。れいなの亡骸の横たわる棺桶の蓋が重々しく閉じられるのを、ルリは固唾を飲んで見守っていた。
 まだくるみと出会うのはおろか、キュゥべえと契約する以前のことである。

 銀座での事件から二日が明けた。この日は日曜日だった。帝都は早朝から穏やかな陽気に包まれ、快適な一日を予感させていた。
 堤防では、中学校の男子野球部員たちが号令を発しながらランニングを続けている。一人の少女がその横を、軽やかに抜き去っていった。
 神社の境内に続く百段余の石段。何食わぬ顔でうさぎ跳びで四往復する少女に空いた口が塞がらなかったのは、柔道部員と彼らにシゴかれていた下級生たちだった。
 河川敷の運動場では、六大学の一角を占める大学のラグビー部がいた。強面の上級生に竹刀で小突かれながら腕立て伏せ百回を強制される部員を嘲笑うかのように少女は一人、二百回の懸垂を軽々とこなした。
 他方、直家の食堂。レコードプレーヤーからは、モーツァルトの軽快で優美なメロディが流れている。少女は椅子にもたれながら、単行本のページを一枚めくっては紅茶をすすり、クッキーを口に運んでいた。彼女の横の椅子には、猫ともイタチともつかぬ白い生き物がくつろいでいる。
「ただいまぁ〜。いやぁマジで疲れたわ」
 突然バタンとドアの開く音がしたかと思うと、汗と埃にまみれたくるみが入って来た。
「どうしたの、くるみ?」
 キョトンとするルリ。何でも、朝六時過ぎに目が覚めてしまったはいいが、やることも無いので体を鍛え直すことを思いついたとのことだった。家から品川、さらに多摩川沿いと走り続け、懸垂に腹筋に腕立て伏せは回数こそ途中でわからなくなったが、合わせて千回は超えた気がする。
「これからどんな手強い魔女が出てくるかわからないもんね。我ながらよく頑張ったわ」
 息を切らしながらテーブルに両手をつくくるみ。
「残念だけど全く無意味だよ、くるみ」
「えっ、なんで?」
 しかしキュゥべえはにべもなく、くるみに冷や水を浴びせた。
「君たち魔法少女の肉体は魔力によって、常人をはるかに超える身体能力を既に習得している。だから事後的に筋力を多少強化したところで大した影響はないし、自らの肉体を徒らにいじめるのは愚挙以外の何物でもない。つまり、君の行為は単なる時間とエネルギーの浪費ということだよ」
「何よそれ〜。こんなの、あんまりだよっ!」
 疲労が重荷のように一気にのしかかる。くるみはテーブルの上にへたり込んでしまった。
 その時、玄関のチャイムが鳴った。ばあやが応対する。
「ルリお嬢様、お茶の先生が来られましたよ」
「つまり魔法の力で戦う魔法少女にとって一番大事のは、何事にも動じない平常心。精神修養こそ欠かせないわよね」
 ルリはパタンと音を立てて本を閉じた。
 和服に身を包んだルリは、食堂とは反対側の和室に正座していた。正面には母の遺品でもある茶釜に建水といった道具一式が揃えられている。いつも先生と一対一の稽古だ。部屋の隅ではくるみとキュゥべえが見守っていた。
「直さん、そうじゃありませんよ」
 覚えていたはずだったが、袱紗の折り方をうっかり思い出せなくなってしまった。
「あっ」
 茶匙からこぼれた抹茶が一張羅を汚してしまう。
「熱っ!」
 茶釜の熱湯が飛び散って思わず悲鳴を上げるルリ。
 ドテッ。
 ようやく出来上がったものの、茶碗を置こうとするや痺れた足のせいでバランスを崩し、前のめりにずっこけた音だ。先生もとうとう、頭をかかえてしまった。
「どうしてこうも人間は平静さを保てないのだろう。訳が分からないよ」
 くるみを向いて呆れるキュゥべえに対し、くるみは肩をすくめて溜息をついた。


 Ⅱ

 午後三時を十分ほど過ぎたところで、くるみは日比谷公園でれいなと落ち合った。れいなは白い帽子を目深に被っていた。並んでベンチに腰掛ける二人。
「遅れてごめんなさいね。あの後は無事だったかしら?」
「まあ、無事だと言えば無事ですが、無事じゃないと言えば無事じゃなかったですね」
 あの晩、結局警察の留置所で一夜を過ごす羽目になったこと、身元引受人として直征爾の名を出した途端に警察の態度が百八十度変わったことをれいなに語った。
「そう、あの直中将の…」
「それまでの『貴様』がいっぺんに『ご令嬢』ですよ。ザマぁ見ろってもんでした」
 れいなはへえ、とやや大げさに感嘆して見せた。と同時に、鍔越しの眼光が俄かに鋭く光ったことに、くるみは気づかなかった。
 れいなはそのまま、話題を逸らした。
「ところでまだお名前を聞いていなかったわね」
「あ、すみません。奈々恵くるみです。聖賢高等女学校の二年生です」
「愛美れいな。あなたと同じ聖賢の元生徒よ」
 ルリと違って実兄の星太郎と一度しか会っていないくるみは、正体を明かした時の会話をあまり覚えていない。それよりも思い出したのは、れいなと初めて出会った時のことだ。あの時、聖賢にはまだ魔法少女がいたのね、と言った。てっきり聖賢の現役の生徒かと思っていたのだが。
「もう卒業されたのですか? それとも…」
「いいえ。私…死んだのよ、一度」
 れいなは余りにもさらりと答えた。

 一方、ルリは星太郎の運転する車の助手席に乗っていた。一昨日の銀座でれいなと遭遇したことを報告すると、日曜日に直家を訪れる約束をしていたのだ。星太郎が直家のドアベルを鳴らしたのは、くるみが行き先も告げずに家を出た後だった。
「本当に、れいなだったんだよね?」
「私も信じられませんでした。でも、間違いありません」
 ルリは星太郎から渡された大型の茶封筒を手にしている。その中にあったのは、れいなの死亡診断書を写した写真だ。
 三十分ほど走って二人が辿り着いたのは、青山の墓地だった。ここは元々外国人向けの墓地だが、そうでなくても外国人と婚姻を結んだ者やクリスチャンの墓も混在している。だが、二人はしばらくの間、人気がなくなるのを車内で待ちづづけた。
 四時半を過ぎた頃、星太郎は上着を脱ぎシャツの袖をめくると、スコップを手に自動車を降りた。やがて二人は、真新しい花崗岩の墓石の前に立っていた。そこにはれいなのフルネームのローマ字と生没年が刻まれている。
「手っ取り早く調べるには、これしかない」
 人気がなくなるまで待たざるをえなかった理由はそこにある。星太郎は乾いた土にスコップを入れ、少しずつ掘り返す。サクッ、サクッという単調な音が絶え間なく続いた。
 地表かられいなの棺桶が完全に姿を現したのは、三十分ほど経ってからだった。固唾を飲む星太郎。もしルリが見たれいなが偽物であるとしたら、「本物」は未だ、この中にいるはずだ。もちろん、何ヶ月も前のことである。
「せーのっ!」
 意を決した星太郎は気合とともに、蓋を持ち上げた。蓋が音を立てて地面に投げ出される。地上で見守っていたルリは、両手で顔を塞いでいた。
「えっ?」
 指の隙間から恐る恐る中を覗いたルリは、目を疑った。そのまま覆っていた両手を顔から離し、棺桶の中を食い入るように見つめた。それはルリと同じく、れいなの葬儀に立ち会った星太郎も同様だった。

「死んだ…って、まさか幽霊じゃあるまいし。だってれいなさん昼間に普通に出て来てるし、足だってあるじゃないですか」
 普通ならくるみでなくても、趣味の悪い冗談としか受け取らないだろう。れいなは左手の指輪をソウルジェムに変形させた。
「簡単よ。これを使えばいいだけ。そうやって周囲の人間だけでなく、検死の目をも欺いたわ」
 れいなの種明かしは単純明快だった。普段肌身離さず持ち歩いているソウルジェムを身体から百メートルほど引き離すだけ。そうすれば魂が抜けたように肉体は仮死状態となる。くるみにとっては、完全に理解を超える事実でもあった。
「つまり、ソウルジェムこそが私たちそのもの。そしてこの肉の塊に憑依することで、表向き人間の体裁を保っているのが魔法少女といったところかしら」
「要するに、私たちは普通の人間じゃないってことなんですか?」
「人間か、それとも人間じゃない何物かは、意見の分かれるところね。でも、そのおかげで私たちが魔女と対等に戦えるのも事実よ」
 くるみは完全に混乱していた。れいなの言う通りだとすると、あの(・・・)自分の魂はソウルジェムに形を換え肉体から切り離されていたということになる。とすると、この身体は魂の抜けた死骸か? もちろん、キュゥべえからそんな話は何一つ聞いていないし、ソウルジェムは魔力の源というぐらいの認識しかなかった。だが一方で、それで何の不都合もなかったのも事実だ。何も知らないままでいた方が良かったのだろうか?
「れいなさんは…どんな願い事で魔法少女になったんです?」
 それはくるみの中で自然に湧いて出た疑問だった。キュゥべえが言うには、お金持ちになりたいとか、好きなお菓子を毎日食べたいとか、学校一の美人になりたいとか、割と単純明快な願い事で契約を即決する少女も少なくないらしい。しかし、れいなの語る事実は、そんな対価では釣り合うには程遠いものだった。少なくとも、今のれいなのように飄々とはしていられないはずだ。
「私はね…」
 れいなは遠くを見つめた。地面に落ちる自分たちの影は知らないうちに長くなっている。
「この国を変えるの、魔法の力でね。そのためにキュゥべえと契約し、魔法少女となったのよ」
 政治に興味の無いくるみにとって、れいなの答えは余りに突飛で反応に困るものだった。本気なんだろうか、それとも何かの妄想癖なのか。
「この国の歯車は狂い始めているわ。軍は愚かな戦争に邁進し、政権は迷走し、新聞は沈黙している。その中心にいるのは…あなたの養父、直征爾よ」
 ぎくりとするくるみ。
「一言多かったわね。謝るわ」
 だが、くるみは驚きつつも怒る様子がないことを見抜いていた。もちろん、征爾はルリにもくるみにも娘として分け隔てなく接していたし、くるみもそれを受け入れてはいた。一応は。
「ところで、あなたの願いは何だったの?」
「あたしは…」
 れいなは逆にくるみに尋ねた。くるみ、即答できず視線を落とす。
「あたしは…あたしの人生を生きたかった。ただそれだけなんです」
「そうなのね」
 れいなはうなずいた。れいなは、浅葱峠の列車事故を知らなかった。
「ありがとう。長い時間付き合わせてごめんなさいね」
 れいなはそう言ってベンチを立つ。既に五時近く、日曜日の都心の公園はすっかりまばらになり、十羽ほどの鳩が歩き回っているだけだった。
「また、一緒に戦ってくれますよね?」
 別れ際、くるみに振り向くれいな。
「私たちは魔法少女ですもの」
 微笑みながられいなは再び歩き去って行った。

 星太郎とルリは墓地を後にし、家へと車を走らせていた。朝の快晴が嘘のように、西の空はどんよりと雲行きが怪しくなってきた。
「ところで、れいなさんは昔病気されたとか、そういうのはないですよね?」
 助手席のルリが尋ねる。少なくともルリは、れいなが病気をしたとかいう話は聞いたことがない。
「うん。強健でもなければ病弱でもなかった」
 れいなの遺体が発見されたのは、自宅から百メートル程度の用水路だ。死亡診断書では死因は溺死とされているが、そもそも用水路の水深が十センチメートル程度しかなく、幼児でも溺れることは考えられない。たとえば心臓の持病でもあれば、発作を起こした場所が運悪く用水路だったと説明がつく。しかしれいなにこれと言った持病はなく、死亡する直前の健康状態にも何ら異常はなかった。そして、れいなの遺体には水を飲んだ形跡が全くなかったのである。
「ただ、妙なことを言ってたんだ。それも死ぬ一週間ほど前のことだった」
 ちょうどラジオの天気予報で、翌週から帝都が強い寒波に見舞われると言うのを聞いていた時だった。れいなは星太郎に一つの宝石を見せたのだった。もし自分の見に何かあったら、これを私と一緒に埋めて欲しい。大切な宝物だから、と。そして葬儀の終わる頃、棺桶を閉じる直前に星太郎は遺言に従ったが、今思えば気持ち悪いぐらいに自分の死を予見していたことになる。
「だから、私たちのソウルジェムを見てすぐにわかったんですね」
「そう言うことさ」
 ハンドルを握りながら、星太郎は頷いた。
「実は魔法で死んだふりをしてただけで、後からソウルジェムを使って脱出したんでしょうか?」
 当たらずも遠からず、いやルリの知らない魔法少女の仕組みを除けば、ほぼ九九パーセント正解の推理ではある。だがそれが正しくても、謎は深まるばかりであった。
「でももしそうだとすれば、何のためにそこまでする必要があったのだろう?」
 それは巡り巡って、演説部員失踪事件の真相と何らかの関係があるのではないか。いずれにぜよ、現時点で二人にはそれ以上の追求は限界だった。
 車が虎ノ門辺りにさしかかった時だった。
《ルリ、近くだよな! 結界を見つけたんだ。急いでくれ!》
 くるみからのテレパシーだ。奇しくもこの付近らしい。
「すみません、ここで降ろして下さい!」
 星太郎がタイヤを鳴らしながら急ハンドルを切って歩道に横付けすると、ルリは車を飛び出した。


 Ⅲ

「くそっ、硬ぇ!」
 くるみはヤドカリのような使い魔に手こずっていた。ヤドカリと言っても手足は人間のものに近い。生半可なトンファーの打撃では、殻に跳ね返されてしまう。
 そこへ銃声とともに、くるみの目の前の使い魔を殻ごと吹き飛ばす。ルリのスラグ弾(注:一発の大型の弾丸を発射する弾。貫通力に優れる)だ。
「 サンキュ、ルリ! これで百人力だぜ」
「全く人使いが荒いんだから」
 そこへ不意を突いて、足下から昆布のような海草が伸びてルリに絡みつく。たちまち自由を奪われるルリ。
「いやっ、気持ち悪い!」
 さしものスラグ弾もこれには敵わない。
「こなくそっ!」
 くるみはトンファーの斬撃でたちまち海草型の使い魔を切り刻んだ。切れ端を振り払うルリ。
「あーびっくりした」
「全く趣味が悪いぜ、今度の魔女は」
 その一言が聞こえたのか聞こえなかったのか、魔女が姿を現した。下半身はタコだが、上半身を巨大なマグロが飲み込んだような容貌。触手をぬめらせながら、尾びれを振りながら、二人に迫ってくる。
「ところでさルリ、あの刑事さんと二人でドライブだなんて、随分と洒落たお嬢さんじゃないか」
 魔女の触手をトンファーで払いながら、くるみはルリに振る。
「茶化さないでよ! くるみこそどんな男とデートなんかしてたのかしら」
 ルリは魔女の反対側に回り込むように距離を取り、装填と銃撃を繰り返しながら答えた。
「さあねぇ」
 くるみは余裕たっぷりにうそぶくと、バク宙で触手の攻撃をかわした。一方ルリは、黄金色のネット弾を右手に召喚し、左手のダブルバレル銃に滑り込ませた。光の帯が触手もろとも魔女を束縛する。
「じゃ、こう言うのはどう?」
「えっ?」
 ルリはくるみに聞き返す。
「こいつを先に仕留めた方が、今日何してたか一方に聞く権利があるってやつ。聞かれる方は、拒否権なしね」
「ちょっと、勝手に決めないでよ!」
 ルリを無視して、くるみは宙高く舞っていた。トンファーは赤く光を帯び、長い魔力の刃と化す。
「もらったああああ〜〜〜っ!」
 その直前、一つの黒い影。がこちらに跳びかかってくるのがくるみには一瞬見えた。
いや、一瞬影が見えた直後でくるみの意識は消失していた。その黒い影は空中でくるみとすれ違いざまに、一刀のもとにくるみの頭部を切断したのだ。ゆらゆらと空しく宙を舞うマフラー。
「………ッ!」
 バランスを失ったくるみは首元から紅い雨を降らせながら、魔女を挟んで真反対にいたルリに抱きつくように落ちた。地面に尻餅をつくルリ。
 直後、目の前に着地した黒い人影が正面に立っているのをルリは認めた。いや、もう一人いる。二人とも、こちらを向いていた。
 ルリはハッとした。星太郎の捜査の時にすれ違ったのを思い出した。
 あのときの二人組―――瑞穂姉妹だ。黒いワンピースに白のフリル、左手首に赤く輝くカフスボタン型のソウルジェム、漆黒の髪を頭の上で大きな深紅のリボンで束ねた姿に、自分の背丈をも超える巨大な剣―刃と柄の長さは殆ど同じで、それは剣と言うべきか薙刀と言うべきか判然としないが―を携えるのは、姉のたいら。まるでルリをぶざま(・・・)だと嘲笑するかのように、赤い不敵なまなざしは真っ直ぐルリに向けられていた。
 もう一人――妹の和世――は、黒いジャケットとショートのフレアスカート、ボーダーのニーソックスを装い、裾の出た白のシャツの上には黒のネクタイをうなじで緩く結び、黒髪の頭にはやはり黒の山高帽を被っている。両手にトミーガンを構え、その右手のカフスには姉と同じ形のソウルジェムが光っていた―色は姉と異なり自分の右目と同じ紫色だったが。
「いいから、そこで見てな」
 瑞穂姉妹の背後では、まさに魔女がルリのマジカルネットをふりほどき、再び襲いかかろうとしていた。同時に、ヤドカリ型・海草型の使い魔が群れをなして現れる。たいらは一言吐き捨てるように言うと、魔女へと振り向いた。
 猛烈な爆音と共に、和世のトミーガンが火を噴いた。その弾幕は、ルリのショットガンの比ではなかった。ヤドカリ型の使い魔は銃弾の勢いに抗しきれず弾き飛ばされるか、さもなければ手足が千切れ飛んだ。絡みつこうとする海草型の使い魔も、和世まで辿り着く前にトミーガンの掃射でずたずたに裁断された。その冷徹なオッドアイは撃ち続けている間、眉一つ動かさない。
 一方たいらは、一直線に魔女へ斬りかかっていた。上下左右から襲い来る太い触手をものともせず、一本また一本と斬って捨てる。その斬撃は恐ろしく正確で速く、大剣の見た目からは想像も付かなかった。
 触手はたちまち全て切断されてしまった。なすすべもなく、地面にのたうつばかりの魔女。たいらには、そんな様子を見て楽しんでいるようにすらルリには思えた。
「死ねぇ!」
 たいらは叫ぶなり、大剣を魔女の胴体に深々と突き立てた。魔女は悲鳴を上げて身をよじる。飛び散る魔女の返り血。しかしどんなに浴びたところで、たいらの漆黒の衣装はより一層黒色が際立つのみだった。
 たいらは飽き足りることなく、更に大剣をめり込ませる。抜いては刺し、抜いては刺し、抜いては刺し…何度も、何度も、何度も。そのたびに魔女は血を噴きながら、阿鼻叫喚の絶叫とともに仰け反った。和世はトミーガンを肩に掛け、表情を変えず暢気に見守るだけだった。
 それはルリの目にも明白だった。たいらは、とどめを刺そうとしているのではない。おそらくは意図的に、急所を外している。
「往生際が悪いンだよ‼」
 たいらの次の一撃は、魔女にとって最後の救済でもあった。大剣が眉間をえぐった時、魔女の両眼は大きく開き、ぴくりとも動かなくなった。たいらが踵を返すと、和世の手にはダイナマイトの束が握られていた。ダイナマイトを放り投げる和世。さんざんいたぶられた末に、魔女は木っ端微塵となった。

 結界が消滅し元の世界に戻っても、ルリはくるみの亡骸を抱えたまま動くことができなかった。ルリの衣装はくるみの鮮血で、赤黒く染まっていた。
「ねえ…どうしてなの? どうしてこんなことをするの?」
 ルリは訴えた。訴えるというのはあまりにか細い声だった。
「決まってんじゃん。こいつのためさ」
 たいらはグリーフシードを拾い上げながら、余裕綽々で答えた。
「そんな! だからって殺してまで奪うなんて…」
「へえ、悪いかい? ついでに言うとさ、あの魔女はずーっと前からあたしらが先に目を付けてたんだ。だ、か、ら、こいつはあたしのもの」
 たいらはあたかもルリに見せびらかすように、グリーフシードを舌先でべろりと舐めた。
「じゃ和世、さっさとずらかろうぜ。腹減ったし」
 瑞穂姉妹は変身を解くと、踵を返して歩き去って行った。
「私…あなたたちを絶対許さない。くるみを返して! 外道! 人でなし‼」
「そう、とっくの昔に外道で人でなしさ。あたしもあんたも、みーんな」
 ルリの罵声に対しても振り返らないまま、たいらは高笑いで返した。
 瑞穂姉妹の姿が見えなくなった時、既に空は重い雨雲に包まれ、周囲は薄暗くなっていた。人気のない路地裏に独り、ルリは置き去りにされた。
「ウワァァァァァァ――――――――――ッ‼」
 くるみの胴体を抱いたまま慟哭するルリの涙と叫び声は、やがて降り出した雨に掻き消された。


  第四章

 Ⅰ

 月曜の朝。昨日の朝と同じような、晴れ渡った青空が広がっていた。直家の廊下が、リビングが、食堂が、もとより適度な採光を配慮して設計されていることもあり、清々しい陽気が室内にも広がっている。
 制服姿のルリはうつむいたまま、重い足取りで階段を降りた。
「おはようございます、ルリお嬢様。くるみお嬢様はまだお目覚めじゃないですかね」
「…うん」
 ばあやとも目を合わせることもなく、ルリは食堂のテーブルについた。目の前には、いつもの通り二人分のイギリスパンとイチゴジャムが並べられている。ルリはしばし、虚ろな目で見続けていた。
「お身体の具合でも悪いのですか?」
 ハムエッグとスープを運んできたばあやの声で、ルリは我に返った。
「ううん、別に」
 深いため息を一つつくと、バスケットにゆっくりと手を伸ばす。イギリスパンにイチゴジャムを塗り、口に運ぼうと目線を落とした時だった。
 赤。
 いつも見慣れた、ちょっと黒っぽい赤。
 飛び散りながら、私を染める赤。
 黒い服着て不敵に笑う、悪魔のような真っ赤な瞳。
電撃のように全身を一瞬駆け巡ったかと思うと、ルリの胃は激しくよじれた。直後、ルリは反射的に口を押さえながら化粧室へと掛け出していた。
 勢いよく蛇口から流れ出る水。正面を向くと、青白く憔悴したルリの顔がハアハアと小さく息を切らしていた。ルリは洗面台に両手をつきながら、鏡の自分自身としばし向かい合った。その間も、水の流れる音がただ響いていた。
 もとより、あのドロッとした胃液以外に出てくるものが他に何もないのだ。胃袋は空っぽなのに、どうして中身を吐き出そうとするのだろう。そんな生理的メカニズムに、一体何の意味があるのだろう。いや、たとえ魔法少女であっても、それが人間の証なのだろうか。
 やがて蛇口を閉めると、とぼとぼと食堂へと戻った。食堂のドアを開けるルリ。
「おはよう、ルリ」
「…おはよう」
 くるみはルリと入れ違いに、いつもの向かいの席に座っていた。そしていつもと代わらぬように、ジャムをたっぷりと塗りたくったパンをむしゃむしゃと頬張っている。
「いやぁ、今朝は無性にグーグー鳴るんだよね。なんでかな?」
 椅子に戻ってもなお朝食に手を付けられないルリを尻目に、くるみはハムエッグとスープもたちまち平らげ、紅茶を飲み干す。
「食べないのかい、ルリ?」
「私…」
 誰のせいだと思っているの?という気持ちも確かにあった。だが、それをくるみにぶつけるだけの余力など、ルリには無かった。返事を最後まで聞かないまま、くるみはルリの分まで取って、ぺろりと片付けてしまった。時計の長針が六時を指し鐘が短く鳴ったのも、ちょうどその時だった。
「ほらルリ、早く行こうぜ。ぼーっとしてると、遅刻すっぞ」
「私…今日は休む」
 ルリは席を立つと、食堂を出て二階へと上がっていった。


 Ⅱ

 首の消失したくるみを抱いたまま、ルリは涙雨に打たれていた。街灯はなく、周囲を闇夜が完全に包んでいた。一体何時間、そこに居続けたのか。ルリはもはや知るよしもなかった。
「……!」
 思わずすすり泣くのを止め、大きく息を飲み込んだ。眩しい光が突然ルリを照らしたのだ。光に目が慣れると、それは自動車のライトであることに気づいた。運転席のドアが開き、こちらに近づいてくる。
「すぐに行きましょう。いずれ誰かに見つかるわ」
 顔は逆光で依然見えなかったが、ルリは声ですぐにわかった。
「れいなさん⁉」
 行けと言われても…。だって、あいつらに親友を殺されたんですよ。くるみは死んだんですよ。
「早く!」
 更に強く促すれいな。その右手には、直径二十センチ強はある球状の物体があることにルリは気づいた。やはり逆光で陰になっていたが、ルリでもそれが何であるかは詮索の余地はなかった。
 ルリはようやく重い腰を上げた。

 れいなの車が辿り着いたのは、県境に近い洋館だった。れいなによると、この地に外国人が多く訪れるようになった直後に来たドイツ人が、元々の主らしい。だがそのドイツ人も帰国して久しく、その後は別の誰かが住むこともなく半ば朽ちるに任せていた。しかし室内の荒廃に比べ、建物そのものはさほど痛んでいる様子がなく、雨漏りも殆ど無い。おそらく最初によほど堅牢に建てられ、なおかつ震災にも耐えたのだろう。しかしれいなさんは、どうしてこんな場所を知っているのかしら?
 れいなとルリは一階の食堂とおぼしき一室で、長細い食卓にくるみの遺体を横たわらせた。衣服は全て外し、裸体を丁寧に拭った。ルリもまた、れいなから宛がわれた服に着替えていた。れいなは両手を添え、くるみの頭部を胴体に元通りに合わせた。
「じゃ、いいわね。あとはさっき教えた通りにすれば大丈夫」
 れいなはルリを向いて促す。
「はい」
 ルリはくるみの右手を両手で握りしめていた。れいながくるみの額に軽く接吻すると、二人は魔力をくるみの肉体に注ぎ込んだ。まばゆい光を放つ二人のソウルジェム。外の雨はますます激しさを増し、雷光が時折薄暗い部屋を照らしたかと思うと、一瞬遅れて轟音が轟いた。
「本当に、これで生き返るんですか?」
 ルリは半信半疑で尋ねた。
「それは少し違うわね」
 くるみを向いたまま、れいなは答えた。
「だって、奈々恵さんはまだ生きてるわ」
「えっ?」
「ソウルジェムをご覧なさい。それが何よりの証拠よ」
 確かに、すぐ側に置かれているくるみのソウルジェムは、今までと何ら変わらず光を湛え続けている。瑞穂たいらに首を切断されながらもマフラーの留め具を僅かにそれ、破損を免れたのだ。でも、それがどう関係あると言うのか?
「さあ、魔法に集中して」
 ルリは再びくるみに意識を集中させた。雨と雷鳴はなおも続き、ストロボのように二人を照らしては消えた。

 雨が降り止んだ頃、くるみの治癒は終わった。ルリは隣の談話室に移った。談話室と言っても、がらんどうの室内に色褪せた革張りのソファが二つと、間に肘ほどの高さの小さなテーブルが並べられているだけで、実際に談話室として使われていたかまでは知るよしもない。暗くて、部屋の様子もルリには分からなかった。しばらくして、ホットチョコレートを淹れたカップを二つ持ったれいなが現れた。
「ありがとうございます」
「彼女が助かったのも、あなたのお陰よ。本当に最後まで頑張ったわね」
 カップを両手で持ちながら、息で念入りに冷ましながら一口一口を口に入れるルリ。緊張から解放されることで、じわじわと疲労感のような感覚が体を浸食してくる。だがそれは運動直後のような心地よいものとは真反対の、泥のように鉛のようにルリにのし掛かってきた。
「ところで、さっきの話の続きなんですけど…」
「そうね。あなたもキュゥべえからは何も聞かされてはいないでしょうけど…心の準備はいいかしら?」
「準備?」
 れいなはソファに身をもたせホットチョコレートを飲みながら、日中くるみに対して語ったソウルジェムの真実をほぼそのまま、ルリにも明かした。れいなにとって、ルリの反応は予想通りだった。
 割れていない方のカップを片付けたれいなは、二人を乗せて直家へと車を走らせた。後部座席で終始眠ったままのくるみに対し、ルリは助手席で目を腫らしているうちに眠りに落ちた。車が直家に辿り着いた時、東の空は薄紫色に染まっていた。


 Ⅲ

 パジャマに着替えたルリはベッドの上で、自身のソウルジェムを見つめていた。布団の中で寝返りを打っては眺め、溜息をつく。溜息をついてはまた寝返りする。ずっと繰り返していた。部屋が明るいため、それ自体が放つ光はよくわからない。が、浄化が要るほど濁っているわけでもないのは確かだった。
 陽の高さからして、そろそろ昼を過ぎる頃だろうか。
「朝からどうしたんだい、ルリ?」
 声の主はキュゥべえだった。ルリが気づかないうちに、ベッド横のキャビネットに座っている。
 ルリは無言でキュゥべえに背を向け、掛け布団を頭から被った。
「どうして落ち込むのか、僕にはわからないよ。むしろ喜ぶべき事じゃないか」
 ルリは返事しない。
「だってさ、手足を切断されようが、内臓をえぐり出されようが、魔法で肉体を再生さえすればへっちゃらなんだよ」
「要するにもう人間じゃないって事でしょ、くるみも私も!」
 ルリは背を向けたまま応える。
「重傷を負って死にかけている人間が、自分が人間で良かったと喜びながら死んだりするわけないよね。どうしてそんな生存本能に反する事を思うんだろう?」
「もういいわ。出ていって」
「僕は君を励ましに来たのにな…」
「いい加減にして‼」
 ルリはとうとう上半身を起こして、キャビネットを平手で叩き付けた。ドアをノックする音が聞こえたのは、その直後だった。
「私だ。入ってもいいか?」
 父の征爾の声だった。ルリは内心冷や汗をかいた。さっきの音が征爾に聞こえていないことを願った。
 ガチャとノブを回す音とともに、軍服に身を包んだ父が部屋に入ってきた。もう一方の手には、紙袋があった。
 キュゥべえはいつの間にか、姿を消していた。
「急に体を悪くしたとばあやから聞いてな、予定をやりくりして何とか駆けつけたぞ」
「忙しいのに、心配かけてごめんなさい、お父様。私は大丈夫だから」
「ここ数日は寒い日が続いたからな。気にせずゆっくりお休み」
 征爾は勉強机の椅子をベッドに寄せると腰を下ろした。その表情は、愛娘の安堵を心の底から喜ぶ満面の笑みに他ならなかった。征爾は紙袋に手を入れた。
「美味いぞ、食べるか?」
 ルリは一瞬ぎくりとした。征爾がニコニコしながら取り出したのは、真っ赤に熟した林檎だった。辛うじて、拒絶する素振りを悟られずに済んだ。征爾はそんなルリに気づくこともなく、ポケットから果物ナイフを取り出した。征爾の手許で赤い皮が螺旋を描きながら切り離され、薄黄色い果肉が姿を現す様子に、ルリは安堵を覚えた。
 征爾が丁寧に切り分けた林檎は、甘くて瑞々しかった。銀座かどこかで、ルリのために最上級のものを探して来たに違いない。
「私こそ謝らなくてはな。こんな時でもない限り会ってやれなくて、お前には本当に寂しい思いばかりさせている」
「お父様こそ、気にかけすぎよ。私だって、もう子供じゃないんだから」
 征爾も林檎をかじりながら、顔を綻ばせるルリに目を細めていた。
「ところで、勉強もしっかり頑張っているか?」
「もちろん、お父様の娘ですもの。八卦鎮の不死鳥の名前が泣きますわ」
「こいつ、言うようになったな」
 征爾は笑いながらルリの額を小突いた。
「くるみにもよろしくな。また落ち着いたら、三人でレストランにでも行こう」
 征爾がルリの側にいたのは、三十分にも満たなかった。軍の会議があるとのことだった。征爾を笑顔で見送ったルリは、深い溜息をついた。さっきまでキュゥべえのいたキャビネットには、切り分けた林檎の残りが皿に置かれていた。
 ルリは再び、左手でうっすら輝くソウルジェムに目を遣った。少なくとも今までは、あの時の決断を後悔したことは微塵もなかった。もしこうなることを最初に知っていたら、自分の判断は変わっていただろうか? どちらが正しかったのだろう? ルリは右手で林檎の残りをつまみ、口に運んだ。

 陸軍准将・直征爾が敵軍に包囲され生還は絶望的。その報せは半年前のルリにとって、青天の霹靂だった。母はルリが物心つく前に死に別れたため、征爾だけが唯一の肉親だった。どんな時にも自分を気にかけてくれた、優しく頼もしい父親。ルリにとっては太陽そのものであり、どんなに職務に忙殺され側にいない時であっても、父がいない現実など考えられもしなかった。
 軍の事務官が家を訪れその旨を報告しに来た時、ルリは部屋に駆け込み勉強机に突っ伏して、一人号泣した。目の前が真っ白になった。月並みだが、ルリにはそれ以上の言葉では表現し難かった。
「何を悲しんでいるんだい?」
 誰もいないはずの部屋に、聞き慣れない声。驚いて顔を上げると、目の前に猫ほどの白い奇妙な生物がいた。
 曰く、「僕と契約して魔法少女にな」れば、どんな願い事も一つだけ叶えてあげる。
 曰く、その代わり「魔女」と戦わなければならない。
 契約? 魔法少女だの魔女だのとは一体何なのか? そもそも人間でもないのに語を話すなんて、一体何者なのか? 誰にルリを嘲う資格があるだろう? ルリにとって、それは溺れる者の前に流れて来た一本の藁に他ならなかった。唯一違ったのは、それが奇跡を起こす魔法の藁という事実だった。
「契約は成立だ。君の願いはエントロピーを凌駕した。さあ受け取るがいい。それが、君の運命だ」
 鈍い痛みと共に、自分の胸から青く輝く浮かび上がるソウルジェムを、ルリはしっかりと握りしめた。それが私の「運命」? ふざけないで! よもや、形を換えた私自身の魂だったなんて!
 しかし、征爾が無事にルリの許へ帰って来たのは間違いない事実だった。急遽征爾の部隊を救出するために、大規模な援軍が編成されたのだ。援軍のおかげで征爾の軍は敵の包囲を突破するのに成功。奇跡の逆転勝利と賞賛され、准将から中将へ二階級特進、いつしか「八卦鎮の不死鳥」と呼ばれ名声をほしいままにするようになった。
 他方で、援軍に多大な犠牲が生じたことに対する批判が無いわけではなかった。もっとも、その類の批判は次第に消滅していった。援軍の件に限らず、直征爾をはじめ軍や政府に対する批判的な論調自体が、時とともに影を潜めるに至ったのだ。権力が押さえつけたのか、メディアが自ら控えたのか、当然ルリの知るところではなかった。

「冗談ではない。こんな条件では死んだ将兵が浮かばれんぞ!」
 立ち上がって声を荒げたのは、直中将だった。
「しかし米英が禁輸措置をちらつかせています。我が国の資源が持ちません」
「その米英が大陸を支援しているのではないか!」
 その日の議題は、かねてからの和平案だった。第三国の仲介により、大陸政府との交渉が進められていた。軍内部でも和平を結んで撤退するか、相手が倒れるまで徹底的に戦うか、意見は分かれていた。
「賠償金もなしに和平など、馬鹿げた話があるか! 本来であれば総統の首でも差し出さない限り交渉の余地などないのだ」
 会議は事実上、八卦鎮の不死鳥による独演会となった。曰く、大陸政府の連中が在留邦人を虐殺したのが諸悪の根源である。従ってこれを成敗せずに我が国が折れることは、犠牲になった同胞と英霊に対する背信である。米英が支援をしているというのなら、そのルートを叩き彼らに我々の本気を示して手を引かせることこそ最善。
 英雄・直中将を止める者はいなかった。それは軍人だけではなかった。政治家もまた、彼の機嫌を伺うしかなかった。原則、陸軍大臣及び海軍大臣は現役の軍人でなければならない。軍が自らの意に沿った大臣を出さなければ、内閣そのものが組閣できなかったのである。
 陸軍きっての強硬派・直征爾の素顔を、ルリは全く知らない。

 くるみも戦っていた。戦う相手は生身の兵隊ではなく、人知れぬ結界の奥に潜む、人知を超えた魔女であった。
 手も足も、あちこち生傷を作っている。額からも出血している。だが、口元には不敵な笑みを浮かべていた。
 ちょっとばかり、無理し過ぎたか。くるみはそう心の中で呟いて、自分の血を指でぺろりと舐めた。トンファーを一振りすると、魔女の攻撃を弾き返す。
「まだまだ…まだまだヌルいっつーの!」
 くるみはトンファーに魔力の刃を込めると、一直線に魔女に斬りかかった。

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