普段から使っている人には、普段すぎて何の不思議も感じなさそうな駅にも、さりげなくミステリアスな歴史が詰まっていることがあります。
全開は、その前哨戦として
を書きました。
前哨戦にしてはやたら長くて、読む方は辛かったと思いますが(笑
今回は、本題の本丸に突入し、遺物を「発掘」していこうと思います。
・・・大丈夫です。後編は前編のように長くはありません(笑
阪和電気鉄道時代の天王寺駅ホーム
まずその前に、阪和線が「阪和電気鉄道」だった頃の、天王寺駅のホーム配置から説明しないといけません。
まずは、今の天王寺駅ホームを。関係ないところはモザイクをかけ、阪和線のホームだけ表示しました。上の①~⑨番線がそれです。
阪和電鉄当時のホームの基本構造はこの通りです。数字の丸囲みは、ホームの番号と思って下さい。
今の①~④番線と⑨番線は存在しません。
当時の資料を元にペイントで描いてみたのですが、描いた本人のイラストセンスがゼロのせいで、小学生の似顔絵レベルになっていますorz
やさしい方は、そこはツッコミ入れないでね。ツッコまれたら傷つきます(笑
ホームの基本構造は、変わっていないと言えば変わっていないのですが、ホームは今より少なめです。
図の上の広いホームが、
この5~6番ホームと理解して下さい。
で、この図に当時の線路の配線を描くと、
こんなふうになります。これを「図②」としておきます。
線路の配置だけではなく、阪和電鉄時代のホームには
「乗車専用ホーム」
「降車専用ホーム」
に分かれているところが、今回の謎を解く重要なキーワードです。
「乗車専用ホーム」と「降車専用ホーム」は今の鉄道でもあるにはあるのですが、昔の分け方は今とは少し違っていました。
阪和電鉄の「乗車」「降車」は、ホームの縦割の構図になっています。
文字で説明すると、天王寺駅に入った電車は、まず「降車ホーム」で止まり、乗客を下ろします。
乗客を下ろした空の電車はホームの奥に入り、「乗車用ホーム」で乗客を乗せる。
という仕組みです。
これは何も、阪和電鉄独特のやり方ではありません。
当時の関西の私鉄ターミナル駅では珍しくないことで、昔の京阪のターミナル駅であった天満橋駅や、近鉄の上本町駅も同じやり方でした。淀屋橋駅も、私が小学生くらいの頃は同じやり方だった記憶があります。
阪和電鉄は京阪系列の会社だったので、親会社に倣って同じ仕組みを採用するのは自然の流れでしょう。
昔の電車は編成が1両とか2両とかという、今と比べたらのんびりとした両数でした。
それは阪和電鉄にかぎらず、たいていの鉄道がそうでした。だから、長いホームを作って「乗車」「降車」に分けることが可能だったのです。
来年民営化が確定になった大阪市営地下鉄の稼ぎ頭、御堂筋線は今でこそ10両ですが、開業当初はたったの1両だけでした。あの長~~いホームに1両だけなのは非常に寂しいもんがあるのですが、御堂筋線のすごかったことは、
「今は1両やけどいつかこの長さでも足りない時が来る。
なら最初から未来対応のホーム作ってしまえ」
と、100年後を見越した設計になっているということ。
梅田~なんば間は、後で両数の増加でホームを延ばしたのではなく、開業当時からあの長さでした。
当時は、「街の真ん中に空港作る気か!」と散々叩かれた御堂筋の道幅と共に、あまりに長いホームに、
「アホちゃうか」
「税金の無駄遣いしよってからに」
と、やはり市民に散々叩かれました。
しかし、地下鉄建設の英断を下した当時の大阪市長、関一(「せきいち」ではなく「せきはじめ」)の先見の明が80年後でもちゃんと生かされている事実と、80年前には一般市民には想像もつかなかった10両でも、実は理論的にはまだ1両分余裕があることに驚きを隠せません。
しかし、開業当時は今みたいに停車するドア位置に印がついてたわけではない上に、停車位置も運転手の気まぐれ。ホームの進行方向の端っこで待っていたら、逆方向にちょこんと止まり、
「そこの電車、待ってくれ~!」
と慌ててダッシュで端から端へ走った、という話もあったのかもしれません。
当時の鉄道は今と違ってのんびりしたもので、待って~!と叫ぶとちゃんと待ってくれていました。
阪和電鉄の方針も、「お客様を待たせない」という方針でした。
「待ってくれ~!」
と客が叫べば待つ。それは前編で書いた「超特急」でも同じでした。
「超特急」が客を待って5~6分遅れで発車しても、終点には定刻で着いていたという話が残っていますが、遅れを取り戻すのにどんなけスピード出してたんだ!?と。130km/hじゃ済まないかもしれません。
戦前(おそらく昭和10年代)の阪和電鉄天王寺駅の写真ですが、「降車ホーム」から「乗車ホーム」を撮ったものです。
黄色で線を引いた奥が「乗車ホーム」で、乗客が電車を待っている姿も見えます。上の「図②」の③番線ホームでしょう。
この写真に、レアなものが写っています。ナチスの旗ではありません(笑
レアなものとは、赤で矢印をした信号機ですが、信号機の何が珍しいのかって?
信号機自体は別に珍しくありません。レアなのはその位置です。
信号機はふつうはホームの外にあるものですが、ホームの真ん中に堂々とある。これが「乗車ホーム」と「降車ホーム」の境界線になっていたものと推定されます。
天王寺駅、幻の(?)地下道
では、下ろした乗客はどこへ行くのか?という疑問が残ります。
そのままホーム沿いを出口方向へ歩いて行ったら、わざわざ乗車と降車を分ける必要はないし、降車した乗客とホームで待ってる乗車の客がホームでぶつかり、効率が悪くなること間違いなし。
そこはちゃんと対策があったんです。そこで「図③」の登場。
この図での追加は、緑の点線で描いた降車ホームから出口に伸びる地下通路の存在。
これ、妄想で作ったわけじゃありません。ちゃんと資料に書いてました(笑
これを見たらわかるように、天王寺駅で下りた乗客は出口専用の地下通路を通り、駅の外に出る仕組みになっていました。
もし、今でも地下道があるとしたら、このホームの真下にあるはずです。
そして、その出口がどこにあったのか
前編でアップした戦前の天王寺駅を別アングルで写したものです。しかし前編にあったナチスドイツの旗がないのと、看板に「チューリップ」らしきことが書かれているものがあるので、別の時期に撮ったものでしょう。
赤で囲んだ部分に、六角形っぽい建物が見えます。
ここが降車ホームから地下通路を渡った出口で、逆に乗る時は左の入口から入るという仕組みになっていました。
これはこれで効率が良いのですが、両数が増えていくと「縦割り」の乗車・降車ができなくなり、このシステムもいつの間にか廃止になってしまいました。
そもそも国鉄はそんなシステム採用してなかったのでね。
地下道の出口は今のこのあたりと推定されます。
地下道は出口に向けてまっすぐ進んで駅舎の外の出口へ通じていたと記録にあるので、「まっすぐ」行くと写真丸の位置あたりになります。
そして、ちょうどいい具合に地下に通じる道もあったりするのですが、もしかして阪和電鉄時代の地下道を再利用したのかもしれませんね。
昔の駅構内図をベースにすると、向かいの小屋あたりに地下道への入り口があったと思われます。
もしかして、小屋の中には今でも地下道への秘密の(?)入り口があるのかも!?それか、地下道を埋めたりするんは面倒臭いしコストもかかるから、小屋を作ってフタをしただけなのか(笑
その肝心の地下通路がどうなっているかは、関係者以外・・・いや、JR天王寺駅で働いてる駅員でも、もしかして存在を知らない人がいるかもしれません。
周囲に天王寺駅で働く駅員がいたら、さりげなく聞いておいて下さい。
しかし、
電車が止まっていないホームの下をふと覗いたら、「何か」のスペースがある気配が。
ここ、明らかに昔地下通路があったところなのですが、明かりまでついてる気配もありました。
もしかして、スペースを今でも何かに使っているのかもしれません。何に使ってるのか知りたいので、JRの関係者さん、サイドバーにメッセージ送信フォームがあるので、こっそり情報いただけたら幸いです(笑
そして、最後の謎として残った
このグニャっと曲がった線路の構図ですが、グニャっと曲がった部分から奥が昔の「降車ホーム」の跡だったのです。
意識しないとわからないくらいさりげなくですが、昔の遺物が線路の配線とホームの不自然な曲がり方という形で残っている、というわけです。
しかし、図②とくらべたらちょっと変な感じがします。
当時の②番線と③番線の間には、線路がもう一本敷かれているので、かなりスペースが空いてるはずです。
まあ、これは何ということもない。のちに要らない子扱いされた線路を埋めるように、ホームが拡張されたのでしょう!?
図に今のホーム配置(私の強引な推定を多少含む)を描いてみたら、こんな感じです。
jpegにしたら画質が下がってしまったため、ちょっと見にくいとこがあると思いますが、そこは読者のみなさんの想像力で適当に補正しといて下さい(笑
また、現在の⑤⑥番ホームが途中から急に細くなっているのも、「乗車ホーム」と「降車ホーム」に分かれていた阪和電鉄の数少ない遺物の一つです。
阪和電鉄が遺した遺構は、今ではかなり少なくなりましたが、天王寺駅以外にもまだ残っています。
阪和電鉄が開発した住宅地の一つ、「泉ヶ丘」の最寄り駅である東佐野駅。
「砂川遊園」という遊園地があった和泉砂川駅。
東岸和田駅は、屋根の色が赤から緑に変わっているので、おそらく葺き替えられたと思いますが、駅舎自体は阪和電鉄時代の面影を色濃く残しています。
上の2駅と比べ、東岸和田駅は高架化工事が順調に進んでいます。今年の秋に完成とのことなので、取り壊しまでカウントダウンに入っています。
保存するほどの価値もなく、おそらく一年後の今頃はこの写真が「遺影」になっていることでしょう。写真を撮りに行くなら、今のうちです。
そして、ほとんどの人が気づかない、私鉄時代の遺構があります。
それは「架線柱」。
電車の電気を通す架線の柱のことですが、阪和電鉄の架線柱はひと目でわかるような、独特の形をしていました。
これを知った4~5年前、住んでいた東岸和田駅には、まだその架線柱が残っていました。
ここぞという時に何枚か写真に撮っておいたのですが、いつかブログのネタになるだろうと、自分のiPhoneに残っているはず。
今日、この記事を書いている時、さて写真アップするか!
と探してみたのですが・・・ない!
パソコンに保存してるのか?とフォルダを探しても見つからず。
それなら仕方ない、まだ残っている場所まで撮りに行く!
そう決意した時、時間は17:10。それも今日(5月6日)。
日暮れまでにそこまで行けるか!?たぶん電車乗ったら30分くらいで行けるはず!?
と考える前に、既に出発して実家の最寄り駅に着いていました(笑
そして向かったのが!
大阪の南にある「長滝」という駅。
関空行きの電車と和歌山行きの電車が分かれる日根野駅から、たった一駅和歌山寄りにあるのですが、日根野を過ぎるととんだ田舎・・・失礼、一駅違うだけで、「都会感」から離れた静かな雰囲気が残っています。
それだけあって、阪和電気鉄道時代の駅舎もそのまま残っています。
駅舎の天井も木造で、建設当時の面影を残しています。
個人的感触ですが、今に残る阪和電鉄時代の駅舎のうち、いちばん雰囲気を残しているかもしれません。
もう一つ雰囲気を残しているのが、この幅が異様に狭いホームです。
おそらく、2メートルもありません。特急がフルスピードで通過したら、たぶん吹き飛ばされます。
このやたら幅が狭いホームは、昔の私鉄にはよくあったもので、今でも残っている駅もあります。
阪和線も、ちょっと前までは長居駅や東岸和田駅(下りホーム)など、けっこう残っていました。
しかし、私鉄→国鉄→JRの「元私鉄」の場合、ここ10年来JRが金にものを言わせて改修しまくっているので、長滝駅が阪和線に残る私鉄時代そのままの最後の一つかもしれません。
戦前そのままの構造と雰囲気を残す分、この駅はバリアフリーなんざクソ食らえです。体の不自由な方に全然やさしくありません。
しかし、ここまでやって来た目的は駅舎ではなく架線柱。早速チェック。
なんのことはない。どこにでもあるただの架線柱やんか。
・・・と思うでしょ?
まずは、この画像をご覧下さい。
どこにでもある、JRの架線柱です。コンクリート製です。
長滝駅にある架線柱は下の通り。
違いがわかりますか?
そう、長滝駅の架線柱の方は、先が細くなっています。
これが実は阪和電気鉄道独特の架線柱なのです。戦前戦後、平成、そして今を生き抜いている私鉄の証人です。
10年前くらいまでは、私鉄時代の架線柱がけっこう残っていました。しかし、建てられて80年も経って老朽化が激しいのか、JRが急速にメンテし出して柱が取り替えられ、今はあまり残っていません。
長滝駅には、まだ3本も残っています。これだけ固まって残っているのは、かなり貴重です。
ネットで調べても古い情報しかなかったので、長滝駅に残っているかどうかはちょっとしたギャンブルでした。残っていたらラッキー、なくなっていても仕方ない。
しかし、このギャンブルは、日暮れ前に撮影できた私の勝ちのようです。
ちなみに、長滝へ向かう快速がうまい具合に座れなかったので、和泉府中駅~長滝駅間に阪和電鉄時代の架線柱が残っているか、運転席の後ろに陣取って柱をすべてチェックしました。はい、胸を張って言います。一本残らず全部確認しました。
すると、この間にまだ、2本だけ残っていました。すでに絶滅したかと思っていたのでビックリ。
興味がある方は、関西空港へ行くついでにでも、チェックしてみましょう。
・・・ってそんな物好きいないか(笑
これで、阪和電鉄をめぐる「昭和考古学」の調査は完了。
大阪にいる間、やることはすべてやり終えた!
と爽快な気分で、帰りの電車(紀州路快速)に乗車しました。
そして駅に到着。何も考えずに電車を下りました。
しかし、何か違和感を感じる・・・あれ?なんでやろ?
と思って下りた駅名を見たら、東岸和田駅でした。
実家の最寄り駅は、もう一つ先の和泉府中。しかし、東岸和田駅を拠点に約10年通勤で使っていたため、ここで下りる習慣がまだ無意識レベルで残っていたのでしょう。
Mission Completeで気が抜け「無意識」が表に出てきたのか。本能というのは怖い(笑
最後の最後に、予想もしなかったオチが待っているとは。さすがは大阪(違
いざ調べてわかってみると、実にあっけない「謎」ではありましたが、それでも掘り下げてみて非常に歴史を感じました。
一昔前、エジプト考古学とくればこの人と言われた吉村作治教授(最近見かけへんけど、何してるんやろ?)は、
「今から数秒前でも、過去である以上立派な考古学」
という言葉を残しています。考古学は何も、土に埋もれた数千年前の土器の破片を集めるだけが考古学ではありません。
天王寺というと、今やほぼイコールな阿倍野橋地区。
そこに「あべのハルカス」という、日本一の高さのビルが最近できたのは数年前のこと。
あべのハルカスのような21世紀の現代ものもいいけれど、そこの足元に埋もれた近代の遺跡を見て、「昭和考古学」に思いを馳せてみてもいいのではないかと思える、今回の「発掘」でした。
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