おぞましい猟奇的事件として、「ルーシーさん事件」を記憶する。若いイギリス人女性ルーシー・ブラックマンさんが、織原城二受刑者にかどわかされ、バラバラ死体となって逗子の洞窟で発見された――。以降十五年、本書は、イギリス人ジャーナリストによる事件の追跡ノンフィクションである。
英国航空の元客室乗務員――というルーシーさんのおぼろげな人物像は、友人、家族たちの証言によって輪郭が増していく。離婚家庭に育ち、浪費癖はあるものの、どこにでもいるような現代娘。異国での冒険と借金返済を兼ねて、成田空港に降り立つ。「ガイジンハウス」で寝起きし、六本木のクラブでホステスとなるが、日本滞在はわずか二カ月にすぎなかった。
資産家の在日韓国人二世として育った織原受刑者の人物像は霞(かす)み気味だ。名門校を卒業するが、親しい友達は一人もいない。整形し、幾度か名を変え、豪邸で一人暮らす。ルーシーが、ホステス業の要、“同伴″の相手としたのが、運悪く、歪(ゆが)んだ癖をもつ男だった……。
六本木の夜の生態が書き込まれている。外国人ホステスたちは稼げるスポットとしてこの地に集まる。トウキョウの一角に生まれた虚の時空間。それが事件のもう一つの主役のようにも思えてくる。
東京地裁は、織原受刑者によるルーシー殺害は証拠不十分としたが、オーストラリア人女性への準強姦致死罪などをもって無期懲役の判決を下した。後に刑は確定し、彼は下獄した。
著者のリチャード・ロイド・パリーは、「ザ・タイムズ」の東京支局長。ルーシーさん事件の当初から報道に当たり、長期取材を経て本書を刊行した。伝わってくるのは、ジャーナリストとしての執拗な探究心と人間存在を見詰める重層的な視線である。ラスト近くで、「私たちに見えるのは、この曲がりくねった黒い木のほんの一部だけだ」と記している。
娘の失踪直後に来日し、メディアに積極的に対応したルーシーさんの父は、公判中に織原側が用意した“お悔やみ金″一億円を受け取った。悲しみを共有しつつ事件がもたらした家族間の亀裂は修復されないままだ。
寝床で本書を読み継いだ数日間、寝苦しかった。やり切れぬ事件の、入り組んだグレーな結末。新たな黒い木の地下茎が、腐葉土に満ちた現代社会のなかではびこっているのだろう……。そんな思いが眠りを妨げるのであった。
(ノンフィクション作家 後藤 正治)
[日本経済新聞朝刊2015年6月7日付]