カメキチの目
この本は学術書ではない。
著者の茂木健一郎さんは脳科学者だけど、「右脳が…左脳が…」とか「大脳皮質頭頂部が…」という解剖学的な、読者の頭がガチガチになってくるような専門的な語彙はあまり使わず、やさしい言葉で語りかけてくる。
話の内容は、脳科学による生き方のヒントみたいな感じ。
私は、本の題名にもある「偶有性」という言葉にこの本ではじめて接しました。
この言葉・概念のほかに「クオリア」というもの(こっちも名前だけ聞いたことありました。「なに、『クリオネ?オホーツク海と関係あるのか』と勘違いした)も使って「生命」の働き、つまり「生きる」ということを述べられます。
読みはじめからそう感じさせ、長続きが苦手の私だが、踊るような気持ちが最後まで続き、完読した。
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はじめは、「偶有性」とは何か?
ということが平易に書かれる。
「生きる」ことは、さまざまな人との出あいであり、出あった人から何らかのことを受けとる。刺激・影響を受ける。
その受け方、反応は人によりさまざま。
あたり前だ。人は一人ひとりみな違う。
また「生きる」ことは、人との出あいだけではない。
生きるなかで、選択・決断は避けられない。
その選択・決断が、以降の自分の人生に役にたったか、+として作用したかなどにより、正しかったか失敗だったとかと判断する。
人生の役にたつとか、正しいとか、そもそも人生に「役に立つ」「正しい」こととは何なのか?…あるのかないのか?…。
たいせつな「判断」。だが、正解なんてないのではないか。
なくても、考えてみる価値のあるだいじなことに思えます。
「生きる」出発点は、どういう親のもと、どんなところで誕生するかということから始まる。
そこからして、人生とは「思いどおりにいかぬもの」「望むようにはならないもの」「天から与えられたもの」というニュアンスが強い。
しかし、衣食住のようにそうしなければ生きていけない、こういう場合はこうしなければならない、このようにすればこうなる…といった決まり、規則、必然のようなものもありややこしい。複雑だ。
「偶有性」の本質について、著者はこう述べる。
「偶有性の本質は、半ば規則的であり、そして半ば偶然であるというそのあわいの中にある。偶然と必然が有機的に絡み、その中で私たちの生は進行していく。人間を含む全ての生物のあり方は、世界に溢れる『偶有性の自然誌』が培ってきたものなのである」
そうおっしゃられても、わかったようでわからない。
が、自分なりのしかたで、受けとめた。
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本は最初に「偶有性」の体感ということで、「生き直す」ことを書く。
「生き直す」といっても、一度は死んで再び生き返ることではありません。
自分の過去をふり返り、味わってみるということだ。
また、単なる「反省」や「後悔」でもありません。
あるていど人生を重ねてくると来し方、昔をふり返り、なつかしみ、ときには反省、後悔することが多くなる。
であるからして、私は「偶有性」というものはふり返るだけの過去がないと実感できないのではないかと思った。
この言葉、概念そのものは何となく理解できても、感じるのは、あまり若い方だとムリなのではないかと思った。
そんなことは本では述べられていませんでしたが。
「生き直す」。
すなわち、昔をふり返れば、ちがう家に生まれていたならなぁ、あのときの選択はどうだったのだろう、あの人と出あっていなければ、あの学校(会社など)に入っていなかったら、(私だったら障害者にならなかったら)…
と想い、つまりちがう可能性もあったのに、しかもそれはさまざまありえたのに、
私の一回限りの人生(つまり、死んでまた「生き直す」ことはできないのに)は、こうでしかありえなかった。
と、自覚し、その自覚に立って、自分の生に「覚悟」を持つことが、「偶有性」を感じること(かな?)。
著者は「生き直す」を「過去を育てる」という言い方にもかえておられ、私はすっかりこの言葉に魅せられました。
茂木さんは、本のあっちこっちで「生き直す」を実行されていました。つまり、本はいちおう何章の何項とかに分け、構成されてあるのですが、どこでも著者は「昔の自分は…」という思い出(感動したこととともに後悔、反省したことも)を赤裸々に、具体的に述べておられました。恥ずかしいこと、失敗も隠すことなく語る姿に私はとても好感をおぼえました。
前に「実存」ということについて書きましたが、「偶有性」はそれにちょっと似ていると思います。