女装のスタイルは数あるけど、私は完全に女の子👩になりきる女装じゃなくて、男丸出し👨の女装スタイルがかなり好き。
例えば、セーラー服おじさん+アーチストの安穂野香さん。
みて❗この雄大な写真📷
☀昨日大雪山の勇姿といろいろ親睦を深めた中、何より大切なことは自分を育ててくれた 父・母 そして祖先 また御支援いただいた廻りの方々に多いに感謝し、その御恩に報いるよう、新たなる創造に邁進していくととなんだなあと、御山の前で諭されました🙏🗻 pic.twitter.com/jxLM3CsCSh
— 安穂野香 (@anhonoka1) 2017年4月29日
セーラー服おじさんには、安穂野香さんの他に、東京の小林秀章さんが有名だけれども、ツイッターでフォローしてもらってるし、私も山好き🗻なので、安穂野香さん推しです😉
そして、こちらもご存知のビアちゃん。
イチかゼロかではなくて、私自身を生きているところがいい
私は女装をするといつも
「私、女の子になりたいのかな❓」🤔
と考える。
女の子になりたいとは思わない。
私にとって女装は、私の中にはびこる「こうあるべき」を振り落とすための手段にすぎないのでね😎
そういう意味では、私はやっぱり男👦なのだと思う。
だから、あまり女性らしい服装でなくてもいいし、化粧にもこだわりはないし、なんだったらスッピンでもいいと思ってるくらい。
穂野香さんやビアちゃんを見てると、彼らの男性性(ヒゲとか頭髪とか)を隠さずに、でも女性装をしているという、イチかゼロ(男か女か)ではなく、「私は何者でもなく、ただ私自身にすぎない」みたいな立ち位置が感じられて、そこに私は惹かれるかな。
ビアちゃんの意外な過去
ビアちゃんについては、こんな記事を見たことがある。
特に印象に残ってるくだりはこれ。
思春期って学校がすべて。しかも、僕は男子校に通っていたから、マッチョイズムの観念が強くて、「男らしくいなければ」という雰囲気があった。学校的には「タブー」なんだよ、女装って。
ビアちゃんも「男らしくいなければ」から脱却する手段として女装してると感じられるこの記事。
そして面白いのがこれ。
でも、転機があった。学芸会で女装をすることになったんだ。それまでは、友だちの前でしかはっちゃけてこなかったけど、リーダー格の前でもその姿を見せる。正直、いじめられるかと思ったけど、めちゃくちゃウケた。
そうそう。むしろ受け入れてもらった感じ。ぶっ飛んでしまえば逆に楽しんでもらえる。縮こまっていても何も変わらない。そう思ったよ。
局外に生きると他者は寛容になる
いじめられてたビアちゃんが他の生徒に受け入れられたのは、彼が「土俵」から外れた、局外に生きているからではないかな。
マツコも言ってたけど、局外にある・いるものに対しては、人は異常に寛容になるところがあるからね。
身近な例え。
居酒屋で働いている外国人の店員さんの言葉づかいがたどたどしくても「まあしょうがないか。外国人さんだしね」と思える。
しかし日本人の店員さんが同じ言葉づかいをしたらどうかしら。
「この店は店員の教育がなっとらん❗💢」
と思うかもしれない。
自分と同じ土俵にいる人(日本人店員)には寛容になれなくても、その局外にいる人(外国人店員)だったら寛容になるって状況は確かにある。
マツコのようなオネエキャラがテレビ📺で毒舌コメントを言っても許容されるのは「まあ、局外にいるオカマだし、仕方ないな」と思う人はいる。
私のブログだって「オカマのオッサンがなんか言うとるw」という思いで見てる人もいるでしょう。
私は、それを利用して好きなことを吐き出してる。
自分が土俵を変えて局外に生きれば、周囲からの圧力や期待からスルリと逃れられるのかもしれない。
セーラー服おじさんの小林秀章さんも、初めて女装して外出したときのことをこう振り返ってるね。
やってみると、何も起きなかった。改札を通るとき、駅員は何も言わなかった。電車に乗っても、みんな普通で波風は立たなかった。
こんなにスルーされるのか? これが都会なのか?と驚いた。
局外にいる人はスルーされるのよね。
だからこそ、周囲からの圧力や期待を逃れて、最大限に自分を表現できるようになる。
というわけで、土俵を変えて局外を生きるというのは、生きづらさを感じる人にとって、一つの生きる指針になりうると思う。
私もヒゲ生やそうかな……(ボソッ)