世の中はけっこう曖昧にできている。
いまだに昔流行っていたレコードが好きな友人がいる。
CDすら絶滅しようとしているこの時代に、なぜあんなに大きな盤をバカでかい機械に通して悪い音質で聞こうとするのか、興味のない人からすれば合理的に考えておかしな話だ。
一方で保存料、着色料が体に良くないと言ってるけど、あんなに体に悪いと言われているチェーン店のハンバーガーやコンビニ弁当を今日もみんな美味しい美味しいと言って食べている。
ヒトって食べちゃいけないものを食べたら吐き出そうとするし、臭いものを嗅いだら避けようとするし、熱いものを触ったら反射的に離そうとするはずなんだけど、そう考えたらハンバーガーやコンビニ弁当は体に悪いといいつつ取り込んでも大丈夫なものらしい。
体が美味しいと感じているからしょうがないのかもしれない。
それは食べたらヒトの脳みそから美味しいと感じるような快感が味わえる成分が出る限りどうしようもないことだ。
盆栽を育てているおじいさんのことを理解できないのもそうだし、外でおにぎりを食べるとなぜ美味しいのかという話もそうだし、炎のゆらめき見ると落ち着く現象だってそうだ。
ただただ「それが良い」というだけだ。
それは良いと感じる脳があるからだ。
いや、もっと深いものかもしれない。
話は変わるけど、世の中には天才と呼ばれる人もいて、そんな人が周りに理解できないと言われても、確かに本人はそれで良いと思ってやっている。
本人がなぜか良いと思っていること、気づいたら勝手にできていることを周りから一般人が理解できるように言語を介して説明を求められるという行為は、もしかすると本人からすれば非常に酷な話なんじゃないだろうか。
ヒトのつくりが曖昧である以上、むやみやたらに「言葉でわかるように説明して」っていうのもどうなのかなと思った。
もっとシンプルに好き嫌い、良い悪いで考えて良いこともたくさんありそうだ。