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暴力をふるうけど「虐待じゃない」と言い張る親は無知なだけ。

 

先日、twitterにて興味深いつぶやきが流れてきました。

 

 

 

それに関するはてなブログの記事もあわせて。

 

大体、虐待ってなんか重いじゃないですか。

厚生労働省の児童虐待の定義ってタバコおしつけられたり性交渉を見せられたりとか

なんかハードじゃないですか。

だから、それに比べると「虐待受けてた?」とか言われても

「虐待?wwそんなもの受けてないよww」

ってなってしまうんですね。

でも世の中には、そんなお役所が定義するハードな虐待よりももっとゆるい虐待、

ゆる虐待

みたいなもの存在するんじゃないでしょうか。

例えば、何か失敗したら日常的に怒鳴られるとか、たたかれるとか、裸で外に追い出されるとか、女の子の場合、お父さんに怒鳴られたり、殴られた経験があったりしたら大変です。

 

実は世の中のお父さんは、娘を怒鳴ったり殴ったりしたりしないらしいぞ?

 

ゆるい虐待を考える - ずんずんのずんずん行こう!改!

 

 

「普通の家庭」に「ゆる虐待」。

じっくり比較する機会なんてほぼないから、「それが普通」だと思っちゃうんですよね(`=ω=´) なにかのきっかけがない限り。

 

かく言う私の家庭も「普通」とはちょっと違ったかんじ(「ゆる虐待」寄り)だったのですが、私はどちらかといえば早いうちに違和感を抱いたほうです。

 

(そもそも「普通」って何??? という議論もありますが、ここでは「健全」と同義で進めていきます。)

 

 

 

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「子供を叩くって、虐待じゃないの?」

 

私は見た目(年齢)の割にあれこれ考える子供だったので、 まだ小学生のある日、母親に尋ねたことがあります。

 

我が家の「普通」は口答えすると父親に怒鳴られたり、叩かれたりすることでした。

→ だから父親の機嫌を伺って言葉を選ばなきゃいけない。思っていることを素直に口に出すことは悪。

→ 父親は絶対なので、母親のスタンスも「叩かれるあなたが悪い」。

 

立て続けに頭をグーで殴られたある夏、私は「金輪際、家で心を開くのはやめよう。信頼なんてしちゃいけないんだ」と防御のために心のシャッターを下ろしました。

それが功を奏したのか父親が親業に慣れてきたのか、日が経つにつれて叩かれることは減っていったのですが・・・

 

「言うことをきかせるために子供を殴る」行為が、子供ながら許せなかったのです。

 

「子供を殴ること=ギャクタイ」。学校かテレビか何かで情報を得た私は、さっそく(何を言っても叩きはしない)母に尋ねたのでした。

 

 

 

「虐待じゃないよ」と彼女は言った 

 

「あなたのためを思って言っているのよ。」「本当は優しい人なの。」

「屁理屈を言うのはおよしなさい。」「人のせいにするなんて、卑怯だわ。」

 

慌てた口ぶりから紡がれた言葉。

私の憤りは宙を舞い、着地どころを見失いかけたときに母親がさっと差し出した答えは「そんなふうに捉える、あなたが悪い。」でした。

 

(ちなみに「屁理屈〜」「人のせい〜」は、私がなにか違和感あって発言するたびによく返されていた言葉。「そんなふうに捉える、あなたが悪い。」という無言の圧力とともに)

 

教育の専門家である彼女が言うならそうなのか、、「虐待」ってもっと、私が受けた苦痛の100倍くらいないと認識されないんだ。私のはただのわがままなのね。

 

じゃあ結局、叩かれて痛くて心が苦しいのって、私が悪い子でいるからなんだ?

 

 

 

自分を否定し続けると、人生つらくなる

 

とはいえ「悪い子」の基準ってよく分からないんですよね。

 

【 発言した → 叩かれた → 泣いた → 恨んだ 】で、あまり反省してこなかったから。

「そういうところが悪いから次からはこうしてね」なんてお説教というか、フォローもなかったし。いつも暴力は突発的。

 

だからよく分からないなりに、自分の特徴(他人と違うところ)を見つけては「ここが悪いのかも」と否定してひっこめる日々が続きました。

 

「自分がいい子か、悪い子か」の基準を求めるのは、常に外部の権力ある大人たち。父親、母親、先生、などなど。

そりゃあ生きているのがしんどくなります。人生の手綱を他人に明け渡しているも同然だもの(`=ω=´)

 

 

 

暴力にしか頼れない親は子供を不幸にする

 

幼少期に受けた暴力が「虐待」なのか「虐待じゃない」のかは、もはやどちらでもいいこと。

 

それが「虐待」ならば両親は反省して暴力を振るわなくなるだろう、という希望が「虐待じゃないの?」の問いかけには込められていたから。そしてその希望は、あっさり打ち砕かれたから。

 

「結局あれは虐待だったのだろうか?」よりもはるかに、「なぜ私は、あんなに手酷い扱いを受けなきゃならなかったのか?」のほうが親元を離れてからは大きな疑問でした。

ちょうど大学では教育心理学を専攻していたので、学問と絡めて考えたりして。

 

 

長年の疑問が片っ端からすっきりと晴れたのは、この書籍に出会ってからのこと。

 

 

書籍内には子供を『幸せにする親』『不幸にする親』の対比リストがあるのですが、うちの家庭は見事に『不幸にする親』項目にいくつも該当していました。

 

  •  どうして『不幸にする親』は生まれるのか?
  • 『不幸にする親』に育てられた子供は、その後どのような人生を送るのか?
  • 『不幸にする親』の影響を断ち切るために、子供ができることは?

 

仕組みから解決策まで、実例を含めて分かりやすく書かれているので無我夢中になって読みました。長年求め続けた答えが、たった1冊の本にくまなく書いてあった衝撃といったら!

 

(具体的なからくりはここでは割愛します。気になる方はぜひ書籍にて(`・ω・´))

 

 

 

 暴力にしか頼れない親は無知なだけ

 

・・・とはいえ彼ら『不幸にする親』も、端から「子供を不幸に育ててやるぞ」と悪意を持っていたわけではないはず。

子供に名前をつけている時点で「大切にしよう」という意志があらわれていることは確かです。

 

じゃあなぜ『幸せにする親』『不幸にする親』の違いが出てくるかといえば、私が思うに、その方法しかコミュニケーションの手段を知らなかったから。

 

きっと彼らも同じような家庭環境で育ち、それが「普通の家庭」だと信じてきて、それ以外の(暴力なしの)選択肢なんて考えつきもしなかったのだと思います。

 

 

 

無知な親に育てられた子供にできること

 

『不幸にする親』の影響をもろに受けて「生きづらい」仕様に育った子供。

いよいよ成人して親元を離れ独立し、できることは何でしょう?

 

 

『不幸にする親』の悪行を大義名分に復讐する?

 

「あなた達のせいで今の私はこんなに辛い。」 と訴えて罪悪感を揺さぶって幸せを許さない?

・・・それだと憎い彼らと結果的に同じ道を辿ります。

 

「そのやり方しか知らない」人生経験が災いして、自分の家庭に悪習を引き継ぐことも。

 

ちなみに子供を暴力で育てた親は、子供から暴力で仕返しされる老後に腹を括っておいたほうがいいです。途中でよほどの学びがない限り、育てた通りに育っているから。

「なんでそんなこともできないの!」「迷惑かけてんじゃないよ」とか、子供に放った言葉は十中八九返ってきます(`=ω=´) 

 

 

距離を置いて、なるべく関わらない?

 

自分の身を守る手段としては、なによりの第一歩。

 

近すぎて見えなかったところが見えてくるかもしれない。

落ち着いた心で捉え直してみれば、案外するりと難問は解けるかもしれない。

 

 

それとも、、許す?

 

心理学やスピリチュアルやらで、親子関係はあらゆる人間関係に影響しているとよく言われますよね。そこがこじれていると他の部分までも上手くいかないという。

 

それってなんだか勿体ないし悔しいじゃないですか。

どうにもならない彼らはさておき、自分の動きで事態が改善するのなら、せめて自分だけでももがいてやろうと(`=ω=´)

 

そんなことを考えていた矢先に出会った、大好きな小説の一部を紹介します。

 

 

「国籍とか民族を根拠に差別する奴は、無知で弱くて可哀想な奴なんだ。だから、俺たちが色々なことを知って、強くなって、そいつらを許してやればいいんだよ。まあ、まだ俺はその境地にはぜんぜん達してないけどね」


 金城一紀『GO』

 

 

本編では「差別」について述べられていますが、「虐待」でもきっと同じ意味合いを持つのだと思います。

 

彼らがその選択肢を取らざるを得なかったのは、「無知で弱くて可哀想」だったから。

自分にできる対抗策は、「色々なことを知って、強くなって、許してやる」こと。

 

 

 

軌道修正は早めが吉

 

「暴力はやっぱりダメだよね」と知った今、それでも暴力的な手段に出るのは愚の骨頂でしかありません。

 

じゃあ実際にどうすればいいか?

 

とにかく「自分が受けた教育」以外の選択肢を探ること。

本を読んだり勉強会に行ったり、実際に違う教育を受けた人と関わってみたり。

 

まずは「知って」それを体得し、徐々に「強さ」を身につけた先のいいタイミングで「許して」あげればいいと思います。

 

 

私のおすすめは良書から学ぶこと。

もし『不幸にする親』連鎖を断ち切って未来の家庭を変えたいのなら、「子供もいないし結婚もしてないし、しばらくはいいや」とか言っている場合じゃないですよ(`=ω=´)

 

たとえば「アドラー心理学」について書かれた『嫌われる勇気』では、以下のように述べられています。

 

アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまでに生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。

(中略:40歳で学ぶ → +20年 →60歳までかかる説明)

あなたはまだお若い。それだけ人生の早い時期に学び、早く変われる可能性があるわけです。

 

 

気づいたときから対策は取っておくほうが絶対にいい。

 

10代の終わりごろから心理学に触れはじめた私も、ようやくじわじわと変化が出ているところです。

ちなみに学びの道中で、上記のとおりあれこれあった両親との和解も経験しています。

 

▼そのあたりの私の体験談はこちらにて

note.mu

 

 

親との関係を実際に改善できたことは、その後を進む大きな自信となりました。

 

これからもずっと、「学べば変われる」人の可能性を信じて。

想像するだけで憂鬱だった「いつかの子育て」「自分がもつ家庭」が、今ではすっかり楽しみになっています。旦那様候補は、まだいないけれども!

 

 

 

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます(*^^*)

 

 

海月なおこ

 

 

 

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