独り言のつもりで書いていましたがそれは失礼致しました。
たくさん書かれていたようですが、該当部分だけお答え致しますね。
下記、昨日の投稿の書き込みより。
「一つだけ例に挙げれば、
>人間革命を現代の御書だと言ったり、会長に帰依と言ったりしていた
これを言い出し、強調していたのは会長になりたかったお一人。
後に退転し反逆して既に鬼籍に入った元副会長のゴマすり源次郎こと福島源次郎氏ですよ。
先生が言い出した訳でも、奨励していた訳でも有りません。
ましてや当時の副会長は常識的な少数。今のように有象無象の副会長ではありません(笑)
ですので影響力はそれなりにありました、今の副会長の比ではありません。」
これはリアルに福島氏が副会長時代に言った事を知っていますし、雑誌、書籍等で書いていま
す。後の第一次宗門問題の際に宗門より問題視された時もリアルに現場におりましたので知って
います。文証、証拠は学会側、宗門側として記録がきちんと残っています。
>人間革命を現代の御書だと言ったりした 文証。
「私は再び繰り返したい。「人間革命」は現代の御書である。「人間革命」を通して御書を拝読する
と、大聖人の大精神がより鮮明に、私の心を打つ。更に御書を通して「人間革命」を読むと、学会
精神が体内により強烈に脈打ってくる。
御書から「人間革命」へ、そして「人間革命」から御書へと。この往復の中に、信行学の揺がぬ確立
があるのではなかろうか。
「人間革命」はそのような一書である。大聖人との不可思議な血脈の相承がある。確かに不思議な
書といわざるをえない。
(福島源次郎述 文集「教学と私」第一巻)
>会長に帰依と言ったりしていた 文証。
「この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、希有の師への帰
命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。(後略)(中略)
妙法広布の大願に身命を削る戸田前会長と生死を共にしていくとの、生命の奥底からの深く厳し
い決意にたった実践。これが山本伸一青年の「革命は死なり」という意味であった。」
(福島源次郎講義「小説人間革命第3巻に学ぶ」聖教新聞49年11月8日付)
「戸田先生のとらえ方が、“希有の師”なのです。“希有の師”という言葉が初めて出てきたのです。「希有の師への帰命」ということ
を、御義口伝をひっぱり出して読んだのです。いずれにしても、これはついていくというようなものではない。師弟不二だから、生命次
元の問題だ、と。」
(福島源次郎談「潮流」第9号)
上記、引用が元副会長の福島源次郎氏の著述した文書です。
これが後に宗門より追及、問題視された箇所の一部です。私が根拠も無く言っている訳でありま
せん。
リアルにその時代に学会員として聞いたこと、見たことです。おまけに文証もあります。
これは捉え方ですが、決して横やりのつもりはありませんでした。
失礼があったのはお詫びします。
取り急ぎ、私が投稿した部分のみお答えしました。
下記は福島氏に関するウィキからの引用です。この通りだと思います。
昭和47年(1972)、40歳の若さで創価学会副会長に就任。当時は池田大作第3代会長に心酔し、「師への帰命」をさかんに提唱。また小説『人間革命』を「現代の御書」と位置付け、その学習運動を推進した。
昭和54年(1979)3月、九州大牟田会館における指導の内容、いわゆる「大牟田発言」が日蓮正宗の宗門より問題視され、その責任をとる形で、学会の一切の役職を辞任し、九州に移転。以後、学会の外廓企業である日本図書輸送に勤務。
昭和58年(1983)3月、日本図書輸送を退職。
昭和61年(1986)4月、池田にあてて「誠諫之書」を送付。その直後より激しい攻撃にさらされる。なお同論文は石田次男を経て内藤国夫にわたり、マスコミに流出。『諸君!』に掲載される。また同年12月、「続・誠諫之書」を送付。
昭和63年(1988)8月、「破邪強言之状」を提出。
平成2年(1990)、鷹書房より『蘇生への選択』を刊行。同書の第五章「諌言と破折の書状」は「誠諫之書」「続・誠諫之書」「破邪強言之状」の三書を収録。
平成4年(1992)3月、蘇生講を結成。
平成10年(1998年)8月8日死去。享年66。