Updated on January 17, 2002 ※1999年7月24日に掲載した記事に加筆修正して再録 |
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Column 7:
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バンド時代の終わり リーダーのシド・バレットの状態は最悪だったにもかかわらず、ピンク・フロイド
バレット自身がどう思っていたのかは分からない。ただ彼が当時、フリー・フォームの音楽に関心を強めていたのは確かだ。ステージに登場する時には、ギターの弦を緩めて、たるんだ弦をかき鳴らしたり、突然演奏をやめてしばらく立ち止まったりと、さまざまな実験的なパフォーマンスをみせた。だが、思いつきとも言うべき彼の即興に、他のメンバーは当惑するばかりだった。バンドとしての名声も確立した今になって、理解しがたい演奏を続けるバレットの行為に、彼らは欲求不満を募らせた。 デヴィッド・ギルモアがピンク・フロイドに初めて加わったのは、この時期のことだ。彼らは、68年1月中旬の数回のライヴを、ギルモアを加えた5人編成でこなしている。ギルモアは、ケンブリッジ時代からのバレットの親友だ。2人は中学時代から音楽とギターの知識をやりとりし、ケンブリッジ工科専門学校に通っていたときには昼食を一緒にとる仲だった。 シド・バレットがロンドンに出てピンク・フロイドを始めた頃、ギルモアはケンブリッジに留まって、ジョーカーズ・ワイルドというバンドを組んでいた。その後は外国に出て、スペインを経て、66年暮からはフランスで、バリットというバンド名で、クラブに出演する生活を、約一年間送った。ギルモアによれば、このバンドは基本的にソウルのカヴァー・バンドで、サム&デイヴやオーティス・レディングの曲を録音したこともあるようだ。 シド・バレットがバンドを去る瞬間は、物悲しいまでにひっそりと訪れた。1月26日、彼らはイギリス南部のサザンプトン大学でライヴを行う予定だった。ギルモアによれば、ロンドンを出る前に、車中ではこんな会話があったという。「誰かが『シドを迎えに行こうか?』と言った。それに対して、たぶんロジャー・ウォーターズが、こう言ったんだ。『いや、やめておこう。』 そのまま二度と迎えに行かなくなった。そのくらい単純なことだったんだ。」 デヴィッド・ギルモアの加入は、68年2月18日、4人がベルギーのテレビ番組に出演したときに、正式に発表される。最後の決断は3月2日に下された。バンドを主導する立場になっていたロジャー・ウォーターズは、この日バレットに、表舞台からは退いて、ソングライターとしてアルバムにだけ参加してくれるように告げた。ちょうどビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが長い間置かれた立場と同じだ。だが結局バレットは、こうした名目上の居場所を確保することもなかった。4月6日、バレットの脱退が世間に公表された。 マネジャーのピーター・ジェナー
バンド側にしてみれば、バンドを正常に続けていくには、シド・バレットの脱退はやむを得ない選択だった。当時のバレットはライヴでは混乱を招き、また、彼がいつまでも新曲を書かないためにアルバム制作も滞っていた。バレット本人はといえば、彼がこの状況をどこまで理解していたのか、周囲にもよく分からなかった。バレットはバンドに呼ばれなくなった後も、前から予定されていた公演日程を思い出して、会場に現われることがあった。ギルモアによれば、観客に混じって彼らを見つめるバレットの姿は、不気味だったという。 とはいえ、デヴィッド・ギルモアには親友のバレットを追い落とす野心は毛頭なかった。直前まで金銭的に苦しいバンド生活を送っていた彼にとって、ピンク・フロイドに加わるチャンスを逃す手はなかっただろうが、同時に彼がバレットについて語る言葉は、今も敬意に満ちている。加入当初のギルモアは、自分がシド・バレットの代役にすぎないことを、よく自覚していた。 バレット脱退後も、彼らはしばらくバレット時代の曲だけを演奏しており、そのときバレットのパートを演奏し、ヴォーカルを担当することになったのは、ギルモアだった。しかし、容貌やカリスマ性でバレットと勝負するわけにはいかなかったし、そのつもりもなかった。そもそも脱退直後のピンク・フロイドは、バレットの抜けた穴を埋めるのに必死で、彼ら自身、いつまでバンドがもつのか自信がなかったようだ。だがその後彼らは、ピーター・ジェナーの予想を裏切って、新たな魅力を発揮し大成功を手にすることになる。 バレット脱退直後の『神秘』
なかでも野心的なのは、タイトル曲の「神秘」だ。この12分近い組曲は、ニック・メイスンとロジャー・ウォーターズが、建築学科出身の経歴を発揮して、建築の図面のような設計図をこしらえながら作り上げた。歌詞やメロディーを中心に置かずに、工学的に要素を組み立てていく手法は、クラシックの現代音楽にも通じる実験で、バレットの先天的なひらめきとはまた別の斬新さを備えている。後にプログレッシヴ・ロックで広く見られる大作路線の先駆けだ。アルバムは全英9位まで昇り、バレット脱退後のバンドの新たな出発点になった。 レコーディングは、バレットの在籍時に始まっていたが、彼はほとんど新曲を書ける状況にはなかったようだ。アルバムで彼の参加が確実なのは、「追想」と「ジャグバンド・ブルース」の2曲だけで、残りには参加していない可能性が高い。この2曲は、他の曲よりも収録時期が早く、シングル・カットする可能性も念頭に、前年10月に録音されていた。 バレット作の「ジャグバンド・ブルース」は、彼らしく弛んだヴォーカルにさまざまな音響効果を重ねた、音のモザイクのような小曲だ。途中から半ば唐突に登場するブラス隊は、救世軍の楽隊による演奏で、この6人はバレットの思いつきで呼び込まれた。この部分は、曲の中で唯一タイトルと連想の繋がるパートで、同じく救世軍のバンドを使ったボブ・ディランの「雨の日の女」(『ブロンド・オン・ブロンド』[66年]に収録)にも似た雰囲気を持っている。 因みに、収録に際して、バレットが楽隊に対して、思うままに自由に演奏するように指示したというエピソードは有名だが、これにはプロデューサーのノーマン・スミスが強く反対し、楽隊用の譜面が用意された。結局、最終的にレコードに収録されたのは、譜面に基づいたヴァージョンのようだ。 ここでシド・バレットが歌う歌詞に表われているのは、狂気というよりもむしろ知性で、ユーモアの奥に真理を垣間見せるような鋭さがある。この曲が自分の置かれた状況に対するバレットの自己分析だったと、最初に解釈してみせたのは、マネジャーのピーター・ジェナーだ。74年のインタビューの中で、彼は、これは、バレットが独特の詩的センスを発揮して、巧みに皮肉をきかせた曲だと論じている。 確かに、歌詞の内容は思わせぶりだ。「僕がここには存在しないということをはっきり示してくれて、本当に恩に着るよ」「僕のぼろ靴を投げ捨てて、代わりに赤い服を着せて、僕をここに引っ張り出してくれて感謝するよ」「この曲を書いているのは一体誰なんだろう」「君といると苛立ってしまうけど、別に構わないさ」 曲の締めくくりも、やけに示唆的だ。「一体何が夢で、何がジョークなんだ?」 とはいえ、この曲がただちに、ウォーターズをはじめとする他のメンバーへの当てこすりだったとは言えない。少なくとも、67年秋当時はメンバーもそう受け止めてはいなかったようだ。メロディー・メイカー誌(67年12月9日付)に載った記事では、記者がバレットとウォーターズを訪ねたときに、ちょうど2人がこの曲のプロモーション・ビデオをチェックしていた様子が記録されている。このビデオはテレビ番組用に作成されたもので、イギリス国内だけでなく、アメリカとカナダでも放送される予定になっていたが、公式には日の目を見ずに終わっている。 『神秘』には、もう1曲バレットの曲が収録される可能性があった。「ベジタブル・マン」と題されたこの曲は、ピーター・ジェナーいわく、バレットがジェナーの家にいたときに、どうしても新曲を書く必要があって、彼が自分の着ている物を題材に即興で書き上げたらしい。「ベジタブル・マン」は、バレット脱退後の68年5月に行われた録音セッションにも生き残り、制作の最終段階まで辿り着いたが、結局、曲調が暗すぎるという理由でロジャー・ウォーターズが収録曲から外したようだ。以降今日まで、この曲は公式に発表されたことはない。 それでも帽子は笑う… シド・バレットは、ロジャー・ウォーターズらとの共同生活を、すでに66年夏にはやめていた。その後の彼は、仲間や恋人の家を転々とする生活を送っていたが、同時にそれはLSD仲間に囲まれた毎日を意味していた。ピンク・フロイド脱退後のバレットは、それまで以上にドラッグ漬けの生活を送ったようで、彼の状態に危機感を覚えた友人が、バレットと彼の恋人を一時自宅のアパートに引き取った。 このときの友人が、ストーム・トーガソン、後にヒプノシスの一員として成功を収めるグラフィック・デザイナーだ。トーガソンは、ケンブリッジ高校でバレットの1年先輩で、バレットがLSDを最初にやり始めたときも一緒だったぐらいの親友だった。言うまでもなく、トーガソンはその後、ピンク・フロイドのほとんどのアルバムを含め、ロック界の数々の名作のジャケットを担当している。因みに、彼が最初に手掛けたピンク・フロイドのアルバムは、前記の『神秘』だった。 68年当時のバレットの状態は、自分もドラッグをやっていたトーガソンの目からみても、いき過ぎだった。バレットは、当時の恋人に対して、ひどく暴力をふるうことがあったようだ。それがLSDの作用だけだったのか、それともピンク・フロイドを辞めさせられたことにも関係があったのかは、分からない。同じ頃、68年5月から6月にかけて、引き続き彼を担当していたマネジャーのピーター・ジェナーが、バレットをスタジオに連れ込んでソロ曲のセッションを行わせているが、発表できる状態まで完成した曲は、一曲もなかった。このときの音源は、ほんの一部が70年のソロ作に使われた以外は、結局日の目をみていない。後にジェナーは、録音に入る前は、バレットの混迷ぶりをもっと軽くみていたと認めている。この後バレットは、イギリス各地を当てもなく自動車旅行した後に、しばらくケンブリッジに戻って、精神科の治療を受けている。 表舞台からまったく姿を消したシド・バレットが、突然レコード会社のEMIに電話を掛けてきたのは、69年3月下旬のことだった。電話の内容は、バレットが自作曲のレコーディングにEMIのスタジオを使いたい意向で、スタジオのスケジュールを問合せたものだった。彼は前年暮にふたたびロンドンに戻って、新たに3部屋付きのアパートに、友達と一緒に住み始めていた。 EMIでこの問合せへの対応を委ねられたのは、当時23歳のマルコム・ジョーンズ
バレットの電話の頃、ジョーンズはちょうど、EMIが近く設立するサブレーベル、ハーヴェストの立ち上げの準備に追われていた。イギリスのロック・シーンはシングル中心のビート・ポップの時代から、コンセプトを重視したアルバム単位の音楽へと移行しつつあり、それに伴って既成のレーベルもアンダーグラウンドなシーンから新進アーティストを発掘する必要が生じていた。ハーヴェストは、デッカ・レコーズのデラム・レーベル、あるいは独立系のアイランド・レーベルなどに対抗した、EMIの答えであり、この後、他のレコード会社も、フィリップスがヴァーティゴ、パイがドーン、RCAがネオン、デッカが新たにノヴァと、次々とプログレッシヴ・シーン対応のサブ・レーベルを設立している。 若くしてハーヴェストの運営を委ねられたマルコム・ジョーンズは、シド・バレットの打診に前向きに対応し、動き始めた。彼はバレットと直接の面識はなく、ピンク・フロイドから彼が脱退した事情も聞き知っていたが、いまだにカリスマ的な人気を誇るバレットが活動を再開できるならば、その機会を提供することは、新レーベルのためにも利益になると判断したようだ。 ジョーンズは、バレットに新作を発表させる考えを、社内で積極的に訴え、まもなく上司の同意を得た。しかし、担当プロデューサーの選定には苦労したようだ。ジョーンズが最初に打診したのは、バレット時代からピンク・フロイドを担当してきたノーマン・スミスだったが、彼は脱退の経緯を念頭に、ピンク・フロイドとバレット双方と同時に仕事をするのをためらっただけでなく、そもそも彼はピンク・フロイドの3作目のスタジオ盤 『ウマグマ』(1969年)の収録で多忙だった。 元マネジャーのピーター・ジェナーも、当時はEMI系のアーティストを大量にマネージするようになっていて、手が空かなかった。そこでジョーンズがバレット本人に意見を求めたところ、バレットは「君がやれよ」と言ったらしい。ジョーンズは、リヴァプールに程近いサウスポートの出身で、地元ではアマチュア・バンドの経験があったが、プロデューサーを務めたことはなかった。とはいえ、音楽的知識よりも、まずはバレットの仕事の環境を整えるという意味では、彼は適任だった。この後ジョーンズは、過去にアビー・ロード・スタジオのマイクを壊したことなどから、決して社内で評判のよくなかったバレットを擁護して、アルバム発表まで面倒をみる役目を果たした。 まもなくバレットのアパートを訪れたマルコム・ジョーンズは、1年前にジェナーが録ったテープと、バレット自身の新曲の弾き語りを聞いて、予想以上に使える曲がかなりあるという感触を得た。そして、バレット本人についても、数々の奇行の噂とは違って、意外に正常だというのが、このときの彼の印象だった。彼がさっそくアビー・ロード・スタジオのスタジオ3を押さえ、4月10日にセッションが始まった。 ソロ第1作の制作過程 録音はかなり順調に進んで、まず6曲の収録が5月4日まで、正味7日間で終わっている。途中4月17日には、「見知らぬところ」と「ヒア・アイ・ゴー」の収録で、シド・バレットは、ジョン・"ウィリー"・ウィルソンとジェリー・シャーリーの2人を連れてきた。ウィルソンは、地元ケンブリッジでバレットとデヴィッド・ギルモアの1年後輩、ギルモアのジョーカーズ・ワイルドに所属していたベーシストで、後にコチーズ(Cochise)、クイヴァー(Quiver)に参加している。ジェリー・シャーリーは当時17歳のドラマーで、スモール・フェイセズ
5月3日のセッションには、今度はソフト・マシーンのマイク・ラトリッジ、ロバート・ワイアット、ヒュー・ホッパーの3人が加わっている。「むなしい努力」と「ラヴ・ユー」は、この日のテイクがアルバムに収録されている。このセッションは、職人的な演奏技術を誇るソフト・マシーンの面々にしても、さすがに難しい仕事だったようだ。譜面はもちろんなく、しかもシド・バレットの指示はほとんどないと言って等しかった。ワイアットによれば、曲のキーをたずねても、バレットは「ヤー!」と答えるのみで、結局彼らはバレットの演奏を耳で聞きながら、即興的に合わせていくしかなかったようだ。 アルバムに収録された残りの7曲(主にLP・B面)は、マルコム・ジョーンズに代わり、ロジャー・ウォーターズとデヴィッド・ギルモアの指揮のもとに収録された。急きょプロデューサーが変わったのは、必ずしもジョーンズが外されたということではない。ピンク・フロイドのメンバー、なかでもバレットの旧友だったギルモアは、純粋に彼の状態が心配で、音楽活動を再開したというバレットの様子を見に来ていた。当時ピンク・フロイドは、すぐ隣のスタジオ2で『ウマグマ』を収録していた。バレットのレコーディングの難しさをみて取ったギルモアが、残りの録音には自分が関わると提案したときに、もともと臨時でプロデューサーになったジョーンズが承諾したのは、それほど不思議ではないだろう。 残りの収録は、ほとんど6月12日と7月26日の2日間で行われた。間に1ヶ月以上の空白期間があったのは、ピンク・フロイドがアルバム制作とツアーのため、時間を割けなかったからだ。この間待機を余儀なくされたことには、バレットはかなり不満だったようだが、ミキシングも終えてようやくアルバムが完成したのは、10月末のことだった。
ジャケット・デザインの原案はバレット自身で、ある日マルコム・ジョーンズが彼のアパートを訪ねると、バレットは自宅アパートの床をオレンジと紫の縞模様に自分で塗り変えて、写真撮影に備えていたという。ほとんどがらんとした部屋でポーズをとるバレットは、まるで稽古場にいるダンサーのようだが、この状態が当時の彼の普段の生活状況だったことを考えると、ジャケットにはどこか鬼気迫る怪しさも漂う。ジャケットの一部の写真に登場する裸の女性は、当時バレットが一緒に住んでいたイギーという女性だ。 アルバム『帽子が笑う・・・不気味に』(写真)は、年明けの70年1月に、ハーヴェスト・レーベルから発売された。このリリースで、シド・バレットは、一時的に表舞台にも姿を現わすようになった。「タコに捧ぐ詩」がシングルとして発売され、バレットはBBCの「トップ・ギア」に出演、さらに音楽雑誌のインタビューも受けている。このとき彼は、まだまだ発表する作品が手元にあると語り、その後の音楽活動に意欲的な態度をみせた。実際「トップ・ギア」でやった5曲のうち、「カメに捧ぐ詩」(「テラピン」)以外はすべて新曲だった。 しかし、アルバム・タイトルとジャケット写真が意味深に示唆したような「狂気」は、アルバムそのものにも影を落としている。邦題で「寂しい女」となっているアルバム10曲目は、原題は「彼女は長い間冷たい視線を投げかけた」という意味だから、本来「冷たい女」とでも訳すべきだが、この曲の途中には、バレットが口ごもって歌詞を探しながらページをめくる音が聞こえる。さらに「イフ・イッツ・イン・ユー」では、声が裏返ってしまい、「もう1回やるよ」と言ってやり直す部分がそのまま録音されている。 このように未完成のトラックをそのまま残したことは、その後シド・バレットのファンの間で物議をかもしてきた。この部分のプロデュースを担当したデヴィッド・ギルモア自身も、後のインタビューで、「何が起こっているのかある程度率直に表に出すというのが、あのときの判断だったんだ」と語りながらも、必ずしも賢明な判断ではなかったと認めた。ギルモアたちのプロデュースを評価していたマルコム・ジョーンズも、この点に関してだけは、疑問を投げかけている。 とはいえ、ギルモアらの編集方針が、当時のバレットの狂気を誇張した、残酷な仕打ちだったとまで言えるかどうかは分からない。実際の収録作業に伴われた苦労は、後に日の目をみたアウトテイクの数々を聞いても、想像できる。終始バレットに好意的なジョーンズでさえ、彼のギタープレイはリードとリズムがごちゃ混ぜで、対応するのに苦労したと語っている。ギルモアらが、2日間余りという時間の制約のなかで、最大限使える音源を捜し集めた結果が、完成したアルバムだった。 デヴィッド・ギルモアが自らプロデュースを買って出たのは、一つには、すでに統制のとれた仕事はできなくなってしまったバレットの作品をアルバムにまとめ上げられるのは、昔から彼を知っている自分しかないという一種の自負からだろう。しかしそれ以上に彼は、親友でありながらバレットが壊れていくのを止められなかった、そして結果としてピンク・フロイドでの彼の座を奪うことになった、そうした罪悪感を抱いていたようだ。もしバレットがソロ作を発表するならば、仮にその音楽的水準には限界があっても、自分が面倒をみなければならない、そんな悲痛ともいえる責任感を感じさせる。 狂ったダイアモンド このような危うい制作過程にもかかわらず、アルバム自体は、チャート40位を記録する、それなりのヒットになった。ピンク・フロイドを離れて2年、シド・バレットの復活を心待ちにするファンは、まだかなり存在した。第1作の売れ行きに反応をよくしたEMIは、すぐセカンド・アルバムの制作を許可する。最初のセッションは、早くも2月26日にアビー・ロード・スタジオで行われた。プロデュースは引き続きデヴィッド・ギルモアで、演奏にはジェリー・シャーリーとリック・ライトも加わった。 2001年に突然、ベスト盤収録という形ではじめて発表された「ボブ・ディランズ・ブルース」は、この翌日のセッションの音源だ。2月27日に録音された弾き語りの中で、バレットはボブ・ディランを「キング」と形容し、ディラン調のフォークを披露する。この曲は、前述の通り、彼が63年頃ディランにはまっていたときに書かれた。尚、同じ日には「リヴィング・アローン」という曲も収録されたはずだが、こちらの方は現在も未発表のままだ。 録音はその後7月下旬まで断続的に続いた。バレットの仕事ぶりは相変わらず即興的で、同じフレーズを二度と繰り返すことはできなかった。だから、ギルモアたちは、彼の閃きの瞬間を捉えて、そこに音を重ねていくという難しい作業を強いられた。残されたクレジットを見ると、この点は明瞭だ。ほとんどの曲はテイク1で終わっていて、それにオーヴァーダブを重ねてある。テイク15までいった「ジゴロ・アント」は例外で、実際、この曲は他の曲よりもカチッと構成されたサウンドに仕上がっている。完成したアルバム『バレット』(1970年)は、バレット自身がケンブリッジ時代に描いた昆虫の絵をカヴァーにし、11月に発表された。 『バレット』の制作中に、バレットは2年半ぶりに公の場でライヴを行っている。6月6日、ロンドンのオリンピア展示ホールに登場した彼は、デヴィッド・ギルモアとジェリー・シャーリーの2人を従え、ソロとしては初めてになるライヴを披露した。当日の演奏はかなり順調だったが、4曲目を終えたところで、バレットは突然ギターを置いて、「ありがとう、さようなら」と観客に告げて退場し、他の2人を驚かせたと伝えられている。これはバレットがロンドンで行う最後のパフォーマンスとなった。
部屋にこもることの多くなったバレット(写真)は、70年秋、同じケンブリッジの出身で、しばらく同居していた4歳年下の恋人ゲイラ・ピニオンを連れ、ケンブリッジの実家に戻った。11月の新作発売も待たずに、周囲には突然の決断だった。これ以降、バレットがロンドンの音楽シーンに帰ってくることは、二度となくなった。 ロンドンを引き払うとき、彼は友人には、ケンブリッジでゲイラと結婚し、医学部に入って医者になると告げたようだ。医者になるという話はともかく、ゲイラとはその言葉通り、70年10月、婚約を交わす。ところが、バレットの予想のつかない行動と、彼女に対する暴力が続き、結局2人の婚約は長く続かなかった。婚約を祝う両家の食事会で、バレットは食事中にいきなり席を立って、2階で髪を切り坊主頭になって戻ってきたこともあったようだ。 この後、シド・バレットは、ケンブリッジの実家の地下室に引きこもった。ギターをかき鳴らすことはあったようだが、音楽活動といえる作業は絶えて、代わりに絵を書いてレコードを聞く日々を送ったようだ。この時期のインタビューで、彼はマ・レイニーを聴いていると答えている。71年2月にはロンドンに赴いて、BBCのラジオ番組で3曲演奏を披露したこともあったが、その後、表舞台からはすっかり姿を消した。 他方、ピンク・フロイドの名声が高まるにつれて、このバンドの「幻の」元リーダーとしてのバレットに対する注目も、次第に高まっていた。彼をカルト・ヒーローとみなす気運は、イギリス国内だけでなく、海外にも広がり、この時期、バレットは数誌のインタビューを受けることになる。 71年3月のメロディー・メイカー誌のインタビューは、過去のピンク・フロイドでの体験を回想していて興味深い。バレットのコメントは記憶もはっきりして、かなり含蓄がある。「彼らは建築学科の学生だから、やる音楽の大半はその発想で決まってたんだ。どちらかというと退屈な連中だという印象だったな」という言葉の背後には、ある種の構築美を極めていったバレット脱退後のピンク・フロイドと、瞬発的な閃きに基づいたバレットの作曲スタイルとの違いが表われている。そして、当時リーダーとして注目された一方で、バンド内では、実際には彼の方が他のメンバーよりも2、3歳年下だという事実が常につきまとっていたことを、感じさせるコメントだ。 最後の表舞台 72年に入って、実に久しぶりに、シド・バレットがライヴに出演する機会が訪れる。1月2日、ミシシッピ州出身で当時43歳だった黒人ブルースマン、エディ・"ギター"・バーンズが、ケンブリッジ・ブルース・ソサエティの招待で、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジの地下ホールで、ソロ・コンサートを行った。そして、このときにアンコールの演奏に参加したバンドメンバーの一人が、バレットだった。 このブルース・ライヴのために、急ごしらえで集められたバンドには、バレットのほかに、ジャック・モンクとトウィンクの2人がいた。モンクは、元デリヴァリーでキャロル・グライムズと一緒にやっていたベーシストで、当時はケンブリッジに住んでいた。トウィンクは、トゥモロウ
これをきっかけに、3人の間ではバンドを組む話が進み、まもなくシド・バレットの自宅で練習が始まった。他の2人にとってシド・バレットはサイケ・シーンを先導したアイドルだった。トゥインクの場合は、66年暮にUFOではじめてピンク・フロイドを見て以来、サイケ・ロックにどっぷりはまり、トゥモロウのサイケ路線を敷くことになった。だから、3人がシド・バレットの過去の曲を中心に練習を行ったのは、ごく自然な流れだっただろう。 バレットらはバンド名をスターズに決めて、まもなく地元のカフェに数回出演した。するとすぐに、バレットの活動再開という噂を聞きつけた地元のプロモーターによって、72年2月24日にケンブリッジで行われる、MC5をメインにしたライヴに起用されることが決まる。バレットの復活ライヴというのは、コンサートを宣伝するには格好の話題だった。場所はコーン・エクスチェンジという名前の収容人数1500人余りの会場で、当日はホークウィンドも出演している。 3人はバレットのソロ曲のほか、ブルースのカヴァー、そして『夜明けの口笛吹き』に収録された「ルシファー・サム」も演奏した。ところが、伝えられるところでは、この日のスターズの演奏は最悪だったようだ。バレットの歌は聞き取れず、タイムもコードも乱れ、とても聞ける演奏ではなく、真夜中を過ぎる頃には聞いている観客もまばらになってしまった。後日、この模様を伝えたメロディー・メイカー誌の記事を目にしたバレットは、明らかに失望してしまったらしい。トウィンクによれば、彼はこの雑誌を手に彼のもとを訪れ、「もうやめたい」と告げたという。これは事実上、シド・バレットの最後の公演ということになった。 シド・バレットは、この72年を最後に音楽活動からまったく遠ざかってしまった。73年夏にジャック・ブルースと演奏したというエピソードは、およそセッションというほどのものではない。これは元クリームの作詞家で詩人のピート・ブラウンが、ケンブリッジで詩の朗読会に出演したときの話だ。朗読の伴奏にはジャック・ブルースが加わったが、当日まだリハーサル中だった会場にバレットが訪れ、アコースティック・ギターを持ってステージに上がり、ブルースらと一緒に少し楽器を鳴らしたらしい。とはいえ、朗読会の本番にはバレットは参加していない。 74年11月に行われたバレットの最後の収録セッションは、バレットの意向というよりも、巷で彼のカルト的な人気が高まっていることを嗅ぎとったEMI側が主導したものだ。EMIの圧力に押されたバレットは、ついにレコーディングのために、アビー・ロード・スタジオを訪れる。プロデューサーには旧知のピーター・ジェナーがあてがわれた。 しかし、ジェナーによれば、このときの彼の演奏は、およそとりとめのないもので、一瞬昔のバレットを感じさせるフレーズが登場したかと思うとすぐ消えてしまう、非常に欲求不満のたまるセッションだった。バレットは昔から、歌詞をタイプライターで打ち出して目の前に置く流儀だったが、この日彼の歌詞を打ち出した紙を事務員が手渡すと、彼は請求書と勘違いして、事務員の手を歯で噛みそうになったという。 結局2日間ほど行われたセッションで、なんとか演奏のトラックは録音されたが、ヴォーカルはついに収録されず、使える音源は何も残らなかった。この時のバレットには、新曲を書く準備はおよそなかったと考えるのが妥当だろう。彼は、レコード会社の圧力に負けてスタジオまで行ったものの、実際には何の曲も用意していなかった。それどころか、弦の張っていないギターで現われたほどだ。 隠遁し続けるシド・バレット この頃の彼は、ウォーターズたちのピンク・フロイドの成功の恩恵を受け、過去の音源から得られる印税収入も増加し、かなり贅沢な暮らしを送っていたようだ。ケンブリッジの地下室での生活に飽きた彼は、ロンドンのチェルシー地区に高級アパートを借りた。ここで一人暮らしを始めた彼は奇妙な浪費生活を行う。大画面のテレビを何台も買い込んだと思えば、すぐアパートの使用人にただであげてしまったり、デパートで高級品を購入しては、すぐごみ箱に捨てたり、といった行動が、当時目撃されている。 彼は若い頃には金銭に固執しない姿勢を公言していたが、ここではそれが不可解な浪費癖に転じてしまったようだ。この話からは、フリートウッド・マックのピーター・グリーン(コラム第6回を参照)もまた、LSDの魔力に冒された後、物をすぐ人にあげてしまう性癖をみせたことが思い出される。この時期に急激に太ってしまったのもまた、ピーター・グリーンの軌跡と同じだ。贅沢な食事をとり大量のビールを飲むうちに、バレットは数ヶ月で、昔の面影もなく、100キロを超えた巨漢になってしまった。 75年6月5日に起きた出来事は有名だ。この日、アビー・ロード・スタジオでは、ピンク・フロイドの面々が、『炎』(75年)のレコーディングを行っていた。彼らはスタジオの中を禿頭の太った男が歩き回っているのに気付いていたが、当初EMIのスタッフだろうと考えていた。長時間コントロール・ルームに無言で立っている彼を煙たく思い始めた頃、デヴィッド・ギルモアが、彼がシド・バレットであることに気付いた。彼の見た目は、幼なじみにもすぐ分からないほど、急激に変貌していたのだ。 この後バレットは、チェルシーのアパートで人目を避けた生活を続けた。だが、浪費生活を長年続けるほど資金は持続せず、しかも不健康な生活は彼の体に悪影響を及ぼした。バレットは81年にふたたびロンドンを引き払い、ケンブリッジの母親宅に戻っている。その後、胃潰瘍が判明し、入院を余儀なくされた。この間に彼は大幅に体重を減らすことになったようだ。82年に再度、数週間、チェルシーに戻ったときには、またも容貌は変わっていた。 その後バレットは、しばらく精神科の外来に通院し、また2年間を慈善施設で過ごし心理治療を受けたが、80年代半ばからはケンブリッジの実家で暮らした。88年にバレット宅を直撃したゴシップ誌の記者が使った「犬のように吠える狂人」というどぎつい表現が、当時のバレットの日頃の状態をどこまで正しく伝えたものかは定かでない。いずれにせよ彼は、人間関係を身内の家族だけに限り、ひっそりと日々を過ごしてきた。 長年彼を世話し守ってきた母親が91年に亡くなった時には、シド・バレットのショックは大きかったという。彼は昔の日記を捨て、庭の入り口の柵も壊して焼いてしまった。その後、彼はケンブリッジ郊外の一軒家で、一人暮らしを送っている。訪れる客といえば、幼少から親しかった妹のローズマリーぐらいのようだ。 彼女が90年代半ばに語ったところでは、最近のシド・バレット(写真)の生活は次の通りだ。「昔は一日中テレビを見ていたが、今はそれよりも絵をよく描いている。作風は抽象的だが、最近はトーンが明るくなった。でも、満足のいかない作品は、すぐ燃やしてしまう。古典美術に興味を持って、世界美術史を整理した本を自分の趣味で書いている。A4用紙100ページ以上の長い書き物で、中には画家や作品名が記載されている。 「ピンク・フロイドについてはほとんど何も語らないが、言及するときには、『うちのバンド』という呼び方をする。音楽を聴くときは、ロックではなく、クラシックを聞いている。ギターを爪弾くこともあるが、人の前では決して弾かず、妹が部屋に入ってくると止めてしまう。
「仮にファンが突然訪ねてきても、ドア越しですぐ会話を終わらせようとする。本人はなぜ他人が自分に興味を持つのか理解できないという様子で、他人との接触を避けている。ただ、近所の子供たちとは挨拶を交わし、名前も覚えている。『シド・バレット』宛ての郵便は、本人がすべて開封せずに捨てているので、仮に印税が送られてきたとしても、受け取っていない。90年代の初めから週40ポンド(約8000円)の生活扶助を受けている。」 隠遁し続けるシド・バレットをよそに、外の世界ではカルト・ヒーローとしての彼に対する人気は、勢いに衰えがみえない。彼のソロ時代のアウトテイクを集めた『オペル』(88年)の発表以降、公式音源だけに限っても、さまざまな形でバレット関連の音源・映像が世に送り出されている。ファンの需要に応える形で、およそ未完成、あるいは音質の悪い音源を次々と公表するのは、アーティストとしてのシド・バレットの尊厳を損なう危険がある。 それでもリリースが続くのは、それだけ彼の音源に商品価値があるということだろう。92年にアトランティック・レコーズが、バレットの新曲を求めて、彼の家族に提示した金額は、7万5千ポンド(約1500万円)と伝えられている。アトランティック側は、バレットには自宅で新曲を2、3曲録音してくれれば、その後の宣伝・公演活動は一切やらなくていいという条件を示したが、バレットを音楽の世界に連れ戻して精神的プレッシャーを与えたくないという意向から、このときのオファーは家族が断っている。 彼が自分がシドとして栄光を手にした時代を記憶しているのかどうか、謎のままだ。バレットの一連の行動をみると、彼は単にドラッグに精神を冒されたというよりも、自分がかつての輝きを取り戻すことをできないと悟った上で、「シド・バレット」時代の自分から出来る限り距離を置いている節もある。『帽子が笑う・・・不気味に』のジャケット写真で知られるミック・ロックが、2002年にシド・バレットの写真集を発表したとき、なんとバレットはこの写真集320部にサインをしている。この出来事はまるで彼がスター時代の自分を認識している印象を与えたが、実際には写真集そのものではなく、挿し込む紙に「バレット」という苗字を記しただけだから、本当に「シド・バレット」という意識でサインしたのかどうかは不明だ。 とはいえ、バレットがまるでハムレットのように周囲の目を欺きつづけているという解釈は、神格化の度合がすぎるかもしれない。少なくとも明らかなことは、彼が71年以来、進んでインタビューを受けたことも、自らシド・バレットを名乗ったことも、一度もないということだ。彼の自宅を直撃した取材記事はすでに20を数えるが、マスコミの記事は往々にして興味本位で、偽りも多い。86年のある報道には、バレットが店の入り口で客死したと伝えたものさえある。 今も彼の存在は、ピンク・フロイドの影に色濃く残っているし、バレットを讃える若いミュージシャンは後を絶たない。だが、現在のバレットが、スターだった過去とは無縁に「ロジャー・バレット」として生きようとしている以上、それを尊重するのが、ファンの選ぶべき道なのかもしれない。シド・バレットが音楽の世界に戻ってくることはもはやないだろう。
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