ザラ紙の原稿用紙は血に染まっていた。大学ノートの表紙には、きちょうめんな文字で「事件ノート 小尻」とある。

 憲法記念日の夜、凶弾に倒れた記者の遺品だ。

 兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に散弾銃をもった男が押し入り、小尻知博記者(当時29)を殺害した事件から、3日で30年になる。支局3階の資料室には、小尻記者らが座っていたソファも展示されている。

 名古屋本社寮襲撃、静岡支局爆破未遂などと続いた一連の朝日新聞襲撃事件は、「赤報隊」を名乗る犯人が不明のまま、2003年に時効となった。

 社会に開かれた支局を襲う卑劣な犯行は言論の自由への挑戦であり、断じて許されない。事件後、朝日新聞はそう訴え、脅しに屈さない覚悟を示した。その姿勢にかわりはない。

 ■言論封じる憎悪表現

 計8通の犯行声明から浮かぶのは、身勝手な決めつけと、戦前への回帰志向である。

 「日本で日本が否定されつづけてきた」とし、「日本人が日本の文化伝統を破壊するという悪(あ)しき風潮がいきわたっている」。そして「反日分子には極刑あるのみ」と結論づける。

 独善的な考えで、気に食わぬ言論を暴力で封じる。そんな手法に、理などない。

 犯人は中曽根康弘元首相やリクルート元会長らへ標的を広げ、3年余りで動きを止めた。

 事件を過去のことと考えることはできない。排外的な社会の空気は強まり、「反日」という言葉は一般化しつつある。

 慰安婦報道にかかわった元朝日新聞記者には14年、「国賊」「売国奴」などと個人攻撃が繰り返された。ネット上には家族の実名や写真もさらされた。

 街頭ではヘイトスピーチで差別感情をあおる集団もいる。

 言論史に詳しい渡辺治・一橋大名誉教授(政治学)は「こうした言葉は相手を沈黙させ、萎縮させるもの。意見の交換を前提にしていない」と警告する。

 言論を封じる憎悪表現といっていい。

 ■安倍政権と知る権利

 異論を排除する、すさんだ言葉の横行は、安倍政権の姿勢と無縁ではなかろう。

 一昨年、自民党若手議員の勉強会。安全保障関連法案についての批判報道が続くなか、出席した議員が「マスコミをこらしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけてほしい」と発言した。

 権力を持つ側がこうした発言をすれば、脅しになる。

 昨年は高市早苗総務相が、政治的公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じる可能性に言及した。

 国際NGO・国境なき記者団が毎年発表している「報道の自由度ランキング」で、日本はことし、180カ国・地域のうち前年と同じ72位。主要国7カ国(G7)で最下位となった。

 10年には11位だったが、昨年まで年々順位を下げた。

 特定秘密保護法の成立や、審議が進む「共謀罪」法案、防衛省の情報隠蔽(いんぺい)疑惑など、政権がすすめる政策やふるまいには、国民の「知る権利」を脅かしかねないものが目につく。

 大切な権利が毀損(きそん)していないか、立ち止まって考えたい。

 「国益を損ねるな」「政権の足を引っ張ってはいけない」。そんな「同調圧力」が、社会全体を覆い始めている。

 報道機関が政権の意向を忖度(そんたく)すれば情報は偏り、国民は正しい判断ができなくなる。体制側が隠しても、国民に必要な情報は取材し、報じていく。国の情報は主権者のもので、共有することが民主主義の前提だ。

 ■メディアの責任

 報道機関への信頼は揺らぎ、取材環境も厳しさを増す。

 朝日新聞社が国際ジャーナリスト連盟の加盟団体に取材したところ、回答した50カ国・地域の61団体のうち、過半数の27カ国・地域の33団体が、この10年の報道の自由をめぐる環境が「悪くなった」か「やや悪くなった」と答えた。

 自分好みの「情報」を信じ、既存メディアの情報を疑う傾向は、世界で強まっている。

 メディアが伝える事実とは別の「事実」があるとする「もう一つの事実」。昨年の米大統領選では「フェイク(偽)ニュース」が世論に影響を与えた。

 虚偽が現実の政治を動かす、極めて深刻な事態だ。

 報じる側が批判に向き合い、自らの責務と役割を問い直すしかない。事実を掘り起こし、権力監視の役割を果たしているか。多角的な見方を提示し、軸足を定めた視座で主張、提言をなしえているか。日々の積み重ねで信頼を得る必要がある。

 小尻記者が亡くなった後、朝日新聞は阪神支局に、詩人の故小山和郎さんの句を掲げた。

 「明日(あす)も喋(しゃべ)ろう 弔旗が風に鳴るように」

 自由にものをいい、聞くこと。その普遍的な価値を、社会と共有していきたい。