書評じゃない番外記事。
読書に集中できない人あるある満載の上の記事がとても面白かった。
ただ、じゃあ読書に集中できない人はどうすればよいかの話は(ネタ記事だから)無かったので、対策案を書いてみた。さらに、ドラマとかマンガとかあるのになぜ本なんか読むのかについて個人的な理由を考えてみた。
なお、「読書」「本」と言ったときにリンク元記事が小説を想定しているのでこの記事も同じ想定で書くけれど、小説じゃないノンフィクション等にも援用できる話だと思う。
ではどうぞ。
目次
集中できない人のための読書法(チートなし編)
読書に集中できない人はどうしたらいいか、先に一般論として書いてしまうと「無理して集中しなくてもいい」が答えになる。
本は最初から順番通りに全部集中して読まないといけないというのはまじめな人が考えがちな誤解で、そしてこれを正すアドバイスや対策も読書法の本とかWeb記事を見ればいくらでも見つかる。「最初から読まなくてもいい」「必ずしも全部を読む必要はない」「合わなかったら途中でやめてもいい」といった対策である。
ただ、リンク元の記事には次のような記述があって、上に挙げた対策例だけだとこの悩みには応えきれないかなと思う。
「・・小説の序盤でストレスがたまる理由が だんだんわかってきた」
「それは描写の『重要度』がわからないことだ」
「話の重心がまだ定まってないせいでどこが重要な伏線でどこがどうでもいいのかパッと把握できない」
「しかもこの作品 本筋と関係ないエピソードも妙に細かく書いて『息づくリアリティ』を強調する芸風のやつだ・・その酒の銘柄とかどうでもいいわ!」
「・・とは言えない だってそういう細部を楽しめないのってなんかバカっぽいから」
・・元記事はイラストネタなのでこうやって文章だけ粒立てて引用するのもなんか不粋な気もしなくもないが、、これって結構あるあるの悩みだと思う。
こういう場合、本を一定のペースで読まない、特に、最初の方は時間をかけずに読んで、むしろ後半ほど力を入れて読むのが有益ではないだろうか。
元記事に登場するヒトは、最初にがんばって読もうとするけれど段々疲れてきて、後半の方は
「もう地の文は飛ばして会話だけ読む!意味わかんないとこは段落ごとスルーだ!」
となっていく。
すげえわかる。でも、たぶんこれって、ペース配分が逆なのだ。
むしろ、前半は力を入れずに段落ごとスルーして、後半になるほどちゃんと読んだ方が多くの本では効率的だ。なぜなら最初の方って上の引用にもある通りどこが重要でどこが重要でないのか判断できない。だから細かいところも重要かもしれず神経を張りめぐらしてどうでもいいキャラの名前や酒の銘柄まで覚えようとして疲れてくる。
最初を飛ばすと世界観が構築できない?ストーリーについていけない?大丈夫、ホントに重要なキャラやテーマなら、前半を飛ばしても中盤や後半にもだいたいまた登場してくる。前半を飛ばしながら読んでも、読み進むに従って重要かそうでないかのフィルタリングやスクリーニングを作者が勝手にしてくれるので、後半まで集中力を温存した方が良い。マラソンで最初に全力疾走する人はおらず、どのランナーもゴールの見通しがついてからスパートをかけるものだ。
・・というのが管理人が考える集中できない人のための読書法なのだけど、これはいわば人力の対策であり、電子書籍の場合は非・人力の対策が可能である。
集中できない人のための読書法(チートあり編)
KindleにはX-Rayという機能が既にあって、どの人物が何回ぐらい登場するか、前半から後半までのどの箇所に登場するかがすぐにわかる。
↑X-Ray機能で主要人物とその登場箇所を表示した例
まだ対応している書籍は限られているが、「描写の重要度」を知りたかったらこれで事足りるはず。なお、この機能は登場人物だけでなく頻出するキーワードもカバーしているのでノンフィクション本でも利用できる。
ちなみに「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者であるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリなんかは、いずれKindleには表情認識機能がついて読み手がどのページで興奮/退屈したか分析するようになるのではないか、さらに進むとバイオメトリクスセンサーをKindleと接続してどの文章どの単語で読み手にどういう感情が生じたかを分析するようになるのではないかと語ったりしている。もしそうなら退屈なページを飛ばしてくれたりするようにもなるだろう。
*50分あたりからが該当箇所
ただし、今のところ管理人は上に挙げたX-Rayという機能を使って小説を読んだりはしていない。かえってめんどくさいというのがメインの理由だけど、自分が本に求めているものと反しているからでもある。
ここまで書いたのは「本を読みたいけど集中できない」人向けの対策だけど、そもそも本なんか読みたくない人に「ドラマとかマンガとかあるのに何がいいの?」と聞かれたら本好きな人は何と答えるだろうか。それはその人が本に求めているものに関係する。
ドラマとかマンガとかあるのになんで本なんか読むの?
「なんで最近小説読めてなかったか思い出した・・」
「まっさらの状態から世界観を構築する作業が面倒くさすぎたんだ」
「ドラマとかマンガと違ってこっちに委ねてくる要素が多すぎるよ小説」
*太字は管理人
元の記事では上のように吐露されているけれど、太字部分って実は裏返すと「活字(小説)がドラマやマンガに比べて楽しい(こともある)理由」になる。
ひとことで言うと、活字は自由なのだ。どう読むかが読み手に自由に委ねられている。たとえばキャラの顔を勝手に想像してもいいし、風景を勝手に想像してもよい。ドラマやマンガは全てのキャラに顔があってそれを見ないといけないけれど、活字なら自分が興味ないキャラは顔すら想像せずシカトする自由もある。
その想像にまつわる作業が面倒くさいんだよ!とツッコまれるかもしれないので付け足すと、活字の持つ自由さにはもっと即物的な意味での自由さもある。時間に対する自由だ。
映画や動画というのは基本的に時間が決まっていてそのシークエンスに付き合う必要がある(たまに倍速再生とかする人もいるが)。でも活字だと、どこにどのぐらい時間をかけるかは読み手の自由だし、細切れな時間でも使える。
たとえば、会社の社内メールで回ってくる社長メッセージや事務連絡、または友人とのLINEグループでのメッセージがどれもテキストでなく動画だったらちょう面倒くさくないだろうか。管理人の場合は活字よりもドラマとか映画の方が面倒くさく感じたりするのだけど、理由は基本的にそれと同じだ。拘束される時間が決まっているのがダルい。
じゃあマンガは時間が決まっていないのでOKじゃないか?その通り。でも、ここからはさらに個人的な意見になるけど「文章でしか表現できない感覚」というのが本にはあって、それが好きだ。
文章でしか表現できない感覚
三〇代後半の女はといえば、永遠に脆くはかないタイプの女だった。 そういう女たちは、かつてはとても美しく、ダンスホールやビヤホールでおおいに注目を集めたものだが、いまでは生活保護手当てをもらう暮しで、一月に一度、手当ての小切手を受けとる日を中心にして、くらしのすべてがそのまわりをめぐっている。
- リチャード・ブローティガン「芝生の復讐」所収「1/3 1/3 1/3」より
*太字は管理人
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- 作者: リチャードブローティガン,Richard Brautigan,藤本和子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/03/28
- メディア: 文庫
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女性の困窮を表現するときに「小切手を受けとる日を中心にして」「くらしのすべてがそのまわりをめぐっている」と描写する。こういうのって、文章にしかできない感覚表現だと思う。ある主体のある概念(ここでは困窮とか切望とか)についての感覚って、画像や動画、またはVRが発達しても表現が難しいのではないだろうか。AIが発達しても・・とは言えず、AIが文章で表現することはできてしまうかもしれないけれど。
もっと短い例もあれば何百ページもかけるような例もあるけれど、管理人としてはこういう表現に出会うことが本に求めていることのひとつである。
以上、なんかネタにマジレスした挙句の信仰告白みたいになったけれど「読書に集中できない人」へのリアクション記事終わり。念為だけど「本はすばらしいがドラマや映画やマンガはダメ」とか言いたいわけではない。みんなお互いが信じる神を尊重して豊かに暮らせばよいと思う。
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