発展どころか維持すら難しい「植民地」
国内企業が海外に法人を作って営利活動を行い、利益を上げるのは至難の業です。
慣れない現地の商習慣、法制度、自国とは異なる国民の趣味嗜好。それに対応するだけでも大変ですが、ちゃんと利益を上げるまでに投資を継続的に行えるかというのが一番大きな課題であると思います。企業の体力もそうですが、経営者の忍耐も求められます。
植民地経営もおそらく同じで、単に現地に武器を持って乗り込んでいけばいいというものでは全くありませんでした。
6. サン・ルイ要塞(フランスのテキサス植民地)
悲惨な末路を辿ったフランスのテキサス植民地
1685年、フランス人探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールは300名の植民者を引き連れて、ミシシッピ川の河口付近を目指していました。
目的はミシシッピ川下流域を含むルイジアナ全体のフランスの統治を確固たるものにすること。
ところが、途中で海賊に襲撃されて1隻を失い、2隻目はマタゴルダ湾で沈没し、3隻目も座礁し、持ってきた物資のほとんどを失うなど不運が続きました。さらにはずさんな地図のおかげでミシシッピ川から650キロも離れたテキサス付近に上陸せざるを得なくなりました。
生き残った植民者は砦を建設し「サン・ルイ要塞」と命名しました。
入植者は「新社会構築の理想に燃える人々」とはまるで異なり、ゴロツキや犯罪者、スキルも不十分な劣等生ばかりで、新天地でラクして暮らせるとばかり思っていたので、入植地であるテキサスが楽園とかけ離れていることに絶望。1/3はさっさとフランスへ帰国してしまいました。
1687年1月には入植者は40人にまで減っていました。ラ・サールは助けを求め、以前構築したイリノイ州の砦を目指して遠征を敢行するも、仲間割れが発生して殺し合いに発展しラ・サール自身も死亡。生き残った者の何人かはインディアンの部族に加わり、5人がようやく仲間のフランス人の元に辿り着き保護されました。
サン・ルイ要塞に残った20人は女・子どもばかりで、インディアンの襲撃にあい砦は陥落。多くが虐殺されましたが、一部はインディアンの部族の養子となりました。
7. シャルル要塞(フランスのサウス・カロライナ植民地)
即刻崩壊したユグノーの安住の地
1561年、旧教徒と新教徒が終わりなき殺戮を繰り広げたユグノー戦争が終結しました。
この鬱々たる戦争を経験したフランスは、異なる宗派の住人が平和裏に暮らす環境を模索し始め、シャルル9世の忠実な臣下で新教徒であったガスパール・ド・コリーは新大陸に探検隊を派遣しました。
遠征の指導者ジャン・リボルトは現在のアメリカ・サウス・カロライナ州に住むに適した土地を発見し、砦を建設して「シャルル砦」と命名しました。将来的には、不幸なユグノーたちをシャルル砦に移住させ、新教徒の理想郷を作ることが企画されたのでした。
ジャン・リボルトは27名の守備兵を残し、すぐに軍勢を引き連れて戻ると言い残してフランスに帰国しました。しかしヨーロッパに戻ってみると再び内戦状態に陥っており、リボルトはイングランドにスパイ容疑で拘束されてしまった。
リボルトの帰りを今や遅しと待っていたシャルル砦の守備兵ですが、食料が枯渇し、原住民との間に小競り合いを起こし始めた。
そしていつまで待っても戻ってこないリボルトに腹を立て、守備に任務を放棄して船を建設してヨーロッパに帰ろうとしました。しかし素人の作った船はすぐに壊れて多くが難破。一部はイギリス船に救助されました。
1565年にようやく仲間と共にシャルル砦に戻ったリボルトですが、既に砦は放棄された後。
修復に取り掛かりますがスペイン兵に見つかって取り囲まれて虐殺されました。
8. カルロテ(亡命アメリカ人のメキシコ植民地)
Photo by Gengiskanhg
南北戦争で敗れた南軍が身を寄せたメキシコ辺境
アメリカ南北戦争で敗れた南軍のうち、結構な人数がアメリカを脱出し他の地域に亡命しました。
最も多かったのが、皇帝マクシミリアンが統治するメキシコ帝国。北軍が主導する連邦アメリカでは生きられぬと、南軍の11人の将軍、3人の大臣、2人の元大臣を含む多くの人々が南の国境を超えました。皇帝マクシミリアンは彼らを歓迎しますが、メキシコ人の多くは米墨戦争で多くの領土を割譲させられた恨みを忘れておらず、アメリカ人の指導者たちへの敵愾心を露わにしました。
加えて、新生アメリカが外交圧力を加えてきたこともあり、マクシミリアンは亡命者たちを軍事的に活用するのを諦め、ベラクルス州の近くにある内陸の辺境の町カルロテ(マクシミリアンの妻の名前)に全員を押し込めてしまいました。
亡命者達はカネを持っていたため、カルロテの土地を買い占め自分たちアメリカ人の土地であるといった尊大な振る舞いをし始めました。これには地元住民が反発し、敵対的な関係が続きました。
1866年にパトロンであったフランスがメキシコから撤退すると、1867年に皇帝マクシミリアンは処刑され、アメリカ人亡命者たちは立場を失いアメリカに逃げ帰ったり、南米に再亡命したりして散り散りになりました。
9. ソイントゥラ(フィンランドの北米植民地)
金銭的に行き詰ったフィンランド式社会主義改革
1900年、カナダ・ナナイモに出稼ぎに来ていたフィンランド人の石炭労働者たちは、低賃金と過酷な労働環境に反発し、団結して自分たち労働者が主役の理想社会を作ることを計画しました。
彼らは本国から有名な社会主義者マッティ・クリッカを招き、マルコム島の28,000エーカーの広大な土地を所有するように交渉。そしてこの地を「調和の場」を意味する「ソイントゥラ(Sointula)と名づけました。
ソイントゥラは社会主義的な理想社会を目指し、男女平等賃金、コンセンサスに基づく意志決定、共同所有のみで私的所有を排す、など、様々な実験的な制度を取り入れました。
経済的な不平等を感じていた労働者たちは当初はこの制度を喜びますが、徐々に不満が高まっていきます。というのも、ソイントゥラでは農民も漁民も靴屋も医師もプー太郎も全て平等で同一賃金であったため、経済的な貢献に基づく評価が得られずに不満を感じる者が多く出てきたためです。さらには、「結婚は女性の男性への隷属である」とされて禁止され、子どもは共同体の中で育てられるべしとされました。それも既に子どもを抱えた母親には不評で、ソイントゥラはすぐに金銭的な困窮と、人々の多くの不満に満ちていきました。
共同ホールでの火事で11名が死亡し、その後橋の建設計画であまりにも低い入札額が提示され、人々は「理想社会」に絶望。1904年にクリッカはソイントゥラ植民地の放棄を決定しました。
10. サガロウ(ロシアのアフリカ植民地)
Work by Godaboy
アフリカにあったロシアの植民地
ヨーロッパ列強によるアフリカの植民地化は19世紀の後半に加速し、イギリス・フランス・ドイツを中心にしながら、スペイン・ポルトガル・イタリアといった国々も参戦し、各地の現地勢力を特には懐柔時には武力で制圧していきました。
当時、ロシアは南下政策を採っていましたが、バルカン半島や中央アジア、極東での勢力拡大に注力し、アフリカにまでほとんど手が回っていませんでした。
それに目をつけたのが、コサックの首領ニコライ・アシノフ。
彼は未だ独立を維持していたエチオピア帝国の領土を掠め取り、それをロシア皇帝にプレゼントしようと考えました。
1889年1月17日、アシノフ率いる150のコサックがタジュラ(現ジプチ)に上陸。サガロウという場所にある古いエジプトの砦を占領し、ここを「ロシア領」であると宣言しました。
ところがすぐにフランスからロシア政府に「サガロウの地はすでにフランスの影響下にあり、越権行為にあたる」と抗議が来たため、ロシア政府は公式に関与を否定。
一方でアシノフはこの地を拠点に「ニュー・モスクワ」の建設に乗り出そうとしていましたが、2月16日にフランスの巡洋艦2隻が沖合に到着し、アシノフと交渉に訪れました。この時アシノフはフランスの交渉担当者と会うのを拒否するばかりか、「てめえら、ぶっ殺されてえのか!」と言わんばかりに機関銃を引っ張り出してきたため、交渉は決裂。すぐにフランス艦による砲撃が始まり、たまらずアシノフは降伏。
サガロウは陥落し、ロシアに帰国しました。
まとめ
建設当初からこれだけハードルが高い植民地経営。
継続して運営していくのがいかに大変だったか、想像に固くありません。
単に武器を持って原住民をぶっ殺して領土を占領してカネや富を巻き上げる、というだけでは全然ダメで、大義名分を作り、現地住民の協力を得て、お互い利益になるような形で組織や制度を造り上げ、徐々に現地勢力を排除して手足を縛っていき、利益の大部分が自分たちに入ってくるように仕向けていくしかない。大変知恵と根気がいる。
現代で同じように真似するわけにはいきませんが、学ぶべき部分はあるような気がします。