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ぐだぐだわーくす

意識低い系目標を掲げて達成をもくろむBLOG

心に生み出された藁人形が生身の人間に戻ることはあるのだろうか?

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こんにちは!DACです。

今回もまた言及です。

元ネタは以下

hyogokurumi.hatenablog.com

ネット上の情報の出力に対して受容のされ方が大きく変わっているという話だ。

自分なりの受け取り

非常に長いテキストとなっているため、エントリの趣旨を読み取れない人が一定数以上出ているようだ。まさにそれこそが受容のされ方が変わっている生きた証拠なのだが自覚が無い。

感想型と対応型

とりあえず自分なりの解釈で以下のhyogokurumiさんの定めた型の類型を言い換えてみよう。

対応型からみれば、感想型は相手の言葉をよく読まず、好き勝手に意見を述べているような存在だ。チェスや将棋をしているように文章を認識し、盤上の駒の状況、つまり書かれている文章一文一文に対応できる言葉を考えてから書き込んでいる、それはお互いの為なのに、相手はその「ルール」を無視してくるのである。

対して感想型からみれば、対応型は自分が書いたことに細かく絡んで、重箱の隅をつついてくるような存在だろう。いちいち疑うように聞き返してくる、空気が読めていない相手、まるで悪者扱い、なんでそんなこと気にするのか、どうでもいいじゃないか、話が進まないじゃないか、と。

BBS世代とSNS世代の違いから考察する言語認識の根本的違い――ネットに向かって喋る人たち - HyogoKurumi.Scribble

感想型の観点は、まず自分ありきなのだ。自分が認知する範囲、理解したことを絶対視しがちだ。これまでの経験や学習から得た自分の中のリソースを使って、この内容はこういうものだという断片的で断定的な切り取り方をする。人である以上認知の範囲が限定されるのは当然ではあるが、問題はその埒外にあるものがあり得るという猶予が無いか極めて乏しい。

対応型の観点は、勿論まず自分ありきではあるのだが、それと同等以上に自分の認知の埒外があることを覚悟している。むしろ、埒外があって然るべきであるという姿勢を取る。そのために極力自らの出力に穴が無いように心がける。どれだけ言葉を尽くしても埒外は無くなることはあり得ないが、最低限伝達を期待できる論理構成を組もうとする*1

何故齟齬が起こるか?

対応型は一旦出力し手放した後に期待するのは、ある程度前提を共有したうえでの議論や擦り合わせを期待するが、感想型にはその前提が成り立たない。

対応型が丹精込めて積み上げた論理構成も、感想型の手に掛かれば表現の一端を取り上げて自分の中で妄想とすら言える感想を組み上げ批判に転しられてしまう。むしろ構成が緻密であればあるほど、妄想を阻害する悪意、または酷薄さであると誤認される可能性が高い。

論理構成に重きを置く対応型からすれば、この無敵の人達の存在*2を初めて知った際愕然とするのは当然だろう。

蛇足ではあるが

これはブログの作り方指南にも反映されている。200-300文字程度ごとに挿絵や図表を挿入することが望ましいとされる。

曰く初見の閲覧者は文字を読まず即効的に咀嚼可能な要素で読み進めるか否かを決定づけるためとのことだ。これは感情型が即座に判断を下すのと同じ原理だろう。既に一見した段階で閲覧者は受け取るべき内容を既に自らの中に固定化しており、その補足として文章を求める。

非常に効率的である一方、自らの誤認識や選定眼自体への疑いを持たない時点で捨象する対象が必要以上に多くなる。

藁人形戦法と全く同じ所作

こう並べてみれば分かると思うが、感想型の感想には元々のエントリで出力された内容がほぼ含まれていない。一旦、感想に転じた際で理解は終わっている。その理解には可塑性は最早無い。何故なら、少しでも譲歩する部分を認めてしまえば、感想の論拠を失い、ひいては自らの生き方を否定されるとすら考えるからだ。

対応型から見れば、その姿勢があまりにピーキーで危ういものに見える筈だ。しかし、そういった受け取り方が一定数纏まって存在する以上、その受け取り方に基づく固定的な対処は適切とは言えない。

非常に人聞きの悪い表現であるが、感情型は藁人形戦法と全く同じ所作なのである。彼らが批判したり、恐れ憎悪するのは、元エントリで出力されている内容ではない。そうかといって「それは書いていない」と主張し修正を要求する元エントリ筆者の思考ありようでもない。

ただただ自分の中に生み出した藁人形に対し語りかけている。元エントリも元エントリ筆者も藁人形を具現化させるための依り代に堕している。

まともに対話する対象と認められていないならば、この関係性においては必然的に幾千幾万の言を費やそうとも空しいばかりということになるだろう。

どうすればよいのか?

一番簡単なのは対話の成立から最低限の相互理解を生み出すというプロセスを諦めることだ。

先にも書いたが、自らの存在をかけて飛び込んでくる相手を対処するのは相応の負荷がかかる。そのしちめんどくさい尻拭いを全て抜け漏れなく負うことにどれだけの価値を分析型が認めるかどうか?

はっきり言って割に合わないと自分は思う。いや、それ以前に神ならぬ身にその偉業が実行できるのかとすら思う。

筋金入りの対応型としては

しかし、諦めてネットの断片化に身を任したり、状況に適応できないことに危惧を覚えて対処するというのもあるだろう。そのためhyogokurumiさんはこう結んでいる。

つまり、無自覚の内に意思疎通を含む物事の認識がこの「対応型」感覚になっていたとしたら、その人は今の時代でいうコミュ障タイプに属するのではないだろうか……ということだ。先日書いた記事の「あぶり出し型脳」タイプとも接点があるように思えてならない。対応型脳につきものである"対応の仕方の検討"は、まさにあぶり出しのような性質ともいえるのではないだろうか。

BBS世代とSNS世代の違いから考察する言語認識の根本的違い――ネットに向かって喋る人たち - HyogoKurumi.Scribble

これこそ正に対応型の思考と言える。これは譲歩ではなく、状況に不適合を起こしているという仮説を元に言動に変容を起こそうとしている

なんちゃって対応型としては

正直自分のようなナマケモノにはそのような変容は難しい話なのだけれど、断片化したままというのもつまらないよなあ…と日々思うところだ。

別に開拓者としてね名誉が欲しい訳でも無し、hyogokurumiさんの試行錯誤を眺めつつ美味しいところを吸い出せないかと愚考するのがせいぜい身の程にあっている*3

*1:対応型という言葉も実は微妙で適応型の主要な類型のことだと思う

*2:半端に古参の人はモヒカンを例に挙げるが、あれもまだ物分かりは良い方だ。fjに遡れば学究型の洒落にならない既知が群れを成していた

*3:ゲス顔(*'ω'*)で