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昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】

天王寺駅の謎

 

好奇心のアンテナを限度いっぱいに広げとると、身近な場所や物でもさりげなく「???」と思う謎があったりします。

そして、それそれを掘り下げてみると、意外なものが見つかったりすることがあります。

 

例えば、大阪にあるJR阪和線天王寺駅

 

阪和線天王寺駅は、他のJRの路線とは少し離れた所に位置しています。

そもそも、

「同じJRなのに他の路線とホームが違うの?」

という疑問を持たれてもおかしくないですが、その答えは簡単。
ここは元々阪和電気鉄道(以下阪和電鉄)のターミナル駅として作られたもので、当時は私鉄なので別でした。もちろん、当時は駅舎も違いました。

今でも私鉄のターミナル駅のような、終端式のホームが私鉄時代の面影を残しています。

 


ここのホームには、気付くことはほとんどない、ちょっとした謎が隠されています。

 

天王寺駅7-8番線ホーム

 

これは、7~8番ホーム。

 

天王寺駅5-6番線ホーム

 

これは今は降車専用になっている5~6番ホームです。
カメラマンの腕が悪いせいでわかりにくいですが、この2つのホームを比べてみたら、なんだか変なんです。

 

そう、7~8番ホームと比べて5~6番ホームの幅が異様に広いということ。
これは、毎日この駅を使っている人でも意識しません。逆に、毎日使ってるからこそ気付かない、このアンバランスさは何か。

 

そしてもう一点。

 

天王寺駅7番線ホームの線路が曲がっている

 

これは7番ホームから和歌山の方向を写したものですが、途中でレールがグニャッと不自然に曲がっています。
まっすぐにした方が効率が良いのに、何でわざわざこんな非効率な曲がり方しとるんやろ?

こう書くとなんか不思議に思いません?
俺はごっつい不思議に思うんですけどね(笑


で、思ったことは、

 

「こんな非効率な曲がり方には、何らかの理由があるに違いない!」

 

という謎。
そこで、名づけて天王寺駅の怪」を解明すべく、GWのヒマつぶしに調査することにしました。

 

 

伝説の私鉄、阪和電気鉄道

本題に入る前に、阪和線の前身、阪和電鉄のことを説明しないといけません。

 

JR阪和線は大阪の天王寺駅和歌山駅とを結ぶ路線で、今は関西空港へのアクセスラインとしても知られとります。


しかし、ここが元々は私鉄だったことは知っていても、京阪電鉄の系列だったって知る人は、毎日通勤通学で使っとる人でも知っている人は少ないと思います。
今は「おけいはん」って名前で知られている京阪電鉄ですが、戦前は相当羽振りがよかったらしく、当時の鉄道省や政党にもコネがあって政治力は関西最強の私鉄でした。

今の阪急京都線も元々は「新おけいはん」ならぬ「新京阪電鉄」でした。


その代わり、大阪最強、私鉄にとっては「最凶」の交通機関、大阪市交通局にかなりいじめられとったことも確かでした。

 

昔の大阪市は、「市営モンロー主義」のもとやり口は今の中国そのもの。

「俺の庭(市内中心部)には鉄道のレール一本入れさせぬ!」

と私鉄の都心部進出をさんざん邪魔しておきながら、

「あんたの庭に地下鉄通すね♪あ、文句は一切認めないから」

と自分のやることは完全棚上げで「領土侵攻」してくる、日本一の自己チュー行政機関でした。「独裁者がいない暴君」に近い。

 

よって、私鉄とも一部を除いて極めて仲が悪く、公権力パワハラを食らった京阪や南海は、今でも恨んでるようなフシがあります。

国鉄にもケンカを売った過去もあって、JRとの関係も悪くはないけど良くもない。

 

私鉄と組んだ大阪府とも犬猿の仲(私鉄と大阪府はめちゃ仲が良い)。大阪以外の人が思う以上に、府と市はめちゃくちゃ仲が悪いのです。

東京(関東)と比べて大阪はなんで鉄道どうしの連携が悪いの?という理由は、半分以上ここにあります。

そう、「あの人」が出て来るまでは・・・。

 

戦前であれば、大阪市>>>>大阪府の力関係なので文句が言えなかったのですが、戦後に大阪市<<<<大阪府と力関係が逆転。しかし、市はその時代の流れを読まなかったか、相変わらず「暴君」のままでした。

その100年以上の傲慢さが、結果的に「あの人」を爆誕させることになりました。

 

 

「あの人」とは、そう、全国の皆様にご迷惑をおかけ・・・いや、話題を振りまいた橋下徹大阪府知事・市長と維新の会、そして「大阪都構想」です。

 

 もし、

「『大阪都構想』を簡潔に答えよ」

というテスト問題があったなら、

「自分のことしか考えず都市計画したツケ、がん首そろえて精算してもらいまひょか!その気なかったら、大阪市潰すね!」

と府が市に「1世紀分の請求書」を突きつけたようなもの、と私なら答えます。

 

閑話休題。本題に戻ります。

 

 

阪和電気鉄道阪和天王寺駅1939年

 

昭和14年(1939)頃と言われている、阪和電気鉄道時代の天王寺駅です。しれっとWikipediaにも掲載されている写真ですが、私鉄時代を語る貴重な写真でもあります。
当時は、「阪和天王寺」と言う名前で、阿倍野橋北詰交差点(今の天王寺駅前交差点)の東南角にありました。
駅の看板にある広告から、たぶん秋頃の写真だと推定できます。

 

現在(平成29年)の天王寺駅

 

交差点の東南角にあったという記述を元にして、平成29年(2017)の現在の姿をたぶん同じような角度で撮ったら、こんな感じになりました。

当時の面影なんてま~~ったくございません。というか看板がごちゃごちゃしすぎて写真撮られへん(笑

 

阪和電鉄のエヴァンゲリオン

しかし、私鉄時代の駅の写真をフォトショップで解析したりしていると、看板広告のバラエティの豊かさに驚きます。

 

1939年阪和天王寺駅超特急の看板

 

まず挙げたいのが、阪和電鉄の名物列車であった

「超特急」

の看板です。

赤い四角で囲んだ部分には、

「ワカ山マデ超急四十五分」

と書かれています。関西の私鉄のターミナル駅には当たり前のよーにあった、看板列車の宣伝です。

「超特急」が「超急」と略されて呼ばれていたことも、この看板からわかります。それが市民権を得てたかどうかは別として。


阪和電鉄は私鉄としては非常に短命でした。なのでそのまま忘れ去られて歴史のゴミの山に埋もれたままもおかしくないのですが、この「超特急」の存在が阪和電気鉄道の名前を、知る人ぞ知る的な存在たらしめています。


「超特急」ってネーミングだけでもインパクト強烈ですが、もっと強烈だったのはその速度でした。
和歌山まで45分というと、同じ区間をJRの特急「くろしお」が今は最短40分くらいで走っているので、何のことはないと思われがちです。

でも、それは今の常識と列車の性能での話であって、当時はまさに弾丸列車。エヴァンゲリオン初号機顔負けの暴走列車でした。


半分伝説扱いなものの、最高で130km/h以上出していたと言われています。

当時の常識の130km/h言うと新幹線並みで、東海道新幹線も最初は最高時速210km/hスタートでした。

天王寺~東和歌山(今の和歌山)間の表定速度81.6km/hは、戦前のぶっちぎり最高記録。この記録は26年間破られることはありませんでした。

「超特急」に使われた列車も、並の車両が130km/hなど出したらモーターが焼けて空中分解するので、一私鉄にしてはスペックオーバーな、超高性能電車を導入していました。


その「天王寺-和歌山45分」がどれだけすごかったかというと、「超特急」が人々の記憶から消え去った後、45分の数字を戻すのに27年、45分を抜くのには40年、国鉄がJRになる寸前までかかっています。

これだけで、「45分」が化け物的数字なことがわかることでしょう。

 

しかしこれ、思い切り「電車のスピード違反」だったのです。

電車にもちゃんと制限速度があって、当時の法律では確か90km/hか95km/h以上出してはいけないことになっていました。当時の省鉄(今のJR)の看板超特急、『燕』の最高速度がこれくらいだったはず。

しかし、実際はそんなのお構いなし。特に関西の私鉄はみんなガン無視でした(笑

阪和電鉄も国から何度か注意を受けたそうですが、昭和14年の「電力飢饉」(渇水水力発電所がストップし、石油・石炭の統制で火力発電所が動かなくなったことによる電気不足)で少しスピードダウンしておとなしくなったものの、危機が去った半年後、45分に戻しているので、全く無視していたことがわかります。

 

ちなみに、今の阪和線は、鳳駅より南なら快速でさえ110km/hくらいふつうに出しています。

 

この「超特急」は、登場後数年で消えたとネットで書いたり、YouTubeでアップしている人が一部にいます

ここで訂正します。ガセです。

阪和電気鉄道は、昭和15年にライバル南海鉄道に吸収合併されるのですが、南海になった後も超特急は存在し、所要時間も45分を保っています。

 

「超特急」がいつなくなったのかは、南海側にも記録が残っておらず謎のままです。

昭和16年4月、南海発行の時刻表には載っていたのに、7月の全国時刻表には「超特急」の記載がなくなっているので、おそらくこの時だろうと推定できます。Wikipediaでは同年12月1日をもって「命日」としていますが、私は資料を分析した結果として、7月説を採ります。5ヶ月の差なんて、ほぼ誤差の範囲やけど(笑

資料を丹念に調べていったら、「超特急は少なくても昭和16年まで走っており、阪和間45を保っていた」ことは図書館に数時間篭ったらわかることです。書くのはいいけど、ちゃんと裏取ってから書かんかい。

 

 


おっと、愚痴はおいといて、看板の話に戻ります。

 

阪和天王寺駅の阪和電気鉄道時代の砂川遊園の看板広告

 

今の和泉砂川駅近くにあったという幻の遊園地、「砂川遊園」の広告です。

これについては、昭和考古学的ネタとして面白いので、改めて別記事にして書こうかと思います。

 

阪和電気鉄道阪和天王寺駅の魚釣りの看板広告

 

今でも太公望の皆さんにゃお馴染みの南紀方面の魚釣りや、

 

阪和電気鉄道阪和天王寺駅のみかん狩りの看板広告

 

みかん狩りの案内など、バラエティ豊富です。

 

 

 

南紀直通列車、「黒潮号」

 

阪和電気鉄道阪和天王寺駅の白浜温泉の看板広告

 

何故か外国人旅行者にも最近、穴場としてマークされとる白浜温泉の看板もあります。
今でも京都・新大阪駅から阪和線経由で、南紀方面に特急の「くろしお」が走っていますが、そのご先祖は私鉄時代の戦前にまでさかのぼります。

 

阪和電気鉄道の南紀直通列車『黒潮号』1936年

昭和8年(1933)に登場した黒潮号」は、土曜日の午後に天王寺を出発して日曜の午後に白浜を出るという、週末は白浜温泉でゆったりと、という観光客を狙った列車でした。

黒潮号」は特急でも急行でもなく、「準急」という今のJRにはない種別でした。今なら快速というところかな。

急行でも列車に名前がついていなかった時代に、たかが準急に名前がつけられたのは全国でも超レアもの、暴走超特急と共に阪和電鉄の看板列車でした。

戦前の準急で列車名がついていたのは、他には両国駅と房総半島を結んでいた「漣(さざなみ)号」だけだったはず。

 

黒潮号」は電車ではなく客車だったので、阪和電鉄内は超特急の後ろに連結され、超特急が電気機関車代わりになってました。和歌山からは蒸気機関車にバトンタッチ。

上の写真だと、全体的には7両編成になってますが、前の2両は電車の「超特急」、その後ろの3~4両が客車の「黒潮号」。最後尾はフォトショップ画像解析してみると、パンタグラフがついているので電車というのがわかります。

 

この「黒潮号」は南海も難波から発車、和歌山市から省鉄(国鉄)に入り、東和歌山駅(今の和歌山駅)で天王寺からの「黒潮号」とドッキングして白浜まで運転していました。

このダブル「黒潮号」を利用したトリックを題材にしたのが、日本初の鉄道ミステリー小説である『船富家の惨劇』(1935年)です。西村京太郎などでお馴染みの鉄道ミステリーの原点は、この列車でした。

 

 

黒潮号」は、公式には戦争の「非常時」につき昭和12年に廃止になるのですが、それは実は世を忍ぶ仮の姿。

大阪~南紀直通列車は他にも何本かあり、「黒潮号」はなくなったものの南紀直通列車がなくなったわけではなかったのです。

廃止から3年後の、昭和16年10月28日の大阪府交通課からのお達しで、

黒潮列車の如き観光列車を休止せよ」

という文章があります。南紀直通列車は事実上、「黒潮号」扱いされていたというわけですね。

さらに、戦争真っ只中の昭和17年にも、

「戦争してんのに白浜への観光客21万人ってどうなってんねん!」

と国が激怒。そのペナルティーか、昭和18年2月に廃止されました。逆にいうと、そんな時期まで「観光列車としての需要」があったってことですな。

 

昭和14年言うたら、世の中は日中戦争が泥沼化して「非常時」という言葉が流行った時でもあります。簡単に言うと、贅沢は敵だ!」のスローガンが流れとった時代。少なくても学校の歴史ではそうなっています。
また、陸軍が「精神力強化のため男はみんな丸坊主、女はパーマ禁止」と言い出して、聯合艦隊司令長官の山本五十六
「髪型変えただけで精神力が強くなるかい!

こいつら(陸軍)マジでバカだなwww」
と鼻で笑われたのも、この昭和14年であります。

上の山本五十六の言葉はほとんど原文ママなのですが、新聞記者が忖度して記事にしなかったそうです。


しかしまあ、「みかん狩り」に「魚釣り」に「白浜温泉」・・・陸軍が見たら激怒しそーな看板ばっかしですね。陸軍の鼻息の荒さなんてどこ吹く風(笑 
ただ、砂川遊園の看板には、「撃って体位向上」ってスローガンがあるので、これも時代だなと感じます。

少なくても、看板や写真に写っとる人の服装なんかを見ても、とても「贅沢は敵だ!」の時代とは思えない、のどかな日常のよーな光景に見えるんですけどね。

 

 

阪和電鉄和泉府中まで開通の広告

 

昭和4年7月18日、阪和電気鉄道は開業しました。
ここで、ジモピーなら「あれ???」と思うはず。


阪和線って・・・和歌山までちゃうのん?」


と。


そう、実は最初は天王寺和泉府中間の開業だったのです。
なぜかと言うと、天王寺駅からの高架線建設に金がかかりすぎて、大阪から和歌山を越える和泉山脈を貫くトンネルを掘る資金が足りなくなったから。

 


これを知った時は高校生の時だったのですが、
「もしかして、阪和線の『和』って和歌山やのーて、『和泉』の『和』ちゃうんか?」
という仮説を立てたことがあります。でも私の勘違いでした(笑

 

おいおい、ちゃんと和歌山まで開通するんやろな?
と当時の人は心配したんかどうかは知りませんが、そこは心配ご無用。

 

阪和電気鉄道和歌山まで全線開通の広告

 

翌年、無事に和歌山まで開通しています。
当時の新聞記事によると、東和歌山駅(今の和歌山駅)で全通セレモニーが行われて、鉄道大臣に大阪府和歌山県知事など600人が出席して盛大に祝ったそうです。
資料によると、開通当時の天王寺からの運賃は、

 

土生郷(今の東岸和田):42銭
熊取駅:52銭
信達駅(同和泉砂川):64銭
東和歌山(同和歌山):96銭

 

この96銭はどこから来たかというと、永遠のライバル南海鉄道の難波~和歌山市間が96銭なので、それに合わせたのでしょう。


これが今の物価だといくらになるか。

この計算がけっこう難しいのですが、日本銀行が公式に出してる数値に、「企業物価指数」
というものがあります。

国の公式なので、テレビや新聞などのニュースでも、昔の値段を現代の価値に換算する時、けっこうこの数値が使われております。

戦前以前の時代の場合は、「企業物価戦前基準指数」という指数も使用します。


最新のデータである平成28(2016)年の指数が658.2で、阪和線開通時の昭和5年が0.885であります。
これを元に計算してみると、


658.2÷0.885743.73


これに当時のお金を掛けたら、目安的に今の価格に換算できます。
阪和電鉄の天王寺~和歌山間の運賃でやってみると、

 

0.96(96銭)×743.73≒¥713.97(713円97銭)

 

今のJRの運賃が¥840なので、これくらいの価格が妥当なところか!?


しかし、当時のリアル物価と比べてみると、この数値とえらい差があります。

同じ時期の阪急百貨店の名物食堂の、ウエイトレスの日給(10時間労働)が、なんと80銭でした。

上の物価指数はあくまで机上の理論値なので、当時のリアル価格と比較すると、

かけうどん一杯:10~11銭

コーヒー一杯:15銭

朝日新聞の月刊購読料:1円

(昭和11(1936)年の大阪の値段)

 

今の朝日新聞の月刊購読料が約¥4,000、喫茶店のコーヒー一杯¥500と考えると、感覚的な96銭は3000~3800円くらいかなと思います。

そう思うと、昔の鉄道料金ってけっこう高い。

 


無事全線開通し順風満帆に見えた阪和電鉄ですが、2ヶ月後にとんでもない事故をしでかします。
その新聞記事がこれ。

 

阪和電気鉄道の事故の新聞

 

ニュースの原稿風に書いてみると、以下のようになります。

昭和5年8月23日午後5時15分頃、大阪の阪和電気鉄道の杉本町~仁徳御陵(※1)で架線故障が発生し、天王寺発東和歌山行き各駅停車が停止信号に従って緊急停車しました。

そこへ後続を走っていた、天王寺発阪和浜寺(今の東羽衣)行き臨時急行が停止信号を無視して追突、重軽傷者47人を出し近くの病院に搬送されました。

なお、全員命に別状はない模様です。

※1

Q1:「あれ?浅香に堺市三国ヶ丘駅は?」

A1:「当時はありません」 
Q2:「仁徳御陵前ってそんな駅ないで?」 A2:「今の百舌鳥駅です」

 


これだけでもかなりの大事故です。

死者が出なかっただけが幸いでしたが、警察が来る前に電車を車庫に送ったり、割れたガラスを掃除したりと、それが「悪質な証拠隠滅」と見なされて警察から大目玉を喰らったそうです。

 

「超特急」に「黒潮」にと、何かと話題をさらった阪和電鉄ですが、最初はかなりの赤字でした。


今でこそ阪和線沿線は関西でも屈指の通勤路線で、混雑率は関西のJRトップクラス。

海外から朝に関空に着いてそのまま関空快速大阪市内に向かうと、阪和線に入る日根野駅で朝6時台から、仁義なき椅子取りゲームが始まります。気性の荒さなら日本屈指の泉州人が繰り広げるこの光景は、

日根野戦争」

日根野の乱」

日根野ダッシュ」

と呼ばれてます(笑)

が、開通した当時は天王寺を離れると、畑や原野の中に線路を敷いたが如く。

上に書いた運賃の高さ以前に、乗ってくれる客自体がいないんじゃないか?というほどの有様でした。

 

大阪の南の方は紀州街道沿いに町が栄えていたので、そこは南海電鉄(今の南海本線)が鉄道を敷き既に独占していました。

阪和電鉄も、最初の計画路線は紀州街道の近くまで近づいて、南海の客をぶん取ろうと画策していましたが、南海が邪魔したのか何度かの変更の上今のルートに。人が少ない無人の野を走ることになりました。しかしその分、

まっすぐに線路を敷く

スピードが出せる

阪和間を高速で結べる

というメリットもあります。阪和線って今でも直線区間が多いのですが、これは「スピード出せるように」なのと、「障害物がなかったから土地買収が楽だった」という理由があります。
おまけに、ここぞとばかりに地盤も硬くして「高速志向」に拍車をかけました。だからこそ「超特急」を走らせることが出来たのだろうと。


「超特急」はライバルの南海電鉄を相当刺激させたらしく、負けじと南海もスピードで勝負しようとしたものの、集客力優先で紀州街道の町を縫うように作られた南海は、スピードでは全く敵いません。

南海の言葉をガンダム風に解説すると、

開通前

「見せてもらおうか、阪和の超特急の性能とやらを」

 

(阪和「超特急、行きまーす!」)

 

開通後

「ええい、阪和の電車は化物か!」

 

南海の嘆きも仕方ありません。

超特急は「白い悪魔」だったのです。

まあ、信号だらけの一般道が高速道路に勝てるわけがない。

 


しかし、このまま引き下がる南海ではありません。

「まだだ、まだ終わらんよ!」

これでどうだと、常識の斜め上をゆく最終兵器を投入しました。

 


その最終兵器とは・・・

 

 

冷房車

 

今でこそ電車に冷房ついているのは当たり前ですけど、当時冷房車なんてほとんどありませんでした。ただし、エアコン自体はありました。

列車エアコンは特急とかの特別車には一部ついていたものの、一般庶民に縁はなし。

 

この南海の冷房車は、三つの意味で革命的な「事件」でした。

一つは、特別料金不要の一般車両に装備したこと(日本初)

二つ目は、「電車」に冷房を積んだこと(日本初)

もう一つは、今の電車の冷房と同じ方式(冷媒式)を採用したこと

(日本初。鉄道車両としては世界初?)

ある意味、今の電車すべての冷房車の原点がここにあります。

 

が、冷房車に客が殺到して非冷房車より暑かったとか、電気代も革命的に食ったらしく社長が「これなら客全員にコーヒーおごりの方が安いわ!」と涙目だったとか、結局軍部から「贅沢じゃ!」とクレームを受けて1年で中止になったとか、革命的名車というより、悲劇的「迷車」として鉄道史に刻まれています。

 

しかしながら、この冷房車はけっこう有名な話でもあります。むしろ意外なのはこれから。


このエアコンは、当時設立10年ほどの地元のベンチャー企業だった「大阪金属工業」というメーカーの技術の結晶でした。

「大阪金属工業」なんて会社、聞いたことも見たこともないって?そりゃそうでしょ。

 

 

それじゃ、

ダイキン

って書いたら全員が「あ!!!」と思うはず。

 

そう、伝説の珍車を彩ったエアコン、実はダイキン製だったのです。

「大阪金属工業」略して「大金(ダイキン)」と昔から呼ばれていたのでしょう。「大阪金属工業」が今の「ダイキン工業」に名前が変わったのは、東京オリンピック前年の昭和38年です。

ちなみに、中国語では「大金」と書き、「大阪金属工業」の面影がチラリと残っています。


鉄道史では「迷車」扱いの日本初の冷房電車でしたが、日本技術史から見るとダイキンの公式社史にも載ってるくらいの重大事でした。ダイキンは電車だけではなく、海軍のイ号、ロ号潜水艦のエアコンも担当しています。

それにしても、ダイキンはこんな時代からエアコン作っていたのねん。

 

阪和vs南海の仁義なき闘いはまだ続きます。

ここからは、『仁義なき戦い』のテーマ曲を脳内再生しながら読んで下さい(笑


今じゃ臨海工業地帯になっていますが、南海本線浜寺公園近辺は、かつて「東洋一」と呼ばれた天然の海水浴場でした。

ウソと思うなら、地元の65歳以上の人なら誰でも知ってる昔の思い出、一度聞いてみて下さい。

70歳を越えてるうちのオヤジは覚えてるどころか、毎年泳いでたそうです。しかし、埋め立てられる寸前はかなり汚かったそうで、同じく記憶にある母親は、(あまりに汚くて)泳ぐ気にならなかったと言っております。

母親に、

「何を乙女がっとんねん!」

とツッコミ入れたら、

「その時は乙女やったんや!」

とすかさず反撃されました。


それはさておき、毎年夏になると関西中から海水浴客が訪れ、輸送を独占していた南海はウハウハでした。
そんな敵なしの南海に、真正面から凶器を持ってケンカを挑んできたのが阪和電鉄。

その「凶器」が、今は「東羽衣線」って言われとる阪和線の支線です。阪和電鉄時代は「浜寺支線」と呼ばれていました。

 

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今はJRになっている線路に、「東羽衣」(阪和電気鉄道時代は「阪和浜寺」)という駅があります。
まるで南海の喉元にナイフ突きつけて、「刺すぞ!」って配置になっているでしょ?(笑


阪和電鉄の宣戦布告に南海はもちろん激怒。

毎年夏になると客の取り合いが始まり、阪和電鉄と南海電鉄の社員の殴り合いが始まるという仁義なき戦い 場外乱闘編」まで起こったそうです。

また、夏のシーズンには天王寺から直通のノンストップ急行を走らせていたのですが、それが着くや南海は羽衣駅を通過する特急ですらわざとトロトロ走らせ、開かずの踏切にして通せんぼしたとかいう伝説が残ってます。


やることがヤクザな阪和もさることながら、南海もやることが実にセコい(笑

 

しかし、無人の原野を爆走するだけじゃ経営が火の車な阪和電鉄、手をこまねいて我慢しているだけではなく、涙も枯れる経営努力を模索し始めます。

 

阪和電気鉄道、いちご狩りの広告

 

阪和電鉄のチューリップ狩りの広告

 

 

まずは、沿線に何もないことを幸いに、ピクニック場を作ったり、ゴルフ場を作ったり、畑を作って「◯◯狩り」を開催したり。

とにかく理由をつけて電車に乗ってもらおうと、色んなイベントを計画したりしました。信太山の陸軍高射砲連隊と組んだイベントもありました。

 

阪和射撃場(上野芝射撃場)の広告1

そしてなんと、阪和電鉄は直営の射撃場まで作っています。

なんぼ経営努力言うてもそこまでせんでええやん(笑)と思うのですが、それほど必死だったのだろうなと思います。

 

阪和上野芝射撃場の図

(『南海沿線厚生施設篇』昭和16年刊行 より)


しかしここ、「日本初の総合射撃場」と銘打った本格的な射撃場のようで、16歳以上なら男女問わず撃つことができました。200mもの射撃場やクレーン射撃施設など、なかなかのレジャーランドぶりです。

それも設立は昭和13(1938)年。学校通りの歴史で言うならば、上に書いたように、国中で「非常時」が叫ばれて不用なレジャーは控えましょうと言われていた時代です。こんな時期にこんなものを作るなんて、何というチャレンジャーでしょう。

 

この射撃場については、細かく書き出すと長くなるので、また別記事で詳しく書こうと思います。

 

阪和電鉄は他の私鉄の例に漏れず、住宅地の開発にも手を出していました。
鉄道沿線に住宅を作り電車に乗ってもらう経営戦略は、元々阪急の創業者小林一三の独創です。

他の鉄道会社もそれに倣って住宅経営に手を出したのですが、阪和電鉄も沿線に何もない分伸びしろは十分。逆に人口を増やせるチャンスでもありました。


阪和電鉄が開発した住宅地は主に4つでした。

 

・上野芝向ヶ丘・霞ヶ丘(上野芝駅周辺)
・信太聖ヶ岡(北信太駅前)
・泉ヶ丘(泉北ニュータウンではありません、東佐野駅前のこと)

・富木の里(今の富木駅前周辺)

 


こうして見ると、富木以外は全部「◯◯ヶ丘(岡)」とついてます。

 

この3つは今でも静かで道筋もきれいに整備された、家一軒がけっこうデカい住宅街になっています。
しかし、阪和電鉄も住宅経営のノウハウに乏しく、いちばん最初に作った上野芝の向ヶ丘住宅は、新築やのに2年で雨漏りするわ、飲料水は濁って飲めないわ、おまけに南海の嫌がらせで電気は通らないわ、今なら虚偽広告及び詐欺まがいの欠陥住宅で裁判もの。自治会が電鉄側に抗議したことが記録に残っとります。


天王寺駅の次の駅の「美章園」も、阪和電鉄開業後に開発された住宅街なのですが、これは鉄道が通る→不動産が売れる→地価上がる→ウハウハと踏んだ個人が土地を買い占め、不動産会社を作ったという歴史なので、電鉄直営ではありません。

 

 

血と涙の(?)経営努力が実ったか、どうにか数年後には黒字になった阪和電鉄ですが、今度は戦争というどうしようもない大波によって、揺れに揺れます。


上にも書いたように、「非常時」に娯楽なんてけしからん!とどんどんレジャーが縮小されていきました。

阪和電鉄は、昭和15年になんと宿命のライバルの南海に吸収合併されてしまいます。

最近でも阪神と阪急が経営統合しましたが、これは経営統合ではなく吸収合併、阪神タイガースが「阪急タイガース」になるくらいの衝撃でした。

 

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(昭和15年7月17日 大阪朝日新聞

 

阪和と南海の合併広告(南海山手線)


この時点で阪和電気鉄道は消滅、「南海山手線」として再スタートします。ちなみに、今の三国ヶ丘駅は合併後に、南海高野線との連絡駅として作られました。

 

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図書館で偶然見つけた資料の中にあった、三国ヶ丘駅の計画図です。

けっこう貴重です。

 

吸収合併という形でライバルを消した南海でしたが、合併してみると腰を抜かす事態が。

 

阪和電鉄の車両は、長年の酷使で車両はみんなボロボロ、人間で言えば過労死一歩手前のようなもの。よくこんな状態で走らせてたな・・・とエンジニアが唖然としたそうです。

おまけに、車両の性能が良すぎて当時の南海の技術力ではメンテが難しい。車に例えたら、軽自動車専門の修理屋さんが、いきなりレクサスやGTRのメンテやれと言うようなものでしょう。

 

南海技術陣の努力で事故はなんとか防いだものの、車両故障が頻発しダイヤはメチャクチャな事態となりました。

上に書いた「超特急」の廃止も、戦争うんぬんより、ボロボロの車両に限界がやって来てついに「ドクターストップ」がかかったという事情の方が強いようです。


そして波乱はまだ続きます。
戦争まっただ中の昭和19年、「南海山手線」は、南海の言い分を借りたら国家権力で有無を言わさず「強奪」されて国鉄阪和線となり、国鉄→JRになって今に至ります。

南海も南海で、ただでは渡さぬ!と、鳳駅の車庫にあった資材を根こそぎ持って帰ったという話が伝わっています。

 

「東羽衣線」も、阪和電鉄時代は複線だったのですが、国に引き渡されたときはいつの間にか単線になっていました。国も、

「あれ?ここ複線だったよね!?」

と首を傾げていました。

Wikipediaでは、ソース付きで国有化後に単線になったと書いていますが、南海山手線時代の阪和線に関する唯一の資料集、『南海鉄道山手線史の考察』によると、国有化時点で既に単線になっていたと書かれています。

それに、国が単線にしたならきちんと記録が残って、Wikiの「不要不急線」の記事にでも書かれているはず。

しかし、ウィキペディアのソース元も日付まで書いているので、それなりの根拠があるはず。

真実は一つ。さてどちらが正解か。

 

『南海山手線史の考察』によると、昭和18年に南海が鉄道大臣に、

「東羽衣線、夏以外は電圧を下げてバージョンダウンさせて、南海の車両投入していい?」

という申請を出します。

当時、南海の電圧は600vだったのですが、旧阪和は1500vなので、南海の車両はそのまま投入できません。そこで、電圧を下げて南海の車両を走らせようとしました。

何故そこまでしようとしたかというと・・・まともに走らせることができる旧阪和電鉄の車両がなかったから。

 

しかしこれ、国はOKを出したものの、南海が「やっぱやめた」と5ヶ月後に自ら取り下げました。

同時に、

「東羽衣線は折り返し運行で。天王寺からの直通運転はしないようにします」

と信号機の変更の申請をしています。

『関西国電50年』という、数字と写真だけのマニアックな資料集によると、国有化の時に「浜寺支線(東羽衣線)専用に改造された車両」が1両引き渡されているのですが、この時に作られたと思われます。

何が言いたいかというと、折り返し運転一本にした時点で、

「複線も要らんやろ」

と南海が線路を撤去し、単線になった可能性があるということ。私はこう推定しています。その方が筋が通る。 


南海は戦後に、「阪和線返せ!」とかなり国に抗議したそうですが、あえなく却下。

その腹いせか、三国ヶ丘駅にはJRは快速が止まって利用客数激増なのに、南海は急行ガン無視。利用者にとっちゃ不便極まりない。

戦後の一時期は停車していたようですが・・・いつ止まるの?今でしょ!

しかし、

「我が社のプライドにかけて全力で通過します!

ただのお客様のご要望に興味ありません!」

と思っているのかどうか知りませんが、今日も元気に通過中です(笑

 


南海は大阪市にいじめられ、国にいじめられ、けっこうひどい目に遭っているのは同情するのですが、せめて区間急行くらいは止めて~な~。

なんば方面は準急あるからまだいいけれど、高野山方面(中百舌鳥より先)が行きにくくてしゃーないし。

 

阪和電気鉄道は人間に例えるとかなり波乱の人生なのですが、たかが鉄道と侮るなかれ。たった一つの、路線でもこれだけ書ける、もとい歴史が詰まっています。

 

で、当の天王寺駅の謎は?

文章が長くなりすぎたので、これは続編で。

 

 

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