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歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

遺棄された幻の植民地(前編)

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 統治が大変すぎて維持できなかった植民地の数々

現代では「植民地(Colony)」という言葉はネガティブな意味を持ちます。

主権の侵害・富の収奪・人権の軽視といったニュアンスを含んでおり、二度と大国が小国を植民地の地位に落とすことがないようにしなければならない、と教わります。

 ですが、18世紀〜20世紀前半は「植民地」というと、「人生一発大逆転」の可能性がある夢と希望と一攫千金の地であると思われていました。

当然、大成功した植民地もあれば、大失敗に終わった植民地もありました。

今回は後者の、大失敗して遺棄されて歴史に埋もれた植民地の事例です。

 

 

1. ニュー・オーストラリア(オーストラリア移民のパラグアイ植民地)

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酒と女の禁止が原因で崩壊した社会主義者のユートピア

19世紀後半、オーストラリアでは低賃金労働者によるストライキや労働紛争が当局によりことごとく鎮圧され、「労働者のためのオーストラリア」を目指す社会主義者たちは国の脱出を計画し始めました。

その中心人物がオーストラリア労働党の党首ウィリアム・レーン。

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レーンは移住先として、先の戦争で人口の70%が減少したパラグアイに注目。パラグアイの地で社会主義の理想社会である「ニュー・オーストラリア」の建設を呼びかけました。

 

▽左下に「EL CHACO AUSTRAL」とあります

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1893年9月22日、第一陣220人がパラグアイの首都アスンシオンに到着。6週間ほどかけて荒野を開拓し、理想に燃え新たな社会の建設をスタートさせました。

ところがすぐにニュー・オーストラリア社会は分裂しました。

リーダーであるレーンは「妥協なき理想主義者」であり、一切のアルコールの飲用を禁止した他、原住民グアラニ族の女性との交流も一切禁止したからです。

サトウキビは現地で大量に取れるのでラム酒の醸造は容易だったし、男性の絶対数が不足していたパラグアイでは、魅力的なグアラニの女性が選び放題だったにも関わらず。

ある男がこっそりラム酒を持っている事に気づいたレーンは、彼を共同体から追放しようとしました。ところがそれに反対するメンバーが多発しコミューンは2つに分裂。

1899年、レーンはニュー・オーストラリア建設を諦め、オーストラリアに帰国。ニュー・オーストラリアはパラグアイ政府によって解体されました。

現在でも彼らの子孫が約2000人ほど暮らしているそうです。

 

 

2. ダリエン・イストゥムス(スコットランドの中米植民地)

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Work by Erandly

スコットランドの国運を掛けた植民地投資事業

17世紀、スコットランドはジャコバイト反乱や名誉革命によって急速に国力を落とし、経済的にだけでなく、政治的にもイングランドに統合されようとしていました。

1690年代、スコットランドは一発逆転をかけて国運をかけた植民地投資に着手。

アフリカと北アメリカにスコットランド商工会議所を設置し、現在のパナマのダリエン・イストゥムスに植民地を作る計画を立案。スコットランドのみならずイングランドからもさかんに投資を募りました。

1698年11月に設立されたスコットランド商工会議所は、立ち上げてすぐに経営難に陥りました。

イングランドが「投資や通商の禁止」を呼びかけており人やカネが全然集まらなかったことが大きかったのですが、そもそもダリエン・イストゥムスという土地が農業に不向きだったし、原住民もヨーロッパ人を警戒し取引を望んでいなかったのです。

 

現地に駐在したスコットランド人は次々と風土病にやられ、さらに当時新大陸の覇者だったスペインが攻撃をしかける計画を示し、1200名のうち300名が逃亡。それでも残ったスコットランド人に向けてスペイン艦隊は攻撃をしかけてあっけなく陥落。

スコットランドがその国運を掛けた植民地ダリエン・イストゥムスは崩壊しました。この投資によりスコットランドは国庫の25%〜50%ほどを使い切り疲弊し、後の1707年のイングランドとの連合に繋がっていったのでした。

 

 

3. ヤーコプ・ケトラーの要塞(クールラント公国のトバゴ島植民地)

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バルト海の小国のアフリカ・アメリカ植民地事業

ポーランド・リトアニア共和国の領邦クールラント公国は、現在はリトアニアの一部ですが、17世紀には黄金時代を迎え大いに栄えていました。

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クールラント公爵ヤーコプ・ケプラーは、バルト海に面する利点を活かして積極的な対外貿易に打って出、オランダ・イギリス・フランス・ポルトガルと交易し、また広大な公爵領で大規模な農業経営を行い経済的に成功を収めました。

 

公爵ケプラーはさらに交易ビジネスを加速させるために、海外植民地経営に着手。大規模な商船を建設し、1637年にカリブ海のトバゴ島(現トリニダード・トバゴ)に、フォート・ヤーコプ(ヤーコプ砦)を建設しました。トバゴ島はかつてオランダとイギリスにより植民地化が図られましたが両方共スペインによって失敗しており、クールラント公国が初めて成功しました。

クールラントからトバゴ島には約120名の移民がやってきて、要塞を中心に農業プランテーション経営がなされ、オランダ人やフランス人の移民も合流し最盛期には人口は約1200名にもなりました。

クールラント植民地トバゴは大いに活性化していたのですが、本国クールラントが北方戦争でスウェーデンにより蹂躙され2年もの間首都が占領され、農業・工業・商業は破壊的なダメージを被りました。さらにこの隙を突いて、オランダがヤーコプ砦を攻撃し、本国の支援も得られず1659年に砦は陥落しました。

また、カリブ海のみならずクールラントは1651年にアフリカのガンビアにあるクンタ・キンテ島(聖アンドレ島)にも同じ名前の「ヤーコプ砦」を建設し植民地経営に着手していましたが、これも同時期の1659年にオランダにより陥落しています。

 

 

4. クレイン・ベネーディヒ(ドイツの南米植民地)

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ヴェルザー家による強欲な利潤追求とスペインとの摩擦によって失敗

1528年、神聖ローマ皇帝カール5世は、アウグスブルグの銀行家ヴェルザー家に、現在のベネズエラとコロンビアの土地を征服し営利活動を行う権利を与えました。

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当時の南米はほぼスペインにより征服されており、カール5世はスペイン国王カルロス1世でもあったため、その権限でドイツのヴェルザー家に利権に割って入らせたわけですが、スペインとドイツとの間の不確実な法的領域の中に成立したため、南米のヴェルザー家の存在は極めて不安定なものでした。

ドイツ語で「小ヴェネツィア」と言う意味の「クレイン・ベネーディヒ」では、その不安定さ故に「短期的な利益の確保」が至上命題とされました。

ヴェルザー家の南米経営では、アフリカから連れてきた奴隷によるサトウキビ農園による利益もありましたが、主力は「黄金の国エル・ドラドを探して一攫千金をGETすること」でした。

探検隊はジャングルの奥に分け入って、伝説の黄金の国を探し回ったのですが、もともとそんなものは存在せずにダラダラと時間だけが過ぎていきました。

焦った探検隊は原住民に対して粗暴に振る舞い、敵対して毒の矢や槍の攻撃を受けて探検隊のメンバーは次々に戦死。また、現地の風土病や食料難も追い打ちをかけました。

結局、ヴェルザー家の投資は「金探し」に終止し持続的な産業を作り出せず、スペイン人はクレイン・ベネーディヒの統治権を主張するなど内部分裂も続き、結局1546年に消滅しスペインの手に返されました。

 

 

5. ヌエバ・ゲルマニア(ドイツのパラグアイ植民地)

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ニーチェの妹による「純粋なアーリア人社会」の建設

 「神は死んだ」で有名な哲学者ニーチェの妹、エリーザベト・フェルスター=ニーチェは、夫ベルンハルト・フェルスターと結婚後、強烈なドイツ民族主義・反ユダヤ主義者となりました。

ベルンハルト・フェルスターという男は当時有名な反ユダヤの扇動家で、「ユダヤ人はドイツに巣喰う寄生虫」などと主張する男でした。

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もともとエリーザベトは兄と仲が良かったのですが、反ユダヤ主義に洗脳されて以降は疎遠になり、ニーチェは妹の結婚式にすら出席しなかったそうです。

フェルスターとエリーザベトは1886年、パラグアイに「ユダヤ人のいない純粋なアーリア人社会を建設する」として14名のドイツ人一家と共にパラグアイに移住。その地をヌエバ・ゲルマニア(新ドイツ)と名付けて新社会の建設を目指しました。

しかし、移住した先はパラグアイでも最も不毛で貧しい地域の一つ。作物の不作はもちろん、結核・マラリア・害虫・ヘビなどに悩まされ、すぐに行き詰まりフェルスターは1889年に服毒自殺で死亡。

エリーザベトはドイツに帰国し、二度とパラグアイには戻りませんでした。

しかし現在でも「ヌエバ・ゲルマニア」は存在し、住民はグアラニ族と区別が付きませんが、ドイツ語は一部で現在も話されているそうです。

 

 

 

繋ぎ

植民地は現在ではネガティブにとらえられている部分があり、植民者が力で土地を奪ったり、原住民を圧迫したりしたのは事実なので一面は正しいのですが、現在で言うところの「投資事業」であり「企業の海外進出」的なニュアンスもあったし、新たな社会の建設という側面もありました。当然、価値観は現在と異なるので、一方的に断罪もべた褒めもできないものです。

次回はこの続きです。

 

 

 参考サイト

"10 Colonies That Were Doomed From The Start" LISTVERSE

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