佐々木敦さんは「単独者」を標榜する人が「デモに行こう」と呼びかけることは矛盾しているという。そしてその構造はシールズとネトウヨに共通であるうえに、彼らはそれに自覚的ではないのだそうだ。なんとも偉い批評家だ。
まず、議論が雑だ。ネトウヨにそういった傾向があるとどうして言えるのか。シールズはその矛盾に気がついていないと何を根拠に言っているのか。「自分たちだけが覚醒している」感を出せば、これほどあやふやな議論でも商売になるというのだから「批評」というものはすこぶる素晴らしい。
これほどにナメている人に対して、親切にも、少しだけ真面目に向き合ってみよう。シールズは、その前身であるサスプルを始める前から、その矛盾には自覚的であったし、それをあえてフィクショナルに上演しようと決意していた。それは2013年の末か2014年のはじめ、新聞の取材にどんなスタンスで答えようかと、どっきょと奥田と、やつらのシェアハウスで話し合ったときのこと。
当たり前だけど、どんな意志をもってデモに参加するかは、みんな違っているよね。だったら、サスプルという団体としてステートメントを出すことは簡単だけど、それよりも、個人が個人としてどんな意図で参加しているのかを全面に出した方が面白いし、しっくりくるよね。確かに、みんなが全く同じ意見で参加しているはずないし、逆に、みんなが同じ意見を持っていなければグループにはならない。この矛盾を解決するのはフィクションだ。だからフィクションをメディア上では押し通してみよう。各個人がそれぞれ異なる動機をもって反対の声をあげたら、結果としてデモになっていた。と、こういうことにしよう。これは個人の集まりなんだ。
と、まあそんなような話をした。つまり佐々木敦さんの「批評」はまずなにより事実誤認である。その点はネトウヨの構造と似ているといえるかもしれない。そしてさらに、共同体のフィクション性についてまるで考えられていない。あらゆる共同体はフィクションであり、フィクションから成り立っている。シールズは以上のようなフィクションから始まった。そのことの意味についてはより詳細に書く必要がある。しかしそれはまた今度にして、一つだけ言っておく。シールズはもちろん「デモに行こう」と呼びかけたこともある、しかし、基本的には「俺は/わたしは行かなきゃいけないと思うから行くけど、お前はどうする?」と呼びかけていたはずだ。「友達が反対しているからわたしも反対」じゃダメだと、言い続けてきたはずだ。「孤独に思考し判断しろ」と。ある種、扇動的にふるまいながら、同時に「わたしに無思考に従うな、自分で考えろ」という、この構造が何の構造なのか、教えよう。それは『ツァラトゥストラ』の第一部の構造だ。少なくとも俺はそれを意識していたし、それは間違っていなかったと考えている。ひとまず以上。
(おまけ)
そういえば1年半くらい前にこんな文章を書いたこともあった。
「そこにいるのはわたしである」
SEALDs は誰にも命令されることなく、孤独に思考し、路上に立ち、声をあげる学生が偶然そこに集い、その集合体が名を必要とした時に結果として与えられた一つの名である。SEALDs は原理的には団体ではないが、メディアがSEALDsを一つの組織として取り上げることで、世間には「団体」として周知されるようになった。
こう言えば些か無理があるだろうか。確かに、メディアに取り上げられた画面上のSEALDs 像をキャッチーに保つためにも、それなりの規模のアクションを起こすためにも、SEALDs はみずからを戦略的に団体と見なし、組織として運営してきた。しかしSEALDs が団体として受け取られ、事実上、組織化されたものであるとしても、やはり原理的には「団体」ではなく、「個人」の集まりであり、その理念をフィクショナルに掲げるのを諦めることはなかった。
その理念はSEALDs のスピーチにおいて体現される。ここにあるのは紛れもない個人の、一人きりで紡がれた言葉ーー語られる1人称は常に「私」であり、「私たち」ではないーーであり、自分自身に向けられた誓いである。「私は主権者である。私はそれを担う。いつだって自由と民主主義のために戦ってきた人たちがいた。今度は私の番だ」。しかし、演劇の中の独白が単なる独り言ではなく、それを見るものに何かを訴えかけ、その訴えを受け取ったものたちに共通の感慨をもたらすように、彼( 彼女) らの孤独なスピーチは国会前の暗闇を縫って、それを聞く人々にあること気づかせる。それは聞いている自分も「主権者」であるということだ。国会前の舞台上で演じられているのは他でもなく「主権者」であり、それを見るものは演劇の主人公に自分を投影するように、国会前で孤独なスピーチをする「主権者」に、いままさに国会前に孤独に立ち尽くす自分を投影し、自分も「主権者」であるということを再確認するのである。
芸術家、とりわけ演劇人こそが、はじめて人びとに目と耳を授け、自分自身のひととなりや、自分の経験や意欲といったものを、そこそこの満足をもって見たり聴いたりできるようにしてくれたのだ。
彼らは、われわれ凡人すべての内に眠っている英雄(ヒーロー)をきちんと評価することを教え、じぶんを遠くから眺め、いわば単純化して美化することでみずからを英雄と見るすべを授けた。ーーつまり、自分にとって自分を「主役にする」すべを。
(フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』(村井則夫訳))