ネット社会は「書き言葉」をどう変えた?批評家・大谷能生に聞く

2017/5/5 11:31 ネタりかコンテンツ部

インターネットが社会に普及して以降、文字を書く機会が圧倒的に増えました。ツイッターやLINEなど、web上のさまざまな場所で日々多くの文字が書かれています。

少し前まで「書き言葉」は、雑誌や書籍、手紙などの書面で書かれるものでした。それが誰でも気軽に書けるようになった今、私たちの言葉にはどんな変化が起きているのでしょうか。

自覚的に「書き言葉」と向き合っている批評家に話を聞きました。

 

 

大谷能生さん

批評家、音楽家。1972年生まれ。96年〜02年まで音楽批評誌「Espresso」を編集・執筆。菊地成孔との共著『憂鬱と官能を教えた学校』や、単著『貧しい音楽』『散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む』『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』など著作多数。

 

「書いた」ことが「言った」ことになっている

 

── いまのインターネットでは、誰もが書けて誰もが発信できます。こういった状況のなかで、「書き言葉」に変化は感じられますか。

書き言葉を読んでもらうためのハードルは下がったと思います。PCやスマホなど、スクリーンの量が単純に増えました。文字に限らず、視覚メディアのスクリーンを個人単位で持つようになっています。

そのせいか、書き言葉と話し言葉の区別がつかなくなっている人が増えました。「こう言っただろ!」と言われても、実は「ツイッターで書いていただけ」ということが多い。口では喋っていないことを「言った」と表現するようになったんです。

ツイッターに書き込むことを「つぶやく」というぐらいだから、話しているのと同じことだと言いたいのでしょう。だから、実際には喋っていないのに「言った」と表現する。

でも、たとえば村上春樹の『騎士団長殺し』で書いてあったからって、「村上春樹にわたしはこう言われた」とは思いませんよね。SNSに特徴的な事態ではないかと思います。

 

── いつ頃からそうなったんでしょうか。

僕が違和感を覚え始めたのはツイッターが出始めたころ。ここ10年くらいの新しい傾向と言えるのかもしれません。

意見だけなら、本に書いてあることを「●●さんが言っていたよ」というのはあったと思う。だから混合しがちになるのですが、たとえばこの部屋には注意書きが貼られていますよね。

 

 

▲壁に貼られた注意書き。このインタビューは都内の貸し会議室で行われた。

 

「ゴミはお持ち帰りください」と書いてありますが、これを読んで、「『ゴミはお持ち帰りください』と言われた」とは誰も思いません。でも、ツイッターに書かれていると「言われた」となります。これは無記名ですが、「管理人より」と署名があっても一緒だと思います。

「書き言葉」と「話し言葉」の境界が曖昧になってきているのが、現在の社会、というか、SNS上の社会なんです。

 

「書き言葉」が教えられたものだということをみんな忘れている

── それらの影響を受け、言葉が実際に変わってきたという感覚はありますか?

書き言葉は、話し言葉と違って、教育機関で教えられることではじめて覚えるものです。だから、学校での教え方が変われば変わります。たとえば、小学1年生が鉛筆で文字を書くのではなく、タブレットで文字入力をするようになったら、それだけで変わってしまうでしょうね。

話すことには、親しい人との会話は必要ですが、学校に通うような「教育」は必要ありません。でも、読み書きは、椅子に座り、ある程度の苦痛に耐えるような、「教育」を経ないとできない。親しい人と交わす、「おはよう」という言葉だって、書き方を教えられないと「文字」としては書けないわけです。

ツイッターをやっている人は、それを忘れている。字というものは、自然に書けるようになるものではありません。「授業で習わされた作業をやっている」ということを多くの人は、完全に忘れているのではないでしょうか。

 

▲大谷さんが普段使っているノート。原稿も手書きするという。

 

── 確かに、その自覚はないかもしれません。そういえば小学生のとき、ひらがなを間違えたら書き直しをさせられていました。

文字は、本来うっかりとは書けないものなんです。だって、自分の考えや感情を体から離して、文字に落とそうとしたとき、学校教育による社会的な矯正は常に入ってしまう。だから、そこに書かれていることは、本当に自分の考えそのものなのか、と疑わないといけない。経験それ自体がそもそも社会的なものだ、という議論に踏み込むと大変なので、ここではきわめて大雑把に話を進めますが、みんな「自分の言葉で書いている」と思っているかもしれませんが、そんなことは絶対ないんです。

字なんて言われなきゃ覚えられるものではない。先生や親から「できないとダメだぞ!」と叩き込まれて覚えるもの。それをなぜかみんな忘れてしまっています。文字を書くときは、学校の教室にいるつもりで書いたほうがいい。

そうすれば書き言葉で喧嘩になったりはしないはずです。まぁ、そういう体験を忘れさせる存在が、今のネットやツイッターなのかもしれませんが。

 

 

── 確かに、ネット上で喧嘩のようなことはよく起こっています。

字を書くという行為は、もうそれだけで偉そうになってしまうものなんですよね。だから、手紙の範例の文化というものが発達した。あれはもう、畏まりの見本みたいなものです。最初に「前略」などの挨拶を書かないと、相手を怒らせてしまうかもしれない、文字の暴力性に対する感受性がおもしろいかたちであらわれていますよね。

 

── なるほど。たしかに手紙の文化はマナーがしっかりしています。それらをすっ飛ばすせいで、ネットは喧嘩が絶えないのかもしれません。

もしかしたら、キーボード入力というのは「字を書く」という作業感を薄めているのかもしれません。だから、余計に書く気になるのかもしれない。ローマ字入力だし。いまはもう単語を選ぶだけだし。ほぼゲーム感覚。

そう考えると、みんなペンで文字を書けば、なんか変なこととか書かなくなるんじゃないかなぁ。

 

── ネットにはどういうものを書けば、身体に悪いものではなくなるんですかね。

どうだろう……。代わりに友達に書いてもらうとか(笑)。「好きに書いていいよ」って言って、友達に自分のアカウントを渡しちゃう。

今はやっていないけど、僕は昔、自分名義のブログを友達に勝手に書いてもらっていた。僕の日記なのに、みんなで勝手に編集する感じ。

たとえば、日記では僕が「Perfume大好きで、サマソニの最前線でサイリウム持ってイエーイってやっている人」になっていたんだけど、それはPerfumeファンの友達が書いた文章を、自分の日記に載せていたから。

うん。みんな、自分のブログとかツイッターとか、人に書いてもらうと面白くていいと思うよ。そのぐらい適当な感じで使うのがいいんじゃないでしょうか。

 

── ありがとうございました。

 

まとめ

・今の社会は「書き言葉」と「話し言葉」の区分が曖昧になってきている

・「書き言葉」は学校で教えられるものであり、自然に覚える「話し言葉」とは本来違うもの

・文字とはそもそも偉そうな印象になってしまうもの。だから、手紙には時候の挨拶などのマナーができた

・ブログやツイッターは、友達に書いてもらうと楽しいかもしれない

 

(取材・文:菊池良/ネタりかコンテンツ部)

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