京大らしさ、とは何か
昔話から始めよう。
僕が高校生の頃はツッパっていて、先生に反発して試験勉強を拒否したりする人だった。でも、京大に入って恐ろしいほどの自由を前にしてびっくりした。
それまでの自分の「自由」と思っていたものが、なんてちっぽけだったか思い知った。
これまでは高速道路に乗らずに下道を走ろうとしていただけ。でも向かうべき方向は決まっていた。
でも京大は原っぱだった。完全に放り出された。行くべき先なんて誰も教えてくれなかった。
京大に入った時、理学部の事務の人がガイダンスで「1/3の確率で、行方不明になります」と説明していてびっくりした。事務の人がそれを言うのがすごい。
そこからなんとか自分で方向を見つけ出して、選んで、専門に入っていく。一見遠回りに見えるそのプロセスがあるからこそ、気合いが入る。
僕の思う京大っぽさとは、自由の中で、まさに自分の角度を作り上げていける、暴力的なまでの自由さだ。変な奴が変なまま、全力で尖って生きていける場。
それこそが自由の学風だと思っている。
薄れゆく「自由の学風」
その文化が薄れて来ている気がする。
僕がいた頃の京大は、教養部があって、あまりにも自由だったけれど、「学生が何したらいいかわからなくてけしからん」となって20年ほど前に潰れた。
これによってもう京大の京大たる所以はなくなってしまうと危惧していた
それに重ねて4年前の「国際高等教育院問題」。
前総長である松本総長が、総人と人環を潰して、管理された教育体制を作ろうとしていた。
改革前に松本総長は、とあるシンポジウムでこんなことを言っていた。
「日本では、世界でトップレベルの教育予算と教育を受ける人数があるのに、GDPが下がってる。だから、15回ちゃんと出席させるべきだ!」と。
昔だったら、教授たちから「「ナンセーンス!!」」というシュプレヒコールが上がったはず。でも今、教授たちは何も言わない。
なんでこうなっちゃったんだろう。
大学の試験は60点でいい
京大的雰囲気は文化だった。明文化されていなくても京大は京大だった。
でも、今となっては、「なぜナンセンスか」を説明しなきゃいけなくなった。ので、してみた。
僕はこれをなまこ理論と呼んでいる。
お米を10人で作る。日本人は頑張って倍の効率で作るが、2倍同じものを作ってしまう。ご飯ばっかりそんなに食べられない。
それより、倍の効率でできるなら、半分の奴らを遊ばせて、なまこでも獲らせてくるべきだ。なまこが食えることを発見できたやつはすごい。
大学では米をうまく作る・効率よく作る方法は教えられるが、新しいものは見つからない。
だから学生を教室に閉じ込めちゃいけない。遊ぶべきだ!アホなことをやるべきだ! なまこなんて、最初に食べようと思ったやつは相当のアホにちがいない。でもその最初のアホのおかげで、ご飯がすすむのだ。
でも泳ぎ方くらいは知ってないと溺れちゃう。だから60点でいい。60点だけ、ちゃんと勉強して知識をとっておくべきなんだ。
高校までは100点を目指していい。でも大学では100点を取る価値はあんまりない。
なぜなら変わってしまうから。最先端だから。間違っていることもあるから。だから満点を取っても意味がないかもしれない。
君たちは30年後に、誰も知らない問題を解かなければならない。じゃあ授業で100点取っても意味ない。
でも0点はだめ。明日を生きるため。明日は今の延長線上だから。近未来を生きるために60点が必要なんだ。
他の40点分では、僕の知らないことをやってくれ。
予測不能は自然の掟
遠い将来のことは、どう頑張ったって予測できない。この僕の考え方は、全て自然から来ている。
カオス、というものがある。この動画を見るとわかりやすい。
とても単純な式でも、繰り返し繰り返し代入していくと、電卓ごとに値が変わって来てしまう。最後には、ちょっとのズレが積み重なって、どの計算機もでたらめな答えを出すようになってしまう。きっちり計算した上でカオスになってしまう。
これは電卓ごとに有効桁数が違うから起きる。割り切れなかった小数点以下を無視すると、それがだんだんと取り返しのつかないような大きな差になるのだ。
いくら高性能なコンピューターができても、遠い将来のことになれば、ノイズがどんどん大きくなって、予測不能になってしまう。
原理的にはひたすら精密にすればいいんだけど、現実的には無理。
もし、1年後の正確な気象予報をしよう、なんて思ったら、「みんなが予定通りの呼吸をしないと」いけなくなる。
僕も京大の理学部に入った頃は、正しくやれば正しく予測できると思っていた。
その頃研究者たちは、「西暦2000年の地球」を予測しようとしていた。石油がなくなると言われていた。人口爆発だと言われていた。環境を守らなきゃと叫ばれていた。
人間が生きる限界ってあるのか? どうすれば防げるのか? と考え始めた。でもそんな先のこと、予測なんてできっこないと気づき始めた。
ある友人が、予測も対策も諦めて、「地球だめなら火星に行こう」と言い始めた。
「その手があったか」と思った。環境をずっと維持できるなんてありえない。どうなるかわからないんだから、わけわかんないことしないと生き残れない。なんでもありだ。
だってそもそも、環境を守るって、意味がわからない。
地球で最初の生き物は酸素が要らない生き物だった。むしろ酸素は毒だった。
そのうち酸素を出し始めるバカが出てきた。最初は敵を殺すためだった。まさに奴らは環境破壊をしていた。そのバカ達が地球を制覇していた。
でもそこから、毒ガスのはずの酸素を「旨い」とかいい出すバカが出てくる。私たちだ。
環境を守れって、何を守るの?最初から正しさなんかない。そこで生きていくしかないじゃん。
今の価値観をそのまま持っていたら絶滅してしまう。
みんな「予測不能」を見て見ぬふりする
予測不能だなんて、本当は昔からわかっていた。
それが正しい。なのに広がらない。
なぜか。
みんな予測不可能なことを考えたくないからだ。見たくない。予測できることにしたいからだ。
3.11が起きたとき、理屈の中ではありうるかもしれないと思っていても、地球科学をやっている身でも「マジか」と思った。
人間の無力さ。自然の偉大さ。想定外が当然だってこと。それをみんな震災で目の当たりにした。なのに1年もしたら、その感覚はなくなってしまった。
みんな、「絶対」をもう一度信じようとしている。田老町の絶対に壊れないはずの堤防は超えられてしまった。なのにまた今もっと大きい堤防を作ろうとしていないか?
予想できない災害や変化が訪れたら、全員が生き残るのは無理。幸運にも生き延びた人が生き続けるしかない。
三陸地方には古くから「津波てんでんこ」と言う言葉がある。津波が来たら助け合うな。全然違う方向にみんな一目散に逃げろ。逃げられるやつだけ、運のいいやつだけが生き延びろ。
普段は思いやりは大事。だけど生物として行動すべき時もある。
これが自然界の掟だ。
完璧を求める強迫観念
人間はどうしてこんなにも予測不能が怖いんだろうか。認めたくないんだろうか。
便利になりすぎて、制御可能な領域が広がりすぎて、制御不能を許せないのだろう。
「生きて行けたらまぁ御の字」、でいいじゃないか。みんな、完璧でなきゃいけないっていう強迫観念が強すぎる。失敗したらおしまいだと思ってる。
最近の京大生は、完璧を求める上に、自分はできると根拠なく思っている。高校までのできる自分像にこだわってしまっている。
卒論なに書く?って聞くと、大それたテーマを掲げ始める。無理だから、もっと簡単なところをやろうよと助言するんだけれど、それだけで彼らは自尊心を傷つけられてる。
じゃあやってみたらいい、って、やってみさせるとやはりできない。できてないよというとそこで折れてしまう。
いいじゃないか完璧じゃなくても! できるところからもう一度やってみようよ!
カオスを生き残るには、「間違えよ」
そんな予測できない世界の中で、生き残るにはどうしたらいいか。これも自然に学べば自ずと見えてくる。
なぜ生き物は世代交代するのか。新世代は毎回勉強しなきゃいけない。めんどくさい。
それはまさに、カオスな世の中に対応するためだ。完璧なんてないから。変化に対応していかなければならないから。
生物の進化はDNAのミスコピー。間違えるべき。今の「完璧」は、いつか大間違いになる。だから、自分から色々間違えることでしか生き残れない。
つまりカオスに対応するために、こちらもカオスになればいい。ランダムに対してはランダムで戦う。自然は常にそうなっているのだ。
ホリエモンの「想定内」という口癖が流行ったことがあった。でも全部が想定内なわけがない。彼は多分何も考えていないのだ。
予想したってだめなのを知っている。外れることを想定している。そういう意味で「想定内」なのだ。
人間はその自然の中で、なんとか秩序を作って、多くのことを予想できるようになった。それは素晴らしいことだ。
完全に動物的では、生存率が低い。理不尽だらけ。理不尽が嫌いだからこそ人間は仕組みを作れる。社会を作れる。
人間は、明日の天気を知れるようになった。だからそれも大事。セオリーの勉強も大事。だから60点は取るべきなんだ。0点では明日を生き残れない。
でも、繰り返しになるが、40点分は人それぞれ違うことをやるべきだ。じゃないと長期的には生き残れない。間違えたらやり直せばいい。
うまくいかないことも承知で、アホなことをすべきなんだ。
研究室の前には、酒井教授の強いメッセージの数々がスクリーンでリピート再生されている。
褒められなくても、変なままで居てほしい
「世界にひとつだけの花」という曲が昔大ヒットした。
人と違っていてもいいんだ、という歌詞はすばらしい。でも、今の若い人は「違ってていいんだから、認め合うべき。僕も否定されたくない」と思っている気がする。それでは甘い。
否定されてもいい。それでも貫く。それが本当のオンリーワンだ。
「多様性」とかいう言葉も誤解されている。
多様性は、「みんな色々でいいですね、楽しいですね!」ではない。大嫌いなやつ。絶対合わない、目も合わせたくない。そういう奴も含めての多様性だ。カエルにとってのヘビや、人間にとってのゴキブリこそが多様性だ。
本当に多様なら、価値観が違うべきなんだ。「思いやれば全てを認められる」なんて、全然多様性ないじゃんそれ。
理解しなくていい。でも存在は認めるべき。それこそが真の多様性だ。
京大生よ、変人で良いのだ。自信を持て。でも人に褒められると思うなよ。変人は褒められない。
でもそれでいいんだ。それでこそ京大生なんだ。
京大にしかできない役割
真面目な大学は必要だけど、他でいい。京大しかないんだ。「変でいろ!」と言えるのは。
せっかく入って来た変人を、立派な変人にしなくちゃ。勿体無い。
変人は必要だ。落ち込んでもらっちゃこまる。
みんな真面目にやるのが正しいと思ってる。それは間違いなんだ。
京大はその雰囲気を持っていた。京大が周りから隔離されていたからこそできたことなんだ。時々ノーベル賞が出るのは、他の99%がアホだからこそなんだ。
なのにアホであることの良さを認めずに、大成功にだけスポットを当てる。そんなんじゃあ大成功はもう産まれない。
京大「ジャングル化計画」
総長の山極さんが、「京大には猛獣がたくさんいるので猛獣使いになります」と言って総長になった。京大はジャングルで、秩序はあるけどルールはない。
大学は社会の中にあるけど、むしろ社会の外を見ているべき。自然界を見ているべき。そのインターフェイスになるべき。社会から受け入れられないかもしれないけど、でも実験していないといけない。
なのに「役に立て」と言われる。でも役に立つ部分だけじゃだめなんだ。
製薬会社は、大金を払ってでもジャングルの環境を保全したがったりする。それは、人間が開発できないような薬が自然界から見つかるからだ。同じように大学も、保護区であるべきなんだ。
企業と連携してもいいけど、役割分担をはっきりさせるべき。産学連携の名の下に、明日儲かる研究をしろと言って来るのはやめてくれ。それは企業側でやってくれ。大学はそういう場所じゃない。
大学はジャングルを保全しておく。餌代だけをくれ。企業はそこから何を見つけて取っていってもいい。見つけるのは企業の仕事で、能力だ。だから大成功したって、大学が請求するのは餌代分だけでいい。
変人講座、始めます。
そういうことを企業に言うと、「京大に遊びに行くなんて敷居が高いよ」と言われる。だから敷居を下げるために、外部観覧歓迎の変人講座をする。
変な奴がいないと新しいものは生まれない。変なやつを飼うことの必要性を説く。
京大生にぜひきてほしい。ここで仲間を見つけてほしい。
変人のまま胸を張って、アホなことをし続けるために。
〜イベント詳細〜
変人がいなければ、世の中は進歩しない。
変人はイノベーションの素。
変人の意義を京大が熱く語る!
プログラム:
挨拶 山極 壽一(京大総長)
真核生物大進化とオルガネラ 神川 龍馬(総合人間学部助教 生物学)
越前屋俵太(聞き手)
日時:5 月 8 日 18:30-20:00
場所:国際科学イノベーション棟 5F シンポジウムホール
どなたでもご参加いただける公開講座です。
参加費無料!ふるってご参加ください!
申し込みはこちらから!
http://www.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/henjin/
編集後記
「京大生よ、変人で良いのだ。自信を持て。でも人に褒められると思うなよ。変人は褒められない。
でもそれでいいんだ。それでこそ京大生なんだ。」
温かく強い、京大愛溢れる言葉の数々。
期待に応えられるほど、僕たちは変人で居られてるだろうか。
でも、360˚どこを向いててもいい。むしろ違ってこそ、生き残れるんだ。
その哲学に、背中を押された気分でした。
酒井先生、ありがとうございました!