パンと魚:聖書から読むお金の流れの乗り方
2016/11/11
立花岳志さんの2回めの個別セッションからの帰り道、教えてもらったお金の流れに乗る方法、「もらった中から払うのではなく、まず自分が先に払うこと」について考えて歩いていた。
お金の流れに乗る方法を教わった時の記事はこちら
歩いていると、ふと聖書の一節を思い出した。
聖書の教え:パン五つと魚二ひきを5000人以上で分ける
5000人を超える群衆に食料を配るように、イエスが弟子に命じる話である。
群衆に行き渡るほどの食料がないため、群衆を解散させて各々で食べ物を用意するよう告げて欲しいと弟子はイエスにお願いしたのだが、イエスは弟子たちに食べ物を配るように言った。
マタイによる福音書 第14章
17.弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」
18.イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」
19.そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた
20.みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
(口語訳聖書より)
この話のポイントは、イエスが奇跡によってパンと魚を増やしたとは、一切書かれていないことである。
聖書では、イエスが奇跡を起こした時、例えば「カナでの婚礼」では6つの水がめに水を入れて、汲んで宴会の世話係のところに持って行くと水がワインに変わっていた、というように、イエスや周囲の人の行動が具体的な数字と共に詳細に記載される。
しかし、ここではパンや魚が増えたとは全く書かれていない。
ということは、パン五つと魚二匹を配って5000人超の群衆を満たしたとしか考えられないのだ。
同じ話が聖書に書いてある!
この話の意味が、長い間、謎だった。
しかし「お金の流れに乗るには、もらった中から払うのではなく、まず自分が先に払うこと」という言葉を頭に入れて、この話を考えた時にやっと納得ができた。
五つのパンと二ひきの魚では群衆を満たすことができないと弟子たちは考えて、イエスに無理だと訴えるのだが、イエスは持っているものを配るように言った。
「こんなことやっても意味が無い」という言い訳を抑えて「まず自分が払うこと」を実践しろと教えたのだ。
そうすると、何が起きたのかは分からないが、見えない力が働いて、全員が満たされた。
そして、十二のかごにいっぱいになってパンが戻ってきた。最初に持っていた数より増えたのだ。
何が起きたのか福音書に書かれていないということは、弟子たちもよく分からなかったか、そこは重要ではないということであろう。
マタイがここで伝えたかったことは、まず自分が出した、そうしたら自分の力を超えた力が働いて周囲の人達に豊かさが行き渡った、そしてその豊かさが何倍にもなって自分に返ってきた、ということなのだ。
もう一つの教え:海の上を歩く
マタイによる福音書の第14章には、このパンと魚の話の直後にもう一つの興味深い話が書かれている。
イエスが海の上を歩く話である。
風が強く舟が出せないため、イエスは海の上を歩いて弟子たちのところに向かった。
それを見て恐怖の叫び声をあげる弟子たちにイエスが「わたしである。恐れることはない」と声を掛けた。
マタイによる福音書 第14章
28.するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」
29.イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った
30.しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った
31イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
(口語訳聖書より)
この話のポイントは分かりやすい。
恐れず信じていれば、海の上を歩くといった不可能に思えることでさえ可能になる。
その代わり、少しでも不安を感じて「こんなこと不可能だ」と思ったら、思ったとおり不可能になる。
信じなさい
この話が、五つのパンと二匹の魚の話の直後に、章を分けずに書かれていることに意味があると思う。
「まず自分が払った。そうしたら自分の力を超えた力が働いて周囲の人達に豊かさが行き渡った。そしてその豊かさが何倍にもなって自分に返ってきた」という循環は、中間地点で何が起きているか分からないため、信じることが難しい。
自分が払って、そのまま返ってこなかったらと思うと不安で怖い。
しかし、少しでも不安を感じれば想像の通り返ってこないと戒めて、信じて先に自分が払いなさい、と言っているのが、この章の教えなのだ。
聖書に書かれていること
私は特定の宗教に対する信仰は持っていない。
しかし聖書は信じている。
数千年もの長い間、読み継がれてきた書物だからだ。
長い間受け継がれているものは、本であろうと物であろうと、人間にとって不変の価値があるから残り続けていると思う。
なので、数千年も語り継がれている聖書に書かれていることは真理であると思っている。
聖書をどう解釈するかによって多くの宗教が生まれたが、聖書には既存の宗教の枠を超えた真理が描かれていると私は考えている。
何十年かかっても、この真理を読み解いていきたい。
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