※本ブログでは、5/11(木)開催イベント教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜に関連するコラムを不定期連載していきます。
なぜ今、私たちは「教養」を切り口にイベントを開催するのか。登壇者の一人である吉川浩満氏を加えて、「教えて!教養の入り口」実行委員会メンバーで、「教養」についての座談会を開いてみました。今日はその一部をご紹介します。
【参加者】
吉川浩満(よしかわ ひろみつ):文筆家。5/11開催イベントゲスト。
井口・紫原・杉山・西尾:「教えて!教養の入り口」実行委員会。
教養=知的好奇心ではないのでは……?
井口:「教養がある人」というと、学び続けられる人、知的好奇心が旺盛な人、というイメージがありますよね。でも知的好奇心って誰でも持っているものではないから、人によっては、知的好奇心が持てないことへのコンプレックスもあったりもするんじゃないですか。
杉山:私自身は、コンプレックスはあれど、知識量を増やしていくということにはあまり興味がわかないです。すごく狭い範囲の物事でも、満足してしまう。でもきっと、教養がある人って、「教養を身につけよう!」と思って、いろんなことを調べたりするわけじゃなさそうですよね。
西尾:前回のコラムで自分は、学び続けるために必要なのは好奇心だけではないのでは、という話を書きました。学びを続ける人物とは、それぞれ個人的な、決して簡単には解けない大きな問いや理想を抱えているのではないかと。学ぶ理由は決して、「教養を身に付けたいから」「いつか役に立つかもしれないから」という漠然としたものではないですよね。
紫原:つまり、大きな問いと好奇心、両輪あることによって学び続けられるということかな。
西尾:たまたま人より多くの知的好奇心を持っていたので教養豊かになれました、という結論は何かずるい気がするんです。そういうストーリーは嘘っぽい!
杉山:知的好奇心が旺盛だから教養が豊かになれるという話にしてしまうと、好奇心を持てない人はどうしたらいいのかという疑問が残ってしまいますもんね。好奇心を持つ入り口が見つからないというか……。
教養とは不法侵入によって得られるもの?
吉川:たしかに、人は、湧き上がる好奇心からものを考えたりするわけではないんでしょうね。多くの場合は、仕方なくというか……。交通事故みたいな感じで。哲学者のジル・ドゥルーズはそのことを、「不法侵入」と言っているのですが。
井口:残業がすごく多かったから労働基準法について調べざるを得なかった、みたいなことですよね。
吉川:そうそう。もちろん知的好奇心が旺盛な人というのはいるし、それはいいことだと思うんだけど、私の実感からすると、「せざるを得ない」という感じのほうが強いんですよね。
紫原:ということは、不法侵入を許す鍵をいつも開けておかなければいけないということですね。隙を作るというか……?
井口:自分は、普段あまり接する機会がない人に誘われたら、その集まりにはなるべく行くようにしています。こういう姿勢も、不法侵入を許す、隙を作るということになりますかね?
先生はえらい!
井口:ところで、教養ある人って、自分で自分は教養あると思ってるんですか?(笑)
吉川:それは定義にもよると思うんですが(笑)、知識量の話でいくと、当たり前ですが年長者が絶対に有利ですよね。だって、20歳の人と40歳の人だったら、単純に40歳のほうが人生経験とか、読んでいる本の数とかが豊富なわけだから。
紫原:知識の量だけが教養、という話にはしたくないよね。
井口:定義のことを考えると、教養とは、発信者にあるのではなく受信者の問題なのかとも思うんですよ。発信する側が「これは教養である!」という態度で発言をするのっておこがましいじゃないですか。発信者が何気なく言った発言を、受信者が「これは教養だ!」と受け止めて、初めてそこに教養が生まれるような気もします。
吉川:誰もが認める教養人みたいなのは存在しないかもしれないけれど、「この人は圧倒的だ!」と思うような人はいますよね。たとえば師弟関係のようなもので、先生をずっと越えられないみたいな。先生に圧倒されてきた、という経験。
たとえば内田樹さんの『先生はえらい』という本があります。この人は教養がある、だから発言に価値があると考えるのではなく、先生の発言はすべてが圧倒的でしょぼくない、と考える。知識の非対称性に圧倒されるような体験です。
井口:さきほどの話とつなげると、先生からの不法侵入は無条件に許すということですよね。先生からの発言には、常にドアを開いておくと。
杉山:みんな、そういう先生ってどこでどうやって見つけていくんでしょう? 日常生活の中で、賢いと思う人はたくさんいるけれど、常に不法侵入のドアを開けておけるような圧倒的な存在がいるという人は少数派ではないですか?
吉川:内田樹さんはそもそも武道の人で、哲学者のレヴィナスについてずっと勉強していた人でもあるし、師弟関係的な知というものにものすごく組み込まれている人なんですよね。
だから、我々みたいな立場とはちょっと違うところにいる人ではあるのかもしれません。
”男性”の教養、”女性”の教養
紫原:あらためて、教養をどんなものと定義するか、どう身につけていくかは、立場や考え方によって様々ですね。定義だけで言えば、社会の情勢や時代の空気によっても変化しているでしょうし。
吉川:そう。もっとに言えば、歴史を振り返ると男と女でも、必要とされてきた教養が異なっていたんですよ。
紫原:というと?
吉川:『夢見る教養』(小平麻衣子著・河出ブックス)という本に詳しく書かれていますが、女性に必要とされる教養は、学問的な知識でなく、お茶やお花、着付けや料理といった時代が長くありました。いわば花嫁修行です。ここには男性の教養の延長にあるような社会的な着地点がない。
西尾:つまり、女性に求められていた教養は、裏を返せば、女性を家庭の中で飼い殺すための装置として機能していた、ということですか。
吉川:本の中ではそういったことが示唆されていますね。
紫原:社会通念上、漠然とよしとされる価値観の裏にも、思わぬ落とし穴があるんですね。
吉川:ええ。だからこそ、今自分は何のために、どんな教養を欲しているのか。自分だけの答えを考えてみる、ということは必要かもしれませんね。
まとめ
高い教養を身につけられた人は、単に知的好奇心が旺盛だったのではなく、人生の中で切実な問題に突き当たりさまざまなことを止むを得ず調べなければならなかった人、何もかも敵わないような圧倒的な先生に出会えた人なのではないか、という話が出ました。また、ジル・ドゥルーズの「不法侵入」という概念も、教養を語る上で重要なのではないかと私たちは考えます。教養は発信側には存在せず、受信側にしかないという話題も、参加されるみなさんにぜひ考えてみてほしい視点です。
教養豊かな人、というのは確かにいます。だけど、教養ってそもそも何だろうという話になると、なんだか捉えどころのない話に……当日はそんなことも頭に入れつつ、センパイたちに教養や読書のことを聞いてみることにしましょう!
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著者プロフィール
チェコ好き
ブログ「(チェコ好き)の日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。なお、今まで旅行したなかでもっとも好きだった国は、チェコではなくイタリアらしい。 Twitter@aniram_czech
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