[アニメ]けものフレンズ
「いくらアニメが好きだからって、あれは知能の低下を招くから見ないほうがいいかもよ」と言われた。そしてさらに、「3話までくらいがつらいんだよ。でもそれを超えたら、た、たのしぃ~」と言われた。じゃあ、見てみよう、と思った。この夏、60歳になる私。
僕らの世代には懐かしいツチノコが出てくる4話あたりで、おやっと思った。というか、いろいろこの物語には伏線が仕組まれていてしかも脚本が緻密に出来ている。というわけで、つらみちほうを過ぎて、知能の低下も気づかずにいたのかもしれないが、私の脳内では、イザヤ書の聖句が鳴り響いていた。
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
いやこれこそが知能の低下というか、青春への退行というべきなのか。続く。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。
これって、けものフレンズの世界そのものじゃね? いやもってまわった冗談を言っているのではなく、この低能っぽく見えるアニメの作者に旧約聖書に詳しい人がいるんじゃねーのと思った。まあ、な、わけないよなとも思ったが。
この作品の自分にとっての魅力というのはなんだろうと真面目に考えてみると、アニメとしての面白さに加えて、きちんと、吉本隆明が『共同幻想論』などで言う異界という感覚を上手に取り出し、それにやはりイザヤ書的な終末の予感を交えている点にあるだろう。そしてこの点は、かばんちゃんの実質的な中性性にも関連しているように思う。まあしかし、もちろん、こうしたことがこの作品の評価に関わるということではまるでないが。
作品トリックとして気になったのは、かばんちゃんの由来よりも、サーバル(野中藍)とミライとの関係だった。ゲーム版との関連から生まれたものだろうが、ミライとサーバルには過去の経緯があるのにサーバル(尾崎由香)はなぜそれを忘れていたのだろうか? これもネットのどこかに推理があるのかもしれないが、シーズン2の伏線だろうか。
| 固定リンク
「アニメ」カテゴリの記事
- [アニメ]けものフレンズ(2017.05.05)
コメント