マクロン氏の計算された立身、仏大統領も目前に

マクロン氏の計算された立身、仏大統領も目前に

  • WSJ日本版
  • 更新日:2017/05/03
No image
No image

仏大統領選第1回投票が行われた4月23日、投票所を後にするマクロン候補

【パリ】金融危機のさなか、ロスチャイルド・グループの投資銀行であるフランスのロチルド銀行は、新たに採用したエマニュエル・マクロン氏の教育係として経験豊富なバンカーの一人を指名した。

マクロン氏は金融業界での経験は皆無だった。その代わり、社交界への出入りが自由で、事業拡大に貢献できる人物として、自身を同行に推薦した複数の強力なメンター(指導者)に恵まれていた。

当時のマクロン氏の教育係は「彼は豊かな人脈を持つ非凡な人材と認識されていた」と振り返る。4年後のロチルド退職までに数十億ドル規模の交渉を任されるようになったほか、同行で最も若くしてパートナーに昇格した一人になった。

同氏の投資銀行でのキャリアを組み立てたプレーブック(戦略)がいまや政治秩序をひっくり返し、5月7日の決選投票を前に、フランス大統領の地位を手の届く範囲に引き寄せた。マクロン氏は地位の高い人々と交友関係を築き、それを推進力として社会の上位層への階段を駆け上がった。その過程でピアノから哲学、演劇、金融まで幅広い分野の知識と技能を身につけ、それが次のメンターに気に入られるのに役立った。

おかげでマクロン氏は政治家のおきまりのコースではなく近道をすることができた。地元で公職に立候補し、じわじわ支持基盤を広げる代わりに、一直線にパリに向かい、そこで金融知識を身につけ、欧州のテクノクラシー(専門知識を持つ官僚による行政運営)に精通するようになった。同氏はフランスの膨大な労働法規や欧州単一市場の規制といった極めて難解なルールを熟知することで、欧州連合(EU)の複雑さと不安定なグローバル市場に打ちのめされる政治家にとって有能な側近となった。

こうして今や、フランスの未来やEUの相当な部分が、今年に入るまで世界でほとんど無名だった39歳の中道系独立候補の手に委ねられる可能性が出てきた。対立候補で極右・国民戦線(FN)のマリーヌ・ルペン氏とは、欧州でのフランスの立ち位置を巡って論争を繰り広げている。両者の対立は国内の政治情勢を一変させ、主流派候補や従来のような右派と左派の対決という構図をどこかに吹き飛ばしてしまった。

反極右でまとまる主流派政党は、マクロン氏の下に結束するよう支持者に呼びかけている。ルペン氏はEUの単一通貨ユーロからの離脱を訴えている。

一方、マクロン氏が勝利すれば、EUを積極的に支持する指導者の下に欧州2位の経済大国が統治されることになる。同氏はまた、欧州防衛司令部の設立や国境警備隊の創設、国内の労働規制緩和、給与税減税、公務員の12万人削減などを目指すことになる。

マクロン氏は政治的には現実主義者であり、「アウトサイダー」を自認してきた。銀行時代の同僚には「音楽家」という印象を持たれ、親欧州派候補として大統領選に出馬するまでは社会党政権内で「資本主義者」とみなされてきた。

同氏との2年にわたるインタビュー、また選挙陣営の側近や政府関係者、友人らへの取材を通して見えてきたのは、早くから高い地位に照準を合わせ、目標のためにあえて慣例を破ってきた男の実像だ。だがその志を貫くうちに自身を政府の要職に取り立てた、あるメンターとの意見の隔たりが決定的となった。フランソワ・オランド大統領だ。

多彩な経歴

仏北部アミアンの医師の家に生まれたマクロン氏は高校時代に教師で演劇部顧問のブリジットさんと出会う。地元の有名チョコレートメーカーを経営する一族の出身者で、20歳余り年上のブリジットさんとマクロン氏は後に結婚することになる。

両親はマクロン氏をパリの名門高校に転校させたが、2人の交際は続いたという。卒業後、大学では哲学を学び、現代フランスを代表する哲学者の一人であるポール・リクール氏の助手となった。さらにフランスのエリート養成機関である国立行政学院に進学した。

優秀な成績で卒業後、マクロン氏はエスタブリッシュメント(支配階級)への登竜門とされる財務監察院に籍を置いた。ここの出身者は影響力のある人物が多く、マクロン氏は積極的に知り合いを増やしていった。

マクロン氏は同院の出身者の紹介で、政財界にパイプがある投資銀行のロチルドに就職した。当時の教育係は同氏が単に仕事を覚える以上のことを目指し、「骨身を惜しまぬ」学習意欲だったと語る。そこで複雑な演算や金融モデリングの特訓コースをあてがわれたが、これが後に手がけるM&A(企業の合併・買収)に役立った。またピアノの腕前は「芸術家になれるほどの」レベルだったという。

財務監察院に在籍中、マクロン氏が関わった経済界の有力組織のメンバーに食品大手ネスレのピーター・ブラベックレッツマット会長がいた。その後、マクロン氏は定期的に同会長と会うようになり、製薬大手ファイザー傘下のベビーフード会社を買収すべきだと提案した。

同業の仏ダノンとの買収合戦に発展した際、マクロン氏はネスレが118億ドルでこの会社を買収する契約を即座にまとめたという。すでにロチルドのパートナーだったマクロン氏は、この買収成立で一財産をなし、助言を求めたい存在として政界からも一目置かれるようになった。

当時ニコラス・サルコジ大統領に対抗する野党候補だった社会党のオランド氏もその一人。オランド氏はマクロン氏を側近に迎え、高額所得者に税率75%を課す自身の政策について投資家や企業経営者の説得に当たらせた。

2012年に仏大統領に選出されたオランド氏はマクロン氏をエリゼ宮(大統領府)に呼び、首席補佐官代行に任命した。新たな税制案を理由に企業がフランスを離れる姿勢を見せた際、マクロン氏は大統領にメールを送り、フランスを「太陽のないキューバ」に変える危険があると警告した。

それでオランド氏は折れた。異論の多かった増税案を縮小し、法人税の一部を軽減した。この政策転換により、不満を抱いていた社会党内の自由市場派の間でマクロン氏の評判が高まった。

その一人が上院議員でリヨン市長のジェラール・コロン氏だった。「私はオランド氏の政策に相当いらだちを感じていた。(マクロン氏が)私や一部の議員と食事をともにし、事態の沈静化に一役買った」とコロン氏は語る。

マクロン氏が介入した案件が他にもある。左派のアルノー・モントブール経済相は米ゼネラル・エレクトリック(GE)による仏重電大手アルストムのタービン事業買収に待ったをかけた。しかしマクロン氏が仲裁に入り、GEが170億ドルで同事業を買収することが決まった。

オランド氏との決別

順風満帆に見えたマクロン氏は14年夏、起業を理由に突如オランド大統領の側近を辞任する。オランド氏はマクロン氏のために盛大な送別会を催した。乾杯の挨拶では外国を訪問するたびに「ほう!あなたはエマニュエル・マクロンの同僚なのですね」と言われると冗談を飛ばした。

マクロン氏は反対に真面目なスピーチを行い、集まった政治家にフランスを改革せよと訴えた。

数週間後、オランド氏は政権の緊縮財政路線に反対を唱えていたモントブール経済相を更迭し、後任としてマクロン氏の就任を打診した。

マクロン氏は即答せず、経済を改革する権限を与えるよう求めた。

「君を呼ぶのは改革のためだ」とオランド氏は答えた。

マクロン氏は就任4日目、当時ドイツの経済相兼副首相だったジグマール・ガブリエル氏を招き、パリで非公式に会食した。両者はマクロン氏が構想するEU再生のためのグランドバーゲン(壮大な取引)のたたき台となる専門家の報告書をまとめることで合意した。すなわち、ドイツは経済を刺激するために歳出を増やし、フランスは手厚い労働者保護を削減することで欧州に範を示すのだ。

「私は当初から欧州版ニューディール政策を提案していた。改革を進めつつ、欧州に投資拡大を促す」。昨年、大統領選への出馬表明の直前、マクロン氏はインタビューでこう語った。

経済相としてマクロン氏は雇用・解雇の手続きを簡略化し、官僚主義を改め、商店の日曜営業を拡大するなどの改革を盛り込んだ法案を作成した。この通称「マクロン法」は賛否両論を巻き起こし、労働組合による大規模な抗議デモも発生した。

議会を通過しないことを恐れたオランド大統領は、雇用・解雇の規制緩和に関する重要な部分を法案から削除したうえ、採決にかけない異例の形で成立させた。

これがやがてマクロン氏が反乱する種となった。2015年初めの法案成立当日、マクロン氏はウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)とのインタビューで、大統領への野望を抱いたことがあるかとの質問に対し、「ノー」としつつも「ただ、何かをすると決断したときは、最善の方法を選ぶだろう」と答えた。

こんな冗談も言った。「あるいは国王になるか。私は政治体制を変えたい」

マクロン氏はその後もオランド大統領に大胆な経済改革を促し、ドイツなどの財政支出拡大を訴える書簡などを送ったが、なしのつぶてだった。

オランド氏としては支持率が史上最低水準に落ち込み、再選の見込みが遠のく中、抗議デモの再燃だけは避けたい事情があった。

この経緯がマクロン氏の大統領選出馬への最後の一押しになったと社会党のベテラン政治家、リシャール・フェラン氏は振り返る。

マクロン氏はその後の数カ月、社会党の重鎮であるフェラン氏やコロン氏と連携し、立候補の可能性を探り始めた。既成政党の後ろ盾がないマクロン氏は、ビジネス界で築いた人脈を最大に生かす必要があった。それは政界では異例の手段をとることを意味した。

マクロン氏は昨年春、政治運動組織「アン・マルシェ(前進)」を立ち上げた。これはオランド氏にとって再選の可能性を断ち切る致命傷となった。

昨年8月30日、テレビカメラが見守る中、マクロン氏は経済省の建物に横づけされた川舟に乗り込み、セーヌ川を下った。エリゼ宮に辞表を出しに行くためだった。

この記事をお届けした
グノシーの最新ニュース情報を、

でも最新ニュース情報をお届けしています。

国外総合カテゴリの人気記事

グノシーで話題の記事を読もう!
米家族、デルタ航空便から強制降機 子どもの席譲らず
米大統領、初外遊で中東訪問=24日にローマ法王と会談
歴史の常識を覆すかもしれない、謎めいた10の発見
全身まっしろな「アルビノのオランウータン」がインドネシアで保護される
米海兵隊「砂漠のカメ」作戦って何だ?「1100匹を移送せよ!」
  • このエントリーをはてなブックマークに追加