2017年02月22日

オルタナ右翼は政治思想ではない

Napoleon_III

"Patriotism is the last refuge of the scoundrel". 愛国心は、ならず者達の最後の避難所である。サミュエル・ジョンソン Samuel Johnson の言葉とされている。 全ての愛国者がならず者である、というのではない。ただ、ならず者は最後に愛国心を偽装するのだ。

誤解を恐れずに言えば、オルタナ右翼は政治思想ではない。おそらく、そういったならば「彼らはメディアで政治的発言を繰り返し、選挙に出、議会に代表を送っているではないか?」と反論がなされるだろう。

愛国心はならず者の

直ちに付言すれば、オルタナ右翼は近代的な意味での政治思想ではないのだ(自民党の改憲草案が近代的憲法の体を為していないように)。彼らは最終的に経済的下部構造に基礎づけられた何らかの階級を形成し、自らの利益を代表するものを議員や行政の長としているのでもない。法の支配を前提とし、デュー・プロセス・オブ・ローに基づいて具体的な法整備、制度変革を伴う政治目標を持つのでもない。

彼らの行動原理はただただ「鬱憤を晴らす」こと、それだけなのだ。これは吹き上げるリビドーの政治である。それだからこそ、マルクス主義的アプローチよりも精神分析的アプローチがより有効であるはずだ。

人は誰も不如意を抱いて生きている。最も簡単な不満解消法は外国人やマイノリティ、社会的弱者を迫害することである。そのとき理性や論理や知性は邪魔なだけだ。理性的抑圧などもういらない。「俺の所為じゃない。あいつらが悪い」。これはルサンチマンの政治であり、享楽(彼らがより単純な欲動の充足を求めているため正しい用法ではないが、後期ラカンにおいては用法が揺らいでいる)の政治でもある。

オルタナ右翼の支持層が経済的にうまく把握しにくいのは、経済的階級分化によってできた集団ではなく、不満を抱き、なおかつその不満を手っ取り早く解消したいという心理的動機による集団だからである。経済的に裕福であっても、他の面で鬱憤を抱える者は思いのほか多いのである。

従来までの右翼や左翼はまだしも政治思想であった。しかしオルタナ右翼は近代的政治思想の枠組みからは外れているのだ。彼らが政治思想を抱いているように見えるのは偽装である。鬱憤さえ晴らすことができれば、政策など何でもいいのである。結果として、彼らはより剥き出しの主権権力(国家の絶対主義的側面)を待望するだろう。三権分立や基本的人権、社会権、法の支配、デュー・プロセス・オブ・ローなど近代的諸概念を彼らは顧みないだろう。





kay_shixima at 20:00││震災と原発と政治