アイヌ民族の歴史年表

2005年11月作成

アイヌ民族は北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)先住民族をさ す。「アイヌ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。し かしさまざまな他称は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
「蝦夷」は日本人(和人)による他称である。古くエミシ、平安末期からはエゾと呼ばれるようになった。さらに古くは毛人と書いてエミシと読まれていた。ここではアイヌ民族と同根として扱っている。
関東から東北にかけて住み、和人に征服された人々であるが、当時から北海道の渡島地方にも分布していたことが明らかである。アイヌ民族との異同については現在も不明である。

2017年3月 改訂
アイヌ人は縄文人の血を濃く残した末裔である。その後朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血により「日本人」が形成されたが、アイヌ人は渡来人と混血せず、北海道に存在した。しかし北海道の北部・東部に居住したオホーツク人とは強く混血しており、この点で縄文人とは異なる。
 

 先史時代の北海道

6万年前 現世人類の出アフリカ。

3万5千年前 旧石器時代人が渡来。マンモスハンターがシベリア・サハリンより進出。石器は残されているが人骨の発見はない。

約2万年前 最後の氷河期。函館市桔梗、千歳市祝梅三角山、上士幌町嶋木に後期旧石器人の遺跡が発見されている。

旧石器捏造事件: 新十津川町総進不動坂(20万年前)、上川郡清水町下美蔓西遺跡(50万年前)が発見されたが、いずれも後に捏造であることが明らかとなる。

1万5千年前 気候の温暖化に伴い、旧石器時代から縄文文化に移行。木の実の採集、煮炊きしての食事が広がる。(青森県大平山元遺跡)

縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局のサイトより転載

5000年前 縄文前期が始まる。三内丸山遺跡、大船遺跡など大規模な拠点集落が発達する。ヒスイや黒曜石等の交易が盛んとなる。

3000年前 縄文後期に入る。大規模な拠点集落は減少し、集落の拡散化、分散化が進む。

紀元前15世紀 函館市南茅部町の大船遺跡の集団墓。縄文時代後期後半のものとされる。中空土偶は国宝に指定された。

紀元前10世紀 九州北部に弥生文化が発生。青森県に亀ヶ岡遺跡。

紀元前3世紀 この頃、北方まで温暖化。津軽平野まで稲作が拡大する。

紀元前2世紀 非農耕社会でありながら、本州から金属器が流入するようになり、北海道独特の続縄文時代が始まる。(恵山文化→江別文化→北大文化に細分される)

西暦0年~ 気候が寒冷化。東北北部での水稲耕作が断絶。ほぼ無人の原野と化す。

4世紀 東北北部は寒冷化し、北海道に起源を持つ続縄文文化が仙台平野と新潟平野を結ぶ線まで進出。和人との混住ゾーンが形成される。

交易の結果、続縄文人は狩猟と獣皮の交易に特化した。北海道には鉄器が大量に流入。

4世紀 会津大塚山古墳など東北地方南部に古墳が作られる。

5世紀 漁猟を生業とするオホーツク人(樺太のニヴフ人と同根)がサハリンから北海道に南下。オホーツク海沿いに進出。根室、千島方面に固有の文化が広がる。モヨロ貝塚からは宋銭が発見されており、中国大陸との交流を示す。一部は海獣を追って天売、焼尻、奥尻などの島に進出。

450年~ 和人が混住ゾーンを越えて北上。東北北部(現在の岩手北部から八戸にかけて)に進出する。

岩手北部の中半入遺跡では農耕、馬の飼育が行われ、前方後円墳も作られている。また皮なめしの工房跡も見つかっている。

500年ころ 岩手北部・八戸で、続縄文人の痕跡が消え、「古墳人」の遺構のみとなる

500年~ 道北や道東のオホーツク人遺跡にも本州産の鉄器が流入する。

600年ころ オホーツク人が奥尻島に拠点建設。夏の間漁撈をおこなったとされる。

7世紀 続縄文時代に代わり、本州の土師器の影響を受けた擦文文化が発生。擦文土器が道内各地に普及。竪穴住居だが、中央の炉に代わり壁際にかまどがすえられる。部分的に農耕もおこなわれた。

8世紀 江別市、恵庭市に「北海道式古墳」が出現。土師器や須恵器、蕨手刀などが副葬され、大和文化の強い影響が窺われる。古墳文化は1世紀ほどで消滅。

9世紀 オホーツク文化が衰退、消滅。東部にはトビニタイ文化として残存したとされる。(トビニタイの名は羅臼町飛仁帯で発見された土器にちなむ)

 

和人による東北地方の侵略・征服

年代不詳400年ころ? 日本書紀の景行天皇条。「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と記される。

488年 中国の史書「宋書」、478年に送られた倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」 述べる。大山は箱根を指すといわれる。

544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。

586年 蘇我蝦夷が誕生。東国に住む「えみし」の名は強者の象徴であったとされる。神武東征記にも「愛瀰詩」の名で登場する。

645年 大化の改新。東国国司が派遣される。

647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)を造営する。渟足は現在の新潟市阿賀野川河口付近。

648年 渟足柵に続いて磐船柵(いわふね)が造られる。磐船は新潟県村上市岩船。「蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置く」(日本書紀)またその後の10年のあいだに、都岐沙羅柵(つきさら)が設置されている。都岐沙羅は念球ヶ関説、最上川河口説、秋田県南部説などがある。

649年 高志(北陸)の豪族である阿倍氏の当主、内麻呂が死亡。傍系の引田系の阿倍比羅夫が後を引き継ぐ。引田臣比羅夫は越(高志)国の国司に任じられ、北方警護の責任者となる。

650年頃 評、国が設定され、陸奥の国が置かれる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。-『日本書紀』斉明天皇元年柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。

阿倍比羅夫の蝦夷征服(日本書紀による)

658年(斉明4年)4月 第一回目の北征。軍船180隻を率い日本海を北上。

658年 齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。

658年 陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。有間浜は①深浦から鰺ヶ沢付近、②岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。

658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。

658年11月 阿倍比羅夫、渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。(日本書紀 斉明天皇4年)

粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人であろうと思われる。

659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。

659年 その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)

659年 日本書紀では「ある本にいわく」として、この年も粛慎と戦い、捕虜49人を連れ帰ったとする。

659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。

659年 日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子に貢した」とある。

660年3月 三回目の北方遠征。200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。

海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は
弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。

5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。

660年 百済、唐=新羅連合軍の攻撃を受け滅亡。朝廷は北方進出を中断し、すべての水軍を百済復興に振り向ける。

661年 阿倍比羅夫、百済救援軍の後将軍に任じられる。

663年 阿倍比羅夫、新羅征討軍の後将軍に任じられる。ほぼ同じ頃、筑紫大宰府帥にも任命される。

663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。

668年(天智7年) 天智天皇が即位する。

672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。

689年 優嗜曇柵(うきたみ)が設置される。優嗜曇柵は米沢盆地のある置賜郡。同じ頃仙台市郡山にも柵が形成された。

696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)

698年 靺鞨の一族である震国が唐朝の冊封を受け、渤海国と称する。一説では高句麗の末裔で豆満江流域を中心に交易国家を建設。

7世紀末 陸奥国から石城国と石背国(福島県の浜通と中通)が分立。陸奥の国は仙台平野と大崎平野だけからなる小国となる。仙台市南部の第二期郡山官衙遺跡は寺院を付設し、多賀城建設までのあいだの旧国府と目される。

和人の東北地方への大量侵入

700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀)。「東の夷の中、日高見国がある。男女ともに入れ墨をし、勇敢である。土地は肥沃で広大である。征服してとるべき」である。現在の仙台平野から北上川流域に広がっていたと思われる。

700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。(岩船の柵はすでに648年に建設されており、出羽の柵の間違いではないか。709年に「諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬」したとの記載があり、出羽の柵の建設はそれより以前ということになり、年代的には符合する)

701年 大宝律令が制定される。

708年 越後の国の一部として新たに出羽郡が造られる。出羽郡以北は日本海側もふくめすべて陸奥の国の管轄。

709年3月 朝廷、陸奥への進出を本格化。鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を任命。遠江、駿河、甲斐、信濃、上野から兵士を徴発し派遣。

709年 蝦夷の越後侵入に対し征討のため、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。越前、越中、越後、佐渡の4国から100艘の 船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いとされ、大規模な反 乱があったことが示唆される。

710年 都が飛鳥から平城京に遷される。

712年 越後の国出羽郡、陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のアイヌは蝦夷、日本海側(北道)のアイヌは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)

これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。

713年 古川を中心とする大崎平野に丹取郡が置かれる。玉造の柵が造設される。玉造の柵は現在の古川市名生館(みょうだて)遺跡と目される。

714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計で1300戸におよんだ。

715年 陸奥の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈と須賀君古麻比留の要請により、香河村(不明)と閇村(宮古市付近)に郡家を立てる。

718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。

718年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)

東北アイヌの抵抗開始

720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。(渤海国のことか?)

720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。

721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。

721年 出羽の国が陸奥按察使の管轄下に置かれる。

724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。

724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。

724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる(石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。

724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。

725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。

727年 渤海より最初の使者が派遣される。出羽の海岸に漂着。蝦夷に殺害されるが生存者8名が聖武天皇との会見。その後200年にわたり使者を交流する。

733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡(現秋田市)に移設される(続日本紀)。

736年 朝廷は、出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東6国から騎兵1千人が配備されるなど大規模な征討軍を編成する。

736年 陸奥の国では出羽出陣後の保安のために色麻柵、新田柵、牡鹿柵などが造営される。また田夷で遠田郡領の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰服の狄である和賀君計安塁(けあるい)を山道に派遣し、住民慰撫を計る。

737年早春 大野東人がみずから大軍を率い、多賀城を出発。日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。騎兵196人、鎮兵499人、陸奥の国の兵5千人、帰服した蝦夷249人の陣容。

737年早春 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅(現在の尾花沢近く?)に至る。ここで出羽国守の田辺難破の軍と合流。田辺軍は兵500人、帰服した蝦夷140人の陣容。

737年春 討伐軍、雄勝峠(有屋峠?)を越え比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退を決断。出羽の国司が撤退を勧め、討伐軍がこれを受け入れたことになっている。

740年 大野東人、九州の藤原広嗣の乱に際し持節大将軍として出兵。

749年 百済王敬福が涌谷町の黄金山で黄金を発見。その後陸奥の国に複数の金山が発見される。朝廷は「多賀郡よりも北の地方からは、税金として黄金を納める」よう命令。

750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。桃生柵は現在の桃生郡河北町飯野。

757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。

757年 桃生柵でさらに本格的な築城が始まる。

760年 雄勝城(おかちのき)が藤原朝獦(朝狩)により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる(現横手市雄物川町)。雄勝城の後身である払田柵の規模は多賀城を遥かに凌ぐとされる。

760年 出羽柵は秋田城へと改変される。

762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。

767年 伊治城の建設が完了する。伊治は現在の栗原郡築館町。

東北大戦争(38年戦争)

770年(宝亀元年) 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、城柵を襲うと宣言。「賊地」は登米郡遠山村とされる。

772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。

774 宇屈波宇が反乱。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。

774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。

776年 大伴駿河麻呂、海道を制圧しさらに山道に進出。出羽国志波(岩手県紫波郡)で蝦夷軍と対決。蝦夷軍は一時これを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員してこれを撃破。胆沢(水沢市付近)までを確保する。(岩手県は陸奥ではなく出羽に属していたようです)

776年 出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。

778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。

780(宝亀11) 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。

780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。主な指導者として伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代らの名が残されている。

780年 反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。

784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。

786 蝦夷征伐と東北平定を命じる。

アテルイの奮戦

788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のえみしは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。

789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。(以下は紀古佐美の報告にもとづいた「続日本紀」の記載による)

3月 紀古佐美軍、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯。賊軍の激しい抵抗の前に前進を阻まれる。

5月末 紀古佐美軍、桓武天皇の叱責を受けて行動を再開。中軍と後軍の4千人が北上川西岸の三ヶ所の駐屯地から、川を渡って東岸を進む。

5月末 中軍と後軍は、「賊帥夷、阿弖流爲居」を過ぎたところでアテルイ軍約300人を見て交戦を開始。アテルイ軍を追いながら巣伏村に至る。

5月末 アテルイ軍、巣伏村で渡河を試みた前軍を撃退。前線に800人の増援部隊を送り込む一方、後方の東山に400名を送り、紀古佐美軍の退路を断つ。

5月末 朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち別将の丈部善理ら戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。

9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。

791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)

792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃をかけるが制圧に失敗。(794年の攻勢との異同は不明)

792年 斯波村の蝦夷の胆沢公阿奴志己らが朝廷に帰順。伊治村の俘に遮られて王化に帰することが出来ないので、これと闘って陸路を開きたいと申し出る。

794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。蝦夷側は75の村を焼かれ、馬85匹を奪われた。朝廷軍は首457級を上げ1501人を捕虜とする。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。

6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。

11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。

795年11月 渤海の国使が蝦夷の志理波村に漂着。現地で略奪されるが出羽国の出先に保護される。志理波村は余市のシリパ岬周辺とみられる。

796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。

日高見国の滅亡

797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。田村麻呂は各族長に対する「懐柔工作」によって抵抗力を削ぐ。

801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。

7月10日 アテルイとモレ、田村麻呂に従って平安京に入る。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるよう提言する。

8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、アテルイとモレを河内国杜山で斬刑に処す。(写本により椙山、植山、杜山との記載があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない)

アイヌ人の配流

802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。

802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。熊やアシカの皮の品質確保を狙ったものとされる。

803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられ、造設にあたる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。

804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。

805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この 両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長と せよ」との触れが出される。

805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。

806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。

809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。

811年(弘仁2年)

2月5日 文室(ふんや 文屋とも書く)綿麻呂、紫波城より北方の爾薩体(にさったい)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申。「出羽国の夷が邑良志閇村を攻撃。同村の降俘の代表、吉弥侯部都留岐が国府に救援を要請」したとされる。

綿麻呂は810年の薬子(くすこ)の変に巻き込まれ幽囚の身となるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。

4月17日 綿麻呂は征夷将軍に任ぜられる。2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。現地の俘囚の同盟軍を加え2万の軍を編制。爾薩体、弊伊、都母の村を侵略。

10月13日 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。戦功が認められ征夷将軍に任命される。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。

812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波) の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。盛岡には志波城を移転した徳丹城を建設。

アイヌ虜囚の反乱

813年5月13日  陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。綿麻呂がふたたび征夷将軍に任ぜられる。

814年 出雲国意宇でアイヌ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でアイヌ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。

815年 文室綿麻呂、按察使離任し京に戻る。これに代わり、小野岑守陸奥守に任ぜられる。

815年 小野篁、父・岑守に従って陸奥国へ下る。その詩に「反覆は単干(匈奴の王)の性にして、辺城いまだ兵を解かず」と、従軍のきびしさを託す。(827年作成の「経国集」に掲載)

830年 大地震により秋田城が損壊。

847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。

848年 上総国でアイヌ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。

855年 陸奥国の奥地で俘囚が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援助の兵2千人を発し、さらに近くの城の兵1千人を選んで危急に備える(また口実を作っては攻撃を仕掛けて、和人を送り込んだということでしょう)

875年 渡島の荒狄(アイヌ?)が水軍80隻で秋田・飽海(酒田)地方に襲来、百姓21名を殺害。

875年 下総国でアイヌ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。 朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、 100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。

秋田アイヌによる元慶の反乱

878年(元慶2年)

東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。

878年2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(く さむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。

3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。

4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。
 

戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。
文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。

5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。陸奥権介の坂上当道(坂上田村麻呂の曾孫)も討伐軍に加わる。(一説に孫の坂上好蔭)

5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。

6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。

12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。

879年1月 渡島蝦夷首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。

883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、 人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。

883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。

893年 出羽でふたたび反乱が発生。国司は中央には「出羽の俘囚と渡島の狄との戦い」が発生したと報告。城塞を固めて万一に備える。

東北アイヌ、最後の蜂起

901年 出羽国司がエゾについて報告。「津軽の夷俘は、その党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に招かば、その鋒当り難し」(この年完成した「三代実録」に記載)

939年 天慶の乱

4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。

5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。

6月 平将門の謀反。平将門が兵13000人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。将門の父良将は征夷大将軍として陸奥国に出征している。

940年2月 将門追討の官符を受けた平貞盛、下野の豪族藤原秀郷を味方につけ平将門軍を破る。

947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。

前九年後三年の役

1000年頃 陸奥国奥六郡(岩手県北上川流域)の土着豪族(俘囚長)の安倍忠頼、厨川柵(現盛岡市)を築き、半独立的な勢力を形成。

1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、奥六郡の境界である衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたとされる。

1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、安倍氏の頭領である安倍頼良懲罰するため、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。

1051年11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。官軍は散を乱して壊走。安倍頼良の圧勝に終わる。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。

1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。

1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。

1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。

1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃。ふたたび戦闘が再開される。

1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る

藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し。
亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。

1057年5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。

1057年11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃(一説では2500)。北上川沿いに北上。貞任は河崎柵に4000名の兵を集め待機。川崎は東磐井郡川崎村、現在は一関市。

11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出

1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。

7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。

8月 朝廷軍、小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。さらに北上。

9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。

今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。

1063年 源頼義、伊予守に転ずる。奥六郡は清原氏に与えられる。

1065年(治暦3) 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま?)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。多賀城の源頼俊が制圧。衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すと考えられている。

1083年 源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、着任。

1083年 清原家の相続を回り内紛。後三年の役が始まる。

1086年 陸奥守義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻するが、沼柵(横手市雄物川町沼館)の戦いに敗れ撤退。

1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢中野)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。

朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。

1087年 義家についた清原清衡は実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。

1094 藤原清衡、白河より外ヶ浜(現青森市)まで道を開く。奥州藤原氏の支配が津軽にも及ぶ。

1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。

1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。

1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。

1131 藤原氏はアイヌの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷、清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。

1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられたとの表現など、アイヌ民族(エゾ)との交易が文献上で確認されるようになる。この時点ではエゾ地は東北地方北部にまで及んでいた。

1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。

1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。

1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。

1189年12月 安平の郎党だった大河兼任が、出羽(秋田)で反乱。一時平泉を占拠、兵力1万騎に及ぶ。

1190年3月 大河軍、栗原郡一迫の戦いで敗れ、兼任は敗死。

1990年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。


1200年頃 擦文文化(土器)の時代が終わりを遂げるとともに、大和文化(鉄器と漆器)の影響を色濃く受けたアイヌ文化が登場。

1200年頃 交易による商品経済を背景に集団の組織化を進め、海浜を含めた大きな河川流域に強力な結束力を持つ地域集団を形づくった。つの独立した部族グループがあったと考えられている。オホーツク文化領域までアイヌの居住域が拡大。

東エンジウ

西エンジウ

シュムクル

ペニウンクル

メナシクル

サムンクル

南樺太の東海岸

樺太西海岸と余市、枝幸、網走

道南

石狩川上流

道東から日高

室蘭から静内


樺太アイヌ(骨嵬)の元帝国との戦い

1250年頃、蒙古は黒龍江の河口の奴児干(ヌルガン)に東征元帥府を置いて、河口から樺太にかけての吉烈迷(ギレミ)を支配下に置く。樺太に住む骨嵬(クイ)は蒙古に従わず。

ギレミはギリャーク族。ニヴフ人とされる。彼らはかつてのオホーツク人と遺伝学的には同根とされる。これに対しクイは樺太まで進出したアイヌとされる。

1264年11月 骨嵬が吉烈迷を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。蒙古軍は骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は数次にわたり数千艘の軍船と1万以上の兵力を投入し鎮圧。

1297年5月 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。

1308年 骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

海保氏は、考古学的事実から、当時樺太にそれほど強大なアイヌ武装集団は存在していなかったとし、元軍二万と対決したのは安藤氏だったと推理している。とすれば、終戦処理をめぐり安東軍内部に鎌倉派と元派の分裂が起きた可能性もある。


1204 北条義時、執権に任ぜられる。

1216 鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島(夷島)に追放する。その後1235年、1251年にも関西方面の罪人を蝦夷島送りにしている。

安東家が蝦夷管領に

1217年 執権・北条義時、陸奥の守を兼任。安東太郎(堯秀)を蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)に任命。「東夷を守護して津軽に住す」。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。

1223年頃 十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。

1229年 安東氏、十三湊藤原氏を征服。藤原秀直は渡島に追放される。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、 宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。鎌倉末期には安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。

1268年 津軽で蝦夷の蜂起がおこる。 蝦夷管領安藤五郎が殺される。仏教を夷島に持ち込み強制したのが原因とされる。元との講和を巡る方針争いとの説もある。

1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。

1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。

津軽大乱・安藤氏の内紛

1320年 津軽大乱が始まる。出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。惣領安藤又太郎(季長)が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に返り討ちにされる。

1322年 安藤氏で内紛。季長と従弟の五郎三郎(季久)が対立。季長は西が浜に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。

1322年 得宗家公文所の裁定。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。

1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。

1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。

1326年 季長は季久に従わず反乱。鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。あらためて宗季を蝦夷管領に任命する。

1326年7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1326年? 十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。

1327年 幕府は宇都宮高貞・小田高知を「蝦夷追討使」として派遣。1年後に安東家の和議に成功。季久の地位を安堵する。安藤季長は鎌倉に連行される。

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。

東北地方における覇権争い

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。

1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。

1335年 曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。

1338年 足利尊氏、征夷大将軍となる。北畠顕信は陸奥の国司となる。南部政長が糖部の国代となる。(南部藩がらみの記載は他の事項との食い違いが多く、相当眉唾と思われる)

1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。10万人(?)が死亡。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。

1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。

絵詞の要旨: エゾ は日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むと ころは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬 の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。

1361 青森県東部での南部氏と曽我氏の戦いは南部氏の勝利に終わる。

1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国、そして津軽の安藤氏を下の国というようになる。

1410年 南部守行と湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。

1411年 新たに中国大陸を制覇した明は、アムール川下流域まで進出。出先機関の「衛」をカラフトなど3箇所に設置、苦夷(アイヌ)と交易する。日本資料では「応永の蝦夷の乱」と記録されている。

津軽の安東家の滅亡

1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。

1423年 安東鹿季 兄盛季から分かれ、湊安東家を起こし、秋田湯河湊(秋田市)を本拠とする。

1423年 「安藤陸奥守」が室町将軍にラッコ毛皮30枚を献上。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。

1432年 安東盛季、唐川城、柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。

1432年 盛季の舎弟安藤重季の嫡男である安東政季も捕らえられ、八戸南部藩に送られる。八戸南部藩当主の南部助政は、彼の武勇を惜しんで命を助け、宇曽利(下北半島)の田名部に知行を与える。(この後まゆつば物の記載が続きます)

1435年 後花園院、羽賀寺の再建を「奥州十三湊日の本将軍安部康季」に命じる。安部は安藤氏の官称。

1445年 安藤盛季の子康季、十三湊日下奨軍となる。十三奪回をめざし津軽に渡る。鰺ケ沢 (西津軽郡) 付近で戦闘を交えるが、引根城で病死。


松前における支配体制の再編

1432年(再掲) 安東盛季、唐川城、柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。

1443年 小山隆政が渡道。上ノ国の花見岱の館を拠点とする。上ノ国寺が草創。(上ノ国町教育委員会の「勝山館年表」による)

1450年頃 和人がアイヌとの交易や漁場への進出を通して蝦夷地南部に勢力を張る。西蝦夷は余市まで、東は鵡川付近まで和人集落が形成されていた。道南地方沿岸には安東氏系列の豪族拠点が形成され、「十二館」と呼ばれた。安東氏宗家は松前の大館を拠点とし、蝦夷監領として豪族を束ねる。「新羅の記録」によれば、箱館には毎年若狭から商船がきて浜に架け作りの問屋を設け、柱に船を繋いだという。この頃の道内アイヌ人人口は約50万人と推定される。

館名
所在地
館主
志濃里館(志海苔)
函館市志海苔町
小林良景
箱館(宇須岸館)
〃元町
河野政通
茂別館
上磯町茂辺地
安東政季→下国安東家政
中野館
木古内町中野
佐藤季則
脇木館(脇本?)
知内町湧元
南条季継
穏内館
福島町吉岡
蒋土季直(コモツチ)
覃部館(オヨヘ)(笈部?)
松前町東山
今泉季友
大館
〃西館
下国定季→ 相原政胤
祢保田館(ネボタ)(弥保田?)
〃館浜
近藤季常
原口館
〃原口
岡部季澄
比石館
上ノ国町石崎
厚谷重政
花沢館
〃上ノ国
蠣崎季繁→武田信広

1452年 武田信広、陸奥田名部(下北半島)に来て、邑主蠣崎蔵人の領地を管理する。蠣崎蔵人は元武田蔵人を称す。芸州武田氏の系列で、乞われ蠣崎家に入る。蠣崎家は元安東氏の系列であったが、南部の軍門に下り所領を安堵される。

前後の経過より見て、蠣崎蔵人と武田信広は同一人物と思われます。蠣崎は地名で、田名部から西に30キロ、青森湾を隔てて青森市と向かい合っています。上の国の蠣崎家は、ここの蠣崎家からの分家と思われます。蠣崎季繁=蠣崎蔵人説もあるようです。
武 田信広は「若狭国の守護、武田信賢の子。相続争いに敗れて蝦夷地に渡った」と称していますが、芸州の武田家にも、若狭の武田家にも信広の名はないそうで す。福井県立若狭歴史民俗資料館に 小浜市龍泉寺の古文書が残されており、松前家が祖先信広の出自を明確にするため、 家臣を調査に派遣したときの記録が残されているそうですが、その結果はネガティブだったようです。実体は不明ですが、若狭商人につながる人物の一人と考えられています。

1453年 康季の子義季は再度津軽奪回を計る。大浦郷狼倉(おいのくら)・高舘山で、南部勢に攻められ自害。安藤氏本家断絶。

1454年 南部助政が死亡。後継の光政は、安東政季の抹殺と宇曾利(下北)の全面支配を策す。安東政季は、後南朝推戴を名分として挙兵。一時、南部軍に強力なダメージを与えるが徐々に後退。

54年8月 安東政季、下北半島を脱出し大畑から渡島に渡る。武田信広・相馬政胤(相原?)・越智政通(河野?)等も一緒に海を渡る。渡島に渡った安東政季は、義季亡き後の蝦夷管領を引き継く。

 

1456年

この年の記載はきわめて錯綜している。重大事件が3つも重なっているが、多分これはありえないことで、この内のいずれかはこの年のものではないと思う。一応事項別に書いておく

1)コシャマインの反乱

1456年春 志海苔の鍛冶屋村で、オッカイが一人の鍛冶屋にマキリの製作を依頼した。オッカイと鍛冶屋はマキリの出来栄えについて口論となり、頭に血が上った鍛冶屋は、そのマキリでオッカイを刺し殺した。

オッカイは近くのコタンの首長の子、なお「オッカイ」は固有名詞ではなく、アイヌの男の子をさす一般名詞とも言われる。「マキリ」とはアイヌ人が持つ携帯用の小刀である。

56年夏 アイヌ人集団、オッカイを殺害した鍛冶職人の住む志海苔の鍛冶屋村を襲撃。女子供問わずに虐殺したという。その後志苔館(館主・小林良景)を攻撃。秋の狩のシーズンを迎え、反乱はいったん収束。

1457年

5月14日 オシャマンベの首長コシャマインを盟主とするアイヌ同盟軍が蜂起。兵力は9千人(東部アイヌ約四千強、北部アイヌ約二千強、西部アイヌ約三千)といわれる。総兵力300人の志海苔館はまもなく陥落。小林良景は箱館に避難。アイヌ軍はこれを追うようにして箱館を攻撃。まもなく箱館も落ちる。小林良景と箱館の河野政道は茂別館に逃げ込む。

5.17 箱館を占拠したコシャマイン、もべつ館の包囲に入る。別動隊は海沿いに西へ向かって進撃。中野館、脇本館、穏内館と次々に陥落させ松前大館を包囲。大館に籠もった下国定季は蛎崎繁季に援軍を求めるが、蛎崎繁季の援軍は途中でアイヌの伏兵に遭い敗走。

5月下旬 アイヌ軍、松前の大館を落とす。館主の下国定季は捕虜となる。コシャマインは大館の警備に三千人を配置、タナケシに二千人をつけ花沢館攻略に向ける。タケナシは松前から海岸沿いに上の国に侵攻。原口館、比石館、禰保田館を次々に落とし花沢館に迫る。西部アイヌも南下し、これに合流。

57 コシャマインの軍勢が比石館(上ノ国町石崎)を落とす。城主の厚谷重政は敗走。(上ノ国町教育員会パンフレットに56年の事項として記載)

5月末 上の国の武田信廣、タナケシの部隊を迎え撃ち、これを殲滅。

花沢館の戦い: 信廣はわら人形を花沢館の柵沿いに並べ立て、アイヌに附子矢(毒矢)を撃たせた。そしてこの矢をアイヌ側に撃ち返し多大な損害をあたえた。うろたえたタナケシが森の 中に潜むと、信廣は森のまわりに油を撒き火を放った。森の中から逃げ出してくるアイヌは信広軍の餌食となり、軍は全滅した。

6月初 武田信廣率いる軍勢、約1500名は大館奪還作戦を敢行。大館の裏山から逆落しに突入、下国定季を救出する。これに成功した後、原口館、比石館、禰保田館を順次奪還。

6.18 武田信廣軍、茂別館に入城。志海苔、箱館をふくむすべての和人兵がモベツに結集。これに対しコシャマインの兵は3千あまりに減少していたとされる。

6月20日 和人軍はモベツから七重浜に出て、一進一退を繰り返しながら箱館のアイヌ軍を誘い出す。コシャマインは七重浜に進撃するが武田の計略にはまり敗死する。コシャマインの死を機に形成は逆転。(一説に、花沢館の守護を務める蛎崎季繁、偽の敗北宣言を発しコシャマインに和議を申し入れる。武将武田信広は和平会談に現れたコシャマインを謀殺とあるが、これは後のタナイヌ、タリコナの蜂起との混同であろう)

えのもとさんのページから: 信広は負けて森の中に逃げるふりをすると、コシャマインは勢いにのって追撃してきました。木のほら穴でようすをうかがっていた信広は機をみて強弓を射放しコシャマイン父子を射殺すると、おどり出てその部下数人を切りたおしました。

8月 信広は花沢館の川向かいに州崎館を建設。その後さらに新しく拠点として堅固な「勝山館」を築く。(発掘調査で勝山館には300以上の家屋が確認されている)

2)安東正季の秋田への移動と三守護体制への移行

56年夏 蝦夷管領・安東政季、秋田檜山の安東氏(秋田城介安日尭季)に招かれ家督を継ぐこととなる。男鹿嶋に居を構える。のちに湊安東氏と合体して秋田安東と改称する。

(おそらく同じ事項が、ウィキペディアでは異なる記載となっている。下国家は津軽帰還を試み、その拠点として出羽国河北への進出を図った。「河北千町」を領していた葛西秀清を滅ぼし、檜山を本拠とした)

56年秋 安東政季、道南十二館の館主を茂別館に招集。自らが蝦夷地から去ることを告げ、後継者として武田信廣を推挙する。信広が固辞したため、蝦夷管領職は安東政季が続けることとなり、三名の管領代を任命する。(後継者推挙とか固辞とかは明らかな作り話であろう)

56年 「三守護体制」が施行される。上の国の武田信廣、松前の下国定季、茂別館を中心とした「下ノ国」の安東家政(政季の弟)が守護となり、その下に館主を置く。松前の補佐役に相原政胤、下の国の補佐役には河野政道が就任。(上の国の守護は当然蠣崎季繁のはず。松前側の後代の脚色であろう)

1456年 武田信廣と蠣崎季繁の娘のあいだに光廣が誕生。(松前家の公式記録)

3)武田蔵人の南部藩に対する反乱

56年9月 蔵人の乱。下北半島蠣崎の武田蔵人信純、八戸の南部政経の干渉に対抗し挙兵。秋田安藤氏・葛西氏や越後・能登などの豪族の支援を受け、アイヌ人3万2千を動員。野辺地城を攻囲、さらに横浜地方と六ヶ所の泊付近で南部藩とのあいだに激戦。その後七戸城も陥落させる。七戸城主南部政広は討死。

56年11月 八戸政経が軍を発し、七戸・野辺地城を奪還。

1457年2月  八戸政経、野辺地から海路蠣崎を攻める。武田信純は敗北し大畑から蝦夷に逃亡する。しかし信純の名は蝦夷地の歴史にはまったく登場しない。(「東北太平記や八戸家伝記は57年2月の発生としているが、粉飾も多く史料としては決定打に欠ける」との説あり

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1459年 上の国蠣崎家の重臣小山隆政、大館ともべつ館の両下国氏とつるんで、蠣崎信廣打倒を企てるが、発覚し殺害される。

1462年 信広の義父蠣崎季繁が没する。名実ともに信広が和人集団の支配者となる。

1467年 応仁の乱が発生。

1469 蝦夷蜂起

1473 蝦夷蜂起

1482年 李朝実録によれば、室町幕府の使者に伴われて「南閻浮州東海路夷千島王か叉」(安藤政季か?)の使者が朝鮮国王に面接。大蔵経の下賜を願う。柿崎信広の子、光広か?

1485年 北夷(樺太)より中国銅雀台瓦硯(どうじゃくだいがけん)伝来。蠣崎家の家宝となる。

1488年 安東政季、米代川上流の比内・阿仁に勢力を広げ、津軽復帰を狙うが、家臣の長木大和の謀反にあい、河北糖野館で自害する。下の国は忠季が後継。

1494年 蠣崎信広が死去。享年64才。勝山館背後の山に葬り、夷王山と名付ける。

1495年 安東忠季、河北にあらためて檜山城を築く。このあと檜山の経営に主たる努力が払われる。

1496年11月 蛎崎光広をはじめとする渡党の館主たちが、秋田檜山の安東忠季に守護職下国恒季の悪政を訴える。恒季は粗暴の行為が多く、 罪のない人を殺害したり、 若い女性を人身御供として矢越岬に沈めたりしたという。忠季はこれら渡党の館主たちの意向を受けて松前大館に討手を差し向ける。恒季は安藤忠季の命によって自害。後任の守護職には相原季胤が就任。

96年 アイヌに襲われ茂別館は陥落。館主安東家政は蠣崎光廣から泊館を与えられる。

ショヤ・コウシの反乱

1512年4月 東部の村長ショヤ(庶野)、コウシ(匐時)兄弟が蜂起。下国守護領の残滓である志海苔館、箱館、与倉前館を強襲。箱館の河野季通、志海苔の小林良定、與倉前の小林季景たちは自害。安東氏の浄願寺は蜂起を避けて秋田に撤退。蠣崎光広、義広がこれを撃退。反乱軍はいったん攻撃を止める。

箱館は、もとウスケシ(宇須岸)とよばれていた。函館山麓にあった河野氏の館が箱形だったことから、箱館というようになった。天然の良港だが、2度もアイヌ軍に攻めおとされてさびれ、和人は亀田に移った。与倉前館は12館には入らず志海苔館の支城的役割を果たしていたとされる。函館市高松町の海岸沿いにあった。

13年6月 ショヤ、コウジ兄弟が前年に続き攻撃。福島町館崎地区の穏内館も炎上・陷落。館主蒋土季直は自害。

13年6月 アイヌ軍、松前の大館を陥落。守護職の相原季胤、村上正儀らを討ち取る。蛎崎光広がアイヌ軍の仕業に見せかけて攻めたとの説、ショヤ、コウジ兄弟は光廣の手先だったという説もある。

14年3月 空城となった大館に突然蠣崎光広が乗り込む。180隻の兵船を率い、長子義広と共に移動。大館を改修して徳山館と名付け、本拠とする。勝山館の守護には、光広の次子高広をあてる。

光広は転居の理由を述べた文書を檜山安東氏に送り、安東氏の下で代官に任命することをもとめるが、安東氏は二度にわたりこれを拒否。光廣は紺備後という能弁の浪人を雇って交渉させ、ようやく了承を得たという。

1514年 蝦夷地にくる諸国商船から税金を徴収する権利が与えられる。アイヌに占領された箱館に代わり、松前が蝦夷地貿易の拠点となる。

1514年 安東氏、「諸州より来る商舶旅人をして年棒を出さしめ、過半を檜山に上る」ことを条件に「狄の嶋を良広に預け、国内を守護すべき」と定める。これを受けた蠣崎光広は松前大館に役取り人を置く。

1515年6月 ショヤ、コウシ兄弟のアイヌ軍が蜂起。徳山館を攻める。蛎崎光広は和睦すると見せかけ、会見の酒席で両者を暗殺。

えのもとさんのページから: 光 広は女たちにキヌタを打たせて武装の音をかくし、あらかじめはずしておいた部屋の戸をたおして切りかかり、みな殺しにしてしまいました。遺骸は小館下の東 に埋められ、蝦夷塚と称された。光広が斬込の際に用いた大刀は、信広が蠣崎季繁から拝領したもので、のち松前家の重宝となる。

1525年春 東西蝦夷の蜂起。各地のアイヌによって多数の和人が殺される。和人住民は上ノ国と松前に逃げ込み、蛎崎氏は天之川流域と松前を結ぶ防戦線を設定した。

1526年5月 松前の徳山館にアイヌの来襲。

タナカサシ(タナイヌ)親子の反乱

1527年3月 西部の瀬田内で首長タナサカシ(一説にタナイヌ、タナケシ)の指導するほう起。瀬田内館は落城し館主の工藤祐兼は戦死。義広は上ノ 国勝山の和気館(和喜館?)を前進本部とし、工藤九衛門の率いる攻撃隊を瀬田内に派遣する。タナイヌはこれを打ち破る。(別の記述では、工藤九郎左門祐兼 と祐致(すけとき)の兄弟に兵を授けてこれを討たせたが、祐兼は瀬田内甲野(かぶとの)(北桧山町)に敗死し、弟祐致は熊石町雲石に逃れた、とある)

1528年5月 タナサカシの部隊、松前義広の居城徳山館を夜襲するが失敗。このとき義広自らが槍を振るって撃退したという。

1529年3月 タナサカシが上国の和喜館を攻撃。義広は不利を悟って和睦を乞い、「ツグナイ」の品を城外の坂の途中に置いた。これは策略であった。タナサカシ勢がこれを回収するところを不意討。タナサカシを射殺。あわてた蝦夷軍は逃げ散ったが、天ノ川は雪解水が増水して渡ることができず、館下の菱池に追い込まれ皆殺しにされたという。

1531 タナサカシの女婿タリコナが蜂起。徳山館を襲撃。嫡子季広の奮戦で撃退した。その後も5年間にわたりタリコナのゲリラ戦が続く。

1536年6月 タリコナ、義広を狙って勝山館を強襲、兵力に劣る蛎崎氏は再び和睦を乞う。館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺。これ以後アイヌの攻勢はなくなった。 (これについてはだまし討ちではなく、待ち伏せ作戦で討ち取ったという説もある)

1546年 西津軽深浦に居を構える河北森山舘の安東定季が、津軽奪還を目指し兵を起こす。4代目当主の蛎崎季広は小泊に渡り、搦手の大将として作戦に参加。以後北畠家滅亡までに7回の出陣。

1548年 上ノ国城代の蠣崎基広が季広に対し謀反(勝山館荒神堂跡の伝説)。季広は息子の正広を勝山城代につける。

和人=アイヌ合意の成立

1550年 檜山(能代)の安東舜季(きよすえ)が蝦夷に来島、東公の島渡と呼ばれる。日ノ本エゾ(チコモタイン)、唐子エゾ(ハシタイン)、渡島エゾ(蠣崎)の三者の交易方法を決め、講和させる(新羅之記録)。

1550 和人=アイヌ合意に関する異説。李広、相次ぐアイヌの反乱を前に妥協を図る。瀬田内の首長ハシタイン(道南西部の代表)、知内の首長チコモタイン(道南東部の代表)のあいだで合意。(御由緒書之類)

和人=アイヌ合意の内容: 知内と上の国を結ぶ線の以南を和人、以北をアイヌの住居域とする。ハシタインを上の国天川の蝦夷役に、チコモタインを東部の蝦夷役に任じる。和人支配域はコシャマインの反乱の時期から1/3に減少。

1552年 蠣崎家は「夷狄の商舶往還の法度」を制定。蝦夷地に到来する商船から徴税し、これを両蝦夷役に配分するなど権利と権威を付与。アイヌたちは季広をカムイトクイ(神の友)と称して尊敬した。これにより蠣崎家は本州交易の独占的支配者として特化し、アイヌに対する支配体制と交易の優位が確立される。

1565年 宣教師ルイス・フロイスによりはじめてヨーロッパにアイヌの情報が伝わる、出羽国の秋田に、アイヌが多数交易にくる様子などを記録。

1566年 檜山と秋田湊の安藤家が合体。南部家の支配する鹿角郡を攻撃する。いったん攻略に成功するも南部家に奪回される。蠣崎軍もこの戦闘に参加する。

1590年2月 大浦(津軽)爲信が津軽浪岡の北畠顕慶を攻撃。季広は83歳で出陣。安藤家に忠義を尽くす。この間、季広の子慶広は、豊臣秀吉の奥州仕置にかかわる。

松前家の大名への昇格

1590年3月 豊臣秀吉、「奥州・日の本まで」征服するため京都を出発。

7月 秀吉、東北地方から蝦夷島にかけて諸大名に出仕を求める朱印状を発給。奥州諸大名に朝勤を命じる。

9月 奥羽検地(奥州仕置)。津軽・秋田地方に前田利家、木村重茲、大谷吉継らが乗り込む。蠣崎慶広はこれを契機に中央接近策を展開。津軽に渡海して前田利家に面会し、秀吉への取り成しを依頼。

12月 蠣崎慶広、桧山安東家の当主実季と共に上洛。「狄之嶋の主」として秀吉と聚楽第で謁見。蝦夷特産の鷹を献上し従五位下民部大輔に叙される。これにより蠣崎家は、安東氏の代官の地位から、同列の大名となる。(一説ではこのときは安東家の従者の扱いで、独立を認められたのは93年とされる)

12月 京都在留のイグナシオ・モレイラ神父が慶広に同行したアイヌ人から事情聴取。「日本人は蝦夷といい、土着のものはアイノモシリと称している」と記載する。

1591 東北地方で南部氏の一族九戸政実が反乱。秀吉は6万余の大軍をさしむける。慶広は独立の大名として 和人の家臣団とアイヌを率いて出陣。「蝦夷が射た矢はかならずあたり、たとえ軽傷でも死なないものはない」と評判をとる。(「氏郷記」によれば、九戸勢の 中にも夷人が二人いたとされる)

1591年 秋田安東氏、蝦夷の支配を外される。

1592 ルイス・フロイス、アイヌ民族とオランカイ人が交易を行っていると記載。

1593年 豊臣秀吉、朝鮮征討令を発する(文禄の役)。

1593年1月2日 蠣崎慶広は肥前名護屋に出陣して秀吉に謁見。秀吉は慶広を志摩守に任じ、江州に馬飼所三千石を与えようとする。慶広はそれを辞退し、木下吉政を通 じて国政の朱印(蝦夷地の領主)下賜を願い出る。

1月6日 蠣崎慶広、秀吉より志摩守に任ぜられ、「蝦夷島主」の呼称と船役徴収権を認めた御朱印の制書(朱印状)を下賜される。このとき慶広は参陣していた徳川家康にも会い、奥狄唐渡(樺太)渡来の道服を献上する。

物騒な朱印状: 諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事

1593年 帰国した慶広は、アイヌを集めて朱印状を読み聞かせ、「志摩守の命に背けば関白様が数十万の大軍で征伐にくる」と威厳を誇示したという。

1596年 ルイス・フロイス、アイヌが大陸より松前城下に来たり、魚類、皮革、昆布などを売り、衣類、武器類を購入せりと記載。

1599年 秀吉の死後、慶広は家康に接近。大阪城で徳川家康に謁見。蝦夷全島絵図と家譜を献じ、姓を松前氏と改め、臣従の意を表明した。松前の名はアイヌ語で渡島半島を表すマトウマイヌからとったとされる。

1602年 安東家、常陸国宍戸(茨城県友部町)に移封される。

1604年 徳川家康、蠣崎家に黒印状(いわゆるお墨付き)を与え、蝦夷地における交易の独占を認める。この黒印状により、和人の商船は全て松前藩を通してアイヌとの交易を行う事になり、アイヌの本州島の和人との直接交易は表向き禁止された。これを機に蠣崎は松前と改称する。

1604 千軒金山が発見される。 徳川幕府は 「山方三法」 を定め、 総ての鉱山は幕府の直営としているが、 松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、 鉱床・鉱区が特定出来ないとの理由で松前氏に下賜した。

1606 松前慶広、徳山館の南側の台地に新しく福山城を建設。城下町を構築し、蝦夷地貿易の中継点とし、蝦夷地での交易を行うすべての商船に対し、松前城下での検閲を義務化する。また交易場所も指定する。亀田と熊石に番所を置きそれより奥地への和人の立ち入りを禁止。

「場所とは領分のようなもので、何れも海辺ばかり、一場所およそ50里から70里。奥は皆空地にして、人跡絶える深山、広野のみなり」 『蝦夷草紙巻之一』

1613年 イギリス人商人ジョン・せーリス、「アイヌ人は採取した銀・砂金を持参し、米や衣類と交換している。日本の米は蝦夷では4倍の値となる」と記載。

15年 大阪夏の陣。慶広は自ら兵を率いて出陣。

松前金山とキリシタン

1617 松前の千軒岳周辺の礼髭・大沢両村で砂金が発見される。松前藩、砂金鉱 の開発に着手。最初は千軒岳周辺河川、のちに島牧、国縫、日高の各河川に広がる。おりから東北地方が元和の大飢饉となり、松前はゴールドラッシュとなる。 数万人の和人「入稼ぎ者」が北海道各地へ流入。砂金掘り・浜辺での漁業・樵などの労働力として働く。内地からやってくる砂金掘人夫をほとんど制限なしに受 け入れる。

流れ者による被害: 南 部・松前・秋田・津軽の出身者が多かった。中には、迫害を逃れて渡航してきたキリシタンも多数いたといわれる。砂金採掘のために流域が荒らされた。造材の ために森林が破壊された。また漁業者が河口で鮭を多量に捕獲したことから、内陸部アイヌの魚場への遡上数が激減。各地のアイヌの生活は圧迫される。

1618年6月 イエスズ会のジェロニモ・D・アンジェリス神父、松前に10日間滞在。キリシタン宗徒に福音を与え若干の人に洗礼を授ける。松前藩は幕府の禁令を無視し、「天下がパードレを日本から追放したけれども、 松前は日本ではない」とし、キリシタンの活動を容認。

アンジェリス神父: シシリア島生まれ。18歳でイエズス会に入会し、インドのゴアからマラッカを経て中国のマカオへ派遣される。1602年に日本に着いたあと京都伏見の修道院で日本語を学び、 その後京都から駿府付近までを持場として布教活動。キリシタン禁教令を受け長崎で船待ちをしていた時に蝦夷地訪問を決意した。
カルワーリョ神父: ポルトガルのコイムブラ生まれ。1613年に日本に入り天草に赴任。キリシタン宗禁教令によって長崎から追放されたが、16年に密入国。アンジェリス神父の補助として東北地方で布教活動。

1619年 エリウド・ニコライ、「日本の北方に、日本人はエゾと呼び、土人はアイノモショチと呼ぶ大きい島がある」と記述。

1619年 サルフの会戦。明軍がヌルハチの率いる満州族に大敗。このあと山丹貿易はいったん衰退する。

1620年8月 ディオゴ・カルワ-リュ神父が松前に潜入する。慰問とミサ聖祭を行うため、知内川上流一帯のキリシタン集落を訪れる。カルワーリョは死の直前、二回目の松前訪問をしたとされる。

カルワーニュの旅行記: 毎年300隻以上の大船が松前に集まると記録。 「松前殿が士達に支給する知行は、近くの河川ですから、そこで漁れる魚がすなわち彼等の収入となります」とされ、アイヌから、ラッコの毛皮、鮭や鰊、緞子 (蝦夷錦)などの交易品がもたらされる様子などが記録される。また、蝦夷地に渡航する砂金掘りの人数は、1619年に5万人、1620年には3万人と記述 されている。

1623年 アンジェリス神父(55)、カルワ-リュ神父(46)、家光の禁令強化により相次いで殉教。(江戸で火あぶりの刑)

1624年 アイヌのあいだで最初の痘瘡の流行。

1630頃 商場知行制確立。カラフトやアムール川、東北地方まで出向いていたアイヌの自由な交易活動は禁止され、独占的な「交易」により不利な交換レートを強要された。これ以後、アイヌの生活は大きな圧迫を受ける事となる。

商場知行制(あきないばちぎょうせい): 米の収穫がない松前藩は、蝦夷地61ヶ所にアイヌ交易地を作り、家来に交易権を与えた。これを商場あるいは場所といい、権益を与えられた家臣は知行主、俗に場所持ちと呼ばれた。これによりアイヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定されることになる。場所持といはれる家臣は、延宝元年には四十八人、普通の切米扶持の武士が百二十人、徒士足軽用地下侍百人余であった。
知行主は年に一度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益で暮らしをたてた。商場知行制で無高大名であった松前領は十万石級の暮らしであったという。

1633年 和人居住区が拡大される。函館東側の石崎を東端とし乙部までを北端とする。

33年 松前藩、数次にわたり奥地を探検。蝦夷の地図を完成させる。

1638年 島原の乱が終結。幕府によるキリシタン禁止令がさらに強化される。

38年 ロシア、オホーツク海に到達。南方進出に着手。

1635 松前藩士村上掃部左衛門、藩命により蝦夷島を巡行し地図を作成。これを「島巡り」という。

1639年 松前藩、島原の乱のあと幕府の圧力に屈し、千軒岳の砂金鉱で働いていたキリシタン106名を処刑。この年だけで大沢金山で50人、石崎で6人、千軒金山で50人が殺されたという。なお金山の検司 (死) 役人として処刑に立会した池木利右衞門という藩士が、 五十年後の記録には古切支丹 (キリシタン本人) であったことが明らかになっている。

1640年頃 蝦夷地の産物を上方などへ輸送する「北前船」が、この頃より盛んになる。

シャクシャインとオニビシの抗争

1640年頃 この頃のアイヌ内部の勢力圏は、①内浦湾西岸部:アイコウインを大将とし、松前藩のお味方とみられていた。②余市方面:大将 八郎右衛門の部族。宗谷方面にも支配がおよぶ。③石狩中流域:ハウカセ大将の部族。④新冠から胆振、石狩南部:シュムクル(西の人)と呼ばれる。シュムク ルはパエ(門別)を本拠とし、オニビシが首長を務める。⑤静内以東厚岸方面:メナシクル(東の人)と呼ばれる。シプチャリ(静内)を本拠とし、首長はカモ クタイン、副首長がシャクシャイン。1200年の項と比較されたい。

1643 セタナイのヘナウケが松前藩の横暴に抗議し蜂起するが、松前軍により制圧される。

1643 オランダ東インド会社のフリーズが十勝沖に現われ、厚岸に寄港。その後樺太とウルップ島に到達。ウルップ島の領有を「宣言」する。オランダで作られた地図には択捉島やウルップ島が記載される。

1643年 松前藩、「新羅の記録」の編纂を開始。蛎崎(武田)信広から第八代氏広に至る事績を編年体で叙述。

1644年 内浦、目梨のアイヌが南部領下北、津軽などに現れ交易。鰊、干し鮭、ラッコ皮を持参する。

1644年 西部の酋長ウスケシ(一説にヘナウケ)の乱がセタナイで起こる。まもなく蠣崎利広により鎮圧される。

1648 メナシクルとシュムクルの二つの部族が、イウォロ(狩場)を巡る権利、川筋に出入りする和人砂金掘りへの対応を巡って衝突。シャクシャインがオニビシの部下を殺害。松前藩が調停に入り、いったん和解。

シュムクルはシプチャリ川の上流に入り込んでいたが、海岸部(現静内)はメナシクルが押さ えていた。シュムクル(西の人)は一説にハエクルともサンクルともシコツクルとも言われる。親松前の部族とされる。呼称がまちまちなのは、英雄シャクシャ インに対抗する吉良上野之介の役を演じたからかもしれない。西の人というのはメナシクルから見た言い方であり、本人たちが「西の人」という意識を持ってい たかは疑問である。いっぽうメナシクル(東の人)は和人と距離を置いていたとされる。

1650年 ハバロフの率いるロシア人強盗団,アムール河流域で略奪を繰り返す。清軍が出撃するが撃退される。

1658年 清軍、アムール河流域よりロシア人を一掃する。

1653 東部メナシの蝦夷蜂起

1653年 パエのアイヌがシブチャリのチャシを打ち破り、カモクタイン首長を殺害。当時シブチャリ川の奥に砂金が発見され、多くの和人金掘りが入 り込んでいた。彼らの応援で勢いを得たオニビシがメナシクルを圧倒。シプチャリの乙名となったシャクシャインも一時身を潜める。

1655 松前藩はたびたび使者を送り、「向後出入りしまじき」ことを合意させる。 福山で領主立会いの下、オニビシとシャクシャインの手打ち式が行なわれる。
 

シャクシャインはこの間にメナシクルの乙名となり、ウタリの信頼を克ち得て勢力を盛り返 す。砂金掘りがバエ側についたのに対し、鷹持ちはメナシクル側につく(越後の庄太夫、庄内の作右衛門、尾張の市左衛門、最上の助之丞ら)。とくに庄太夫は シャクシャインの婿になり、アイヌの軍師を勤める。砂金掘りが自然を破壊するのに対し、鮭を生活必需品とするメナシクルも、広い森林を必要とする鷹持ちも 環境維持を望んでいた。

1661 松前藩の吉田作兵衛、蝦夷全土を調査し地図を作成。

 

シャクシャインの反乱関連地図

 

1662 東部の蝦夷騒乱

1665 東部の蝦夷和解(下国安季のあっせん)

1665年 松前藩、鮭100本の対価を米二斗から7升とし1/3に切り下げる。

シャクシャインの反乱

1668年4月初め シャクシャイン、シブチャリ川沿いの砂金掘り文四郎の家をおとずれたオニビシを襲撃・暗殺する。バエの「オニビシの姉」は戦闘態勢を命じるが、シャクシャインの急襲を受け壊滅。オニビシの姉は戦死し、残党はシコツ(現千歳)方面に逃れる。

4.06 オニビシの姉の夫ウトマサ(ウタフ?)が松前に出向き、兵器と食糧の貸与を依頼。松前藩は、「何方の夷も百姓の事に候得ば、仲ヶ間出入に加勢は困難」と断る。

4月 ウトマサはシコツ(支笏)へ着くとすぐに死んだ。ほかの使者も相次いで急死。「松前で毒を盛られたらしい」という噂が広まる(実際は松前で感染した疱瘡が原因らしい)

4月 シャクシャインは、松前藩によってアイヌの人々が皆殺しにされると訴え、各地のアイヌを糾合する。内浦湾西岸のアイコウイン、石狩のハウカセのグループをのぞきすべての部族がこれに応じる。シュムクルも反乱に加わることとなる。

アイヌ総蜂起の背景: 実権 をにぎっていた家老の蠣崎蔵人広林は、藩の財政を立て直すため、干鮭100本あたり米2斗だった交換比率を7~8升に減らした。岩内では、和人が川に大網 を入れてサケを根こそぎとり、和人の横暴を松前藩に訴え出た余市の村長は、半殺しにされて追いかえされる。また予定通りの品物を調達できなければ子供が人 質にとられるなどの事態も発生する。津軽藩の隠密は、「蠣崎蔵人が家老になってからひどくなった」と報告したという。


1669年

6月14日 シュムクル、シコツ(現千歳)で和人12人を殺害。このあと幌別(登別市)から釧路の白糠に至る東蝦夷のアイヌが一斉に蜂起。商船11隻を襲撃。

6月 西蝦夷地では、歌棄(寿都)から祝津(小樽)、増毛にかけて8隻の船がおそわれる。(宗谷・利尻・石狩・釧路以東は不参加)。 和人273(津軽一統誌では355)名が殺害される。

殺された和人の数と内訳: 太 平洋岸では、白老9人、幌別23人、三石10人、幌泉11人、十勝20人、釧路音別13人、白糠13人。日本海岸では、歌棄2人、磯谷20人、岩内30 人、余市43人、古平18人、祝津7人、増毛23人。武士はわずか5名でほとんどが商人、鷹師、船乗り、金堀たち。藩外の流れものが193人と2/3以上 を占める。

6月 徳川家綱将軍、アイヌの蜂起を鎮圧するよう命令。松前藩は、津軽藩などから武器の貸与を受け、国縫と、亀田、熊石に兵を送り防衛線を敷く。和人の脱出は禁止される。

7月 シャクシャインはシブチャリのチャシを出陣。松前からは蛎崎作左衛門以下300名が国縫まで出動。金堀工夫200人と合わせて500人で、土塁を築きアイヌ軍の襲撃に備える。

7月 幕府は松前泰広を総大将に任命。津軽藩も幕府の命令で松前に出兵、南部藩、秋田藩にも出兵の準備が命じられる。

7月28日 シャクシャイン軍およそ2千人、国縫川の松前軍防衛線に攻撃を開始。松前軍は佐藤権左衛門の兵120人、松前儀左衛門の兵120人、新井田瀬兵衛の兵130人を加え、約千人となる。

国縫川は幅約七間。初回の戦闘で、松前軍は前面に鉄砲二百挺を並 べ一斉射撃。アイヌ軍100人を殺害。武士は鎧を着込み、金堀たちは着込みを着装していたので、アイヌの毒矢は一本も刺さらず。昼過ぎにアイヌ軍は壊走 し、山中に逃げ込む。(一説に「鉄砲一五〇〇丁を並べて斉射」とあるが、これは眉唾)

8月4日 1週間の戦いの後、アイヌ軍は松前軍の鉄砲の前に崩れ去り、オシャマンベのチャシに撤退する。さらに松前軍の進出を受け、シャクシャインはシベチャリの砦に撤退し篭城するとともに、各地でゲリラ戦を挑む。

8月下旬 江戸から総大将の松前泰広が国縫に到着。全軍628人を3軍にわけてシブチャリをめざす。

10月 ピポク(新冠)に進んだ松前軍、シャクシャインに講和とツグナイをもとめる。シャクシャインは当初、冬場にかけて持久戦をもくろむが、子のカンリリカの勧めにより和平に応じる。

10月23日 劣勢に立つシャクシャイン、松前軍との和議に応じる。講和の宴にのぞんだシャクシャインは、酒に酔ったところをチメンバら幹部14名もろとも殺される。この日、アイヌ側の死者は74人とされる。

10月24日 松前軍はシブチャリのチャシを焼きはらう。アイヌ軍参謀の鷹待庄太夫は火あぶり、ほかの3人の和人は討ち首となる。その後も散発的な抵抗は72年まで続く。

69年末 鮭100本の対価が1斗2升に改められる。

シャクシャインの反乱の余波

1670年 松前藩は西蝦夷地に出兵。与伊知(よいち)の蝦夷大将八郎右衛門を征す。宗谷・利尻もこれに伴い臣従を誓う。石狩のハ ウカセは、当初武装中立の姿勢を崩さず。交渉の席に出ることを拒否するが、周囲の圧力により屈服。(一説では石狩・シリフカのアイヌが蜂起を策すが、宗 谷・利尻の説得を受け挫折)

1670年 和人居住区が熊石まで拡大される。

70年 シャクシャインの戦いをきっかけに、改良された南部馬が蝦夷地に大量移入され、松前藩の守備にあたる。

1670年 津軽藩、東西の蝦夷地に内密のうちに調査船を派遣、東蝦夷地では追い払われ失敗するも、西蝦夷地では各地の首長と接触、津軽アイヌを通訳として貴重な記録を残す。

「津軽一統志」に残された隠密の牧只右衛門による報告: 美 国の酋長は、「米二斗入りの俵も7、8升しか入っていない。串貝を押し買いし、一束でも不足すると、翌年は科料もふくめ二十束も取られてしまう。それが出 来ないとなれば、子供を質に取られ、女房を妾にされてしまう」と述べる。イワナイの酋長は、「去年、新家老が干し鮭の交換比率を半分以下としたため、仲間 がシャモを殺した」と述べる。シフカリの酋長は、和人の大網を使った鮭乱獲に抗議したところ、暴力を振るわれたと証言。ヨイチの大将ケクシケ(70歳) は、松前で鮭商人の非道を訴えたところ、「首を切るぞ」、「髷を切るぞ」と脅され追い払われた。

1671 松前軍、東部之良遠伊(しらをい)の蝦夷に対し掃討作戦。日高、およびノサップ(根室)、厚岸、釧路のアイヌと和平を結ぶ。

1672 松前泰広、みずから東部久武奴伊(くんぬい)の掃討作戦。浦川のアイヌとの和平成立。アイヌの抵抗は最終的に終焉。

1678年 檜山番所、上ノ国から江差に移る。以後上ノ国は衰退。

1680年 アイヌの宝物を盗んだ和人盗賊二人が、国縫でさらし首にされる。

1682年 将軍綱吉、松前矩広に朱印状下賜。アイヌ人の活動を蝦夷地のみに限定させるよう指示。

1688年 松前藩、和人の蝦夷地への流入を厳禁、アイヌ民族に対する刀狩が行われる。

1688年 水戸藩の水戸光圀、三次にわたり快風丸を蝦夷地に派遣。石狩川流域の調査を行う。快風丸は總長約49メートル、巾約16メートル、櫓40挺の巨船。

1689年 ロシアと清の間でネルチンスク条約締結。清はこれを機に黒竜江下流の本格的経営を開始する。

1691年 松前藩、蝦夷地と和人地の往来改めを強化。熊石、亀田の番所および沖の口、町奉行の権限を強化する。

1692年 大野町で米の収穫に成功したとの記録あり。

1693年 松前藩、知行主がアイヌを「奴僕」化することを禁じる。

1697年 ロシア帝国、カムチャッカ半島を征服。その後さらに先住民と交易しつつ千島列島を南下。

1700年 松前藩が幕府に「元禄御国絵図」を提出。千島列島が描かれた日本最古の地図とされる。

1701年 厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。

1702年 飛騨屋久兵衛、蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ)に目を付け進出、松前藩より蝦夷檜山請負の独占権を獲得、沙流・釧路・石狩・夕張・天塩などの材木を江戸・上方に運び巨利を得る。さらに海産物を商いとして東蝦夷地に進出。

飛騨屋久兵衛: もともと飛騨国益田郡湯之島村(現在の岐阜県下呂町)の材木商。江戸時代の初め江戸に進出した。その後下北半島の大畑に基地を構え、材木を江戸に出荷していた。ただしこの種の出自はほとんど当てにならない。松前藩ともどもアイヌ人出身であった可能性が高い。

1707  和人地の戸口調査が行われる。福山城下(松前)及び57村で、15,848人。

1711年 ロシア、北千島のシムシュ島やパラムシル島を占拠。

1719年 松前藩、和人地の鰊役を増税する。

1719 松前氏は1万石格とされ、交代寄合のまま大名同然に処遇される。

場所請負制度の定着

1720 税制改革として昆布役、穀物役、鱈役、鮫取役、出油役、入酒役などの新しい課税制を布く。

1720年 新井白石、蝦夷地の地理・風俗を紹介する「蝦夷志(えぞし)」を著す。

1720年頃 このころより商人による場所請負制が一般化する。知行主が知行地の交易を商人に一任し、税金として運上金を徴収する制度。ほぼ同時に鱒船、秋味船、海鼡引船の操業も許可される。

場所請負制度: 松前藩やその家臣は、参勤交代など財政上の理由から経営困難になる。累積債務を清算するため、債権者である商人に交易権一任という形で事実上権利を売却した。この「民営化」に伴い、商場知行制の時よりも収奪・酷使は激化した。 

1720年頃 商人たちは高まる本州方面の需要に応じ、場所に新しい漁法を持ち込み、アイヌを使役して自ら漁業を行うようになる。アイヌ人は、交易の対象ではなく、漁場に隷属させられた労働者とされる。

コンブは大阪・富山を経由して沖縄にまで流 通。魚肥(ニシンなどの油を絞ったシメ粕)は、燐酸と窒素を含み、花付きを良くし植物を丈夫にする効果が高かった。綿花・菜種・藍などの商品農産物の生産 性を大幅にを向上させたことから、「金肥」と呼ばれ、近畿市場を中心に大量に流通。上方や江戸に花開いた大衆の消費文化を支える基盤となった。

1730年 清朝、サハリン中部までの住民を貢納民(辺民)とする。サハリンからの中国製品の流入が増大。山丹貿易が本格的に始まる。

1739年 スパンベルグの率いるロシア探検隊、千島列島の地理の全貌を解明。

1737 根室で藩の交易船とアイヌのあいだに「騒動」。松前藩はこの地域への商船派遣を一時見合わせる。

1739年 アイヌ人を使っての各場所での魚肥生産開始。関西方面に出荷されるようになる。アイヌ人は使役の対象に変化する。

1739 松前藩記録によれば、道東地方のアイヌは剛強で、ややもすると松前藩の命令も聞かない.根室、厚岸、釧路あたりは特別に取り扱いが難しい、との記載あり。

1740 蝦夷地の海産物が中国向け嗜好食品として人気が高まる。これらは長崎俵物(たわらもの)に指定され、幕府が直接買い上げるようになる。松前、江差、箱館の三湊の問屋で結成された株仲間が俵物の集荷に携わった。

長崎俵物: 煎り海鼠(いりこ) 、白干鮑(ほしあわび) 、鱶鰭(ふかひれ) の三品を指し「俵物三品」と呼ばれた。他の海産物として昆布、鯣(するめ) 、鶏冠草(とさかぐさ) 、所天草(ところてんぐさ) 、鰹節、干魚、寒天、干蝦(ほしえび) 、干貝などがあるが、これらは俵物諸色(しょしょく)と呼ばれた。

1740年頃 場所の中心に、諸業務を統括する運上家が設置される。漁期には支配人・通辞・帳役の「会所三役」が詰めた(休漁期には番人のみ越冬)。このほか各所に漁場を監督する番屋が建てられた。場所請負人の配下の和人の番人が多数派遣された。

近世蝦夷人物誌: 番人は場所稼方の者より見立てられた無頼の博徒や無宿人たちであった。父母親戚にも疎まれるやからで、往々非道に及んだ。年寄り子供であろうと、しけの時であろうと漁を強制した。クスリ場所では当時41人の番人のうち36人までが、土人の女の子を奸奪して妾となした。

1741年 渡島大島が噴火し、大津波が発生。松前藩領内諸村で家屋破壊791棟、破船1521艘、溺死者1467人に達する。

1747年 ロシア正教会、ヨアサフ司祭をクリル列島に派遣。その後の数年間で200人あまりがギリシャ正教に改宗。

1748 邦広の税制改革。入津する船の積載荷物への課税として、「沖ノ口入品役」が布かれた。

1754年 松前藩、国後場所を開き択捉・得撫までの交易場所とする。

1758年7月 ノシャップ(キイタップ)とソウヤの蝦夷同志の抗争。ノッシヤム(納沙布)のシクフとカスンテ親子が率いるキイタップ(霧多布)アイヌ2千人がソウヤのアイヌを襲撃。60人を殺害し、200人あまりの負傷者を出す。

ロシアの千島進出

1759年 エトロフの乙名カッコロ、松前藩に対し、ロシア人がクルムセに居住していることを明らかにする。

1759年 松前藩士湊覚之進は7月シクフを厚岸に召還。昨年の騒乱を罰し、手印として宝物を提出せしめて許す。

1765年 ロシアの狩猟隊、エトロフ島に上陸。周辺のアイヌに暴行して去る。

1768 コサック百人長のイワン・チョールヌイ、エトロフ島に上陸。アイヌのラッコ猟場を荒らし、小規模な抗争となる。(65年の記載と同一事実か?)

1770 十勝の蝦夷と沙流の蝦夷の抗争

1770年 エトロフ、ウルップ島にプロトジャコノフ商会のロシア人狩猟者(隊長イバレンエンチ)が乗り込み、クリルアイヌに暴行。長老らを殺害。

1771 ウルップ現地のアイヌはロシア人に逆襲。20人を殺害し、残りを追放。

1771 ぺニョフスキー事件。カムチャッカからの脱走者ぺニョフスキーが、ロシア人の意図を長崎商館長に警告。ロシア人が千島に砦を築き、 松前およびその他の諸島をうかがっているとする。

ぺニョフスキー: ハンガリー人でポーランド軍に参加してロシアと戦った。ロシア軍に捕えられ、カムチャッカに送られた。ロシアの船を奪って逃亡し、 阿波の港に着いて徳島藩の保護を受ける。 さらに琉球の大島で薪水供給を受けたあと、マニラに向かう。

1772年六月 ロシア人が霧多布(現在の霧多布ではなく根室周辺)に入る。通商の申し出に対し松前藩は「来年回答する」と言って帰国させた。

73年 ロシア人四十八人が再び来航。「蝦夷地での通商行為は国禁であり、長崎で幕府と交渉すること」と通告。

74年 飛騨屋久兵衛、松前藩からエトモ(室蘭)、アッケシ(厚岸)、キイタフの三つの場所を20年の期限付きで請負う。さらに国後場所での交易権、翌年には宗谷の交易権も手に入れる。飛騨屋は道東地方に定置網などの漁法を持ちこむ。

飛騨屋久兵衛: 陸奥国下北郡 大畑の出身で、本名は竹川久左衛門。北海道のエゾマツ、トドマツを江戸、大阪に送る商売によって巨万の富を蓄積していた。いっぽう、この頃の松前藩は、城 下の大火事、江戸藩邸の焼失、藩主の婚礼、参勤交代などで、巨額の借金をこしらえた。飛騨屋への債務は8183両にもおよんだ。クナシリ方面の場所請負の 権利は債権の「カタ」として譲られたものであった。

1774 クナシリ島の首長ツキノエ、飛騨屋の交易船を拒否し乗組員に暴行を加える。

メノコ勘定: 飛騨屋の交易は正当な取引と呼べるものではなかった。その代表例が「メノコ勘定」と呼ばれる詐欺的手法である。たとえば鮭を受け取るとき、十を数えるに「始まり」「終わり」を加え十二を以って十とした。

1775年 ツキノエ、ふたたび大舟で渡来した飛騨屋を拒絶。交易船に乗り込み、積み荷を破壊・略奪。その後、国後への交易船派遣は8年間 にわたり中断。松前藩は報復としてエトロフを経済封鎖。和人に対し、ツキノエとの交易を禁止。ツキノエらは、ロシアと独自に交易を開始。

78年 イルク-ツクの商人ラストチキン、商船ナタリア号を千島に派遣。イワン・アンチ-ピン特使とシャバーリン船長らは、ツキノエの案内によって松根室のノッカマップに来航。松前藩に交易を求める。

78年 吉雄幸作、「北警論」を著す。

79年 茅部の漁民、蝦夷地出稼ぎ免除を願い、亀田奉行に強訴。

79年 厚岸のツクシコイで松前藩とロシアの折衝。応待した松前藩士は国禁であるとこれを断わり、 これを幕府に報告しなかった。ロシア人はツキノエらとの交易も取りやめる。

79年 清朝、樺太アイヌなど北方民族との交易場所を松花江中流の三姓に指定。

80年 石狩などで天然痘が流行、アイヌの死者647人に及ぶ。

82年 クナシリ首長ツキノエら、飛騨屋との交易を承諾。松前藩によれば、「ツキノエが心を改め詫びた」ため交易を再開したという。

83年 天明の大飢饉。津軽の人多く渡海す。松前及び桧山地方鰊不漁。以後20年にわたり群来絶える。

83年 ソーヤ・メナシ・カラフトで飢饉。アイヌの餓死者がソーヤ・メナシでは800-900名、カラフトでは180名に及ぶ。

蝦夷地防衛論の興隆

83年 仙台藩医工藤平助、ロシアに関する伝聞情報をまとめた『赤蝦夷風説考』を発表。ロシア人の南下に対する蝦夷地防衛の必要性を訴える。

84年 「赤蝦夷風説考」を読んだ勘定奉行松本秀持、本を添えて、老中田沼意次のもとへ蝦夷地調査についての伺書を提出。

85年 江戸幕府にロシア脅威論が高まる。田沼意次の命により東西二つの調査隊が蝦夷地を探索。

山口鉄五郎率いる東蝦夷調査隊にはツキノエらが協力し、エトロフ、ウルップ、カラフトまで を調査した。この調査隊には最上徳内も参加していた。西蝦夷探検隊は樺太に渡る。西蝦夷隊の鈴木清七は単身、中部蝦夷(オホーツク沿岸)を探検したあと東 蝦夷班に合流。大石逸平はカラフト中部のタライカ湖まで到達、さらに東端の北シレトコ岬まで行く。サンタン人(アムール・沿海州の民族)と接触。西蝦夷探 検隊のうち宗谷で越冬した庵原弥六隊長ら5人が凍死。

1786年

8月 十代将軍徳川家治が死亡。これにともない老中田沼意次は失脚。

9.07 メナシ地方を暴風が襲う。幕府派遣の神通丸が標津沖で沈没。五社丸は西別沖で沈没。

10月 蝦夷地探検が中止される。このとき調査隊は根室のノッカマップとニシベツ(別海町本別海)で調査と交易を実施中であった。

86年 蝦夷地探検隊、「蝦夷地の儀、是迄見分仕候申上候書付」と題する報告書を、田沼意次あてに提出。「蝦夷地は広大なうえ地味がよく農耕に適しているが、松前藩はアイヌを農耕化させないため、彼らが穀物を作ることを禁止している」とのべる。

根室歴史研究会「クナシリ・メナシの闘い」によれば、幕府は85年から86年にか けて調査隊に「お試し交易」を実施した。松前藩と請負商人の交易はこの間中止。この交易を通じて、現地での経営がきわめてずさんで不正であることが明らか になる。またアイヌを魚油作りの労働に酷使。暴力を振るっていることも明らかになる。

86年 林子平が『海国兵談』を著す。

87年 蝦夷地探検隊による探検記録「蝦夷拾遺」が執筆される。アイヌの民俗から自然、人文、地理などが詳しく報告されるが、新政府により黙殺される。

87年 最上は江戸に戻った後、松前藩を批判する「蝦夷国風俗人情沙汰」を発表。①松前藩は家康の黒印状に示された「蝦夷は蝦夷次第」の条項を無視 している。②アイヌに対して日本語・日本風の髪型を禁止、笠・蓑・草鞋の使用まで禁止している。③アイヌを「禽獣の類」として区別し、奴隷として酷使して いる、ことを暴露する。

88年 古川古松軒(63歳)、幕府巡見使に随行して江戸から蝦夷地に至り、紀行「東遊雑記」を著す。庶民の服装や食事、アイヌ民族の言語や信仰、漁具や海産物などについて貴重な資料となる。

88年 飛騨屋、クナシリ場所にて大規模な搾粕製造を開始する。泊に運上屋を置き所々に魚場を開く。

鰊粕製造用の大釜が国後に持持ち込まれた。夷人は初めて 見る大釜に驚き「何にするものか?」と尋ねた。和人は「お前らをこの釜で煮て喰うのだ」と応えた。ある日番人がこの釜で風呂を沸かし自分らが先に入浴し夷 人にも入浴するようすすめた。番人は無理に夷人を入浴させ夷人は大火傷を負う。和人はこの出来事を利用し、「仕事をしないならば生かしておいても益はな い。全島の夷人を煮殺してしまう」と威嚇した。

 

1789年(寛政元年) クナシリ・メナシの反乱

クナシリ・メナシの反乱については、日時・場所・経過について異説が多すぎる。原著は「新井田日記」などそれほど多くはないはずなので、各編者が勝手に改編している可能性が強い。つきあわせの作業はかなりしんどい。誤りがあれば、ご指摘願いたい。

5月7日 国後の惣長人(そうおとな)サンキチ、支配人勘兵衛のふるまい酒を飲んだ直後に急死。長人のマメキリの妻は運上屋でもらった飯を食べた後まもなく死亡。(“おとな”は“乙名”とあてる文献もある。“キンキチ”とする文献もあるが、これは間違いであろう)

泊の乙名サンキチ、長患いで病に伏せるに、ある日酒を所望。家 人は運上屋に行き酒をもとめる。運上屋に詰めていた松前藩のウェンベツ荷物改、竹田勘平は酒を与えたが、「サンキチももはやこの酒が呑み納めだ。可哀想な 奴だ」と嘲った。サンキチは喜んで酒を飲んだが、夕方から急に顔色紫紺に変じ苦悶甚だしく激痛叫喚して死んでしまった。弔いに寄り集まった蝦夷共は死体の 変色を見て皆怪しみ不思議がった。「これは和人が毒殺したのではないか」ということになり、毒殺か否か眞為を確かめる為に運上屋に飯を要求した。その飯を 試しに老夷婦に食わせると、何故か其の老婦も死んでしまった。

5.07 乙名サンキチの弟マメキリ、二人が和人に毒殺されたと見て、「座して死を待つことは出来ない」と宣言。アイヌの蜂起を呼びかけ る。サンキチの息子ホニシアイヌ、フルカマフの首長ツキノエの子セツハヤもこれに呼応した。このときツキノエは厚岸の長人イコトイ(息子?)とともに得 撫、択捉まで漁に出かけて不在だった。

5.07 武装したアイヌ41名が、国後トマリの運上屋や番屋、停泊中の船などを襲撃。竹田勘平(松前藩の足軽)、飛騨屋の支配人、通辞、番人など22名を殺害。(5月2日説、10日説もある)

クナシリ組41人の構成: マメキリを先頭にホニシアイヌ、ノチウトカン、サケチン、イヌクマの5人が指導部を形成。ほか9人が殺害に直接加わる。さらに27人が襲撃に参加する。彼らはクナシリ島内のフルカマフ(古釜布)、ムシリケシ、エトリレ、フユニの集落の若手リーダーだった。

5.09 松前藩の交易御用下役格の長谷川仲右衛門、大船の船頭として国後に廻船。夷人達がへやって来て「今日は国後に停泊せずに折り返しなさい、 途中で停泊してもよいからとにかくここを出帆せよ」と勧める。長谷川は勧めを容れ、折り返し出帆し難を免れる。長谷川は夷人と接せるに廉直律義で親切を尽 したため、夷人は彼を信頼し、「この人だけは殺してはならぬ」と合議したとされる。(この事件が起きたのは、蜂起の前日といわれる。とすれば、サンキチの死後、蜂起までに数日を経過したと思われる。この文献は日付などあいまいで、人名も間違いが多いが、変にディテールが詳しく、文体もいかにもそれらしく古風である)

5月10日 その後、反乱部隊は200人以上に膨れ上がり、国後全島の騒乱に発展する。殺された和人は泊で10人、トップライで6人、古釜布で5人。

「クナシリ・メナシの戦い」ではかなりの異同がある。別説によると、フルカマフで 4人、トウフツ(東沸、マメキラエ?)で2人、泊で5人、チフカルヘツ(秩苅別)で8人、ヘトカ(別当賀)で3人の計22人。また別の文献では泊で八人、 マキライで五人、トウプイで六人、古釜布で三人とある。合計だけが符合するのが、「いかにも」という感じである。

5.10 国後の叛徒は国後島を制圧したあと、対岸のメナシに渡り決起を促す。総勢200人となった反乱集団は、各地にチャシを構える一方、次々と和人の陣屋を襲撃。オロマップの番屋では8人の和人が襲われる。

5.10 フルカマフに出張中に捕らえられた厚岸の支配人伝七と吉兵衛は、たまたまエトロフ島に来ていた厚岸の乙名イコトイの知り合いであったことから、助命される。伝七と吉兵衛は国後から択捉へ逃げシャナツへ到着。シャナツの乙名イキトルプに保護される。

一説では、伝七と吉兵衛は兄弟であり、国後のキカナイの通事(通訳)を務めていた。イトコイは択捉ではなく国後に来ていて二人を救出し、シャナに同行したとされる。こちらのほうが話の筋はあう。なおこの文献では、イトコイは国後総乙名ツキノイの「妻の子」とされる。

5月13日早朝 弓と槍で武装した忠類のアイヌ部隊が反乱。指導者は忠類の首長ホロエメッキ。部隊は忠類河口沖に停泊していた飛騨屋の交易船大通丸を、40艘ほどの小船で襲撃、船子13名を殺害する。

5月13日 ただ一人生き残った大通丸の乗員庄蔵は、ホロエメキの黙認の下でその息子セントキに保護される。

5月13日 大通丸襲撃を機に、根室のメナシ地方のアイヌも蜂起する。メナシは現在の根室支庁目梨郡標津町など。

メナシ組89人の構成: 忠類の首長ホロエメッキ(ホロメキ)、シトノエ、ケウトモヒシケの3人が指導部を形成。ほか21人が殺害に直接加わる。さらに89人が蜂起に参加する。

5月13日 国後の反乱者を加え総勢200名あまりとなった反徒は、標津で六名、忠類で八名、古多糠(コタヌカ)で五名、崎無異(サキムイ)で五 名、薫津で5名、オロマップで8名、ほか植別、訓根別の各地で計36名を殺害。これにより和人側の死者は総勢71名となる。竹田勘平を除く70人は、いず れも飛騨屋の使用人で、松前や東北各地からの出稼ぎ者。

「クナシリ・メナシの戦い」ではかなりの異同がある。これによると、標津で5人、忠類で10人、古多糠で5人、クンネヘツ(訓根別、薫別?)で5人、サキムイで5人、ウエンベツ(植別)で8人の計38人。大通丸の死者はこれに含まれない。

5月15日 飛騨屋の霧多布場所支配人の助右衛門、物積み荷取のため標津に来て惨害の後を視察。和人の死体多数を目撃する。その後、叛徒に追い返される。助右衛門は厚岸に戻った後ただちに松前に向け出立。

5月17日 クナシリの反乱部隊が海を渡り、対岸のチウルイ(忠類)に上陸。庄蔵の引渡しを要求。ホロエメキの仲裁により一命を取り留める。その後ノカマップの首長ションコの斡旋により厚岸まで護送され解放される。

5月下旬 下記の一連の出来事は、日時がはっきりしないが、前後から見て5月下旬から6月上旬にかけてのものと思われる。

①国後総乙名ツキノイがウルップでの漁から択捉島シャナツへ戻る。イトコイは、「和人を虐殺したからには必ず問罪されるであろう。その以前 に徒党した者どもをムシリケシへに集め置いてはどうか」と提議。ツキノイは「我が子セッパヤも兇徒に党してはいるが、苦しくないから一緒に捕らえ置こう」 と返答したという。

②シャナツでの会談の後、ツキノイは国後島古釜布に戻り部下の説得にあたった。ツキノイは説得失敗に備え、シャナツで択捉アイヌの部隊編成に当たった。

③説得が成功し、反乱参加者の多くはツキノイの下に帰順した。イトコイは択捉アイヌ部隊を引きつれフルカマップに赴き、反乱参加者をノカ マップに護送した。伝七、ニシコマツケもこれに同行した。まもなくツキノイもノカマップに移動した。野釜布(ノカマップ:現根室市東部)の乙名ションコが 囚人の確保を引き受けた。

④反乱を継続するマメキリ、セツハヤらはメナシアイヌと合流し、抵抗を続けた。残党は「月ノ井を相殺し申すべし」とつけ狙ったという。

⑤ノカマップの乙名ションコ、小使ノチクサ、厚岸幡羅山の酋長イジカリ、別海の酋長ホロヤ、国後副酋長イコリカヤジンがメナシの叛徒の説得に当たった。さらにイトコイとションコがメナシに上陸。反乱部隊と交渉を開始した。

⑥マメキリら反乱部隊は、長老たちの説得で戦闘を停止した。国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降した。一行は国後組とノカマップで合流し、ツキノエらの手で拘留された。

⑦松前軍はイコトイとションコに予審をさせた。その結果、クナシリではマメキリ、セツハヤが首魁とされ、目梨ではホロエメッキが首魁とされた。

⑧ションコは予審の結果を報告すべく、厚岸に赴いた。

6月1日 助右衛門、松前に到着し第13代藩主道広に反乱の実態を報告。松前藩は事件発生後24日目に異変を知る。道広は激怒し叛徒を皆殺せよと指示。新井田孫三郎を隊長とする264名の鎮圧部隊が編成される。

6月11日 新井田隊、松前を出発。鉄砲85丁、大筒(大砲)3丁、馬20頭が配備される。

6月中旬 庄蔵は厚岸で救出され、陸路松前までたどり着く。

6月20日 新井田隊、厚岸で全軍が合流。ションコと打ち合わせしたあと、海路ノッカマップに向かう。

7月8日 新井田隊、野釜布に到着。総乙名ツキノイらアイヌ指導者100名と叛徒200名が待機する。

7月15日 反乱参加者131人が新井田隊の下に出頭。うち直接加害者とされた37人が牢に入れられる。弓102張、毒矢3900本、槍57本、刀68振などが没収される。

7.16 新井田による第一尋問が開始される。新井田はまずツキノイらの無実と忠誠を確認する。

7.18 新井田による第二尋問。国後のマメキリほか四人、目梨のエロメキほか二人、計8人の反乱指導者、和人殺害の下手人29人のあわせて37人を有罪と判断。

7.20 仁井田による第三尋問。罪の軽重を決め刑罰を判決。37人を重罪として下獄させ、訴訟に及ぶことなく殺害に及んだ仕儀を死罪にあたると判断。いっぽう微罪の93人を放免。

7.20 ジインカリ副酋長シモチのスパイ活動により、叛徒の隠匿武器が発見される(夷弓120張、矢房78、毒箭1千900枚、槍戎57 本、刀18柄、短鎌2握)。新井田は「賊まだ改心せずひそかに意図を包蔵している」と判断、首謀者37人全員を斬罪に処することとする。(フレームアップ の匂いがしますが)

7月20日 「国後・メナシの支配人と稼方が心得違にて非分」を働いたとし、4代続いた飛騨屋を出入り禁止とする。これに代わり村上伝兵衛に場所請負を命ずる。(このような処分を新井田がなしえたとは思えないが)

村上伝兵衛: 初代村上伝兵衛は石川県安部屋村の 生まれ。若くして松前に渡り、縁故を得て1706年に石狩地区の場所請負人となる。故郷の名を取って「安部屋」と号し、五艘の船の回船問屋を営むまでにな る。三代伝兵衛は、町奉行下代・町年寄りに任命され、俸禄米20俵を賜り、日本長者鑑に載るほどの豪商となる。また二百石船を2艘作り、樺太、国後の漁場 探検を行う。飛騨屋に代わりクナシリ・メナシの場所請負となったのは、この三代目。

7月21日 蜂起の指導者マメキリら7人をノッカマップの丘で死刑に処す。これを知り騒ぎ始めた捕囚30名は、全員が鉄砲などで撃ち殺される。メナシの民衆は反撃せずそのまま解散。その後ツキノエ、イコトイ、ションコらの手勢が防衛に当たる。

かなり眉唾の実況中継: 湾 頭の黎明と共に陣営吹角の声高らかに将士整然と武具に身を固め軍令により座列する。茜の吉方に向って幔幕を巻きめぐらし一連の紅旗を陣前に突建て、光景厳 峻たる中に討ち響く鼓に、一座襟を正す。八人の凶首が囚禁の小屋から連れ出される。「国後島、目梨の騒動は大勢殺害、騒動に及びし段不届きなり。依って死 罪を申し付ける」との宣告があり、ただちに斬首が開始される。
たちまち悲鳴怒号の声陣外にも徹し、 残りの29人の兇賊その騒然たるを聞くや激憤一時に発する。賊は小屋を破壊し、獅子奮迅の勇を振るって陣営に襲撃をかける。松前軍は忽ちのうちに彼らを斬 殺し、更に大声で衆夷に、「只今叛夷不法の所業があったので止む得ず武器を用いた、尚今後も異変があれば直ちに征伐する」と申し渡す。

7.21 兇徒の首級を塩蔵し右耳に名牒を貫き首桶に収め首実検を行う。

7.22 新井田、東部各地の酋長数十人を呼び出し、国政の制令と諭告の式を行なう。この式を於牟謝という。

7.24 松前軍、ノツカマップ蝦夷に米九十俵、煙草百把、国後蝦夷に米五十俵、煙草五把を与える。交易、介抱その他につき和人が不正のことをしたならば直ちに松前え訴え出るよう申し渡す。

7月27日 新井田隊、ノッカマップを離れる(一説に8月5日)。藩主への御目見えとして、厚岸小使以下43名(一説に39名)のアイヌ人質が連行される。蛎崎波響の「夷酋列像」は彼らを描いたものとされる。

9月5日 新井田隊が松前に帰還。華やかな凱旋行進が行われる。首謀者の首は城下の立石野で晒し首とされた。

9.11 藩主道広が蝦夷と面会。イトコイ、ションコ、ツキノイを始め加勢した者の格別の忠節とその労をたたえる。漁業資材を与え産業の発展を言い聞かせた。

9月 松前藩、交易船を派遣し、飛騨屋の各場所を直営とする。その支配を阿部屋村山伝兵衛に請け負わせる。

9月 新井田が調査記録を松前藩に提出。

新井田孫三郎「寛政蝦夷乱取調日記」: 飛 騨屋は現地のアイヌを低賃金で牛馬のように酷使した。請負い番人は、出入のものがないので事情が外に聞こえず、それを良いことににして不徳をいたし、専制 暴行を極めた。搾取に反発するアイヌに対し脅迫・暴行を加え、見せしめとして毒殺などを繰り返した。老人や病人など労働力として価値の無いものは虐殺し た。このためアイヌのあいだで餓死者が頻発した。また、和人の支配人や番人らは、アイヌの女性を手当たり次第に強姦、抗議に来た夫を虐待し、さらに弁償さ せるという傍若無人の振る舞いを行った。

9月 以後国後はツキノエが代表となり、目梨はションコが代表となってこの地方を取り締まることになる。騒ぎを鎮めた長老たちは「御味方蝦夷」と呼び尊重される。

89年 江戸幕府はこの事件を重大視し、南部・秋田・八戸の各藩に出兵の準備を指示。青島俊蔵、笠原五太夫、最上徳内らの探検家を隠密として蝦夷地に派遣する。

1790年 松前藩、国後・メナシのアイヌ反乱に関して幕府に報告。

①東西の蝦夷地交易を商人に請け負わせていたが、「利勘にまかせ、自然と蝦夷人を押掠め、不正の取計等」があったため、今後は松前藩が手持ちの船を用い直差配にいたし、介抱交易を進め蝦夷人帰服の実をあげたいと述べる。
②また「稼方の者共他国人多く入込」のため、今後は「松前百姓共計差遣、稼方」とする意向を表明。
③さらに「向後東蝦夷地あつけし、西蝦夷地そうやへ番所を建置、番頭と侍足軽を差置、蝦夷人行跡万事取締る」とする。

90年 江差漁民騒動が発生。石崎から熊石までの漁民、一揆をおこす。

90年 西在漁民3千人、栖原屋、安部屋の場所請負を罷免させることをもとめ強訴。(上記との異同は不明)

1790年 幕府、争乱の調査のため蝦夷へ最上徳内と青島俊蔵を派遣する。最上徳内は国後・択捉両島に渡る。最上は和人の横暴を激しく断罪。その後「国家隠密法違反」で入牢。

91年 幕府はアイヌ民族救済のためクナシリ場所やソウヤ場所で「御救」(おすくい)交易を施行。

ロシアの貿易開始要求

92年 ロシア使節アダム・ラックスマン、女帝エカテリ-ナの国書を携えて根室に来航。大黒屋光太夫ら3名を日本に送還。ラクスマンはこれ をきっかけとして外交・通商を求める。幕府は漂民移送ということから会見に応じる。 光太夫は伊勢の漂流民で、モスクワに送られ、エカテリーナ女王とも謁見するなど丁重な扱いを受けた。(一説では厚岸のバラサン海岸に姿を現したとあるが、 不明)

92年6月 台風が北海道を襲う。村上伝兵衛は持船22艘を失う。その後、策謀によってすべての財産を失う。

93年6月 ラックスマン、箱館へ入港。陸路松前に到り幕吏と交渉。幕府は松前での交渉を拒否する代わりに、長崎に入港するための信牌を交付し帰国させる。

1794年

3月 松前藩主道広、妄言多く幕府に譴責される。幕府目附朝比奈次左衞門が来藩して、 藩主道広の隠居致仕を求め、 血誓書を提出させる。道広は、「蝦夷地の措置よろしからず。沿岸の警備も厳格でない。加えて言動や行跡不謹慎である」とし、藩邸に幽閉される。幕府目付け 石川将監、村上大学が松前に配属となる。さらに南部藩、津軽藩が藩兵を蝦夷警備のため上陸させる。(今のところ隠居致仕の処置と、自宅蟄居の処分との時間 的関係が不分明です)

1794年 国後でアイヌの反乱。藩は国後との交易強化のため、飛騨の商人で南部下北の大畑居住の武川久右衛門に、絵友、厚岸、霧多布、根室の四場所を請け負わせる。

94年 運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。(上記との異同は不明。「根室領」という言葉から見て、幕府の施策のようですが…)

95年 厚岸の乙名イコトイ、アイヌ人1人を殺害。男女10人あまりを伴ってエトロフ島に渡り、争いを起こす。イコトイはさらにウルップ島に渡り、ロシア人と交易して冬場をしのいだという。

1796年

96年 高田屋嘉兵衛は1,500石積みの大船、辰悦丸に乗船し箱舘に入る。天然の良港である箱舘に目を付け、ここを交易の拠点とする。

96年 英国船プロビテンス号(ブロートン船長)が虻田に来航、周辺海域を測量。翌年根室にも来航する。

96年 小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。

96年 ロシア人の南下に対し蝦夷地防衛の必要性が高まる。近藤重藏(28歳)、蝦夷地取締御用を命ぜられ、幕府に北方調査、蝦夷地掌握の上申書を提出。

1798年

3月 江戸幕府、蝦夷地に総勢180名余の大巡見隊を派遣。最上徳内(44歳)が国後で合流。

7月27日 近藤重蔵が、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立て領有を宣言する。この時点ですでに多数のロシア人が住んでいたという。

択捉島南端のベルタルベの丘に建てられた標柱は水戸藩の木村謙次(変名 下野源助)が書いたという。表には「寛政十年戊午七月 大日本恵登呂府 近藤重蔵 最上徳内」

10月 近藤重蔵、千島からの帰路、広尾町のルベシベツとビタタヌンケの間に延長約3里の山道を開く(重蔵山道)。翌年には様似山道が開通(距離約 5km、3時間)。さらに幕府普請役の最上徳内が、幌泉から猿留川に至る約28Km(猿留山道)を開削。南部馬15頭が茂寄(広尾)と大津に備馬(そなえ うま)として配置される。

98年 蝦夷地取締御用掛の羽太正養らが中心となって五つの柱からなる蝦夷地基本政策を策定。(1)幕府による産業の発展、(2)アイヌと の交易をただす、(3)択捉の中心にした警備、(4)産業・警備のため陸と海の交通路を整える、(5)蝦夷地経営の経費は幕府財政から支出する。

幕府による東蝦夷地の直轄

1799年(寛政11年)

1月 江戸幕府は松前藩のアイヌに対する苛斂誅求ぶりが、ロシアを利するとの疑念を持ち介入。「辺海警備の為暫く東蝦夷地官の直轄となす」とし、向こう7年間、幕府が仮に上地する決定。

2月 幕府、東蝦夷地のうち、「浦川より東北の知床半島及び国後、択捉」までを松前藩から召し上げる(仮上知)。松前藩には東蝦夷地に替えて新たに 武蔵の国の久喜五千石を采地とする告示。

夏 松平信濃守忠明、東えぞ地を巡視。標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。(現在の中標津あたりか?)

8月 松前藩、「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出る。幕府はこれも上地する。これにより幕府直轄地の範囲が箱館もふくめて拡大。

11月 幕府は、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を警衛するよう命じる。箱館を本陣とし、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所を設ける。

99年 幕府、「三章の法」を発布。アイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定することとする。松前藩による場所請負制度を廃止し、運上屋に代え「会所」 を設け、幕府の直捌制度にする。実態は変わらなかったとされる。蝦夷地の産物は江戸伊勢崎町の会所を通じて販売された。またまた禁止していた和語の修得を 指示し、同化・改俗を計る。

99年 近藤重藏、高田屋嘉兵衛にエトロフ開発を命じる。場17か所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜那など7郷と25村の名称を定める。

1800年

2月 両藩は箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させる。

2月 幕府、東在と東蝦夷地との境界となる関所を山越内まで北上させる。これに伴い和人居住区が噴火湾の野田追まで拡大される。

4月 八王子千人同心の原半左衛門、農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうこととなる。天明の飢饉の救済策と考えられる。130人がユウフツ、シラヌカに入る。このうち33人が現地で死亡。3年後に残ったのは85人であった。

00年 高田屋嘉兵衛、手船辰悦丸(1500石積)と図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して択捉に向かう。

00年 伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年には蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。

1801年

7.12 幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視せしめる。探検船凌風丸が忠類沖に到着。標津で始めて引網を試みる。

01年 最上得内、富山元十郎などがウルップ島を探検。「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。

1802年

2月 幕府は、東蝦夷地一帯の直轄地を永久上地することに決定。箱館に蝦夷奉行をおく。アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。(99年政策と矛盾しているようだが?)

冬 西えぞ地の斜里、宗谷の狩猟うすく、根室領メナシに至り、救いを求めるもの218人に及ぶ。

02年 近藤重蔵、「蝦夷地図式二」を作成。過去10年ほどのあいだに作成された各種の蝦夷地図を総合したもの。

1804年

04年 露米商会代表のレザノフ、全権使節として信牌を携え長崎に入港。ロシア皇帝の親書も携える。長崎での交渉は決裂に終わる。幕府は親書の受理を拒否し信牌も没収する。レザノフは帰路、宗谷地方や樺太を探検。蝦夷地の防備の手薄を知る。

04年 エトロフ島で始めて越冬した松田仁三郎、帰路漂流のすえ標津へ上陸。二日間逗留する。

04年 ユウフツ、シラヌカの八王子千人同心、入植を断念。箱館地役雇というかたちで幕府雇となる。

04年 江戸幕府、土人教化のため有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立。蝦夷三官寺と呼ばれる。これらの寺は檀家を持たず、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、アイヌ教化と和人の橋頭堡確保を目的とする拠点と位置づけられる。

1805 海岸部で鮭捕獲のため定置網がもちいられるようになる。さらに1864年になると大謀網(たいぼうあみ)の使用も開始される。網をおこす のに船3隻、漁夫25人を要したという。鮭を主要な生活資源とする内陸部のアイヌは、生活に困窮する。また漁業労働者としてアイヌを大量に使用したことか ら、内陸部の過疎化が進む。

ロシアの樺太・千島攻撃

06年 レザノフの指示を受けた部下フォストフ、樺太クシュンコタンの運上屋を攻撃。

06年 斜里越道路、標津~斜里間37里余りを修理。

1807年(文化4年)

3月 松前藩が北辺警備に対する積極的対策をとらなかったため、幕府は西蝦夷地をふくむ蝦夷全島を直轄することを決定。「蝦夷地は外国に接し今や魯国の侵略下にあり、松前一藩では到底治める事はできない」とされる。

5月 フォストフ、前年に引き続きエトロフを襲い、ナイボ(内保)、シャナ(紗那)の番屋・会所から番人を連行する。遮那では小規模な交戦事態も発生。これはロシア政府の意向と反していたため、フォストフはカムチャッカでロシア官憲に処罰されたという。

5月 箱館奉行はロシア来襲に対応するため南部・津軽・秋田・庄内・仙台・会津など奥羽諸藩に4000名の出兵を命じる。

各藩の割り当て: 松前:会津藩200人、箱館:仙台藩800人、江差:津軽藩100人、クナシリ・エトロフ:仙台藩1200人、根室~砂原:南部藩250人、樺太:会津藩1300人、宗谷~シャリおよび天塩~マシケ:津軽藩50人、石狩~利尻:幕府直轄、高島~熊石:津軽藩100人、

9月 幕府、松前藩を福島の梁川領(現福島県伊達市)9000石に移封する。藩士は半減される。

9月 松前藩に代わり松前奉行が設置され、これにともない、蝦夷奉行改め箱館奉行所は廃止される。この時点で幕府の把握したアイヌ人人口は26800人。

07年 近藤重藏、箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷に達する。樺太のアイヌを召集して事情を聴取。帰路は天塩川-石狩川-中山峠と陸路をとる。 視察後、「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出。総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くよう提案。候補地として①石狩川筋カバト山、 ②浜通りタカシマ・ヲタルナイ、③イシカリサツホロの西テンゴ山があげられる。

07年 蝦夷出兵した各藩藩士に病死が相次ぐ。斜里に出陣した津軽藩士100人は最初の冬に85人が病死。翌年の樺太への出陣では708人の内の119人が病死した。

08年 松田伝十郎、間宮林蔵両人が樺太のラッカに達する。

10年 間宮林蔵、二回目の樺太探検。ナニオーから間宮海峡を渡りアムール川を遡上。満州のデレンに達する。帰国後『東韃地方紀行』を著す。

10年 高田屋嘉兵衛が根室場所を請負う。

ゴロウニン艦長拘留事件

1811年

5月 国後島でゴロウニン事件が発生。ロシア軍艦ディアナ号は、 南部千島の海域を測量調査。国後島の泊に入港し水、薪、米等を求める。同所在勤の松前奉行調役と南部藩士は、上陸した艦長ゴロウニン少佐、 ムール少尉ら八名を逮捕。ディアナ号副艦長リコルドは、 南部藩との間で砲撃戦を行った上帰航。

5月 ゴローウニンら八名は松前に連行され、 奉行直々の取調べの上、捕虜として抑留される。フォストフ事件への日本側の報復行動とされる。

11年 この年、蝦夷全道の人口5万4,097人(和人地3万330人、蝦夷地2万3,767人)

1812年

4月 ゴローウニンらが拘留先から脱走。13日間山中や海岸を隠れ歩いたのち、木ノ子村 (上ノ国町) で捕えられる。一行はバッコ沢に建てられた堅牢な牢屋に再収容された。

8月 リコルド少佐が国後島の泊に来訪。中川五郎治および六名の漂民を返還するのと引き換えに、ゴローニンの釈放について交渉したが不調に終る。

8月 リコルド、国後からの帰路、高田屋嘉兵衞の手船観世丸を襲い、嘉兵衞と四名の水主を捕えカムチャッカ半島ペテロパブロフスクに連行。

12年 蝦夷地運営にかかわる経費が高騰。幕府内部で、直接経営より商人にゆだねたほうが効率がよいとの意見が強まる。松前奉行所は、東蝦夷地直捌を断念し、各場所の請負人を入札で決定することを決定。

12年 漁場運営権の入札が行なわれる。根室場所は材木屋七郎右衛門が5,634両で落札。競争入札のための高額落札が相次ぎ、どの場所においても経営を圧迫したという。

1813年

9月 リコルド少佐、高田屋嘉兵衛をともないクナシリ島を訪れゴロウニン釈放を求める。ロシア側からシベリア総督・オホーツク長官連名の謝罪文が提出される。

9月 ゴローウニンの釈放で合意に達する。リコルド副艦長の指揮するディアナ号が箱館に入港しゴローニンを引き取る。高田屋嘉兵衛の尽力により両国関係は正常化される。

15年 高田屋金兵衛場所請負となる。(不明記事)

17年 石狩で天然痘が流行、住民2130名中833名が死亡する。以後数次にわたり天然痘が猛威を振るう。

松前藩の蝦夷地支配の復活

1821年(文政4年)

2月 幕府、財政難から蝦夷地直営を断念。ロシアに対する警戒心も薄れたたことから、ふたたび松前氏に管轄をゆだねる。松前藩の賄賂攻勢を受けた老中水野出羽守忠成の独断ともいわれる。この頃、幕府の把握していたアイヌの人口は23720人、石狩・宗谷・積丹6131人、釧路・根室・斜里5975人。

21年 伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成。伊能は実際は東蝦夷地の東海岸を除き測量はしておらず。間宮林蔵の協力を得て測量図を完成させた。

22年5月 松前章広、松前に戻る。蝦夷地および和人地のすべてを直領と定め、以前に知行地として場所を与えられていた家臣に対しては、米および金 をもって支給することとし、蝦夷地の各場所は、幕府の請負人制を踏襲して請負人の統制を強化する。北辺警備にも意を用い、松前に6、箱館に4の台場を設け るなど体制を強化する。

25 異国船打ち払い条例

31年 松前家、万石格に準ずる家格を認められる。

31年 高田屋金兵衛、密貿易の嫌疑により失脚。藤野喜兵衛が場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ケ所の漁場を引き継ぐ。

藤野喜兵衛: 近江 の出身。1800年松前に店を構える。06年に西蝦夷地の上・下余市場所を請け負ったのを契機に漁業経営に乗り出す。幕領期に西蝦夷地宗谷・斜里場所と東 蝦夷地国後場所を請け負って急成長をとげた。21年の松前復領後は藩の御用達になって、幕領期の請負場所を継続。23年には新たに利尻・レブンシリ場所を 請け負う。

32年 天保の大飢饉。各地で一揆が相次ぐ。

39年 山田文右衛門、メナシ地方の場所請負となる。(藤野喜兵衛との関係は不明。厚岸神社には山田文右衛門の寄贈した桜があるというから、関係していたことは間違いないようだが)

43年3月 根室国地方に大津波あり。

45年 松浦武四郎、この年から6次にわたり蝦夷各地を探検。東えぞ地を知床まで探検。虐げられたアイヌの生活を記録。松前藩などの妨害に会い、その記録は生前には発表されなかった。

北見のアイヌ: 松 浦武四郎によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になった。また、人妻は会所で番人達の妾にされた。男は離島で5年も 10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかった。その結果寛政年間には2000余であった人口が、幕末には半減していたという。アイヌの人口減少はそれ以降 も進み、北見地方全体で明治13年に955人いたアイヌ人口は、明治24年には381人にまで減った。

45年 白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。(従来、松前藩と結びついてきた近江商人に代わり、函館の新興商人が進出し始めた、ということのようだが、詳細不明)

48年3月 ペリイ提督の艦隊が浦賀からの帰途、箱館へ寄港。

49年 幕府、警備強化のため松前藩に福山城の築城を命ずる。

49年 メナシ地方の場所が、再び藤野喜兵衛の請負となる。始めて「標津場所」の名称を用いる。

開国と箱館開港

1853年(嘉永6年)

6月 ペリーの率いるアメリカ艦隊が来航。

7月 プチャーチンがニコライ一世の特使として長崎に来航。日露通好条約の締結をもとめる。同時に千島・カラフトの国境策定を迫る。日本側代表遠山金四郎は、クリル諸島は「蝦夷詞」の使われてきた地域であり、わが国の諸領であると主張。

1854年(安政元年)

3月 日米和親条約、別名「神奈川条約」が締結される。箱館は下田とともにアメリカ船に対する薪水供給地となる。箱館を選んだのは中国航路を開くためとされる。この後1年以内に英国とも同様の条約。

4月15日 五隻のペリー艦隊が箱館入港。箱館湾や内浦湾 (噴火湾) の測量を行う。箱館住民に触書。もし、 アメリカ船が来航した場合、 浜辺や高い所に立って見物をしてはならない。 小舟を乗り出したり、 みだりに徘徊してはならない。 アメリカ人はよく人家に立入り食物や酒を求め、 「あるいは婦女子に目を掛け小児を愛する」ので、 婦女子は山手方面や遠方に避難させ、 商店は休業せよと指示。

6月 江戸幕府、開国政策に転じる。日米和親条約により箱館・下田を開港。松前藩より箱館および周辺5~6里四方を上知し、箱館奉行所を開く。箱館(69年に函館と改称)の人口は急増し、数年のあいだに松前・江差を追い抜く。

6月  開港場箱館の外交処理機関として箱館奉行所が作られる。外国人遊歩地域として箱館より五里四方が上地される。

9月 ロシア艦二隻が樺太南端近くの九春古丹を占拠する。これに対し松前藩が出兵する。ロシアはクリミア戦争への対処を優先するために樺太から撤兵。

12月 プチャーチンが再度来航。サハリンの国境問題を保留にしたまま日露和親条約を締結。択捉以南の蝦夷地が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。樺太の領属は棚上げし、両国民の雑居地となる。

1854年 福山城が日本最後の旧式城郭として竣工。

1855年

2月 箱館開港にともない、幕府は千島・樺太を含む蝦夷地を再び上知し箱館奉行所の直轄とする。仙台・秋田・南部・津軽の奥羽諸藩と松前藩の5藩に命じ、土地を区分して警衛させる。東えぞ地は仙台藩の警備地となる。知内以西および乙部以南の地域は松前藩所領として残される。

厚岸駐在の仙台藩士が書いた玉虫「入北記」では、バラサン岬に300目の砲筒が一挺あるだけで、「何ノ防ギニモナルマジ」と述べられている。

3月 日米・日露和親条約にもとづき箱館の港が正式に開かれる。

6月 日米、 露、 英、 蘭、 仏との五か国間に通商条約が締結。箱館は貿易港として開港。人口は急激に増加し、西洋文化に浸される。アメリカ、イギリス、オランダが箱館で蝦夷地の昆布を買取り、中国にむけて売込んだため、生産量や出荷量が大幅増加。

55年春 島小牧から古平にかけての漁場で、乙部から熊石にかけての漁民約500人が、「場所請負人」らに対する不満から、「網切り騒動」を起こ す。場所請負人は禁止された大網漁法で鰊の乱獲を行なっていた。松前藩は大網漁法を禁止するが、請負人は松前藩を飛び越え箱館奉行に直訴し認可を得る。

55年 この頃、幕府の把握していたアイヌの人口は17810人、石狩・宗谷・積丹3400人、釧路・根室・斜里3609人。

55年 松浦武四郎、蝦夷御用雇となり、これ以後4年間、幕府の蝦夷政策の問題点に関する報告を行った(三航蝦夷日誌・東西蝦夷山川地理取調日誌・近世蝦夷人物誌)。これらの書物は松前藩の妨害にあい、明治45まで刊行されず。

アイヌ政策の抜本転換

1856年

2月 幕府、松前藩では警備不能との判断から、松前の近隣村々を残し再上地させる。木古内と乙部を結ぶ線から南が松前藩領として残される。松前藩は蝦夷地上知の替地として梁川のほか出羽国村山郡東根をあたえられ、3万石の大名となる。

56年 幕府、アイヌの本格的な和風(同化)政策を開始。交易や保護を通してアイヌを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、簑、草履の着用を解禁する。アイヌが日本に帰属すること、そしてその住居地が日本領であることをロシアに主張するためのもの。同時に和人の蝦夷地への入植を奨励。

徳川幕府のアイヌ政策: 幕府はいっぽうで髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、髭、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとした。役人が各地のアイヌを襲い剃髭を強行、同化・改俗を計る。和風化したアイヌを「帰俗土人」「新シャモ」などと呼び奨励する。

56年 幕府、蝦夷地への出入り禁止令を解除。和人の移民促進と永住者増加対策を施行。水田開発など農業推進を図る。

56年 ニシベツ川上流の漁猟権について、釧路アイヌと根室アイヌが紛争。

1857年

5月 白糠のシリエト、釧路市益浦のオソツナイ(獺津内)で石炭の採掘が始まる。流れ者のほかアイヌも使役されたという。

57年 東西蝦夷地で天然痘の予防のための巡回種痘を実施。実態としてはアイヌを利用した人体実験であったとされる。

57年 幕府、樺太を直轄地とし、開発を有力商人にゆだねる。クスリ場所の請負い人米屋孫右衛門は、クシュンコタン・イヌヌシナイに漁場をひらくが失敗。

57年 旅人役が廃止される。幕府は和人の蝦夷地入植を奨励。アイヌ人に対し同化政策を開始するが、多くの抵抗を受け失敗に終わる。

57年 武四郎、「近世蝦夷人物誌」を著す。箱館奉行に提出されたが、出版の許しがでないまま放置される。(発行は明治45年)

おそらく理由はたとえば次のような記述にある。「クスリ場所にては、当時、41人の番人のうち36人まで、土人の女の子を奸奪して妾となしていた。その夫たちは厚岸や仙鳳趾に雇われて出張中だった」

58年 和人人口が増えたことから石狩場所の請負制度が廃止され、箱館奉行所直轄の石狩村となる。以後、長万部や山越内、小樽などで順次請負制度が廃止に向かう。

58年 初代駐日ロシア領事ゴシケヴィッチが函館に着任。

1859年(安政6年)

6月2日 函館で日米修好・通商条約に基づく本格的な国際貿易が開始される。

59年 品川で日ロ交渉が始まる。ロシア使節ムラヴィヨフは、カラフト全島領有を主張。

1861年(万延2年)

3月 対馬事件が発生。ロシアの軍艦「ポサードニク」号が船体修理を口実に対馬沿岸に居座る。ロシアは対馬の実力占拠を狙う。

11月 江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。永久守備の基礎を固める必要があるとして、守備と開墾の両方が行き届くようにすることとする。根室は会津藩領地となる。

61年 蝦夷地と和人地の間の関所が廃止され、往来自由となる。

62年 日本側、北緯50度線を樺太国境とする案を提示。ロシア側は宗谷海峡を国境とする案を示す。双方ともに提案を受け入れず。

62年 幕府、藤野を東蝦夷の場所請負から免じ、山寺権次、吉川次郎助に標津場所を経営せしむ。

63年 函館の弁天岬に台場(洋式砲台)が完成。周囲700メートルで15門の大砲が備えられた。

1864年(元治元年)

4月 松前藩主崇広は幕閣に参加。寺社奉行に抜擢される。大名中では西洋通として高い評価を受けていた崇広は、さらに老中格に進み、海陸軍総奉行となった。

11月20日 大沢村櫃でイギリスの商船エゲリア号が遭難。大沢村名主は村民を総動員して船長モウーラら19名全員を救助した。イギリス国ビクトリア女帝は、 松前崇広に金側懐中時計を贈る。

64年 日本初の西洋式城郭である五稜郭が完成。正式名は「亀田役所土塁」と呼ばれる。箱館奉行所は城内に移転。

1864 岩内の茅沼炭鉱で採炭が始まる。函館・江戸の囚人を集めて労働力をまかなう。これに伴い白糠の鉱山は閉鎖。

アイヌ人骨盗掘事件

1865年

10月21日 箱館駐在の英国領事館員によるアイヌ人骨盗掘事件。英国領事ワイスは、人類学研究のためアイヌ人骨の盗掘を計画。館員3名が森村などでアイヌの墓を発掘し、人骨を英本国に送る。

11.22 アイヌ人骨盗掘事件が発覚。箱館奉行小出大和守秀實は英国領事ワイスと直接交渉を開始。ワイスがあいまいな立場をとるため、小出は仏・蘭・米の三国領事立会の下に領事裁判を要求する。窮地に陥った英国側は13体の盗骨を奉行所に返還。

65年 山田屋寿兵衛がメナシ漁場の請負となる。

1866年1月 奉行小出大和守、「アイヌ墳墓の発掘は英国領事館全体の計画」とし、領事ワイスをはじめ館員が処罰されることをもとめる。横浜のパークス公使はワイスらを更迭することで誠意を示す。

4月下句 領事ガワーが落部村に来てアイヌに陳謝。慰霊祭を執行し、一分銀千枚(333ドル33セント)を慰謝料として、また出訴費用として一分銀424枚(142ドル)を支払う。

67年3月 ペテルスブルクで日露間樺太島仮規約が締結される。樺太は全島が日露の『雑居地』となる。

67年4月 英国商船エラスムス号が、盗掘された人骨を積んで箱館に入港。奉行所はこれをもって事件の決着を宣言。


明治維新

1868年

3月25日 新政府、蝦夷地開拓の事宜三条を発表。箱館奉行に代わって箱館府(当初は裁判所と呼ばれる)が設置される。反政府を唱える奥羽の騒乱が発生。東北諸藩の守備隊はすべて引き上げる。

7月28日 松前藩内の勤王派・正義隊がクーデター。松前勘解由ら藩重役を切腹させ、実権を掌握。箱館府の了解を取り付ける。

8月、職制を改め軍謀・合議・正議の3局を設置し役人を公選とする。

10月 正義隊政権、農業開発を目指し厚沢部村の館(たて)に新城を築く。

10月20日 榎本武揚の幕府脱走軍2千名が森町鷲ノ木に上陸。

10月25日 榎本軍が箱館を占拠。箱館府知事は青森に逃れる。

11月5日 土方の部隊が福山城、館城を攻略。15日には榎本の乗る開陽丸が江差を占拠。藩主徳広は熊石から小舟で青森に逃れる。

1868 この時点で道内の和人は約12万人とされる。

1869年

4月 新政府軍が江差北方の乙部に上陸。旧幕軍は江差から撤退。

4月17日 新政府軍が福山城を奪還する。その後1万2千の軍勢が江差方面から箱館に向け進軍。

5月11日 新政府軍が箱館総攻撃を開始する。榎本ら旧幕派は五稜郭を拠点とし、政府軍に最後の戦いを挑むが敗れる。

6月 藩主脩広(ながひろ)は版籍を奉還し、藩知事となり藩名が館藩となる。

7月 明治政府、開拓使を設置。蝦夷地を北海道と命名。松前と江差の沖の口が廃止され、海上の往来が自由となる。

10月 場所請負人制度が廃止される。当面は「漁場持」という名目で漁場経営の継続を認める。

69年 東京で北海道移民を募集。500人が樺太や宗谷、根室などに入る。

69年 第1期上川アイヌ地問題が発生。兵部省は、旭川に近衛師団を配置。師団予定地のアイヌ住民を石狩に強制移住させようとする。首長クーチンコロはこれに抗議し、いったん構想を撤回させる。

69年 大政奉還により、朝廷側だった西本願寺が台頭。徳川側だった東本願寺は、現如上人を投入し北海道「開教」による巻き返しを図る。

70年3月 開拓判官となった松浦武四郎、新政府の無理解に激怒し、職を辞す。

70年 開拓使より樺太開拓使が分離され、黒田清隆が開拓次官となる。黒田は1か月余りかけて樺太を視察した後、帰京して建議書を提出。石狩に領府を置き、大臣を総督にして北海道、樺太を一体として経営するするようもとめる。

新政府のアイヌ政策

1871年(明治4)

4月 明治政府、戸籍法を制定。アイヌは「平民(旧土人)」として編入される。このとき道内のアイヌ世帯数は13,182戸、人口66,618人。

10月 開拓使、アイヌ男子の耳輪、女子の入墨、家屋葬送など独自の風習を禁止し、日本語の使用を強制。イヨマンテ(熊送り)も禁止される。

家屋葬送とは、死者が出た際に死体と家屋を焼却・遺棄し、そのまま墓とする習慣。「死亡の者これあり候えども、居家を自焼し他に転住等の儀、堅くあい禁ずべきこと」とする。

72年5月 東京に開拓使仮学校を設置。開拓史の命によりアイヌ人27名が上京。仮学校で教育を受ける。

74年 屯田兵条例が制定される。失業した旧士族の救済と北海道開拓、それに北辺の防衛も受け持たせることを目的とする。

75年8月 ロシアとのあいだに千島・樺太交換条約締結。これにともない樺太在住のアイヌ人841人が北海道に移される。いったん宗谷に落ち着くが、翌年6月さらに札幌近郊の対雁(江別太)に再び強制移住。

 

樺太アイヌの碑(石狩市)

 

1876年(明治9)

7月 開拓使、アイヌに対する「創氏改名」を布達。

9月 「漁場持」制度が最終的に廃止され、営業希望者に割譲される。運上家は買い上げられ、本陣、会所、旅籠、番屋などへとかわる。アイヌなど漁業労働者は引き続き「網元」の支配に縛り付けられる。

1877年(明治10)

12月 北海道地券発行条例制定。これによって、アイヌ居住地は官有地に組み入れられる。

77年 イギリス聖公会伝道教会の宣教師ジョン・バチェラー夫妻が来道。平取、有珠などに自費で教会を建てる。日英に翻訳したアイヌ語辞書を編纂。札幌に開いた無料診療所では、札幌市立病院院長もボランティア診療。養女に迎えた向井八重子はバチェラー・八重子としてアイヌ解放運動に尽力。

78年11月 開拓使、アイヌの呼称を「旧土人」と統一する。この前後に全道で、仕掛け弓・毒矢を用いた鹿狩りやサケ漁などが禁止される。鹿撃ちには猟銃が貸与される。

79年 琉球処分。沖縄が日本政府の直接統治下に置かれ、自治権が完全に剥奪される。

82年 黒田清隆、不正払い下げ疑惑で辞任。開拓使制度が廃止され、札幌・函館・根室の三県が設置される。

84年7月 千島列島北端の占守島に住むクリルアイヌ97名が、色丹島に強制移住させられる。その後、千島アイヌは病気や気候の変化などで体を壊し絶滅。

1886年(明治19)

1月 北海道の特殊性に鑑み県制が廃止。道内三県+北海道事業管理局に代わり新たに北海道庁が設置される。

6月 北海道土地払下規則が公布。官有未開地を無税で貸し下げし、10年後に千坪1円で払い下げるものとする。これによりアイヌの所有地が次々に奪われることとなる。

86年 道内各地で天然痘の大流行。3年間の死者は2557名にのぼる。

87年 道庁は旭川近郊のチカップに居留地を与える。アイヌ人40戸が近文の一角に自発的に移住。チカップニコタンを形成。

89年 ジョン バチェラーの「アイヌ語辞典」が発行される。

89年 バチェラー、幌別村・函館に相次ぎ愛燐学校を創設。

1893年(明治26)

12月 アイヌの生活困窮が全国的に問題となる。加藤正之助は帝国議会に「北海道土人保護法案」を提出。

法案は「土人にして農を業とせんことを希望するもの」に、「1戸当たり6千ないし1万5千の未墾地を付与す」というものであった。沙流系アイヌを中心に国会陳情運動が盛り上がるが、結局否決される。同趣旨の法案は95年にも提出されるが廃案。

97年 国有未開地処分法が交付される。内地の資本家、大土地所有者向けに農地150万坪、牧草地250万坪、森林200万坪を上限とする土地が無償貸与される。(貸与といっても、成功後は無償に付与されるというもの)

99年(明治33年) 北海道旧土人保護法が制定される。アイヌ人の困窮に対処するため一戸あたり1万5千坪以内の農地が「下付」される。

旧土人保護法の問題点: 土地問題でも明らかな差別があった。和人には一戸あたり150万坪を限度に開墾地が無償で払い下げられていた。給付された土地も、共有財産管理権は道庁に残された。また日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族の和人への同化を強制するが、和人児童との別学を原則とし、教育内容も「簡易教育」をむねとするなど不当な格差を設けていた。 

99年 第二次近文アイヌ給与地問題が発生。近衛師団・第七師団の旭川への設置に伴い、近文アイヌの付与地が接収されることとなる。

00年 近文のアイヌ給与地売却をめぐり、大倉財閥などが絡み、中央政府の大規模な汚職事件に発展。アイヌ人の抵抗も強かったことから、当局は移転を断念。

1901年(明治34)

3月 旧土人児童教育規程が公布される。和人児童とは差別され、日本語による簡易教育が実施された。

01年 この年、全道の人口101万1,892人。うちアイヌは1万7,688人。

04年 日露戦争勃発。樺太アイヌの山辺安之助、上川アイヌ北風磯吉らアイヌ人63名が従軍。

13年 北見の最寄村でモヨロ遺跡が発見される。オホ-ツク文化の存在が確認される。考古学に高い関心をもっていた理髪師米村喜男衛が発見した。

16年 新冠村のアイヌ80戸が、御料牧場の都合により上貫気別に強制移転される。

19年 旧土人保護法の第一次改正。道内4ヶ所(平取、静内、白老、浦河)にアイヌのための病院が設けられる。

22年 十勝地方のアイヌ系住民が道庁の指導の下に「十勝旭明社」を結成。勧農施策、住宅改善、小規模融資事業を展開。

アイヌ文化の見直し

23年 知里幸恵の編になる「アイヌ神謡集」が刊行される。

24年 道庁によるアイヌ給与地の調査。成懇地の半分が和人に賃貸されていた。

26年 旭川で部落解放運動の影響を受けた「解平社」が結成される。労働運動や農民運動と結びつく。

30年 道庁の肝いりで北海道アイヌ協会が設立される。バチェラー系のキリスト教関係者や十勝の旭明社などが中心となり、旧土人保護法の改正を目指す。近文の解平社は参加せず。

31年 違星北斗遺稿「コタン」、バチェラー八重子「若きウタリに」、貝沢藤蔵「アイヌの叫び」などが相次いで出版される。

32年 「解平社」を中心とするアイヌ運動左派は、「全道アイヌ代表者会議」を開催。「旧土人保護法撤廃同盟」を結成する。

33年 樺太のアイヌに日本国籍があたえられる。

1934 解平社の運動を受け、「旭川市旧土人保護地処分法」が制定される。「貸付したる土地を、特別縁故ある旧土人に無償下付する」ことが認められる。しかし本来無条件に下付されるべき土地を、共有財産として北海道庁長官の管理下におくなど、後に問題を残す。

37年 旧土人保護法の第二回改正。アイヌ人は大日本帝国の国民として位置づけられる。

37年 知里真志保の「アイヌ民譚集」が発表される。

42年 高倉新一郎の「アイヌ政策史」が発表される。

46年 静内で新生「北海道アイヌ協会」が設立される。新冠の御料牧場のアイヌへの解放を求める。

47年 札幌で北海道アイヌ協会の大会。給与地の農地改革からの除外を目指すが、敗北に終わり、その後長期の休眠状態に陥る。61年にはウタリ協会と改称。

1960年

4月 道庁の支持を受けて北海道アイヌ協会の再建総会が開かれる。会員は400名ほど。翌年、名称を北海道ウタリ協会と改める。(アイヌを名乗ることへの心理的抵抗が強かったためとされる)

64年 行政管理庁、北海道旧土人保護法の廃止を勧告。その後、貧困者の子弟への学資援助や住宅改良資金などが次々に廃止される。

70年 全道市長会、旧土人保護法の廃止を目指す決議。ウタリ協会は廃止反対の立場を明らかにする。

74年 政府は、第一次ウタリ対策7カ年計画を決定。その後三次、21年にわたり継続。

76年 十勝旭明社が解散。「アイヌ系住民が一般社会の中において渾然一体となり、一般日本民族として生活を営むにいたったため」とする。

84年 北海道ウタリ協会、総会で「アイヌ民族に関する法律(案)」を採択。実現に向けて運動を開始。

1986 中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言。大きな社会問題となる。

87年 アイヌ民族代表が初めてスイス・ジュネーブでの第5回国連先住民作業部会に参加し、アイヌ民族問題について発言した。

88年 北海道知事の私的諮問機関「ウタリ問題懇話会」、アイヌに関する新しい立法措置の必要性を認める。これを受けた北海道、道議会とウタリ協会が共同し、「アイヌ民族に関する法律」制定を国に要望。

89年 内閣内政審議室を中心に10省庁からなる「アイヌ新法問題検討委員会」が設置される。

91年 外務省国連局人権難民課、「アイヌの人々は、独自の宗教および言語を有し、また文化の独自性を保持しており、国連の規定による少数民族であるとして差し支えない」と報告。

97年 アイヌ新法が制定される。これにともない「北海道旧土人保護法」並びに「旭川市旧土人保護地処分法」が廃止される。

アイヌ新法: 正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」といわれる。
国家の政策がアイヌの民族性を否認し、同化を是としてきた従来の姿勢から転換する。アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進する。これらを国及び地方公共団体の責務と位置づける。
第一条の「目的」は、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」と述べられている。

97年 二風谷ダム訴訟、アイヌ原告側の勝利。アイヌ民族を先住民と認め、土地強制収用を違法と判断。

08年 衆参両議院において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採決される。

09年 北海道ウタリ協会が、アイヌ協会に名称変更。

 

参考サイト

Ainu puyarA   http://www.alles.or.jp/~tariq/index.htm

アイヌ民族博物館   http://www.ainu-museum.or.jp/

  ここの中のアイヌ文化入門の中の「アイヌ民族の歴史」のページ

アイヌ史の概要   http://www.hokkaid.org/guide-v6/text/2-5-2.html

北海道略年表と写真   http://www.lib.hokudai.ac.jp/hokkaido/mukashi/nenpyo.html

北海道静内町の歴史・アイヌ民族 http://www.k3.dion.ne.jp/~kamishin/ (シャクシャインについて詳しい)

ほかに福島町史、八雲町史などが参考となります。

東北の蝦夷については「都母の国」というページがすごいです http://www.hi-net.ne.jp/~ma/home.html