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加藤恒平「僕のような選択肢もある」
ハリルの秘密兵器が語るキャリア<前編>
ブルガリア1部リーグのベロエでプレーする日本代表予備メンバーの加藤恒平
ブルガリア1部リーグのベロエでプレーする日本代表予備メンバーの加藤恒平【中田徹】

 3月下旬のインターナショナルマッチウイークを利用して、ブルガリアを訪れた。行き先は首都ソフィアから東へ230キロほど離れたスタラ・ザゴラという町だった。バスに揺られだいたい2時間半ほどで着く。およそ16万人が住む街だが、中心部から北の外れにあるスタジアムまで徒歩15分ほどというコンパクトさ。さらに北には森林公園が広がっている。


 そんな地方都市に、1人の侍がいた。ブルガリア1部リーグ、PFCベロエ・スタラ・ザゴラのMF加藤恒平(27)だ。昨年9月29日、日本代表のメンバー発表記者会見で、ハリルホジッチ監督が「ブルガリアの加藤も見てきた」と代表候補として名前が挙がり「ハリルの秘密兵器」と話題になった選手だ。今年3月、AFC(アジアサッカー連盟)が発表した日本代表予備メンバーのリストにも加藤は載っている。私はブルガリアで、彼の話をじっくり聞いてみることにした。

闘える選手を嫌いな人はいない

――昨年9月、ハリルホジッチ監督が記者会見で「ブルガリアの加藤も追っています」と発言しました。動画を見てみたら中盤で激しく守備をし、奪ったら縦に早くボールをつなげるシーンが何度か出てきて「なるほど、ハリルホジッチ監督が好きなのはコレだ!」と思いました。


 実際に日本代表に選ばれたわけではないので、僕自身、何と言っていいか分からないんですよね。家族や友だちが連絡をくれたんですけれど、まだ何かを達成したわけではありません。今まで僕がプレーしてきたリーグが陽の当たるところではなかったので、自分に目をつけてくれているということに関しては、すごくありがたかったです。でも、きちんとメンバーとして名前を呼ばれたいという思いの方が強いです。


――加藤選手のプレースタイルはファンも沸くのでは?


 それは感じますね。簡単な言い方をすると「闘える選手」を嫌いな人はいない。うまいだけの選手って、監督も含めて好みが分かれると思うんです。だけど闘える選手は、みんな好き。気持ちを見せることができる選手が嫌われることはないと思いますね。


――いつから闘える選手になったんですか?


 もともとです。ずっと負けず嫌いだったので。絶対負けたくないという思いでずっとやっています。目の前の敵に負けたくない、そういう思いです。


――9月は代表に選ばれなかったとはいえ、プロサッカー選手として露出が増えたことは良かったのでは?


 僕は、ピッチ以外のところで目立ちたいとは思いません。やっぱり、ピッチの上で一番になりたいです。でも、こうやって取材を受けることによって、僕のような選択肢もあるということを知ってもらえたらうれしいです。


 サッカー選手は監督や環境によって一気に評価が変わってしまいます。日本だけの評価で「ダメ」と言われて諦めてしまうのはすごくもったいない。自分の覚悟さえあれば、別に日本でなくても、額は分かりませんがアジアやヨーロッパの小さな国でサッカー選手としてお金を稼げます。それを知ってもらえれば、僕にとって一番うれしいです。


 だけど、日本は豊かですから、良い意味でサッカー以外でも食べていけます。サッカーをやめても死ぬことはないので、それが逆に選択肢を狭めてしまっているのかなと思います。アルゼンチンだと「サッカーしかない」となったら覚悟を決めてリスクを負うし、それで家族を養わなければいけない。よく「ハングリー精神が違う」と言われますけれど、そこで日本が差を埋めることはできない。もともとの生きている環境が違うので、日本人がまねするのは無理ですよね。環境が人を育てるというのはあると思います。アルゼンチンの選手は試合に勝たないとお金をもらえませんので。

アルゼンチンでボランチを教えてもらった

――アルゼンチンに初めて行ったのが立命館大3年の夏休み。その時は留学でした。卒業に必要な単位を3年までに取り終えて、4年の7月に再びアルゼンチンに渡ったんですよね?


 もともと僕は海外志向が強かったです。ジェフ千葉ユースの時はプロにいっても活躍できないと思っていましたが、大学2年の時にJリーグのチームと試合をやったら、ある程度プロとやれるだけの体が作れていたのが分かった。あとはもう少し刺激がほしいと思っていました。


――それはまたなぜですか?


 もう、遅いと思ったんですよね。「もう20歳かあ。21歳になってから海外に行くのは遅いな」と思い、思い切って大学3年の夏休みにアルゼンチンに行かせてもらいました。僕はサイドの選手だったのですが、アルゼンチンでボランチを教えてもらいました。


――ボランチに目覚めたんですね。今「教えてもらった」と言いましたが?


 アルゼンチンにセファールという施設があるんです。契約が切れた地元の選手や、アルゼンチンでプロになりたい海外の選手が、セファールでチームを作り、ローカルのチームと試合をして、良いプレーができたらそこの監督と直接話しをして契約――という流れなんです。それまで僕はボールをこねくり回していたんですけれど、セファールで「ボランチをやれ」と言われて、ボランチに目覚めました。


――アルゼンチンのボランチとは?


「ワンタッチ、ツータッチといった少ないタッチでパスを回すけれど、全部、お前を経由してボールが前に行く。お前がゲームを組み立てろ。それがアルゼンチンのボランチだ」と言われて、ああそうなんだと思いました。「今日の試合は、全部ワンタッチでやれ」と言われた日もあります。


――セファールはそういうのをたたき込んでくれる場でもあったのですね。


 そうです。楽しかったですね。セファールから日本に戻ってきて、僕は(大学の)監督に「自分は4年になったら(留学ではなくサッカー選手として)アルゼンチンに行きます」と言いました。それから僕はBチームに落とされたのですが、大学3年の秋から4年の夏までIリーグ(大学のリザーブリーグ)でプレーした半年間が、僕の大学生活の中で一番楽しかった。


 この時期、大学でもボランチとしてプレーして、自分の中でああでもない、こうでもないと違う角度から見ながらサッカーができたので、すごく充実していました。大学では、その時が一番うまかったんじゃないですかね(笑)。その後、監督が交代して、僕はトップチームに戻り、前期リーグが終わってから退部してアルゼンチンに行きました。


――体育会サッカー部にとっては「華の4年秋のリーグ戦」に出なかったのですね。


 全然、興味がなかったんです。みんなは「最後だから頑張ろう」みたいな感じだったんですけれど、僕は「最初から自分は頑張っているから」という思いがありました。僕の夢はプロで、目指していたのは大学日本一ではなかったんです。


――卒業証書は受け取ったのですか?


 実家(和歌山県新宮市)に送ってもらいました。大学を中退して海外にいくこともできたのですが、授業料など親にはたくさんのお金を払ってもらっていますので、最低でも卒業しないと人としてダメだろうと思って、3年までに単位を取り終えたんです。(ジェフ千葉加入のために)12歳で親元を離れた瞬間から、「これから自分がやることは全部自分で責任をとらなければいけない」というのを、小さいなりに自分の中で分かっていた。優先順位は、とりあえず自分の中でクリアにしていたつもりです。

中田徹
中田徹
1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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