カメキチの目
著者はなんども、私の人生は今(この時間)・ここ(この場所)にあり、これ以外のあり様は「現実」にはないのだが、他でもあり得たのである、ということを強調される。
ここで「あり得た他」というのは、「仮想」だ。つまり「想像」。
「あり得た他」というのは、なんにでも言える。
①自分が他の人であったり、②自分であっても、過去や未来の自分であったりする。
①②の想像するのは、あくまでも、今の自分だ。
今の瞬間をこの場所で生きている自分自身である。
しかし、今の自分がこうである必然性はない。必然性がないということは、 「他」でもあり得たのである。
小説、映画、演劇、テレビドラマ…なんでもかまわない。夢でもいい。
それらのすばらしいところは、もし自分がそうだったら(その立場にいたら)…と想像することだ。
私がアメリカ大統領や日本の首相だったら、親分、空母「カールビンソン」の提灯持ちをする子分、駆逐艦「出雲」の合同演習で北朝鮮を刺激するような、そんな子どもじみたマネは即刻やめるのだけど…。
(アメリカ国、日本国と呼ばれる両「国家」がやっていることだからと、私たちは「重々しく」「ありがたく」思わさせられていると思う。私には、テレビニュースで日本海を航行する艦隊映像がチャンチャラ馬鹿げて映る。空飛ぶ円盤のETとかはどう思っているだろう)
ビルマでの独裁者・バカ弟の手によるお兄さん暗殺の件の真相をウヤムヤに終わらせず、真相に迫るのだけど…。
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「他」でもあり得たという話の続き。
まったく自分の力の及ばない、ただただ受けいれるしかない身体の特徴とか、どこそこの家、親のもとに生まれたというものもあるが、友だちとか、学校とか仕事場などを選ぶ(一つしかなく選択できないこともありますが)こともある。
選択できる場合でも、より次元の高いところからみれば、自分が「選択」したとはいい難いこともあると思う。
でも、「『他』でもあり得た」わけだ。
「『他』でもあり得た」ことを想像し、こうなった、こうでしかあり得なかった自分に重ね、それを意識して生きる。
茂木さんは書く。
「…ランダムな要素も混じる『偶有性』。偶有性は、生きる中で出会う様々な不確実性に対して脳が強健に反応するそのプロセスを理解する上で重要な概念である」
「…すっかり固定化したもののように思えていた自分の人生が、揺れ動き、ざわめき、甘美な予感に満ちた風が吹き始める。その時、私は『まさに生きている』と感じる」「『私は、全く他の者でもあり得た』自分に時々そう言い聞かせることは、人生をその『偶有性』のダイナミックレンジの振れ幅のすべての中で味わい、行動し尽すためにどうしても大切なことである。そして、私たちは往々にしてその呼吸を忘れてしまっている」
また脳科学者らしく、こうも書く。
「脳は、何歳になっても『可塑性』を持つ。神経細胞と神経細胞の間の結合は変化し得るのである。脳の学習は『オープン・エンド』であり、終りがない。どこまで学びが進んでも、必ず『その次』がある。学ぶことは、自分自身が変わり、世界が変わって見えることである。…かつて岡本太郎が乾杯の音頭を頼まれて『この酒を飲んだら死んでしまうと思って飲め、乾杯!』と叫んだように、生きるということは何も見えぬ暗闇への命がけの跳躍である。その一方で、生きるとは、絶えざる『過去との和解』でもある」
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著者は、小さいころからとてもチョウチョが好きで、蝶を捕りに野山を駆けまわったそうだ。そのエピソードはいたるところに書かれていた。
そのことが書かれた次の一文は、「偶有性」をだいじにする生き方がどういうことなのかをわかりやすく語りかけていると思う。
「(蝶は)毎回厳密に同じところを飛ぶわけではない。ある程度の傾向は決まっているが、前にはこの木とこの木の間を通ってきたのに、今度は別の木の間を通ってくるというような『ふらつき』はある。その微妙な『ずれ』が、生きているということの本質に関わってくる。…私たちの生の軌跡もまた、蝶道のようなものではないか」
もう1回で終わります。