※2017/5/4 リライトしました。
ドラねこ書店 おすすめの本76
ちわ、おいさんです。
みんなヤバイくらいに春を楽しんでいるかな?
わしは春だっていうのに、なんかチョーシが出ない。
なんでだろう?と思っていたらこの物語のせいだった。
その物語とはコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」この本は村上さんのところで紹介されていた本だ。
そこで今日は村上さんのところで紹介されていた、コーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」について語ってみたいと思います。
ブラッド・メリディアン
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軽い気持ちで読んでみた。
本書は「村上さんのところ」で村上氏が紹介していた本である。
これはもう読んでびっくり!というかげっそりw
ひたすらアメリカで行われたネイティブ・アメリカン大虐殺の本だったのだ。
まさかここまで重い内容とは……(;´∀`)
この本はとにかく読んでいてページが進まない。
それはコーマック・マッカーシーの文体が、重くハードボイルドな文章でありながら、ほとんど句読点やカギ括弧なしにずっと書かれているので、読んでいて非情にリズムが取りにくく、ずっと文章を目で追っていると頭がこんがらがってくる。
おまけに書かれている内容はといえば、
もう虐殺・暴力・血の雨あられであることも関係していると思う。
そんな血生臭さいことのオンパレードである本書について、ちょっくら語ってみるとしよう
少年とグラントン団の虐殺の日々
14歳で家を出た少年と呼ばれる主人公(名前はない)は、各地を転々としながら暴力にまみれた生活を続ける。
ある時出会った判事と呼ばれる身長2メートルを超える全身に毛という毛が一本もない禿頭の男に出会い、グラントン率いるインディアン討伐隊に加わることとなる。
グラントン団はインディアン相手に大量の虐殺と頭皮狩りを行い、旅の間欲望のままに暴力をふるう生活を各地で繰り返していく。
そして少年もやがてそうした蛮行へと繰り出す男となり、残酷な運命をたどる、というお話。
読んでいて非常に気持ちの暗くなる小説である。
この小説の舞台はいわゆる西部劇と呼ばれる時代に属すのだが、クリント・イーストウッドやその他の正義のガンマンが活躍するようなスカッとした西部劇とは一線を画している。
それはアメリカで実際に行われていたインディアン虐殺と米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)という血と暴力にまみれた無慈悲な時代をリアルに描いているからだ。
いわゆる歴史修正主義の西部劇というものらしいが、
歴史修正主義といったら自らの歴史をいいように「都合よく変えていくもの」と思っていたが、この小説は過去にアメリカが行ってきたインディアン虐殺という蛮行という歴史を直視しないアメリカに対して、自分たちの祖先がどのような残虐なことを行って来たかということを冷徹にそして善悪の判断なしに描ききっている小説である。
このような物語を書くというのはかなり勇気のいることだと思うし、こうした歴史を直に描くということはアメリカ文学の流れの中で今までありえなかったのではないだろうか?
人の命が石ころのようだった時代
小説中ではとにかく人がよく死ぬ。
もうこの物語において人が死ぬなんてことは、なんてことのない当たり前の事実である。
人の生命は地球よりも重いなんていう言葉はどこ吹く風と言わんばかりに、ここで描かれる過酷な運命に翻弄される人たちは実に残酷なまでに無残に殺され尽くしていく。
そう、この物語に出てくる白人やちは人を殺すなんてなんとも思わない。
ましてや異教徒であるインディアンなど明白な運命(マニフェスト・デスティニー)のスローガンの元では虫ケラ同然なのである。
故にどんどんインディアンが死んでいく。
それも頭皮を剥がれるという無残な姿で。
グラントン団の少尉であるグラントンという男は、また憎いほど人を殺していく。
この、「人の生命なんてなんとも思っちゃいない」男と、判事と呼ばれた得体のしれない怪物の最恐コンビが、西部を横断しながらインディアンだけでなく善良な街の人や小さな赤ん坊まで何食わぬ顔で殺しまくっていく様は読んでいて胸クソが悪くなる!
この非情さ、恐るべきである。
ただこの物語の恐ろしいところは、あまりにも人が無情に殺戮されていくので、いつの間にか読んでいるこちら側も人が死んでいくことに対してなんの感情も抱かなくなってしまうのである。
読み進めていくとただ目の前で起こる死を、当たり前のこととして受け入れてしまう自分に愕然としてしまう。
そう、読者はいつしか冷徹な死刑執行者・グラントンと同化してしまい、当時本当に起こっていた虐殺という蛮行をだだ普通のこととして慣れてしまうのである。
その導き役とも言ってよい男が判事という男だろう。
不気味な「判事」の圧倒的な存在感
判事と言うと男は一言で言うと、イカれている。
グラントン一味の中で唯一博学な彼が口にする言葉の数々は、当時の白人たちが有色人種に抱いていた偏見・差別的な感情は、読んでいるとあたかもそれが真実であるかのように読者を錯覚させながら巧みな理論として時折口に出される。
彼が口にする言葉を読んでいると、強烈な拒否反応を抱きながら、いつの間にやら自分の中で抵抗感がなくなってくるのだ。
まるで軽いマインド・コントロールのように、判事が口にする言葉の数々が呪詛のように読者の頭に響き、気づかないうちに浸透していく。
つまり判事という男は、グラントンという無辜の民を平気で虐殺する者達と読者を同化させるための橋渡しの役としている存在しているのだ。
故に判事の不気味で圧倒的な存在感に、少年(と私たち読者)は抗うことができずに、いつの間にか判事やグラントンたち無法者たちと同じ存在になってしまっている。
そのへんのウマさは、
コーマック・マッカーシーの巧みな筆のなせる業なのだろう。
そうして筆者の筆の導かれるままにインディアンの死に対してわしら読者は無関心になってしまうのだ。
心の何処かで受け入れがたいはずの存在として判事という怪物を見ながら、わしら読者はいつの間にか判事と同じ存在になってしまう。
それはそんな恐ろしい力を秘めた物語なのである。
あなたは判事の恐ろしさから抜け出すことはできるだろうか?