Renaです。これでも学生時代はお勉強が好きで、得意でした。
お勉強と言っても、教科書を丸暗記し、問題集を解きまくり、テストで高得点を収める、の繰り返しのことです。
大学等での自発的で終わりのない「学習」ではなく高校までの強制的で答えのある「勉強」ですね。これが得意でした。
この結果は才能じゃない
昔、「神童」とか「脳みそを交換してほしい」とかよく言われました。
みんなが私を調子に乗せようと考えたあだ名が「天才Renaちゃん」。
けれど私はこのあだ名が好きではありませんでした。
私が出した結果は努力によるものです。
才能なんかじゃない。
その証拠に、習いたての内容はまるでうまくできないのです。
悔しさと悲しさで涙が出そうになりますが、歯を食いしばってきました。
他の子が友達と遊び、昼寝をし、ゲームをし、おやつを食べている間、私はそれこそ血のにじむ努力をしてきました。
例え脳みそを交換されても、私は同じ努力をして再びよい結果を収める自信があります。
天才なんかじゃない。
周りはそれを認めると自分の努力不足が浮き彫りになるから、彼女のは才能だと言い聞かせているに過ぎないです。
賢くなんかない
本当の意味で賢い人を私は多く知っています。
人の思いを敏感に察知し、機転の利いた対処ができる。
テストで高得点を出すこととは違う性質のものがあるのです。
「頭は良くても人の気持ちがわからない」と言われることがありますが、その二つに何の因果もないこと、その言葉の意味は私は言った本人よりもよくわかっています。
私は教科書に載っていること、問題集で反復練習できること、テスト形式のように明確な正解のあることしかうまくできません。
けれど人のこころは違う。
みんなが教科書通りの反応をするわけもなく、その場面は人生で一度しかおとずれないので練習などなく、はずれはあってもこれが正解といった対応もありません。
今までの努力が通用せず、戸惑います。
頑張っても、自分の思考の癖から逃れられず、相手の深い考えや感情についていけない。
このあたりを周囲はいともたやすく、というか無意識にやってのけます。
存在価値がわからない
人のこころがわからなければわからないほど、私は勉強にのめり込みました。
数値化できる世界が心地よかったのもありますが、何より自分の存在価値が見出せなかったからです。
相手の気持ちを上手く読み取れず、器用にも振る舞えない私が価値を認めてもらう…というより価値を認めさせるには、勉強ができるという能力を伸ばす以外になかった。
勉強で1番でいれば、誰も私のことを無視できなくなる、と思いました。
2番では意味がないのです。代わりがいますから。
誰にも負けてはならない、負けてはならないと強迫観念を持って机に向かいました。
さいごに
お勉強ができる「だけ」の人、というタイトルにしました。
私のような不器用な人間の共感を得たくて書いた記事です。
どこかにいると思うのです。教科書に従って愚直に努力をしてきただけの人が。自分を見てほしいのにそれがうまく言えず、自分に勉強以外の価値を見出せなかった人が。
何の役にも立たない記事ですが、投稿します。今はそういう気分なのです。ciao!