『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』
ジョセフ・ヒース + アンドルー・ポター著 『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』
トマス・アクィナス、ルソー、マルクス、フロイト、グラムシ、ボードリヤールなどが参照されるが、哲学等に関心がない読者でも著者たちの議論を誤読することはないだろう。本書の主張はいたって明解だ。それは改良主義者による、ラディカル(過激/根源的)な革命を志向する左翼への批判である。
19世紀のアナーキストたちの主張は現在見ればそう過激なものではないのかもしれない。しかし彼らは根本的な思い違いをしていた。世の中には間違ったルールがある、ならばルールそのものを無くせば世界はより良くなるのではないかと考えたのだ。ルールを作り上げるのは国家である、であるから国家をなくさないことには、間違った世の中を正すことはできないのだと。
しかし著者たちはこう疑問を呈する。ルールというもの自体を否定すべきだろうか。ビル火災が起きたとき、きちんと整列して非常階段に向かうのと、各人がルールもなく非常階段に殺到するのとでは、どちらが早く避難できるだろうか。
ルールという存在そのものが悪なのではない。確かに世の中には間違ったルールがある。しかしそれへの対抗はルールという存在そのものを廃止することではなく、より良いルールに作り変えることであるはずだ。
著者たちもいうように、19世紀アナーキストたちによる国家が誤ったルールを生み出すのだから国家そのものを廃止しなくてはならないという発想は、むしろアメリカの右派的な考えと一致してしまうのである。
現在の世界が抱える多くの問題は間違ったルールがはびこっていることと共に、ルールがむしろ少なすぎることにあるのではないか(金融や税制などまさにそうだろう)。そうであらば、左派が目指すべきはルールを作り変えて、適切なルールを増やすことなのであって、ルールという存在そのものを否定することではないはずだ。ラディカル(過激/根源的)にルールという存在そのものを否定する、このような発想では効果的な政策を生み出せないという以前に多くの人々からの支持を得ることすら不可能である、と著者たちは主張する。
本書の扱いはなかなか難しい。胸糞悪くなりつつもその主張の妥当性は認めざるを得ないという気持ちになる一方で、まさにこれこそが左派に不足している発想だとばかりに飛びつきたくなるのをちょっとこらえて冷静に考えると、これを無比批判に受け入れることはありがちな詐術にひっかかることではないのかとの警戒心も湧いてくる。なぜこういう複雑な気分になるのかといえば、僕自身がラディカルな思考や行動に惹かれる傾向を持ちつつ、プラグマティックに、現実を少しでもよりマシなものにしていくようにすべきだとも感じており、この両者の間をふらふらと揺れているからだろう。こういう読者にとっては、本書の利点をある程度認めつつ、その問題点も指摘しておかなくてはという気分になってくる。
カウンターカルチャーのスターと広告のイメージ戦略とはその実相においては類似しているという、本書における「消費文化批判」批判は決して目新しいものではないだろう。このような問題について考えたことのある人ならば、多くの人がすぐに思いつくものだとしてもいいくらいだ。
著者たちは少々意地悪く、ナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない』の巻頭のエピソードに触れている。クラインは「トロントの工場街近くのビルが最近「ロフト住まい用」の分譲アパートに改装されているのを非難している」。クラインが住んでいるのは倉庫ビルの最上階であり、まさに自分が労働者階級とともにあることを表しているかのようだ。しかし「カナダの社会階級がどんなかを肌で知って」いればクラインがこの本を執筆していた当時、この地区はマンハッタンのソーホー地区にも匹敵する、「まさに最も価値の高い」不動産物件であったのかもしれないということに思い当たるという。しかもここは、カネを積めば住めるという場所ではない。「これらの建物は区画規則に違反しており、公開市場で買うことも借りることもできなかったのだ。ごく一握りの文化エリートしか手に入れられなかった」。
クラインはここが、かつてはロシアやポーランドからの移民が行き交い、トロツキーや国際婦人服労組について議論が交わされ、「有名な無政府主義者で労働運動家」のエマ・ゴールドマンが同じ通りに住んでいたのだと訴える。それが画一的なロフトに改築されてしまうのだ。著者たちはこれはクラインにとって大惨事だという。なぜなら、この区画整理によってカネさえ出せばヤッピーだって住める地区となってしまうからだ。つまりクラインの、この場所に住んでいたことによって得られていたステータスが無効化されてしまうのである。
クラインからすれば席巻する資本主義や消費社会によって世界がおびやかされ、画一化していっていることの証左となるのだが、著者たちからすればクラインの発想こそがまさに消費社会の価値観そのものだとなる。クラインが後生大事にしている「差異」こそが、消費社会において価値を決定するものであるからだ。
ファストファッションで買った服を着ていたら、完全にかぶってしまって決まり悪い思いをしたという経験のある人は少なくないだろう。ではなぜ同じ服を着ていることは決まりが悪いのだろうか。
マルクスは労働者階級が立ち上がらないのはなぜなのかを考え、それがイデオロギーによるものだと結論づけた。グラムシはこのマルクスの発想を援用し、文化におけるヘゲモニーという概念を編み出す。消費社会批判はマルクスやグラムシの同工異曲にすぎない。60年代以降は、氾濫する広告によって人々は「消費者」にさせられ、もっとモノが欲しい、あれも買わなくては、これも買わなくてはという強迫観念を植え付けられ、資本主義や消費社会に飼い馴らされているのだとされる。人々は必要もないものを、みんなが持っているからという理由で持たなくてはならないのだと思い込むようになったのだ、と。
確かに広告は横並び式に購入意欲を強迫観念的に煽る類のものもある。しかしまた広告は、みんなが持てるわけではないものをも欲させる機能も持つ。「私はあなたたちとは違うのだ」という意識を抱かせてくれるものを持つことの要求もかきたてるのだ。
その典型的な例がファッションだろう。服の価値を高めるのは単なる機能性ではない。高級ブランドを身につけたいのは、寒さをしのぐためではない。差異を浮かび上がらせ、それによって自らの価値を誇示したいからである。クラインが倉庫ビルに住むことは、まさに自分は消費社会に飼い馴らされたあなたたちとは違うのだということを示すことであり、カネによって誰でもこの地区にアクセスできるようになれば、ここに住んでいることによって示すことのできる文化的エリートの印が奪われることになる。自分は本物、あいつらは偽者。希少性を守ることによって差異を誇示するというのは、まさに消費社会の論理なのである。
あいつらとは違う、自分は特別なんだ、自分は本物である、そう思わせてくれるものを所有すること、あるいはそのような生き方をすることは、ある種の人にとっては心地よいものだ。そしてこのような人こそが、実は消費社会の最も忠実な住人であるのかもしれない。しかし、世の中の誰もがこのような欲求を抱くのだろうか。とんがったファッションは多くの人から眉をひそめられる。多くの人をぎょっとさせ、眉をひそめられることこそが少数の、価値ある本物であることの証となる。ではこのような価値観を政治に持ち込んだとして、勝算はあるのだろうか。
ノーマン・メイラーによる有名なヒップなものとスクエアなものとの対照表が引用されている。ヒップなものに「黒人」、「ニヒリスティック」と並んで「無政府主義者」が入っており、スクエアなものに「白人」、「権威主義」と並んで「社会主義者」が入っている。過激なものを受け入れるのは少数派だ。だから少数派はヒップである。大衆が受け入れるような、ヌルい、微温的なものは退屈なのである。
映画『ファイト・クラブ』において、メンバー志望者たちはジャミング(妨害)の指令を受ける。ジャミングされた側はよくて困惑、怒り出すのも当然のことだろう。
著者たちはカルチャー・ジャミング、あるいはそれを称揚する人々を冷ややかに描き出す。資本主義や消費社会への抵抗? そうではなくて、自らが少数のホンモノであることを誇示したいだけではないのか。あいつらとは違う、自分は価値のあるものを知っていて、それを実行するだけの胆力がある少数の人間であるということを示したいだけではないのか。
左派は抵抗と逸脱とを混同し、このような、多くの人にとっては単にはた迷惑なだけの行動を好意的に評価する。そして間違ったルールによって苦しめられている人々を助けるためのルールの改訂から目をそらし、ルールそのものを廃棄しようとするかのような少数のラディカル(過激/根源的)な人々に引きづられて、支持を失っている。考えてみてほしい、自分の価値を示すためには少数派であらねばならないと考えている人々が、大衆の支持を集めることができるだろうか。今左派に必要なのは「大衆との和解」なのである。
と、やや単純化して著者たちの主張をまとめてみると、とりわけ現在の日本では大いに同意する人が多いのではないだろうか。しかしここで立ち止まってみたい。著者たちは自分たちの主張にとって都合の悪い事実から目をそらすことによって本書を成立させているのではないか。そのように考えることも可能である。
本書にはワッツ暴動の例が引かれている。当時のデトロイトの失業率は低く、白人と黒人の賃金格差もそう大きくはなかった。著者たちは、荒廃したゲットーというイメージは暴動の結果であって原因ではないのだとしている。しかし、失業率が低く賃金格差が少ないにも関わらず暴動が起きたのではなく、むしろそうであるからこ起こったとも考えられるのではないだろうか。黒人たちは真面目に働き、それなりの収入を得られるようになっていた。しかしどれだけ頑張ろうとも、たとえわずかであろうとも厳然として白人との間に賃金格差が存在し、どれだけ懸命に働こうが二級市民扱いのままである。
その格差があまりにも巨大であると、被支配層は支配層に対して怒りを覚えることすらない。特権階級や金持ちというのは自分たちとは縁の無い、別種の人間のように感じられるからだ。しかし自分とたいして変わらないはずの人間が特権を享受しているのを目にすれば、怒りは一気に膨れ上がる。これは封建制が崩れ始めたヨーロッパでも見られたし、現在でも発展途上国でよく目にする光景である。経済がある程度の段階まで発展し、中産階級が厚くなると民主主義を求める声が高まるというのは、このような現象によるものだ。
尊厳とやらのためにせっかく得ている経済的利益を犠牲にするとは愚かな振る舞いである、などというのは戯画化された経済学者のようであるが、非経済学者である著者たちはこの陥穽にはまり込んでいるかのようだ。
ローザ・パークスが始めたバスボイコット運動は経済的理由からであっただろうか。黒人たちはバスに乗ることを拒否されていたのではない。有色人種専用席に押し込められてはいたが、サービスは「平等」に受けていた。当時のアメリカ南部では、「区別」をすれども同じサービスを提供すればそれは差別ではないという論理で白人と有色人種との分離が正当化され、連邦政府や連邦最高裁もこれを事実上追認していた。
著者たちはマルコムXやブラックパンサーのような「極端なスタンス」は「黒人コミュニティの住民よりむしろ白人のカウンターカルチャー支持の急進派にアピールした」としている。しかし現在から見れば穏健派であるパークスやキング牧師のような人々が当初から南部の黒人コミュニティ全体から支持を受けていたのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。パークスやキングの行動も当時としては十分に「極端」であった。余計な騒動を巻き起こしてくれたせいでかえって生きづらくなる、白人強硬派を勢いづかせ、白人穏健派を離反させるだけだという懸念を抱いた人も少なくなかった。
確かに「極端」な行動は大衆の支持を得にくい。では大衆の支持を得にくいからといって直接行動には出ず、多数派がルールを変えてくれることに同意してくれるような「穏健」な手法以外はとるべきではないという、一般論としては正しいようにも思える方針を195・60年代の公民権運動家がとっていたら、はたして公民権法が成立するのはいつになったことだろうか。
誤解のないように書いておくと、著者たちは「抵抗」を否定しているのではない。自己満足にひたるような、もっといえば目立ちたがり屋の悪ふざけといった「逸脱」とすべきものまで肯定的に評価しても、支持を失うことはあっても増やすことはないとしているだけだ。
しかし正当な抵抗と愚かな逸脱行為との間に適切な線を引くことはできるのだろうか。いったい誰が線を引くのかで、それはまったく異なるものとなる。警察から許可を得た合法的なデモですら「極端」で「過激」な手法だと考える人もいる。交通機関やレストランといった公共の場所で白人席に黒人が座るといった抗議行動は、当時の南部の「穏健派」の白人からしてもショッキングな、あまりに「極端」な手法であった。
著者たちは触れていないが、暗殺直前のマルコムXはキングに接近し、キングは自身を激しく批判していたマルコムXの言動に一定の理解を示すようになっていた。これはマルコムXとキング、双方が自身の手法に限界を感じ、相手の手法に可能性を見出したからだろう。
労働運動を見れば、日本ではもう大規模なストを打つことはできなくなってしまった。確かに多くの人が、とりわけ公共交通機関のストに対して否定的な感情を持っていたことだろう。しかしこのような感情は自然に醸成されたものばかりではなく、右派によって意図的に掻きたてられたものでもある(JR東海の葛西敬之に代表されるように、民営化されたJRの経営上層部が右派の巣窟になっているのは偶然ではない)。ストを打とうとすれば、そんなことをしても大衆の支持は得られないという声が圧倒的になってどれほどの時間がたったろうか。労組が「穏健」な手法しか取れなくさせられるようになって、日本の労働環境はどうなったのだろうか。
著者たちが見落としているのは、理想主義に基づくラディカルさと、プラグマティズムによって現実を変えていこうとする二つの流れが左派にあることによってもたらされるバランスだ。これは車の両輪のようなもので、どちらが欠けても車はコントロールを失う。
本書の主張にはいささかミスリードがあるように思う。広く支持を集めることが難しいであろう強硬な意見が現在の少なからぬ左派に広まりを見せていることはあるのかもしれない。しかしそのような人たちによってあまりに「ラディカル」に流れた結果として、左派が政治的影響力を失っていったのだろうか。著者たちも触れているように、90年代後半あたりから急速に広まった反グローバリゼーションをはじめとする動きは、クリントン政権やブレア政権への失望が大きく影響している。リベラルでは勝てない、左翼ではもう無理だといって権力を獲得した彼らは、中道を通り越して共和党や保守党と区別がつかないような政策を実行に移した。あまりに「右」に触れたその反動として「左」に引き戻そうとう力が働いているのでもあり、これはバランスを保とうとするリアクションであろう。カウンターカルチャーが隆盛を極めた60年代にはラディカルさがもてはやされた。それによって人心が離れたのだという批判から、90年代には「現実主義」が力を持つ。しかしあまりに右に寄りすぎた「現実主義」を左に揺り戻さないことには、左派の存在意義そのものが消滅してしまう。
著者たちは反グローバリゼーションに対しては極めて冷淡である。反グローバリゼーションとは先進国の雇用を守るために途上国の人々の雇用の機会を奪おうとするミーイズムに過ぎないというのは、経済学者がよく口にする理論だ。では反グローバリゼーションは、その表向きの「善意」とは逆に労働者の国際的連帯を否定したものであるというのが実態なのであろうか。
スウェットショップ批判はエゴイズムなのであろうか。確かに先進国の労働者にとっては雀の涙ほどに見える賃金であっても、途上国の労働者にとってはこれまでは考えられないような現金収入となる。しかし劣悪な環境で長時間労働を強いられ、人権すら省みられない労働環境を批判することが、連帯の拒絶なのであろうか。
これは著者たちが主張していることではないが、一部の経済学者は、先進国の活動家が「余計な知恵」を付けて途上国で労働運動などを起こせば、もう企業にとってそこは魅了的な労働市場が失われた地域ということになり、その結果工場が移転すれば、残された労働者はただ仕事を失うだけで、貴重な現金収入の機会が奪われるだけだと、反グローバリゼーションの「偽善」を批判する。しかしこのような経済学者の意見がまかり通れば、劣悪な労働環境と低賃金に唯々諾々と従う労働者でない限り仕事を得られないという、「底辺への競争」が引き起こされることになる。
スティグリッツはこのようなグローバリゼーションがもたらす底辺への競争に警鐘を鳴らし続けているし、クルーグマンもかつてであれば鼻で笑い飛ばして終わらせたであろうクラインの主張の一部を、留保つきながらも認めるようなことも言っている。著者たちの主張はこのような近年のリベラル派経済学者の潮流からしても、大分遅れを取っているように映る。これは著者の一人であるヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』の感想でも書いたが、非経済学者であるためにかえってこのような傾向が強まっているのかもしれない。
イギリスではシャンペン社会主義、アメリカではリムジン・リベラルという蔑称がある。画一化されようとする社会に抗うためとして、工業製品化された食品を拒否して、有機農法の野菜しか食べないといったタイプのベジタリアンになれるのは、金持ちだけに許された特権だ。低賃金にあえぎ、失業の恐怖にさらされている労働者に、インスタント食品を口にするのは資本主義に屈することだと説教したところで、耳を傾ける人はいないだろう。画一化は憂鬱な光景ではある。しかし「貧困と画一化のどちらかを減らすことを選ぶかといわれたら、たいていの人は貧困を減らす方を選ぶ」という著者たちの分析は当を得たものであろう。
このような著者たちの主張には傾聴すべき点が多々ある。しかし著者たちがいうように、カウンターカルチャーや、それが影響を及ぼした政治運動は有害無益なものなのだろうか。
本書はカート・コバーンの悲劇から始められる。カートが売れることはニセモノになること、売れないことこそがホンモノの証であるという、カウンターカルチャー的な思想に苦しめられたことは想像に難くない。
エルトン・ジョンやクィーンのフレディ・マーキュリー、あるいは最近のレディ・ガガといったアーティストは、「良識的」な人が眉をひそめたり嘲笑ったりするようなファッションを身にまとう。著者たちのシニカルな分析を援用すれば、これはむしろ「商品」としての価値を高めるブランド戦略にすぎないとすることもできる。ではそれだけのことだったのだろうか。全ては「希少」な「商品」として消費されただけであったのだろうか。カートもその曲をカヴァーしたデヴィッド・ボウイは商業的にも巨大な成功を収めたが、彼をセルアウトしたニセモノ呼ばわりする声は、皆無とまでは言わないが強くはない。
「差異」が価値を生み出す。日本では80年代に輸入されたフランス現代思想が、バブルへと向かう状況下でセゾングループをはじめとする消費社会を煽る人々によって肯定的に喧伝されていった。「市場」の流れが変わると、これらが経済界からもてはやされた状況は瞬く間に霧散した。ボウイも結局はその起源の一つであり亜種の一つにすぎなかったのだろうか。
近年多くの国、地域において、社会認識が大きく変わったものがセクシャル・マイノリティについてだろう。このような社会の変化について、「クイア」的にゲイであることを見せ付けることを積極的に選んだエルトン・ジョンやフレディ・マーキュリー、あるいは中性的、バイセクシャル的イメージ戦略をとったデヴィッド・ボウイらの活動の積み重ねによる影響を無視することができるのだろうか。
著者たちが再三に渡って指摘しているように、差異に価値を見出すことは選民思想と結びつき、自分は特別なのだとの思いあがりや自己満足を招きかねない。しかしまた、差異の存在を強く打ち出すことは、自分は人と違っていてもいいのだとマイノリティーをエンパワーするものともなる。ボウイの商業的成功は、人が個としてあり続けてもいいのだというメッセージともなった。だからこそ、世代を超えたリスペクトの対象となったのである。
著者たちの主張からすれば、これらのアーティストは商業的成功を恐れていないどころかむしろ積極的に望んでいた、つまり「大衆と和解」しているのであって、カウンターカルチャー的なとんがり方を志向する人たちとは別なのだということになるのかもしれない。カートとも親しかったソニック・ユースは売れすぎることには警戒的で、巨大な成功の前にするりと身をかわしたようにも見えた。一方でカートと共作の話も進んでいたR.E.M.は、メジャー契約後に大きな商業的成功を収めた。R.E.M.は彼らなりに葛藤もあっただろうが(ビル・ベリーの脱退もそのあたりの影響もある)、多くはうまく折り合いをつけられたのだと評価するのではないだろうか。
何が言いたいのかというと、著者たちが言うような、ぴっと一線を引くなどということなどできないし、安易に行うべきでもないということだ。キング牧師とマルコムXの間に、マルコムXとブラックパンサーとの間に、誰もが納得できる線を引くことなどできるのだろうか。
黒人も一人前の人間であることを白人に認識させるために白人が作ったマナーに一分の隙もなく従い、上品で礼儀正しくあるべきだ、というかつては「常識」であったであろう価値観が揺さぶられることがなければ、アメリカにおいて黒人は白人の顔色をうかがい続ける「アンクル・トム」のままであったかもしれず、これはアメリカにおける差別問題への根本的な問いかけを回避することにつながっただろう。
著者たちは「礼儀正しさ」が失われたことで、誰が得をしただろうかと問いかける。60年代のカウンターカルチャーは、「マナーや礼儀正しい振る舞いに気を遣うことは、旧弊な因習、ヴィクトリア朝の遺物、社会が個人に課す理不尽な抑圧のしるし」と見なした。「もっと真正な行動の方針とは、ひたすら自分らしくあること、本当に思っていることを言うこと、本当に感じていることをみんなに伝えること、古くさい社会慣習に個人的な自己表現をじゃまさせないこと」こそが重要なのだ、と。
こうして礼儀正しさが損なわれた結果が、右派によるトークレディオやFOXニュースなどの跋扈を許したのではないか。アメリカの政治に「邪悪さ」をもたらしたのは、「アメリカ人の臆面もない無礼さである」。「こうして、どんな政治問題についても理性的な議論ができなくなる。このことは右派よりも左派にとって大きな打撃となった」。
アメリカのみならず多くの国で右派の下劣さにうんざりしている人間からすると、この指摘には率直にうなずきたくなってくる。
「抵抗」として「礼儀正しさ」を拒絶することは、確かに諸刃の刀である。騒動を引き起こすことだけが目的の愉快犯的な人物が左派から「真面目」に受け取られ、その結果「大衆」から不興を買うことになるというのは、60年代後半以降によく見られた光景であり(ブタを大統領候補に指名するイッピーを好意的に評価することで、むしろ左派の「真面目」さが大衆から疑われることとなるのは想像に難くない)、これこそが、とりわけアメリカ社会において保守派の復権を許した要因の一つともなったことは否定できないだろう。
しかし戦略として「礼儀正しさ」を求めることは、マイノリティや社会的弱者による異議申し立てを、マジョリティの側がその手法や「礼節」を盾に取って無効化することにも利用されかねない。「差別やいじめは、差別されたりいじめられたりする側にも何らかの原因があるのではないか」というあの醜悪な理論へと回収されかねない。「ほら、あいつらを見てみろ、騒いでいるのはごく一部の、あんな連中に過ぎないのだ」、と。
左派のナイーブさを批判しているようで、著者たちはこのあたりの問題をあまりに粗雑に扱っているように思える。
「自由」と「豊かさ」とのどちらかを選べと言われて、「自由」の方を選ぶ人は少数であろう。そこで少数派であることに満足するのではなく、左派が「豊かさ」についても訴求力を持つような政策を訴えるべきだとは僕も思う。これこそが左派に不足しているのだというのはまさにその通りで、これについては僕も強く同意する。
しかし「自由」とは何か、「豊かさ」とは何かという問いを置き去りにすることがその前提条件になるとは思わないし、そもそもそのような二項対立的な設問が適切なものであるのかという問いを放棄して詐術による二択の土俵に上ることは、右派の狙い通りの結果を招くことともなる。「劣悪な労働環境であるが仕事はある」のと「人権は守られているが仕事はない」のとどちらかを選べというのは、そもそもが二択の設問として成立していないし、させてはならない。
著者たちの主張のかなりの部分に僕は同意するが、しかしそうであるからこそ、本書や、あるいは類似する問題提起の中にある違和感もまたより強く覚えることとなる。左派やリベラル派はもっと経済学を勉強すべきだという声はよく聞くし、その通りだと思う半面、人文学や経済学以外の社会科学を学んでいた人が経済学をかじった途端に残念なことになってしまう例も散見されるだけに、より一層警戒心もつのることとなる(こういう人たちこそが左派による経済学嫌いを助長しているのだが、当人にその自覚症状がないためにまるで話がかみ合わないことになる)。
アメリカを中心とする一部のリベラル派経済学者に見られるような、右派やマジョリティの居直りに対してはむろんのこと、左派に対する逆張り冷笑主義とも戦い、経済学を左派にとっても魅力的なものとし、経済学に左派を引き付けるのだという姿勢は、著者たちからは残念ながらあまり感じられない。個人的には経済学を学んだ哲学者に求めたいのは、著者たちが本書で軽視した歴史や運動・問いかけとプラグマティズムに基づく改良主義との架橋であるのだが、本書はむしろ溝を深めるだけのようにも思えてしまう(繰り返し揶揄しているように、ヒースはナオミ・クラインのことを心底からバカにしていて嫌っているのだろうが、今戦うべき相手はそちらなのか、とアムロばりに言いたくなってもくる)。著者たちのその姿は経済学を学び、問題を正しく把握してるという「少数派」であることを誇示し、頑迷にしてピント外れな左派を嘲笑することでエクスキューズを行い、自己満足にひたっているかのように見えなくもないのである。
トマス・アクィナス、ルソー、マルクス、フロイト、グラムシ、ボードリヤールなどが参照されるが、哲学等に関心がない読者でも著者たちの議論を誤読することはないだろう。本書の主張はいたって明解だ。それは改良主義者による、ラディカル(過激/根源的)な革命を志向する左翼への批判である。
19世紀のアナーキストたちの主張は現在見ればそう過激なものではないのかもしれない。しかし彼らは根本的な思い違いをしていた。世の中には間違ったルールがある、ならばルールそのものを無くせば世界はより良くなるのではないかと考えたのだ。ルールを作り上げるのは国家である、であるから国家をなくさないことには、間違った世の中を正すことはできないのだと。
しかし著者たちはこう疑問を呈する。ルールというもの自体を否定すべきだろうか。ビル火災が起きたとき、きちんと整列して非常階段に向かうのと、各人がルールもなく非常階段に殺到するのとでは、どちらが早く避難できるだろうか。
ルールという存在そのものが悪なのではない。確かに世の中には間違ったルールがある。しかしそれへの対抗はルールという存在そのものを廃止することではなく、より良いルールに作り変えることであるはずだ。
著者たちもいうように、19世紀アナーキストたちによる国家が誤ったルールを生み出すのだから国家そのものを廃止しなくてはならないという発想は、むしろアメリカの右派的な考えと一致してしまうのである。
現在の世界が抱える多くの問題は間違ったルールがはびこっていることと共に、ルールがむしろ少なすぎることにあるのではないか(金融や税制などまさにそうだろう)。そうであらば、左派が目指すべきはルールを作り変えて、適切なルールを増やすことなのであって、ルールという存在そのものを否定することではないはずだ。ラディカル(過激/根源的)にルールという存在そのものを否定する、このような発想では効果的な政策を生み出せないという以前に多くの人々からの支持を得ることすら不可能である、と著者たちは主張する。
本書の扱いはなかなか難しい。胸糞悪くなりつつもその主張の妥当性は認めざるを得ないという気持ちになる一方で、まさにこれこそが左派に不足している発想だとばかりに飛びつきたくなるのをちょっとこらえて冷静に考えると、これを無比批判に受け入れることはありがちな詐術にひっかかることではないのかとの警戒心も湧いてくる。なぜこういう複雑な気分になるのかといえば、僕自身がラディカルな思考や行動に惹かれる傾向を持ちつつ、プラグマティックに、現実を少しでもよりマシなものにしていくようにすべきだとも感じており、この両者の間をふらふらと揺れているからだろう。こういう読者にとっては、本書の利点をある程度認めつつ、その問題点も指摘しておかなくてはという気分になってくる。
カウンターカルチャーのスターと広告のイメージ戦略とはその実相においては類似しているという、本書における「消費文化批判」批判は決して目新しいものではないだろう。このような問題について考えたことのある人ならば、多くの人がすぐに思いつくものだとしてもいいくらいだ。
著者たちは少々意地悪く、ナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない』の巻頭のエピソードに触れている。クラインは「トロントの工場街近くのビルが最近「ロフト住まい用」の分譲アパートに改装されているのを非難している」。クラインが住んでいるのは倉庫ビルの最上階であり、まさに自分が労働者階級とともにあることを表しているかのようだ。しかし「カナダの社会階級がどんなかを肌で知って」いればクラインがこの本を執筆していた当時、この地区はマンハッタンのソーホー地区にも匹敵する、「まさに最も価値の高い」不動産物件であったのかもしれないということに思い当たるという。しかもここは、カネを積めば住めるという場所ではない。「これらの建物は区画規則に違反しており、公開市場で買うことも借りることもできなかったのだ。ごく一握りの文化エリートしか手に入れられなかった」。
クラインはここが、かつてはロシアやポーランドからの移民が行き交い、トロツキーや国際婦人服労組について議論が交わされ、「有名な無政府主義者で労働運動家」のエマ・ゴールドマンが同じ通りに住んでいたのだと訴える。それが画一的なロフトに改築されてしまうのだ。著者たちはこれはクラインにとって大惨事だという。なぜなら、この区画整理によってカネさえ出せばヤッピーだって住める地区となってしまうからだ。つまりクラインの、この場所に住んでいたことによって得られていたステータスが無効化されてしまうのである。
クラインからすれば席巻する資本主義や消費社会によって世界がおびやかされ、画一化していっていることの証左となるのだが、著者たちからすればクラインの発想こそがまさに消費社会の価値観そのものだとなる。クラインが後生大事にしている「差異」こそが、消費社会において価値を決定するものであるからだ。
ファストファッションで買った服を着ていたら、完全にかぶってしまって決まり悪い思いをしたという経験のある人は少なくないだろう。ではなぜ同じ服を着ていることは決まりが悪いのだろうか。
マルクスは労働者階級が立ち上がらないのはなぜなのかを考え、それがイデオロギーによるものだと結論づけた。グラムシはこのマルクスの発想を援用し、文化におけるヘゲモニーという概念を編み出す。消費社会批判はマルクスやグラムシの同工異曲にすぎない。60年代以降は、氾濫する広告によって人々は「消費者」にさせられ、もっとモノが欲しい、あれも買わなくては、これも買わなくてはという強迫観念を植え付けられ、資本主義や消費社会に飼い馴らされているのだとされる。人々は必要もないものを、みんなが持っているからという理由で持たなくてはならないのだと思い込むようになったのだ、と。
確かに広告は横並び式に購入意欲を強迫観念的に煽る類のものもある。しかしまた広告は、みんなが持てるわけではないものをも欲させる機能も持つ。「私はあなたたちとは違うのだ」という意識を抱かせてくれるものを持つことの要求もかきたてるのだ。
その典型的な例がファッションだろう。服の価値を高めるのは単なる機能性ではない。高級ブランドを身につけたいのは、寒さをしのぐためではない。差異を浮かび上がらせ、それによって自らの価値を誇示したいからである。クラインが倉庫ビルに住むことは、まさに自分は消費社会に飼い馴らされたあなたたちとは違うのだということを示すことであり、カネによって誰でもこの地区にアクセスできるようになれば、ここに住んでいることによって示すことのできる文化的エリートの印が奪われることになる。自分は本物、あいつらは偽者。希少性を守ることによって差異を誇示するというのは、まさに消費社会の論理なのである。
あいつらとは違う、自分は特別なんだ、自分は本物である、そう思わせてくれるものを所有すること、あるいはそのような生き方をすることは、ある種の人にとっては心地よいものだ。そしてこのような人こそが、実は消費社会の最も忠実な住人であるのかもしれない。しかし、世の中の誰もがこのような欲求を抱くのだろうか。とんがったファッションは多くの人から眉をひそめられる。多くの人をぎょっとさせ、眉をひそめられることこそが少数の、価値ある本物であることの証となる。ではこのような価値観を政治に持ち込んだとして、勝算はあるのだろうか。
ノーマン・メイラーによる有名なヒップなものとスクエアなものとの対照表が引用されている。ヒップなものに「黒人」、「ニヒリスティック」と並んで「無政府主義者」が入っており、スクエアなものに「白人」、「権威主義」と並んで「社会主義者」が入っている。過激なものを受け入れるのは少数派だ。だから少数派はヒップである。大衆が受け入れるような、ヌルい、微温的なものは退屈なのである。
映画『ファイト・クラブ』において、メンバー志望者たちはジャミング(妨害)の指令を受ける。ジャミングされた側はよくて困惑、怒り出すのも当然のことだろう。
著者たちはカルチャー・ジャミング、あるいはそれを称揚する人々を冷ややかに描き出す。資本主義や消費社会への抵抗? そうではなくて、自らが少数のホンモノであることを誇示したいだけではないのか。あいつらとは違う、自分は価値のあるものを知っていて、それを実行するだけの胆力がある少数の人間であるということを示したいだけではないのか。
左派は抵抗と逸脱とを混同し、このような、多くの人にとっては単にはた迷惑なだけの行動を好意的に評価する。そして間違ったルールによって苦しめられている人々を助けるためのルールの改訂から目をそらし、ルールそのものを廃棄しようとするかのような少数のラディカル(過激/根源的)な人々に引きづられて、支持を失っている。考えてみてほしい、自分の価値を示すためには少数派であらねばならないと考えている人々が、大衆の支持を集めることができるだろうか。今左派に必要なのは「大衆との和解」なのである。
と、やや単純化して著者たちの主張をまとめてみると、とりわけ現在の日本では大いに同意する人が多いのではないだろうか。しかしここで立ち止まってみたい。著者たちは自分たちの主張にとって都合の悪い事実から目をそらすことによって本書を成立させているのではないか。そのように考えることも可能である。
本書にはワッツ暴動の例が引かれている。当時のデトロイトの失業率は低く、白人と黒人の賃金格差もそう大きくはなかった。著者たちは、荒廃したゲットーというイメージは暴動の結果であって原因ではないのだとしている。しかし、失業率が低く賃金格差が少ないにも関わらず暴動が起きたのではなく、むしろそうであるからこ起こったとも考えられるのではないだろうか。黒人たちは真面目に働き、それなりの収入を得られるようになっていた。しかしどれだけ頑張ろうとも、たとえわずかであろうとも厳然として白人との間に賃金格差が存在し、どれだけ懸命に働こうが二級市民扱いのままである。
その格差があまりにも巨大であると、被支配層は支配層に対して怒りを覚えることすらない。特権階級や金持ちというのは自分たちとは縁の無い、別種の人間のように感じられるからだ。しかし自分とたいして変わらないはずの人間が特権を享受しているのを目にすれば、怒りは一気に膨れ上がる。これは封建制が崩れ始めたヨーロッパでも見られたし、現在でも発展途上国でよく目にする光景である。経済がある程度の段階まで発展し、中産階級が厚くなると民主主義を求める声が高まるというのは、このような現象によるものだ。
尊厳とやらのためにせっかく得ている経済的利益を犠牲にするとは愚かな振る舞いである、などというのは戯画化された経済学者のようであるが、非経済学者である著者たちはこの陥穽にはまり込んでいるかのようだ。
ローザ・パークスが始めたバスボイコット運動は経済的理由からであっただろうか。黒人たちはバスに乗ることを拒否されていたのではない。有色人種専用席に押し込められてはいたが、サービスは「平等」に受けていた。当時のアメリカ南部では、「区別」をすれども同じサービスを提供すればそれは差別ではないという論理で白人と有色人種との分離が正当化され、連邦政府や連邦最高裁もこれを事実上追認していた。
著者たちはマルコムXやブラックパンサーのような「極端なスタンス」は「黒人コミュニティの住民よりむしろ白人のカウンターカルチャー支持の急進派にアピールした」としている。しかし現在から見れば穏健派であるパークスやキング牧師のような人々が当初から南部の黒人コミュニティ全体から支持を受けていたのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。パークスやキングの行動も当時としては十分に「極端」であった。余計な騒動を巻き起こしてくれたせいでかえって生きづらくなる、白人強硬派を勢いづかせ、白人穏健派を離反させるだけだという懸念を抱いた人も少なくなかった。
確かに「極端」な行動は大衆の支持を得にくい。では大衆の支持を得にくいからといって直接行動には出ず、多数派がルールを変えてくれることに同意してくれるような「穏健」な手法以外はとるべきではないという、一般論としては正しいようにも思える方針を195・60年代の公民権運動家がとっていたら、はたして公民権法が成立するのはいつになったことだろうか。
誤解のないように書いておくと、著者たちは「抵抗」を否定しているのではない。自己満足にひたるような、もっといえば目立ちたがり屋の悪ふざけといった「逸脱」とすべきものまで肯定的に評価しても、支持を失うことはあっても増やすことはないとしているだけだ。
しかし正当な抵抗と愚かな逸脱行為との間に適切な線を引くことはできるのだろうか。いったい誰が線を引くのかで、それはまったく異なるものとなる。警察から許可を得た合法的なデモですら「極端」で「過激」な手法だと考える人もいる。交通機関やレストランといった公共の場所で白人席に黒人が座るといった抗議行動は、当時の南部の「穏健派」の白人からしてもショッキングな、あまりに「極端」な手法であった。
著者たちは触れていないが、暗殺直前のマルコムXはキングに接近し、キングは自身を激しく批判していたマルコムXの言動に一定の理解を示すようになっていた。これはマルコムXとキング、双方が自身の手法に限界を感じ、相手の手法に可能性を見出したからだろう。
労働運動を見れば、日本ではもう大規模なストを打つことはできなくなってしまった。確かに多くの人が、とりわけ公共交通機関のストに対して否定的な感情を持っていたことだろう。しかしこのような感情は自然に醸成されたものばかりではなく、右派によって意図的に掻きたてられたものでもある(JR東海の葛西敬之に代表されるように、民営化されたJRの経営上層部が右派の巣窟になっているのは偶然ではない)。ストを打とうとすれば、そんなことをしても大衆の支持は得られないという声が圧倒的になってどれほどの時間がたったろうか。労組が「穏健」な手法しか取れなくさせられるようになって、日本の労働環境はどうなったのだろうか。
著者たちが見落としているのは、理想主義に基づくラディカルさと、プラグマティズムによって現実を変えていこうとする二つの流れが左派にあることによってもたらされるバランスだ。これは車の両輪のようなもので、どちらが欠けても車はコントロールを失う。
本書の主張にはいささかミスリードがあるように思う。広く支持を集めることが難しいであろう強硬な意見が現在の少なからぬ左派に広まりを見せていることはあるのかもしれない。しかしそのような人たちによってあまりに「ラディカル」に流れた結果として、左派が政治的影響力を失っていったのだろうか。著者たちも触れているように、90年代後半あたりから急速に広まった反グローバリゼーションをはじめとする動きは、クリントン政権やブレア政権への失望が大きく影響している。リベラルでは勝てない、左翼ではもう無理だといって権力を獲得した彼らは、中道を通り越して共和党や保守党と区別がつかないような政策を実行に移した。あまりに「右」に触れたその反動として「左」に引き戻そうとう力が働いているのでもあり、これはバランスを保とうとするリアクションであろう。カウンターカルチャーが隆盛を極めた60年代にはラディカルさがもてはやされた。それによって人心が離れたのだという批判から、90年代には「現実主義」が力を持つ。しかしあまりに右に寄りすぎた「現実主義」を左に揺り戻さないことには、左派の存在意義そのものが消滅してしまう。
著者たちは反グローバリゼーションに対しては極めて冷淡である。反グローバリゼーションとは先進国の雇用を守るために途上国の人々の雇用の機会を奪おうとするミーイズムに過ぎないというのは、経済学者がよく口にする理論だ。では反グローバリゼーションは、その表向きの「善意」とは逆に労働者の国際的連帯を否定したものであるというのが実態なのであろうか。
スウェットショップ批判はエゴイズムなのであろうか。確かに先進国の労働者にとっては雀の涙ほどに見える賃金であっても、途上国の労働者にとってはこれまでは考えられないような現金収入となる。しかし劣悪な環境で長時間労働を強いられ、人権すら省みられない労働環境を批判することが、連帯の拒絶なのであろうか。
これは著者たちが主張していることではないが、一部の経済学者は、先進国の活動家が「余計な知恵」を付けて途上国で労働運動などを起こせば、もう企業にとってそこは魅了的な労働市場が失われた地域ということになり、その結果工場が移転すれば、残された労働者はただ仕事を失うだけで、貴重な現金収入の機会が奪われるだけだと、反グローバリゼーションの「偽善」を批判する。しかしこのような経済学者の意見がまかり通れば、劣悪な労働環境と低賃金に唯々諾々と従う労働者でない限り仕事を得られないという、「底辺への競争」が引き起こされることになる。
スティグリッツはこのようなグローバリゼーションがもたらす底辺への競争に警鐘を鳴らし続けているし、クルーグマンもかつてであれば鼻で笑い飛ばして終わらせたであろうクラインの主張の一部を、留保つきながらも認めるようなことも言っている。著者たちの主張はこのような近年のリベラル派経済学者の潮流からしても、大分遅れを取っているように映る。これは著者の一人であるヒースの『資本主義が嫌いな人のための経済学』の感想でも書いたが、非経済学者であるためにかえってこのような傾向が強まっているのかもしれない。
イギリスではシャンペン社会主義、アメリカではリムジン・リベラルという蔑称がある。画一化されようとする社会に抗うためとして、工業製品化された食品を拒否して、有機農法の野菜しか食べないといったタイプのベジタリアンになれるのは、金持ちだけに許された特権だ。低賃金にあえぎ、失業の恐怖にさらされている労働者に、インスタント食品を口にするのは資本主義に屈することだと説教したところで、耳を傾ける人はいないだろう。画一化は憂鬱な光景ではある。しかし「貧困と画一化のどちらかを減らすことを選ぶかといわれたら、たいていの人は貧困を減らす方を選ぶ」という著者たちの分析は当を得たものであろう。
このような著者たちの主張には傾聴すべき点が多々ある。しかし著者たちがいうように、カウンターカルチャーや、それが影響を及ぼした政治運動は有害無益なものなのだろうか。
本書はカート・コバーンの悲劇から始められる。カートが売れることはニセモノになること、売れないことこそがホンモノの証であるという、カウンターカルチャー的な思想に苦しめられたことは想像に難くない。
エルトン・ジョンやクィーンのフレディ・マーキュリー、あるいは最近のレディ・ガガといったアーティストは、「良識的」な人が眉をひそめたり嘲笑ったりするようなファッションを身にまとう。著者たちのシニカルな分析を援用すれば、これはむしろ「商品」としての価値を高めるブランド戦略にすぎないとすることもできる。ではそれだけのことだったのだろうか。全ては「希少」な「商品」として消費されただけであったのだろうか。カートもその曲をカヴァーしたデヴィッド・ボウイは商業的にも巨大な成功を収めたが、彼をセルアウトしたニセモノ呼ばわりする声は、皆無とまでは言わないが強くはない。
「差異」が価値を生み出す。日本では80年代に輸入されたフランス現代思想が、バブルへと向かう状況下でセゾングループをはじめとする消費社会を煽る人々によって肯定的に喧伝されていった。「市場」の流れが変わると、これらが経済界からもてはやされた状況は瞬く間に霧散した。ボウイも結局はその起源の一つであり亜種の一つにすぎなかったのだろうか。
近年多くの国、地域において、社会認識が大きく変わったものがセクシャル・マイノリティについてだろう。このような社会の変化について、「クイア」的にゲイであることを見せ付けることを積極的に選んだエルトン・ジョンやフレディ・マーキュリー、あるいは中性的、バイセクシャル的イメージ戦略をとったデヴィッド・ボウイらの活動の積み重ねによる影響を無視することができるのだろうか。
著者たちが再三に渡って指摘しているように、差異に価値を見出すことは選民思想と結びつき、自分は特別なのだとの思いあがりや自己満足を招きかねない。しかしまた、差異の存在を強く打ち出すことは、自分は人と違っていてもいいのだとマイノリティーをエンパワーするものともなる。ボウイの商業的成功は、人が個としてあり続けてもいいのだというメッセージともなった。だからこそ、世代を超えたリスペクトの対象となったのである。
著者たちの主張からすれば、これらのアーティストは商業的成功を恐れていないどころかむしろ積極的に望んでいた、つまり「大衆と和解」しているのであって、カウンターカルチャー的なとんがり方を志向する人たちとは別なのだということになるのかもしれない。カートとも親しかったソニック・ユースは売れすぎることには警戒的で、巨大な成功の前にするりと身をかわしたようにも見えた。一方でカートと共作の話も進んでいたR.E.M.は、メジャー契約後に大きな商業的成功を収めた。R.E.M.は彼らなりに葛藤もあっただろうが(ビル・ベリーの脱退もそのあたりの影響もある)、多くはうまく折り合いをつけられたのだと評価するのではないだろうか。
何が言いたいのかというと、著者たちが言うような、ぴっと一線を引くなどということなどできないし、安易に行うべきでもないということだ。キング牧師とマルコムXの間に、マルコムXとブラックパンサーとの間に、誰もが納得できる線を引くことなどできるのだろうか。
黒人も一人前の人間であることを白人に認識させるために白人が作ったマナーに一分の隙もなく従い、上品で礼儀正しくあるべきだ、というかつては「常識」であったであろう価値観が揺さぶられることがなければ、アメリカにおいて黒人は白人の顔色をうかがい続ける「アンクル・トム」のままであったかもしれず、これはアメリカにおける差別問題への根本的な問いかけを回避することにつながっただろう。
著者たちは「礼儀正しさ」が失われたことで、誰が得をしただろうかと問いかける。60年代のカウンターカルチャーは、「マナーや礼儀正しい振る舞いに気を遣うことは、旧弊な因習、ヴィクトリア朝の遺物、社会が個人に課す理不尽な抑圧のしるし」と見なした。「もっと真正な行動の方針とは、ひたすら自分らしくあること、本当に思っていることを言うこと、本当に感じていることをみんなに伝えること、古くさい社会慣習に個人的な自己表現をじゃまさせないこと」こそが重要なのだ、と。
こうして礼儀正しさが損なわれた結果が、右派によるトークレディオやFOXニュースなどの跋扈を許したのではないか。アメリカの政治に「邪悪さ」をもたらしたのは、「アメリカ人の臆面もない無礼さである」。「こうして、どんな政治問題についても理性的な議論ができなくなる。このことは右派よりも左派にとって大きな打撃となった」。
アメリカのみならず多くの国で右派の下劣さにうんざりしている人間からすると、この指摘には率直にうなずきたくなってくる。
「抵抗」として「礼儀正しさ」を拒絶することは、確かに諸刃の刀である。騒動を引き起こすことだけが目的の愉快犯的な人物が左派から「真面目」に受け取られ、その結果「大衆」から不興を買うことになるというのは、60年代後半以降によく見られた光景であり(ブタを大統領候補に指名するイッピーを好意的に評価することで、むしろ左派の「真面目」さが大衆から疑われることとなるのは想像に難くない)、これこそが、とりわけアメリカ社会において保守派の復権を許した要因の一つともなったことは否定できないだろう。
しかし戦略として「礼儀正しさ」を求めることは、マイノリティや社会的弱者による異議申し立てを、マジョリティの側がその手法や「礼節」を盾に取って無効化することにも利用されかねない。「差別やいじめは、差別されたりいじめられたりする側にも何らかの原因があるのではないか」というあの醜悪な理論へと回収されかねない。「ほら、あいつらを見てみろ、騒いでいるのはごく一部の、あんな連中に過ぎないのだ」、と。
左派のナイーブさを批判しているようで、著者たちはこのあたりの問題をあまりに粗雑に扱っているように思える。
「自由」と「豊かさ」とのどちらかを選べと言われて、「自由」の方を選ぶ人は少数であろう。そこで少数派であることに満足するのではなく、左派が「豊かさ」についても訴求力を持つような政策を訴えるべきだとは僕も思う。これこそが左派に不足しているのだというのはまさにその通りで、これについては僕も強く同意する。
しかし「自由」とは何か、「豊かさ」とは何かという問いを置き去りにすることがその前提条件になるとは思わないし、そもそもそのような二項対立的な設問が適切なものであるのかという問いを放棄して詐術による二択の土俵に上ることは、右派の狙い通りの結果を招くことともなる。「劣悪な労働環境であるが仕事はある」のと「人権は守られているが仕事はない」のとどちらかを選べというのは、そもそもが二択の設問として成立していないし、させてはならない。
著者たちの主張のかなりの部分に僕は同意するが、しかしそうであるからこそ、本書や、あるいは類似する問題提起の中にある違和感もまたより強く覚えることとなる。左派やリベラル派はもっと経済学を勉強すべきだという声はよく聞くし、その通りだと思う半面、人文学や経済学以外の社会科学を学んでいた人が経済学をかじった途端に残念なことになってしまう例も散見されるだけに、より一層警戒心もつのることとなる(こういう人たちこそが左派による経済学嫌いを助長しているのだが、当人にその自覚症状がないためにまるで話がかみ合わないことになる)。
アメリカを中心とする一部のリベラル派経済学者に見られるような、右派やマジョリティの居直りに対してはむろんのこと、左派に対する逆張り冷笑主義とも戦い、経済学を左派にとっても魅力的なものとし、経済学に左派を引き付けるのだという姿勢は、著者たちからは残念ながらあまり感じられない。個人的には経済学を学んだ哲学者に求めたいのは、著者たちが本書で軽視した歴史や運動・問いかけとプラグマティズムに基づく改良主義との架橋であるのだが、本書はむしろ溝を深めるだけのようにも思えてしまう(繰り返し揶揄しているように、ヒースはナオミ・クラインのことを心底からバカにしていて嫌っているのだろうが、今戦うべき相手はそちらなのか、とアムロばりに言いたくなってもくる)。著者たちのその姿は経済学を学び、問題を正しく把握してるという「少数派」であることを誇示し、頑迷にしてピント外れな左派を嘲笑することでエクスキューズを行い、自己満足にひたっているかのように見えなくもないのである。