2016年12月09日
『この世界の片隅に』の受け入れがたさ
映画『この世界の片隅に』を大阪・梅田で見た。
劇場は満員で年齢層はやや高かった。上映中、周囲からはすすり泣く声が聞こえ、エンドロールでは拍手まで起こった(私はしなかったが)。本作がたいへん優れた作品であることは理解できる。しかし、あくまで個人的に趣味判断のレベルで評価するか?と問われれば、私は否定的にならざるをえない。自分が作品世界に全く入っていけず、あれだけほんわかしたムードでありながら、作品は私を固く拒んだ。みんなが褒めるものだから、自分は『この世界の片隅に』の嫌なところばかり目についてしまう。
私にとって『この世界の片隅に』は受け入れがたい映画であった。一言で言えば「男がいない」映画だということだ。とりわけヒロインの夫、海軍勤務の文官・北條周作の影が極めて薄い。インテリである彼は当時の高等教育の教養と仕事による戦況に関する情報を持っているだろうに。そうした話題は出てこない。妻との間でもそうした話はしない。妻をまともなパートナーとして扱っていないということだ。
また周作はクロソウスキー流「歓待の掟」の実践者でもある(当時は死地へ向かう男に対して、そうしたことがあったらしい)。本作品の肯定論者はここをスルーしてるのはなぜだろうか?
『この世界の片隅に』の3P(未遂)エピソードは、ホモソーシャル共同体の倫理とヒロインのカマトト振りの圧縮されたものなので実に不誠実だと思う。あれは隠蔽記憶のようなものであって真実ではない。『この世界の片隅に』の「歓待の掟」(未遂)エピソードを精神分析家が分析主体から聞かされたとしたら、単に「抑圧がかかってるな(ありのままの事実を語っていない)」と思うだけだ。
『この世界の片隅に』は小林秀雄流に「(国民は)黙って事変に処した」という映画ではないだろうか? だから一部で反戦がなくてよいとか言われる。つまり国民は政治や社会の問題など考えずに日々の生活のことだけ考えていればよい、という抑圧者の言説に迎合した映画のようにも見えてくるのだ。確かに玉音放送を聞いた後のヒロインが怒りを露わにするシーンはあるのだが、それではあまりにも遅すぎるのである。
加藤周一は求めれば戦況を知ることはできたという、中井久夫少年は大本営発表の敵艦撃沈数をカウントしてジェーン年鑑と照合して嘘が分かっていたという。
また大橋巨泉の父親は市電の中で「戦況が悪い」と口にしたばっかりに憲兵に連れて行かれ、ひどく殴打されて家に戻ってきたという。そういうエピソードは全くない(映画内の憲兵に関する挿話は甘すぎるファンタジーである)。本作には抵抗の思想がないのだ。
ところで昨今の日本の政治状況は将棋でいうところの「詰み」ではないだろうか? ポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎてしまったのではなかろうか?
そう考えると『この世界の片隅に』がヒットしたのは、「すでに戦争は不可避」という前提で「一般庶民がいかに時局に耐えうるか」というところに(無意識の)関心が移動してしまっているから、ということになる。換言すれば、映画『この世界の片隅に』のヒットが示しているのは、日本国民の現在の政治状況がすでに抵抗モードから忍従モードへ移行している、ということではないだろうか。中国との戦争も含めて15年戦争などというけれども、一般国民が「ヤバい」と気づいたのはサイパンが落ち本土空襲が本格化する最後の一年くらいではないだろうか? 逆に言えばそれまでは平気だったのだ。今、多くの人々はまだ平気でいる。
追記:あれほどゆるふわで周囲の流れに流されやすい性格のヒロインであれば、戦争初期の日本軍が破竹の進撃をしていた頃、南京やシンガポールの陥落時には提灯行列に参加していたとしても何ら不思議ではない。
関連記事:★安倍晋三は何故「三丁目の夕日」が好きか?
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私にとって『この世界の片隅に』は受け入れがたい映画であった。一言で言えば「男がいない」映画だということだ。とりわけヒロインの夫、海軍勤務の文官・北條周作の影が極めて薄い。インテリである彼は当時の高等教育の教養と仕事による戦況に関する情報を持っているだろうに。そうした話題は出てこない。妻との間でもそうした話はしない。妻をまともなパートナーとして扱っていないということだ。
また周作はクロソウスキー流「歓待の掟」の実践者でもある(当時は死地へ向かう男に対して、そうしたことがあったらしい)。本作品の肯定論者はここをスルーしてるのはなぜだろうか?
『この世界の片隅に』の3P(未遂)エピソードは、ホモソーシャル共同体の倫理とヒロインのカマトト振りの圧縮されたものなので実に不誠実だと思う。あれは隠蔽記憶のようなものであって真実ではない。『この世界の片隅に』の「歓待の掟」(未遂)エピソードを精神分析家が分析主体から聞かされたとしたら、単に「抑圧がかかってるな(ありのままの事実を語っていない)」と思うだけだ。
『この世界の片隅に』は小林秀雄流に「(国民は)黙って事変に処した」という映画ではないだろうか? だから一部で反戦がなくてよいとか言われる。つまり国民は政治や社会の問題など考えずに日々の生活のことだけ考えていればよい、という抑圧者の言説に迎合した映画のようにも見えてくるのだ。確かに玉音放送を聞いた後のヒロインが怒りを露わにするシーンはあるのだが、それではあまりにも遅すぎるのである。
加藤周一は求めれば戦況を知ることはできたという、中井久夫少年は大本営発表の敵艦撃沈数をカウントしてジェーン年鑑と照合して嘘が分かっていたという。
また大橋巨泉の父親は市電の中で「戦況が悪い」と口にしたばっかりに憲兵に連れて行かれ、ひどく殴打されて家に戻ってきたという。そういうエピソードは全くない(映画内の憲兵に関する挿話は甘すぎるファンタジーである)。本作には抵抗の思想がないのだ。
ところで昨今の日本の政治状況は将棋でいうところの「詰み」ではないだろうか? ポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎてしまったのではなかろうか?
そう考えると『この世界の片隅に』がヒットしたのは、「すでに戦争は不可避」という前提で「一般庶民がいかに時局に耐えうるか」というところに(無意識の)関心が移動してしまっているから、ということになる。換言すれば、映画『この世界の片隅に』のヒットが示しているのは、日本国民の現在の政治状況がすでに抵抗モードから忍従モードへ移行している、ということではないだろうか。中国との戦争も含めて15年戦争などというけれども、一般国民が「ヤバい」と気づいたのはサイパンが落ち本土空襲が本格化する最後の一年くらいではないだろうか? 逆に言えばそれまでは平気だったのだ。今、多くの人々はまだ平気でいる。
追記:あれほどゆるふわで周囲の流れに流されやすい性格のヒロインであれば、戦争初期の日本軍が破竹の進撃をしていた頃、南京やシンガポールの陥落時には提灯行列に参加していたとしても何ら不思議ではない。
志紀島 啓@kay_shixima
『この世界の片隅に』のメッセージとは、
2017/01/16 21:09:45
歯向かうな、不満も言うな、ただ耐えろ。
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kay_shixima at 20:00││映画・ドラマ・芝居etc