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【社会】「遊戯道路」をもう一度 子どもに声を掛け 大人も打ち解け
車の通行を一時規制して、道を子どもの遊び場にする「遊戯(ゆうぎ)道路」。交通事故が激増した一九六〇年代に制度が始まり、東京都内では八百四十一カ所残る。公園整備などに伴い年々廃止されてきたが、地域の交流の空間として見直し、再活用を探る動きが出てきた。 (柏崎智子、藤川大樹) 「この道路は子どもの遊び場です 車はご遠慮下さい」。住宅街の路上に立つ大きな看板の近くで、ランニングシャツ姿の子どもたちが自転車で遊ぶ。七一年八月の大田区報に載った遊戯道路の写真だ。 大田区では遊戯道路の制度がスタートすると熱心に活用し、二百カ所以上に設けた。しかし、二十年ほど前、一部を除いて廃止。当時の担当者は「公園の整備が進み、必要がなくなった」と振り返る。通行止め看板を管理する住民の高齢化も一因という。 警視庁によると、都内の遊戯道路のピークは八一年の千八百六十四カ所。年々減少し、この三十五年ほどで千カ所以上が消えた。さらに、書類上は残っていても、車を止める看板を出さないところも多い。 地域交流の場として活用を求めているのは、一般社団法人「TOKYO PLAY」(渋谷区)。二〇一四年から関東地方や東日本大震災の被災地で、遊戯道路とは別に、一時的に道路を使う許可を得て、子どもが路上で遊ぶ場を実験的に生み出してきた。 見えたのは、子どもと大人が声を掛け合い、大人同士も打ち解ける姿。嶋村仁志代表理事は、孤立化が進み、子どもの声が騒音とされる時代だからこそ「遊戯道路の一割でも活動を再開すれば、子どもと地域の関係は変わる」と訴える。 一九八〇年代前半に大田区の遊戯道路を調査した木下勇・千葉大大学院教授(こども環境学会理事)も「当時も餅つきなどのイベントが競うように催され、沿道のコミュニケーションが良くなる効果が出ていた。新しい地域政策として見直していい」と指摘する。 警察への取材では首都圏で遊戯道路は埼玉、茨城にも各十五カ所残るが、栃木、群馬、千葉、神奈川では残存数が確認できなかった。 <遊戯道路> 子どもの遊びを目的に、曜日や時間帯を決めて、車を通行止めにできるようにした道路。住民の要望に基づき、都道府県公安委員会が指定する。1969年の警察庁の通達で制度化された。戦後、交通事故死が急増したのがきっかけ。当時は公園も少なく、路地は子どもたちの格好の遊び場だったが、危険にさらされていた。 PR情報
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