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くぼたてつ 様

 投稿者:mission  投稿日:2017年 5月 1日(月)17時45分29秒
  「婦人部の幹部の抵抗」
婦人部幹部の人達の中には、猪突猛進型がチラホラいらっしゃりますから。
もう少し、周囲の人の事や状況を考えて貰いたいけど…部員さん達に金切り声で怒鳴る婦人部幹部も居られましたょ。

目標達成に向けて部員さん達に無理を押し付ける婦人部幹部は、決って自分より上の幹部達に良く思われたい?だけをモットーに行動されている人も多々お見受け致してます。

「読売新聞を10部取っている家庭がありますか?」
↑言えてる(苦笑) ナイナイ↑

「降格人事」ってあるんですね(驚)
それも聖教の事で?…理屈通りませんょ。
それか、副会長を怒鳴りつけたから?
まるで、恐怖政治です。

丹治→先生は除名→引き戻す(誰の指示ですか!?)
師匠である池田先生より偉い お方が、何人も居てはるのでしょう。
ホント創価貴族は、狂ってますね。
 

秋谷は5口w 職員は2口w 谷川は 374919 www

 投稿者:フロム関西  投稿日:2017年 5月 1日(月)17時41分16秒
編集済
  創価学会仏
組織そのものを仏(信仰の対象)にしてしまいました…(◎_◎;)

池田大作先生
師匠を偶像化してしまいました…(-_-;)

邪教化反対!ダメ!! ゙o(≧◇≦*)oo(*≧◇≦)o"ダメ!!

http://6027.teacup.com/situation/bbs/68125
 

栃木の久保田様

 投稿者:男子部Nメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)17時09分22秒
  恐縮いたします。

ありがとうございます。

いよいよ新緑の五月です。仇討ちの決意も新に強く、私も頑張ります。
 

(無題)

 投稿者:八風  投稿日:2017年 5月 1日(月)16時52分50秒
  Twitterより↓

「世田谷区立の中学校に通ってる子供が健康診断で甲状腺腫の疑いがあるとして
赤い色の紙をもらって帰って来た。聞くところによるとクラスの半分以上が
同じ診断を受けているそうだ。やっぱり放射能の影響がすごい勢いで現れ始めて来た。
テレビではこんなことは絶対に触れないだろう。ショックだ。」

コンペイトーが当初より推進し今もって推し進める原発政策。
悪魔の所業と言わずなんというのか!
職員、コンペイトー議員らは先生の弟子ではない。空き家,胎田の弟子。
 

男子部N様へ

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)15時43分30秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

男子部N様こそこれから最も必要な方です。m(._.)m

ありがとうございます。

私も共に頑張りますよろしくお願いいたしますm(._.)m

 

このクソ忙しいのは?

 投稿者:原田八号  投稿日:2017年 5月 1日(月)14時46分20秒
  374919で忙しかったからでせう。ゲッゲッゲッ~  

史人様

 投稿者:飛翔こそ蘇生  投稿日:2017年 5月 1日(月)14時27分55秒
  あせらずじっくりやってください。

何かをやらなければならないということではなく
不能思惟の無始無終の不可思議の如来の生命が
今ここに無限にあるのです。

全く同じ状態の再現というものは
なかなかできるものではありません。
次のステップへすんなり進めた時
軽くなり色々と了解します。

法のため人のため
身も心も御本尊に委ね

我が生命をもって広宣流布とすることを
迷わず定めるのです。

その定まった我が身宝塔に問えば
瞬間の妙の中に答えを見出す
智慧の技術として開かれていきます。

御本尊を見ていると同時に
御本尊から見られてもいます。

御本尊様は全て御承知です。
 

午後のツイッターより

 投稿者:ダメよ~ダメダメ  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時57分16秒
  某主任副会長がゴーマンなのは昔から。ある創価班会合で担当幹部(当時、男子部長)の時、入場時に「くそ忙しい時にこんな会合に呼びやがって」とブツクサ言ってたのは、とても有名な話。

※この会合ってひょっとして懐かしい大石寺での男子部夏期講習会。それも創価班大学校大会での

当時の男子部長。現在の谷川主任副会長&事務総長の事でしょう(笑)

全く二重人格、三重人格。
 

これからだという思い

 投稿者:史人  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時37分52秒
  飛翔こそ蘇生様ありがとうございます。

今体感出来ること、それに全てがある、頭の働かない私に考えられるのはそれだけです。自分で歓喜の生命を出していくしかない。そう思って御本尊に向かっています。思考の部分が強い間は中々長い間御本尊の前には座れないので、そこは修行であり、書かれているように、

>>相手の立場になって考えたり
俯瞰したりして
言い訳がましい思考概念を鎮める。

ただ歓喜の題目なら
ただ歓喜の題目になりきるのだ。

思考概念は本当の自身ではない。
思考概念を重ねて概念を強化しても
本当の自身は強くならない。

人間を強くするのは
砂浜で裸で相撲を取るような
ただ人と人、ただ自身と御本尊の錬磨だ。

大宇宙の妙法の力には
思考概念を浄化する働きもあります。

それに逆らって独自の概念に執着すれば
それは苦しみになります。

大丈夫、思考なんて捨てたところで
後から後からいくらでも涌きます。

法華経の真理を伝える使命なら
そういう風に浄化されていくだろうし
人それぞれふさわしい妙法になります。

という点、確かにその通りなんです。
出発点を見つけることが生命の旅でもあるので、それを導きだしていければといつも考えています。

正直言って、【朝の勤行唱題に熱が入った。戸田先生が「持っている福運は感謝していきなさい。でなければ、その福運は消えてしまう。」と御指導されていることについて、一切衆生の身に当たるの大事と思い、深く思念した。会社に行く間喜びが体の中からふつふつと沸いてくるのを感じた。会社に着くとすぐにセキが出て息が苦しくなった。経王殿御返事の一説「いかなる病さはりをなすべきや」との言葉を思い起こして身の福運への感謝の念が止め処なく起きてきて、笑みを止めることが出来なかった。】とあります。
この翌日以降の日記には僅かに体温計を割ってしまった時に体温計を買える時でよかった、これも持っている福運だという旨の記述が残されているだけです。
そんな中から手掛かりを見つけようといくら考えても答えが出てこなかったというのが正直いった感想です。

実はここに来て投稿を始めるキッカケは答えを出すことでもあったので、このように書いてくださったことの中に答えがあると感じ、とても感謝しています。


後記:
「まとめ」の中にうまく書けなかったこの日記文の中にある過程ですが、半年近い前に先に答えを出して他で数行書き出しています。今はじめて思ったことではなかったです。結論だけが先にあったことになります。

そのことについてですが、川田さんのいわゆる怪文(御書が一節も書かれていない、感謝のことばかり書かれているものが出回っているという話し)とは全く異説です。
なので感謝の念慮だけを大切とする思考ではないです。
 

栃木の久保田様

 投稿者:男子部Nメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時37分34秒
  こんにちは。

与同罪の明確な呵責に、すっきり致します。

いつも、天魔を見下ろし、勇敢な迫力ある呵責の戦い、ありがとうございます。

本部から僣聖増上慢が炙り出て世界に鬼神が乱れる中、久保田様や同志の皆様の敵を見据えた明確なる呵責に私は励みになっております。

これからも、よろしくお願いいたします。
 

人生の座標から~

 投稿者:うーこメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時35分52秒
  この世に生まれてきた以上、絶対に自分にしかできない自分の使命がある。そうでなければ、生まれてこない。宇宙は決して無駄なことはしない。何か意味がある。人間が雑草と呼んでいる植物にだって、何か意味がある。また桜には桜の、梅には梅の、桃には桃の、李には李の、それぞれの個性があり、使命があり、意味がある。  

遠離塔寺の難

 投稿者:ダメよ~ ダメダメ  投稿日:2017年 5月 1日(月)13時23分7秒
編集済
  下記は懐かしい第二次宗門問題勃発時にFAXを用いて関係各所に送信されていたFAX通信「地湧」
後にはまの出版より三十数巻に亘り出版。某葬儀社より「地湧選集」としてもまとめられ、現在もウェブ上で閲覧する事が出来る。

この第142号は「遠離塔寺の難」と題して、宗門より登山停止になった意義を述べたものです。この後、宗門からの破門等の創価学会に対する処分が次々と行われるが、これが最初の処分的行為だった。

今、改めて字や立場等を置き換えて読んでみるとかなり面白い。

故無き査問をされ、故無き役職解任、活動停止、会館等や会合への参加・出入り禁止になった

方々は仏法的な眼から観ればこの「遠離塔寺の難」を受けられた事に通ずると確信します。

ご参考までに。

以下、引用。http://www.houonsha.co.jp/jiyu/04/142.html



第142号  1991年5月22日

日蓮正宗自由通信同盟

「遠離塔寺の難を共に受けることのできた創価学会員は
末法の法華経の行者であるとの証明を仏より賜ったのだ」


 七月一日からの添書による登山を、創価学会側はどのような気持ちで見ているのだろうか。広布のために日夜、挺身する学会員はほとんど例外なく、いまの宗門のやり口に腹を立てている。
 大御本尊様にお会いしたいという信仰の本質からほとばしり出る気持ちにつけ込んで、広宣流布を進める学会組織を分裂させようという策……。この添書登山の奥に潜む怜悧な魔性には心の奥底から反発を示している。
 大衆は事の本質を見逃さない。添書登山の目的が、この未曾有の和合僧団の破壊に向けられていることに気づいている。聖職にある者が、策を弄して広宣流布の歩みを止めようと仏子をいじめぬいているのだ。まことにいまの宗門中枢は僣聖増上慢の姿そのものである。
 創価学会員が、この事の本質を見抜いているのだから、七月一日よりの登山が不調に終始することは目に見えている。まして池田名誉会長に対しては、いまや実質的に登山止めの状態である。早瀬庶務部長が住職をする大願寺が、名誉会長に添書を書くことなど、よもやあるまい。
 添書を求めれば、これまでの恩も忘れ、権威をカサに着てなにを言い出すかわかったものではない。屈辱を強い、僧の権威の前に屈服させようとするだろう。もちろんそれ以前に、池田名誉会長から添書を求めることなどないと思われる。
 創価学会員も、池田名誉会長がこのように実質的に登山止めの状況の中では、好んで登山することはないだろう。
 昭和二十七年の狸祭り事件のとき、日蓮正宗の宗会は戸田会長の登山止めを要求する決議をしたが、そのとき戸田会長みずから筆をとり、『聖教新聞』(昭和二十七年七月十日付)の「寸鉄」に次のように書いている。
 「一、宗会の決議では我等の会長が登山止めなそうな、物騒な世の中になつたものだ。
 二、忠義を尽して謗法を責めて御褒美あるかと思つたに、おほめはなくて『登山まかりならん』とおしかりさ。弟子共一同『俺達も一緒に登らんわい、フン』だってさ。
 三、何が『フン』だい。決つてるじやないか、日本全国の信者の声だつてさ、嘘もよい加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること許りを知つとる坊主の学会に対するやきもちだからさ」

 簡潔に事の本質が記されている。そしてこの難の仏教的な意義について、つづけて「寸鉄」に次のように書いている。
 「如説修行抄に仰せあり
 『真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三種の強敵決定せり。されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし』。三種の悪人の仕業の中に『遠離塔寺』と言つて寺から追い出すやり方がある、悪人共がさ。
 さて我等が会長に折伏の大将としての一大名誉を贈ったのさ『遠離塔寺』と云う仏様からの勲章なんだ」
 「遠離塔寺」は、末法の法華経の行者が受ける難の一つとして、法華経勧持品において明かされている。
 勧持品では「濁世の悪比丘は仏の方便 随宜所説の法を知らずして 悪口して顰蹙し(持経者は)数数擯出せられ 塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告敕を念うが故に 皆当に是の事を忍ぶべし」とつづいている。

 戸田会長が記しているように、「遠離塔寺」の難を受けることのできた創価学会員は、末法の法華経の行者であるとの証明を御本仏より賜ったに等しい。
 それにしてもこの「遠離塔寺」の策は、ある程度、信仰心がある者たちに対してでないと効果は期待できない。斬ったり流罪したりといった暴力に訴えるものでもない。いうなれば、信仰心を利用しての破仏法であり、きわめて知能犯的要素が強い策なのである。
 第六天の魔王も、あの手この手と実に手のこんだことをしてくるものだ。信仰をしている大衆に、なにが正でなにが邪かを見失わせ、最終的には広宣流布を推進する仏の軍勢を空中分解させようとの謀略である。

 本来、広宣流布に向けて日夜精進しなければならない日蓮正宗の僧が、この謀略に手を染めているのだ。日顕上人らは、「池田教がいくら弘まったところで、それは広宣流布ではない」などともっともらしいことを言っている。だが、池田名誉会長ほど日蓮大聖人の仏法を真剣に行じている人もいなければ、仏法により大衆を蘇生させた人もいない。
 日顕上人はなんの謂あって池田名誉会長をそしるのか。ただ単に妬みである。
 七月一日以降、総本山は閑散とすることだろう。これをもって日顕上人らは、「やはり創価学会員は信心がなかった。大御本尊様より池田名誉会長が大事らしい」などと誹謗するにちがいない。だが、僣聖増上慢の口車に乗って、仏法史上、未曾有の和合僧団の結束を乱すことなどできはしない。
 正絹の豪華な僧衣をまとい、大衆と交わることもなく、高級車に乗り、ゴルフ場とクラブ通いにうつつを抜かし、夫人には高価な着物を着せ、庶民からは考えられないような贅沢をする。そのうえ、多くの者にかしづかれたがり、甍周りを圧するような寺院を、銀行から借金をしてまで建てたがる。
 このような僧がなにをそしろうとも、不思議な仏縁で結束する創価学会の師弟のあいだにヒビを入れることなどできはしない。
 

破和合僧を破壊する様へ

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)12時57分27秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

ここが破和合僧ですか?あんた面白いねヽ(^○^)ノ

笑わしてくれる(⌒‐⌒)

幹部が好きとか嫌いとかそんな次元で言っているんじゃ無いですよ┐(´д`)┌法に依って人に依らざれだから幹部だからと言って、池田先生のご指導や御書のご金言とあからさまに違うこと言ったりやったりしてればそれを指摘しなければ与同罪になるから従えないんですよ。分かる。┐(´д`)┌ゆっくり言おうか?


・謗・法・犯・し・て・る・幹・部・に・従・え・ば・同・罪・ダ・ヨ・(⌒‐⌒)


太ちゃん様、ナイスファイトヽ(^○^)ノ


 

破和合僧を破壊する様

 投稿者:mission  投稿日:2017年 5月 1日(月)12時54分40秒
編集済
  もしかして最近、続けて投稿した私の文章に対してなのでしょうか?
私の経験や体験に基づき色々調べた内容なので、案外 的を射ていると思いますが(^^)

この掲示板で「指摘されたく無い事」が投稿された時は、決って短い文言で投稿される方達が殆んどです。
ですが、その短い文言では何処の何を どう伝えたいのか解りません…まぁ この掲示板が気に入らない事だけは理解できますけどね。

けれど自分の反対意見を文章で表す時は、起承転結で良いので 「事実を告げる」→「事実の間違っている所を指摘」→「間違っている所について自分の意見を述べる」
じゃないと伝わりませんょ。

32章には「破和合僧」の言葉は載ってませんが、貴方が指摘されたい所は↓
【あの幹部は好きになれないから、組織にはつきたくない。活動もしたくない…負けてしまっている姿です】
の箇所ですか?↑この姿が「破和合僧」と?

宿坊の皆さんは↑こんな甘ちゃんな屁理屈なんて言ってません。
私自身も、部員さん達を虐めたりズル賢い幹部の人達には、先生の御指導を通してキチンと意見を言ってるし「組織につきたくないor活動したくない」な~んて事は「自ら」言ってませんょ。

反対に査問担当幹部から「活動停止」「役職剥奪」等の「処分」を一方的に宣告されて、組織から遠ざけているのです。
今日の32章でも↑この事が書いてありますょね?
【自分と他人あれとこれと分け隔てて、差別する心を拝していきなさい】と。

32章で一番大切な所は、前半で
【生死一大事血脈抄】御書があるのだから【自他彼此の心なく水魚の思を成して】になります。

「破和合僧」ついて、池田先生の御指導を知りたいのなら、投稿させて頂きますょ。

 

破和合僧とは、笑わせる

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 5月 1日(月)12時21分17秒
  創価学会は、三代の会長先生が、文字通り生命を賭けて築き上げた、平和の組織。

平和主義的な政策を支持するのであれば、一瞬で団結出来る。

そういう組織に、安保法案や共謀罪のような、戦争準備としか思えない政策を支持させること自体が、とてつもない破和合僧! 団結など出来る方が、そもそもおかしいのだ。

仏罰を信じていない反逆者にしか出せない、破和合僧を織り込みずみの指示。
その規模の大きさから考えて、現身のまま、無限地獄に引きずり込まれる程の大罪だ。

米ソ冷戦時代、自国に向かって飛んで来る、数発のミサイルを発見しながらも、反撃の為の、何百発ものミサイル発射ボタンを、押さなかったソ連軍司令官がいた。
後で、ミサイル接近の表示は、コンピュータの誤作動と判明。世界は辛うじて破滅を免れた。

本気の攻撃であれば、数発というのはおかしい。何百発も撃ってこないのはおかしいという、現場の勘と、究極の責任感が世界を救った。

彼が上からの指示通り、マニュアル通りに対応していれば、今頃我々は生きていない。

安保法案に反対し、共謀罪に反対するのは現場の勘だ。
上から指示するしか能の無い、腐れ貴族どもに、そういう勘が働くことは永久に無いだろう。
 

今日のツイッターより

 投稿者:ダメよ~ ダメダメ  投稿日:2017年 5月 1日(月)12時12分34秒
編集済
  全くの正論。

先生の名前を利用して正当化するのは良くないですね。


以下、ツイッターより引用。


「異体同心ってのは
師弟不二の異体同心なんだから
師匠の教えの通り、弟子達が、御書を根本に団結をするということ

御書は時代が違うって人は  ※①
生死一大事血脈抄の御文に反するし
先生にも背いてる」

「今日の人革に
あの幹部は好きになれないから、組織にはつきたくない。活動もしたくないというのは御金言に反しますとあるが今の状況の多くは幹部が、あの会員は好きになれないから、組織にはつかせたくない。活動もさせたくないと言うのは御金言に反しますだよね」 ※②

「またその為には、自他彼此の心で、水魚の思いもなく、真実をねじ曲げて、デマを組織に流して、差別的な思考停止集団をつくり、団結と読んでいる
これのどこが、生死一大事血脈抄の御文に反してないと言えるのか?」


「勇気ある信心を貫くこと悪と断じて戦っていくこと
ご本尊、御書根本でいくこと
これが、広宣流布の大回転を可能ならしめる要諦である。
宗門は、この道をはずれたから、無惨に滅びたのである。
その意味で、宗門の二の舞になっている学会に対して、黙って従う人間こそ、学会を破壊している」


※①「御書は時代が違うって人」⇒神奈川の大場という人ですね。大丈夫か?それ言っちゃったら全てがそうなってしまいます。信仰を根幹から揺るがす発言であり、思想。この様な方が職員として会員さんの浄財で禄を食んで、信濃町界隈の首脳部の一員、そしてSGI幹部としている事が大問題。

※②「あの会員は好きになれないから、組織にはつかせたくない。活動もさせたくない」

現在の状況は全くこの通り、意見や疑問等をはっきり言う人、幹部等にはっきりものをいう人は組織の邪魔だから、組織にいると影響を及ぼすから活動させない。他の会員さんと接触させたくない。だから活動停止。会館等への出入り禁止。役職解任。挙句、除名。

 

偶像の組織

 投稿者:飛翔こそ蘇生  投稿日:2017年 5月 1日(月)12時01分19秒
  歓喜の体感があるということは
何より自身の財産であり
言うに及ばず感謝すべきものです。

組織において発表をする時
「池田先生のために・池田先生のおかげで」
そういうことが随所に盛らされる。

その時、偶像化された池田先生像が形成され
気づかぬうちに組織信仰にスライドさせられ
純粋な信心が組織のためへと利用される。

ただ題目を唱えて歓喜がわいた。
それは本来は素晴らしいことであるのだが
組織としては利用価値が薄く軽視される。

票獲得・会員獲得・財務捻出・新聞押し売り
そういう結果として地位名誉財産の分かりやすい
結果に結び付いたというストーリーがもてはやされる。

一旦はその過程が純粋なものか邪悪なものかは
検証・評価されず、落ち目になってから後から
あれはあーだったこれはこーだったと
あることないことを言われる。

後からそういう風にするのは指導主義ではない。

本来、大切にされるべきものが大切にされず
要領よく取り入っている人間や
信心を何かと勘違いして無茶苦茶をやっている人間が
その一時的なものでチヤホヤされる。

生命の歓喜を知っている鋭敏な魂は
そういう嘘の世界を見抜く。

偶像の組織の人間からすれば
そんなことを見抜かれるのはたまったものじゃない。

会員をバカなままにしておいて
偶像の組織を強化する方向に働く。

純粋な人間の側は
自分の方が間違っているのだろうかと
深く苦しむ。

指導を受けようにも
むしろ信濃町本部の最高幹部が率先して
組織信仰へと変遷しているので
上に指導を受けるほど溝が深まる。

そうして切り離された個人は
自身の中にある大切なものを守るために
これに思考概念の理由付けを繰り返しがちになる場合がある。

根源的に、分かってほしい、強くなりたいという
思いがあるからだ。

完璧な理屈があれば認めてもらえるのではないだろうかと。

個々に作り上げるそれぞれの正しさは
経験してきた出発点が違い
探求のために出会った縁が違い
それぞれの環境が違うので
人の数だけ正しさがある。

本来は理屈などつけなくても
生命の歓喜は素晴らしい。

分かってもらいたい、強くなりたいという
思いが強く言い訳の理屈が多いと
せっかくの宝が埋もれてしまう。

素晴らしいものは素晴らしいと
ただ受容し

相手の立場になって考えたり
俯瞰したりして
言い訳がましい思考概念を鎮める。

ただ歓喜の題目なら
ただ歓喜の題目になりきるのだ。

思考概念は本当の自身ではない。
思考概念を重ねて概念を強化しても
本当の自身は強くならない。

人間を強くするのは
砂浜で裸で相撲を取るような
ただ人と人、ただ自身と御本尊の錬磨だ。

大宇宙の妙法の力には
思考概念を浄化する働きもあります。

それに逆らって独自の概念に執着すれば
それは苦しみになります。

大丈夫、思考なんて捨てたところで
後から後からいくらでも涌きます。

法華経の真理を伝える使命なら
そういう風に浄化されていくだろうし
人それぞれふさわしい妙法になります。

史人さん身延の資料のようですが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/823980

南無妙法蓮華経が宝塔であるということが
ビジュアルで伝わるものがありますね。

曼荼羅の真言還りのようでもありますが
南無妙法蓮華経が宝塔であるからこそ
曼荼羅が曼荼羅たり得ているとも言えます。

仏の身、自身の身、その生命がまた宝塔であり
歓喜の黄金の霊山浄土へと「到達」出来うるものであり

それを打ち立てる人間革命によって
その会座の世界を現実の上で
妙法に照らされた世界へと変革していく。

そういうことを実際に実現していった
三代の会長と

間違った組織信仰の現在の執行部。

間違った偶像の組織信仰を止めて
最高の黄金の歓喜の功徳を受けていきましょう。
 

最優先に信じてるものは?

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時49分21秒
編集済
  南無御本尊様なのか南無組織なのか

信じる対象は御本尊様と池田先生は昔から一貫して何度も何度も言ってきてる

池田先生は89歳
これまでに言ってきた数は100回や200回なんて回数じゃないでしょう
同時中継や書籍やその他もろもろ
おそらく1000回をゆうに上回ってることでしょうね

けれど、御本尊様よりも最優先に組織自体を信じる対象になってるように見えてならないんだよね、今の組織って

もっとマクロ的にいえば、組織といっても動かしてるのは幹部なんだから、南無幹部という信仰形態になってるように見えるんですよ
南無妙法蓮華経ではなく南無幹部の精神で信仰してる心境というのでしょうか

『法に依って人によらざれ』

有名な御文だし知らない人はいないと思うけど、ほんとにコレができていますでしょうか

御本尊様より他を最優先に信じてる信仰だと、組織自体を信仰対象にしてしまいがちだし、組織といっても実際には幹部を御本尊様の代わりに据えてるようなもんなんです

それは幹部を最優先に信じる対象に信仰してるようなものになってしまう

池田先生の陣頭指揮時代には、活動家は功徳に溢れてたもんです
今はどうでしょう?
功徳の体験を語ることはそのまま広布の一環になるのに、今は体験談をまるで聞かなくなっています

池田先生の陣頭指揮時代にかえって信仰したほうがいいんじゃない?

と思うこのごろ


追記:

池田先生についてはいろんな見方があると思う

池田先生は日蓮仏法史上700年以上で最高の実証・結果を出した信仰者
池田先生以上に広めた人はいないわけです

これだけの年数で最高の信仰者ですから、そう簡単にはさらに優れた信仰者は出ないことでしょうね
それゆえ「信仰者」として最高の「見本・手本」になるお人です

なぜそうなれたのか?ということで池田先生自身のいろんな話を元に、自分も同じく御本尊様を信じる、そのための『指導者』なんですね

池田先生の話を見本・手本に自分でも実践することは、池田先生の福運を分けて頂くようなものです
それゆえ『指導』と言っていいですよね

価値ある話のできる人だから『指導者』になってるわけです
それも、これだけ長い日蓮仏法の歴史ですから『永遠の指導者』といえるわけです

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

いま、ふたたび(結)

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時42分13秒
  恩師如是我們集より

その頃の勉強のご様子は

開成中(夜学)四年に編入し、始めて英語を学習した。同級に大滝元代議士、細井尊師がいた。
電車の中にいる慶大生や一高生に、英語を平気で聞いた。

数学は、研数社の門前で勉強した。
学校がすむと(授業料を払っていないから、モグリだったから)教室に入っていって、教授に質問した。
顔なじみになった教授は、最後まで私を研数社の学生と思っていた。
(二十六歳で時習学館を経営し、中央大学に通われた。)

三十二歳まで、このようにして、あらゆることを学んだ。
その後、今まで勉強した法律、経済、数学、物理などのあらゆる参考書は、畳半帖に山と積まれた。

それを七十円で売り払った。

私の勉強は、電車の中、人を待つ間、乗物を待つ間、あるいは学校の講堂などで学んだものばかりである。
ゆえに枕元には、いつも本が置いてあった。

三十二歳より、あらゆる小説を読破もされた。この間に。
湊邦三氏や村上元三氏に指導されたことは、数限りない。だから、かれらは今でも頭が上がらないのだ。


毎日二時間、電車に乗っている時間があったら、いくらでも勉強できる。
まわりのウルサイのなんか、少しも苦にならぬ。

その後、日蓮正宗に入信した。

その功徳によって、今まで頭の中に入れてきたものが、全部生きてきた。
すなわち、仏法を根本にすれば、全部生きてくるのだ。

今までの死んだ学問が、普通は全部死ぬのがあたりまえだが、全部信心によって生きる。

私は、今、文科および物理、数学などの自然科学なら、二ヶ月余裕を与えられれば、
君らが専門としているものでも、得意としているものでも絶対に負けぬぞ。どうだ!勝負するか!

私は、専門知識でも、たとえば、法律でも、負けない。根本を知っているからだ。
三ヶ月余裕を持ち、勉強すれば、マスターして、誰にも負けない。機械だけは知らない。目が悪いからダメだ。


胸間の八葉の蓮華について

「八葉の蓮華と御書にあるのだから、そのまま読まなくてはならない。
自分勝手な考えは出来ないし、かといって、どういうことか私は考えた。なかなかわからなくて困ったよ。
われわれが胸の中に、八葉の蓮華ありと仏教では主張するが、今日の生理学上、納得できない人もあろうと思う。

これには二つの意味がある。

一つには、われわれの生命それ自体が、妙法蓮華経であるということ。二つには、われわれの生命自体が、
妙法蓮華教即当体蓮華であるということを、われわれの肉体の中から見出したことである。

しからば、何をもって胸間の八葉の蓮華というかというに、心臓と肺臓の一体を意味するのである。

生理学によって、心臓と肺臓の有り様を見るに、二つの肺臓につつまれて心臓がある。
その形があたかも蓮華によく似ているである。これを名づけて、胸間の八葉の蓮華という。

これは、法華経と譬喩蓮華のごときもので法蓮華にあたる当体蓮華は、われわれの生命それ自体であり、
譬喩蓮華は、心臓をつつんだ二つの肺臓である。

さればわれわれの胸間の中に、八葉の蓮華ありとするのは、
われわれ自体が、妙法蓮華経の当体であることを強く意識せしむる説である。

男子は仰ず、女子は伏す、もし女人が妙法を受持すれば男子と同じく仰ぐなりとは、深い意味があろうと思う。

生理学的に、肺臓が転ずるという意味ではあるまい。
生理学的には、心臓と肺臓の活動に、差異が生ずるのであろうと推定するだけである。

生命論より論ずれば、男子と女子とでは、一般的に生活力の差異があることは認めざるをえない。
しこうして、当流の御本尊を信ずる女性はその生活力が、男子と同じになるとの意である。」

「不思議なことをいうようだけれども言っておく、今日から十年目に、またここへ集まろうではないか、
その時に頼むことがある。その時、みんなきょうみたいに集まって来るのだ。ここにいる者は退転するな。」

「女に迷ってはならない。女性なるものの全体を知っておく必要がある。結婚はあわててしてはいけない。」

「広宣流布は無辺行の弟子がやるのだ。」
 

査問について

 投稿者:シャクソン ファイブメール  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時40分37秒
  皆様、おはようございます。

査問は間違いなく行われてます。
私自身が、査問を受けましたから。

済んでいる地域の幹部(総県、分県等)が査問するパターン。
方面幹部がやってきて査問するパターン。
方面直轄の組織の場合、総県幹部ではなく方面が査問します。

内容は地域によって「温度差」あり。
厳しく問い詰められる場合あり。
信濃町から言われたから、仕方なく査問する場合あり。

しかし査問する方は、何も感じないのでしょうかね。
パワハラ・人権問題に関わるような査問もあるのに。
そういった感覚は、持ち合わせていないのでしょう。
 

「信念とはなんぞや」(2)

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時35分53秒
編集済
  戸田城聖全集3より・・

一月二十五日付、谷中裁判長宛の手記のなかから、

「私は真面目な労働者が腹黒い投機者に寄って再び私のような愚挙(ぐきょ)をさせぬようざんげ者として

失敗者として叫ぶのです。私は私の失敗のわだちを人々や子供達にふませたくないのです。

裁判長さん、私は実に愚かでした。

今までコミュニストこそ人間社会において最高の愛や勇気や徳操(とくそう)を持った人たちだと思ってきました。

ところが現実私の身近に見られる党員の誤って獄に繋がれた生態の一半(いっぱん)をしり、私は目が覚めたのです。

当時組合扇動者(せんどうしゃ)喜屋武被告が『竹内を極刑にしろ』と釈放後、放言していると聞きました。

彼が未決監(みけっかん)でどんな態度をとったかは私をしてかつ目(もく)させます。

未決監の懲役人を使わそうして私のところへ来る手紙の内容、本の差入、食物まで一々疑って報告させたこともあります。

そんな冷酷(れいこく)、さい疑(ぎ)、陰険(いんけん)こうかつな人間たちに誤って指導権力を渡したら、

それこそ実に彼らの言う彼らの言うファシズムであり、警察国家であり、

熱い人間の涙を解し得ない機会主義者人間ロボットへの道だと考え、私はそんなイズムと闘わねばならんと思ったわけです。

正しい労働組合の発展がかかる輩に翻弄(ほんろう)されて、右往左往していることは実に愚かなことである。

挑戦者は誰でしょう。私の子または多くの働く人たちは断じて私の愚を繰り返してはならんと考えます」

同志を恨み、妻の同志活動を嘆き、かつ、自分のいたるところで弁護している。
彼は共産党の活動に、浮薄(ふはく)な確信で活動してきたに違いない。
さればこそ、死刑の宣告を聞いて、青くなるはずである。

<続く>

どこか、聞いたような・・感じです。
 

査問・除名・活動停止命令

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時12分23秒
編集済
  『すなわち自分と他人、あれとこれとを分け隔(へだ)て、差別する心を排(はい)していきなさいと言われている。』
小説「新・人間革命」雌伏(しふく) 三十二
2017年5月1日より

その精神に真っ向から反する行いが全国的査問・除名・活動停止命令ではないかい?


(都合の悪いコメントを下げるためには何でも利用したい様子に見えますね)

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

自語相違

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時10分21秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/68173

そのコメント発言自体が破和合僧になってるんでない?
伝えようとしてる相手を学会員にしてる趣旨ではそうなるよね

違うか?

大聖人様は信徒に対し、一切怒ることはなかったのか?
池田先生は学会員に対し一切怒ることはなかったのか?
はたまた提婆に対し『人の唾を食らうもの!』と罵った釈迦は破和合僧か?

週刊誌を賑わせた元全国男子部長を『ケダモノ!』と罵った池田先生は破和合僧か?


貴殿の話では、大聖人様も池田先生も釈迦も破和合僧ということになるね

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

雌伏

 投稿者:破和合僧を破壊する  投稿日:2017年 5月 1日(月)09時49分56秒
  この掲示板に集う皆々様方、本日の雌伏の章をよく読み込みましょう

破和合僧の働きをしているのがこの場所かと

お気をつけください
 

こんにちは

 投稿者:自由の凡夫メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)09時32分23秒
  「大自然」は「気づき」の促しそのものです。

自分自身の周りに起きている、自然(人・生き物を含め)の「現象」には雄弁なメッセージが含まれています。

読み取れるかどうかは「受け手」次第です。「思考・概念」に囚われ過ぎていたら気づけないのです。

後で「概念」と比べてみるのもいいでしょう。

以前にもお伝えしましたが、

「生命現象」の流れは、私も「非二元」「悟り」の方向に向かっているように感じています。



-- 風になれ/大黒摩季 (歌詞の一部)---


風になれ この願い 夢を追いかけて

心の向くままに 溢れる思いのままに

どこまでも どこまででも自由に飛んで行きたい

限りある この今を駆け抜けて
 

魂の炎様へ

 投稿者:虹と創価家族  投稿日:2017年 5月 1日(月)08時19分25秒
  >学会の中の閉塞感の元凶<

おはようございます。
重要なご指摘ですね!

物事には必ず「原因」があります。
その原因を明確にし問題点を改善すれば必ず良くなりますね。

>民衆が勝つ時代を創りましょう!!
私たちは、そのために生まれてきたのだから!!<

仰る通りです!深く同意致します。
共に民衆勝利の時代を創りましょう!!



 

mission様

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年 5月 1日(月)08時13分52秒
  おはようございます!

多部数について3日前に春様が以下のように御投稿されていましたね。
(春様、引用させていただきますね。)


【 投稿者:春   投稿日:2017年 4月27日(木)23時21分36秒     通報


   聖教新聞の公称550万部は「広告料」への指標なんですよ

私は広告代理店に勤めていました。
テレビで言えば「視聴率」、ラジオで言えば「聴取率」
いずれも高ければスポンサーに広告料金をふっかけます

雑誌も同じです。発行部数が多いものと少ないものとでは
広告料金が違うのです

そして新聞も同じです。
購読数が多い新聞は広告料の値段をふっかけることができるんです

広告屋というのはそういう商売をしてるんです

私自身、過去に新聞長をしていたときに疑問を抱きました
まあひどいもんだな、と思いました
なぜにここまで無理なノルマを組織に課すのだろうと思うのが当たり前でしょう

あ、そうだ。広告だな。とすぐに答えが出ました。
念のため、同級生の父親(副会長)に確認しましたが、まったく否定はされませんでしたよ。
おまけににやにやしていました。(あ、ばれた?)という感じで。】



私ひかりも、新聞長をしていた時は

「この実配%を絶対に落とさないのが新聞長さんの戦いだからね」

と幹部に言われてましたね。

常日頃「素直にハイと、とにかく戦いは行動して結果を出すのが功徳になる」

と言われていましたし、

「疑ってかかるとキリがない。疑うのは福運消す。サッサとやったほうがいいのだ」

などと合わせて言われていたわけで(変な指導だよねえ)

こんなこと、冷静に考えたら、はっきり言って、「アコギなお話」ですよ。

なんでも、「功徳」「福運」「池田先生にお応えする」「池田先生のお手紙をお届け」

とくっつけて言うから、あくどいと思うんですよ。



しかしながら、これをやらせる側に立って、冷静に事実自体をみれば、「ビジネス」です。

この点、統一教会の訪問販売ビジネスなどを、あまり悪く言えたモンじゃありません。

大同小異の「信心利用」かもしれませんものね。

実配が目標数字に届かなくなった分は、多部数で何とかしろというわけで。

言葉なめらか前向きに「マイ聖教」なんてネーミングでカバーしてますが。



こんなこと、もう、無理無理。

「学会を支えてあげてる」「恩返しだと思って」多部数をする人がいかに多いか。

でも、これこそが、信心利用なんですよ。

ダメダメ! これこそキリがない欺瞞なんだと、認識変えないとダメ!

多部数は、もうやめ!

多部数なんて「信心と別枠」だと明確に口に出していかないと、皆、従い続けてしまう。

「多部数」は「やめないとダメだ」と、自ら判断して行動するべき時じゃないかと思います。



 

【独り言】池田先生を名誉会長にした北条執行部の目的とは?

 投稿者:虹と創価家族  投稿日:2017年 5月 1日(月)08時06分2秒
編集済
  54年問題を追及してゆく中で1つの疑問が浮かび上がった。
なぜ池田先生は名誉会長になられたのか?
忘れていけない北条執行部の行動がある。

>■聖教新聞1979-04-26掲載(昭和54年4月26日1面)「北条新会長の話」より
「また池田先生には、昨日の総務会で、全総務の総意で名誉会長になっていただきました。(拍手)」<

名誉会長になられたのは池田先生の意志ではなく、北条執行部によるのは明白です。
その目的について、心に引っかかる部分がありました。
良くとらえれば、池田先生に創価学会の指揮をいつまでもとって頂きたいという弟子の行動。
しかし、それなら会長に再就任して頂くのが筋ではないでしょうか。

なぜ池田先生は名誉会長のままなのだろうか?
名誉職には、組織運営の実権(財務・人事)が無いからです。

先日の代理投稿で心の引っ掛かりが取れる、重要な事が明らかになりました。

~~~~~~~

>(H)会長は、立ち上がり憮然とした表情で、「 池田先生に、おかれては、自分が会長であるとか、名誉会長であるとか言うことには全く執着していないのであります!私は、弟子として、先生に、会長になってもらうとか、願うとか言う気は、さらさら無いのであります 」と、声を震わせながら会長は答えた。<

>「 ○○学会の方でも池田さんは会長に復帰されたのか?」と聞かれ、私が未だその話は聞いてません、と答えると「 池田さんは、厳しいからな。池田さんがいると、下の者たちが、金集めが出来んから、飾りにしておきたいんだろう 」<

>誰一人、会長辞任を留める所か、辞任要望書なる署名まで集め、先生を追い詰めた輩が、今も本部の中枢にいると、元先生の側近で、無実のデッチ上げで除名処分になった最高幹部が言っていました。<

>山友の、「 絶対に池田を会長に復帰させるな!宗門迄巻き込んで手に入れた会長職だ 」との言いつけを守り、先生を蚊帳の外、ひな壇の雛に祭り上げ、五代会長からは、会長希望者が多い為、終身制ではなく、五年任期制へ会則を変更。<

>その年(昭和56年)の10月に先生をもう一度会長に、と、進言された池田城久氏が胃穿孔で急死。<

>名誉会長は、予算決算の会議、一切の会議などにも出席出来ない。と言うより、知らせずに勝手に開催、事後報告。<

http://6027.teacup.com/situation/bbs/67763

~~~~~~~

池田先生は名誉職のため創価学会運営の実権はありません。
名誉職であるかぎり、財務・人事は池田先生の目に届かない。

代理投稿により、54年の闇が明るみにさらされる。

辞任させたのは池田先生に口出しをさせないため。
だから執拗に辞任させた事実を隠ぺいしたがる。
池田先生が自ら辞任したように新・人間革命の情報操作をする。

池田先生が辞任となり、得をする人物は誰か?
池田先生が会長再就任されて、損をする人物は誰か?

城久さんの意志。
真の仇討ちの肝はここにある。


・・・虹の独り言

 

mission様m(._.)m

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 5月 1日(月)07時26分34秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

mission様、おはようございますm(._.)m一つ一つmission様のご投稿に同意致します。私が支部長をしていたとき、多部数購読を止めさせようとしましたが、婦人部の幹部の抵抗を受け実現できませんでした。

それではと『読売新聞を10部取っている家庭がありますか?』『未入会家族の方は何て思うでしょうか?』等々話していき未入会家族がいる場合『未入会家族の同意無くしては多部数購読をさせない』で話をまとめた思い出があります。

私は降格人事受けましたよ!もちろん学会の決まりを破ってもいませんし、世間の決まりも破ってませんでしたが(^○^)

悪い副会長を怒鳴りつけました。ヽ(^○^)ノ

それで降格人事で支部長首になりました。

降格させると『あの人何かやっちゃいけないことをやったんだ!!』 と見られるのが会内の噂になるので逆らった私は降格させられたのでしょう。

丹治の600万の使い込みはひどいですね犯罪です。先生は除名だと処分したのですが、今は引き戻されて使われてるみたいです。それだけでも許せないですね!

 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、「後継者の日」記念大会御参加、誠にご苦労様で~す(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 5月 1日(月)07時26分8秒
  おはようございます。原田怪鳥様、広宣会館での「創価学会後継者の日」記念大会への御参加、誠にご苦労様で~す(笑)

あれれ、「原田怪鳥様が激励」になってマスねぇ~、イイことでぇ~す。「原田怪鳥様を中心に」とか「原田怪鳥様と共に」とかよりは

よっぽどイイ言葉デスよぉ~(笑)どうしてデスかぁ~? 「後継者の日」に「中心」「共に」はバツが悪かったんデスかぁ~(爆)

「原田は4号・5号」デスからねぇ~、そりゃあ、バツも悪かろうというものでぇ~す(笑)

原田怪鳥様の御尊顔の御写真も無し(笑)、人相悪すぎたんデスかぁ~(爆)


さてさて、印象操作著しい「新・人間革命」雌伏三十二、今日も大笑いデスよぉ~、

>今日は、将来のために、広宣流布をめざすうえでの、最大一の鉄則とは何かを、あえて言い残しておきます。 それは金剛不壊の異体同心の団結です<
(新・人間革命」雌伏三十二より引用)

執筆チームの皆さ~ん、生死一大事血脈抄を引用して、いかにも「組織中心」を訴えようとしてませんかぁ~(笑)

異体同心が重要なのは、判りきったコトですよぉ~、引用後の御文もよく学ばれたらいかがデスかぁ~(笑)

「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(御書P1337)

「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書P1338)

イイですかぁ~、「異体同心」というのは、「信心の血脈」があってこそ、はじめて生きてくる御金言なのでぇ~す(笑)

査問や処分にもよく使われた言葉デスよぉ~、「異体同心の創価学会の団結を乱すものは断固とした処置をする」とかねぇ~(笑)

原田怪鳥に、谷川主任伏怪鳥に、「信心の血脈」がありマスかぁ~(笑)

「原田は4号・5号」「谷川は374919」「秋谷は5口」「職員は2口」「職員は貴族」デスよぉ~(爆)

「信心の血脈」がとてもあるとは思えない執行部に率いられた今の創価学会に正義はあるんデスかぁ~(笑)

「自他彼此」の心が大ありじゃあないんデスかぁ~? 差別しているからこそ、査問・処分・除名を過去にない頻度で実施していますよぉ~(笑)

執筆チームの皆さ~ん、印象操作もほどほどにしないと、もっとブーメランになりますよぉ~(笑)

明日からも期待しないで待ってまぁ~す(爆)
 

今週のことば 2017年5月1日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年 5月 1日(月)07時06分10秒
  輝く「創価の母の日」。
皆で感謝の最敬礼を!
太陽の婦人部と共に
明るく賑やかに行進。
友情と信頼の拡大だ!
 

多部数購読は

 投稿者:mission  投稿日:2017年 5月 1日(月)06時55分39秒
編集済
  【一種の麻薬みたいなもの。一度やったら止められない】

以前いた組織では、下半期報告前の座談会で「皆さん今年も聖教新聞の ご協力お願いします」と幹部の一言で、その場に居た会員達が了解したと見なし、啓蒙用紙も幹部が勝手に記入して一丁上がり。
そんな強制的「多部数購読」が何年も続いてたみたいです。
地方都市の田舎に越してきて8ヶ月目の11月に↑この光景を見て、年金受給者の部員さん達からの相談で、組織の現状に唖然としました。
その後すぐに私が新聞長になり即刻「多部数購読」は止めさせましたが、今は転居したので分かりません。

【多部数購読】って、年ごとに差し出す「貢ぎ物」→まるで「年貢」みたいと思いませんか?
※「年貢」→村(地区)に対して課せられ,村(地区)ではそれを村内(地区内)の地主(部員)に割当てた。
毎年の様に末端組織の地区=末端会員に課せられるのです。

どなたかが年間目標が達成できなかった《けじめ》だと投稿されてましたが、しわ寄せは末端会員だけ…末端組織は疲弊してる。
ご存知の様に学会組織に降格人事はありません。それこそ山ほど幹部がいます。
その山ほどの幹部達で割り当て、啓蒙してくれれば簡単な話です。
以前の組織での事ですが、地区に担当で入っている幹部は「地元組織に啓蒙用紙を出してる」と いつも言ってましたが、けっきょく地元も担当組織にも出して無いのが実状でした。

毎年「目標は前年より下げてはいけない」こんな暗黙の強制はありませんか?
全国の各地区は、今年末の地区討議で部員さん達が無理せず出来る目標数に下げるべきです。
そして上から「下げるな」と強制されたら断る勇気を持って下さい。
責任を取るべき者は、山ほど居る幹部達が率先する事…それが部員達の上にいる役職のはずなんです。
号令を飛ばすだけの幹部は、役職を全うしてるとは言えません。

少し前の投稿にあった「タンジ一派は600万の使い込み」
この件は全く知らなかったのですが、太ちゃん様が「何部分なんでしょうか」と書かれてる様に「3000部分」になるんですょね…ため息が出ます。
購読してもらう為に何度も対話をし、1部の購読が出来るまで いったい何人の人達から断られてるのか…
もう、あほらしーて やってられません!

この使い込みのタンジは「除名処分」になってるのですか?
使い込み→「業務上横領」という重い犯罪ですが、聖教新聞社は刑事告訴したのですか?
使い込み出来ると言う事は、随分上のポストなんですね?
もし刑事告訴して無いなら【無理な啓蒙・my聖教・多部数購読・贈呈】する必要性はありませんょ。
必死に取り組んでる会員達を馬鹿にし過ぎです。

それと「聖教啓蒙は折伏への近道」ではありません。
はたして今の聖教は、皆さんの友にとって魅力ある新聞になっているでしょうか?
入会への理解を深める方法が、なぜ聖教啓蒙だけになり、追い立てられる様に啓蒙しなくてはいけないのでしょう?
「先生の御手紙である聖教を沢山の人達に読んで貰いましょう」
池田先生の思想を知って貰うのは、数多く出版された書籍やビデオでも出来ます。
私は去年から友へは、先生の書籍を贈呈していますが『読みごたえがある』と大好評です。
皆さんも一度、購読者の本音を聞いてみて下さい。
『毎日の聖教をパラパラめくるより、いつでも何処でも読める書籍の方が断然 良い』との事。

なのに何故いろんな奨励文句で、聖教だけ啓蒙の目標を立て、達成まで必死に取り組まなければ いけないのでしょうか?
それは聖教に踊る「広告料」の収益に繋がるのでは?と私は思っています。
会社・商品・書籍の宣伝になる「広告掲載」は 「聖教発行部数」に依って料金が違ってきます。
聖教は全国紙になりますが、その発行エリア(都市部*地方)に於ても広告掲載料金は異なるのです。
聖教onlineでもダウンロードの様式で、ちゃっかり広告掲載の募集をしてます。
なので広告料の収益に繋がる「聖教発行部数」 550万部を何としても死守したくて、それが厳しい「多部数購読」の推進になっているのでは?
全ては聖教の利益(儲け)と考えると、ここ数年 広告が増えた事で説明がつくと思います。

「折伏」の為 「理解」を深める為…
大切な友に嫌々購読してもらう事が、本当に広宣流布や折伏の一番の近道に繋がると思っていますか?
貴女の その言動は『人の振る舞い』に通じているでしょうか?
そうやって大切な理解者を失いながら、広宣流布の道を狭めている事に気付いて下さい。

私達は今、自身を見つめ直し良く考えなければいけない時期にきています。
創価学会員であるならば、日蓮大聖人の仏法を実践しながら自身の幸福境涯を確立し、友の幸せを願う事が一番 大切な事だと思います。違いますか?
それが『折伏』に通じる崇高な仏の道だと思います。
 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 4月30日(日)23時37分52秒
  今晩は、皆様
ありがとうございまし
皆様が健康であります様に
おやすみなさい
 

まとめ

 投稿者:史人  投稿日:2017年 4月30日(日)23時02分52秒
編集済
  書き込みした内容が自分でも管理しきれなくなったのでm_m

<仏道修行の先にあるものとは?>

五感から伝わる仏法上の歓喜=衆生が元々持っている福運

それが戸田先生がお残しになった持っている福運という言葉から思索して体験出来、30分以上に渡り、汲めども尽きぬ喜びの生命が体の中から湧き出たという体験

10年以上に渡っていつも、この「持っている福運は感謝していきなさい」云々の戸田先生の言葉以外に人々の自殺願望や犯罪行動などの心の問題を解決する方法はないと信じ続け、思索し続けていたこと

形式に捉われず、題目はただゆっくり、しかしハッキリと唱えて、口調は最後まで全く同じトーンであること

終われば口中唱題が続くこと

<題目を希求していくこと>

僅か数分で過去から現在に至る感謝の一念を尽くすことが果たして可能なのかどうか!?

御本尊へのお題目と勤行を終えてからの唱題の継続と歓喜の持続

自転車を漕ぎ続けている間、数キロもの荷物が嘘のように身軽に感じられ、そんな時間で着く筈がない2分早い出勤、病が障りとならないという御書の確信というよりは身の上への深い感謝、最後に満面の笑みが起きてくる
湧き上がってくるものが歓喜で身の上への深い感謝

病気というものを打ち消すことは出来ていないのにも関わらず、確信に変わる深い感謝が歓喜の後に湧き上がってきて、自然の流れとして、自分でもどうしようもない満面の笑みの表れ

「人生とは自分自身に生きて自分自身が充実して自分自身の使命を果たしていくのが本当の幸福ね」(池田先生の言葉の取意)

戸田先生の「御本尊への強い願いは必ず通ずる。それには条件が三つある。一つ題目。二つ題目。三つ題目である。」「題目を唱え奉ることが仏の境涯を開発することである。」「題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである。」

池田先生の「徹底して南無妙法蓮華経 ただ南無妙法蓮華経 御本尊しかない 自分は根本として題目を唱えていくのだということになった場合に、最も楽しくなるのです。すると今度は・・。 一切の悩みや一切の苦悩が全部解決する! ここだけわかればよいのです。」

戸田先生の「一切を喜びに変えていける力強い大歓喜の命が自分にもあることを信じて、それを引き出すことが出来たら後はもう、しめたものだ。結局、幸せも不幸も外ではなく自分の中にあるのだ。」

四菩薩の歓喜の意業供養、身と口の供養があったことを知ったことから、随順する心で中央のお題に心を手向けていくべきと感じたこと

感謝には、涙するものと感動に打ち震えるものと、もう1つ、止めることの出来ない、確かに満面の喜びに現れるものとがあること

最後のものこそが人としての魅力に最大に通ずるものと思われること

7文字のお題目を唱え続ける意識、これをもち続ければやがては「一切の悩みや一切の苦悩が全部解決する」そんな時がくること

現に毎日祈り願っていることは、皆が仕事中自由に休憩出来て、自由に有給休暇を取れて、早い時間に帰宅出来ること

仏法が勝負であり、国法が正邪であり、世法は評判である。これは戸田先生が常々言われていた言葉であり、世法などがその人を外しても、その人の事実・本当の中身はきちんと勝っている、それが仏法であること

<求めていくべき教え>

人々には元々持っている福運があり皆仏だから、自分に対してきつく当たられたり、不遜な物言いをされても、心の中では敬っていること

皆を偉くし、皆を敬う人が偉いのだー戸田先生。誠実な振舞に仏法は脈動(平成29・1・9)

「日に日に向上して心に笑む可きのみ」戸田先生。深き祈りで今日も溌剌と(平成28・11・21)

釈尊が自分から人に声を掛けられる方であったなどの記述は好きで、職場で人から挨拶がなくとも、自分から挨拶出来る喜びがあり、(こんなに嬉しいことはないという思いがあり、)仏が根本だと信じていること

法華経の知恵に出てくる、釈尊が悟りを得て最初に言われた「不死は得られた」という言葉により、「神道」中心ではやはり駄目なこと

生命論は神道にはなく、外にあるという神が中心であり、そこでは悟りという概念自体完全に排除してしまっていること

罰論に関して、御本尊様のお文字に触れてはいけないなどがあるのだけど、そこのところを今まで学会でちゃんと指導してこなかった点と、長い時を経て、精神に病気が起きてくるなどの現象としてちゃんと出ていること

御本尊をびりびりに破いて川に捨ててしまった父が全身に神経が浮き出てくる病気になってしまったこと

母が亡くなった後で、実家にお骨を持っていったところ、寺が違うから家の御本尊(仏像)の前には置かせたくなかった。お前の他の親類が居たから置かせたんだ!少し立ち寄ろうとした件(心の中では母が亡くなってから再度お墓に参って自我偈を読んであげようと思っていた。)について、何しに来るんですか!?お前の生活まで見てやれませんからねと書いてよこして、暫く経った後に耕運機で足を複雑骨折して入院してしまったこと

その人人ごとに、あぁ間違ったことを言ってしまったなとすぐにわかるものと確信しながら、日々人様から悪く言われてもただただその人の元々持っている生命の尊さを敬い続けて耐えていること

<御本尊の扱い>

御本尊の位置について、仏壇屋さんが自分の目線より高くしないといけないと言われ、下に平行になる台座を拵えて自宅にご安置していること

タンスの上など高い位置決めが出来て、御本尊の中央のお題が見えて、中央のお題は九識なので、それがしっかり読み取れること

<久遠長寿の如来>

高校の時、教室内で先生に名前を呼ばれた時以外、全く顔を上げられず、昨年、当時先生が題目同盟に入ろうと言われていたことを今日の発心で書かれている方が居られたのを拝見してわかったこと

題目同盟という言葉は、その記事を見るまで知らなくともちゃんと入っていたこと

学校が終わってから毎日3時間20分の1万遍唱題をしていて、来る日も来る日も晩21時頃皆がテレビを見ている中で、それを振り切って唱え続けたこと

卒業の時になってもとうとう教室で顔を上げることが出来ずに机にうつ伏せにならないままの下を向いた状態で終了したことと、社会に入っても同じで、机が横に並んでいると寂しくなり、顔を上げらなかったこと

そして業というものは生易しいものではないという結論で、信心しているのにではなく、信心していてもであることを自覚して、今も寸暇を惜しんでお題目を唱えていること

此経難持ということを知らないまま今日まで来たが、久遠長寿の如来なりとの日蓮大聖人のお言葉があることを思い知ったこと

お題目を念ずることを忘れてはいけないのと、寝床に就いても意識が無くなるまで唱え続けているから、口は開いたままであること

自身、お題目を念ずることは一生続くことであることと、悩みは尽きないという理由があり、御書で書かれていることが答えであり、題目を念じ続けていく中で、その寿命は久遠だということ、悩みがそのまま寿命に繋がっていたと自覚したこと

「妙法蓮華経を安楽に行ぜむ」

難(自分としては業の悩みも含みます)がある中で、益々唱え続け持ち続けていくことで歓喜・感謝に通じること

「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」

自分の中にある秘められた生命が躍動していく、こんな嬉しいことはないこと

一番最初に心に刻んだのはいかなる病さはりをなすをなすべきやの御文であり、高校生の時の心の苦しみの時より27年の歳月が流れた11年前に体から沸々と湧いてくる喜びの生命を長く感じることがあり、その後に病気の苦しみの現実に戻り、即この御文が浮かび、身の福運への深い感謝の念が心の中から込み上げてきて嬉しい気持ちを抑えることが出来なかったこと

この御文は辻さんがとても重要視されて言われていたもので、体験がなければ言えないことだった筈だということ

御本尊の前から離れて尚、お題目が惜しくて唱え念じ続ける中で、この久遠長寿の如来という言葉は希望を与えるものであるということ

妙法蓮華経には自分の運命がかかっているといっても過言ではないこと

戸田先生が経とは「ありがたいと思うこと」だと言われ、また「これ自体が・・運命を支配する」と言われたこと

要は御本尊に向かう時に「御本尊のことのみしか考えなくなる(法華三昧。戸田先生)」こと

何もわからなくとも自分の「心と体の働き(戸田先生の言葉)」が顕れてきていること

<感謝と生命の福徳>

心と体で生命に感謝していくことは大切で、その中でも頭と声は心からの現れであると思われること

胸・腹は体からの発露(歓喜して体から沸々と喜びの生命が湧いてきた時はここからの感じが強かったと記憶していること。)

足はその躍動。子供がはしゃいでジャンプしたりする様子から思い至ること

ミュージカルで顔の表情や声からの魅力を感じることはよくあり、それを体全体で表現していく手段も見られること

NHKうたコンでレ・ミゼラブルの歌の披露の中で男性が旗を持って現れて歌いだす姿を見た時にこの躍動と生命の発露を感じたことを例にあげて、人間には感情を表現する手段があり、妙法も同じことが言えること

戸田先生の言葉、それを連ねると・・

「宇宙の現象は、みな妙法蓮華経の活動であります。妙法とは一応われわれの心であり、蓮華とは体のこと、泥沼より清浄な開花をみせる蓮のごとく、欲ばり、ひねくれた根性で、泥沼にいるような者も、蓮華の清浄さをたもつ体になれるのです。経とは心と体の働きをいいます。」

そしてすぐ後には、「さらに、貧乏人が金持ちになるように奇蹟(きせき)のような、説明のつかぬ現象が起こる、これを妙法というのです。」

別に曰く、「経とはわれわれがありがたいと思うことです。これ自体が、われわれの運命を支配するのです。」

人の言葉とは何と有難いことであるかということ

戸田先生は今日人々が功徳を得ていく道筋をちゃんと口で説明してくださっていたこと

今日の発心でこんな感じの記述があり、そこには、自分の担当する子供に対して、悩んでいたところ、自分の顔を見てそれではいけないと感じ、「相手の仏性を信じ抜ける自分になろうと決め、・・・」とあったこと

「鏡に向かって礼拝を成す時浮かべる影又我を礼拝するなり」

この時、[「この子は変わるべきだ」という決め付け]への反省があったこと

御書では地獄は地獄のままが実の姿であって餓鬼と変じた時は地獄の実の姿ではないとあり、地獄は地獄のままが実の姿でというのは、変わろうという心とは矛盾するが、ご本尊に対していく時には、多くの場合に自分の心や振る舞いを自分で感じて発心してお題目を唱えた時に変化が見られること

それで考えたことは心と体で生命に感謝していけるように変わろう、(またはそうあろう)ということ

「経とはわれわれがありがたいとおもうことです」(前述の戸田先生の言葉)、ここに答えがちゃんとあったということ

以前書いた福運とは元々持っているもので功徳とは積もるものという趣旨の自分の考えには、元々持っている生命の福運というものに対して感謝していければという答えがあるということ

戸田先生が、「持っている福運には感謝していきなさいそうでなければその福運は消えてしまうからだ」と女子部に言われたことは、とても意味深いものがあること

新・人間革命の中にある力走の中には、【それまでは、“頑張って信心してきたのに、どうしてこうなるのだ!”という思いがあった。しかし、新たな決意で唱題に励むと、心が変わっていくのを感じた。

“俺はこれまで、教学を学んできた。御書に照らして見れば、過去世で、悪業の限りを尽くしてきたにちがいない。それなのに大した信心もしないで、ご本尊が悪いかのように考えていた。傲慢だったのだ。

日蓮大聖人は、「諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし」と仰せになっている。信心によって、今生で罪障消滅できるとの御断言だ。なんとありがたい仏法なんだ!”そう思うと、御本尊への深い感謝の念が湧いてくるのだ。

感謝の心は、歓喜をもたらし、その生命の躍動が、大生命力を湧現させる。】とあったこと

また源流の最後に「広宣流布をわが使命とし、弘教に取り組んできた同志の胸中には、汲めども尽きぬ喜びがあふれ、生命は躍動し、獅子の闘魂が燃え盛っていた・・」とあること

91年12月の本部幹部会のスピーチが15年7月7日の本部幹部会で紹介され手いる中に、【「仏法に巡りあうーそれは偶然ではなく、過去世からの福徳によるのである、と。」】とあり、「我等宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり(釈)」の文について述べている言葉は、御義口伝の一節から、

「此の文は一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして大乗無価の宝珠を研き顕すを生値仏法と云うなり所謂南無妙法蓮華経の仏法なり(御義口伝の釈)」

【ーこの文(「宿福深厚生値仏法」)は、たとえ一句でも妙法に縁を結ぶならば、その福徳は億劫という計り知れない長遠な年月の間にも、決して失われることはない。そして大乗教の究極である無上に高価な宝珠、すなわち衆生の胸中にある仏の尊極の生命を磨き顕していくことができる。これを「仏法に生まれ値えり」というのであり、その「仏法」とは南無妙法蓮華経の仏法なのであるーと。少しでも妙法に結縁するならば、その福徳は永遠に消えることはない。】と言われていること

心から真理を得ることは中々難しいことであり、そんな中でも先人の言葉を胸に抱いて自分自身変わって行こうという思いから、必ず答えを導き出すことがあると信じられること

道筋はまだまだ遠いが、日々口中唱題(今書いている間も口開けたままお題目を念じている。)を繰り返しつつ、御本尊の前で答えを待ち続ける日々であること

「即為疾得無上仏道」と。

題目を念じ持っていく中に仏道修行の根幹があり、経文の「得入無上道」というのもあるように思うこと

<仏法上の慣わし(若干)>

生きている目的は自分自身の求める答えを見つけることだし、「永遠の生命を悟ることだよ」という戸田先生の言葉の答えに帰結するような気がしていること

辻さんの個人指導の中で「自分の謗法を畳に頭をこすりつけてお詫びしなさい」という言葉を見つけて、勤行のご観念文の時に無始曠劫の謗法の罪をお詫びしますという時だけ頭を擦り付けたりすることがあること

他の教えにも見られるこうした慣習は法華経の中にもあり、以下

爾(そ)の時に五百の阿羅漢(あらかん)、仏前に於て受記(じゅき)を得(え)已(おわ)って歓喜(かんぎ)踊躍(ゆやく)し、即(すなわ)ち座より起(た)って仏前に到り、頭面(ずめん)に足(みあし)を礼(らい)し、過(とが)を悔(く)いて自ら責(せ)む。

従地湧出品第十五のある人の解釈で「・・・十方分身の諸仏方に向かって敬礼をして、右から三回廻り、合掌礼拝し(身業供養)、それぞれの菩薩の讃嘆の方法を以て仏様方を讃嘆し(口業供養)、そして一方に並び住して、多宝仏、釈迦仏の二仏を歓喜の心を以て見たてまつり(意業供養)ました。」とあること

戸田先生の言葉の中にも、「自我偈(じがげ)は、本式には三度あげるのです。それは法報応の三身に読むのです。五度の場合は妙法蓮華経の五字、七度は七文字になぞらえるのです。」とあること

化儀秘決の中の合掌の事

問ふて云はく印契多き中に何ぞ合掌を用ゆるや、答へて云はく真言には印契之れ多し、法華経には多くは之れ無し、万法惣持の妙法蓮華経なる間、合掌は惣印なれば之れを用ゆ、所表は八葉の蓮花なれば胸に当てゝおがむなり、八文の肉団なり、大指二は境智定恵なり、十指は十界なり、三千なり、十合すれば十界互具なり、胸にあつる処は一念なり、色心二法合して題目を唱へ出す処が三業即無作三身、事業一念三千、当躰蓮華仏とは是れなり、十波羅密、十神力、十如等之れを思ふべし然る時は両手は境智なり定恵なり、経には欲聞具足道、合掌以敬心、或以説実相印云云、具足道と云ひ実相印と云ふは事の一念三千十界皆成の当躰なり、真言見聞の御抄等深く之れを見奉るべし之れを略す、必ず仏を拝むに限るべからず我仏身をおがみ給ふに成るなり、深く之れを案ずべし。

<生命探求の必要性>

生命について諦めてはいけないという点について、日々の忙しさに振り回されてしまってはいけないということについて、先人の言葉を文章内に引用したもの

菜 根 譚については石坂泰三が上のゲーテの言葉と共に好んでいたもので、URLでの解釈の通りであろうと思い、合わせて掲載

ゲーテの言葉/

「若者よ。お前はなぜそう急ぐのか。なぜ、そうまでセカセカして先を急ぎ、あせるのか。どんなに急いでも人間の行きつく先は同じだ。急ぐことはない。あせることはない。もっとゆっくりと、もっとじっくりと胸を張って堂々と、大地を踏みしめて歩きなさい。やがて、確実に目的のところへ着く。急ぐことはない。」

菜 根 譚の言葉/

「友に交わるには須(すべか)らく三分の侠気を帯びべし。

人と作(な)るには一点の素心を在するを要す。」

http://www.saikontan.net/choyk/2006/03/post_15.html

以下、諦めるの同義語

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E8%AB%A6%E3%82%81%E3%82%8B

<生命について>

生命と漠然と考えても通常は中々答えが出てこないものであり、感謝すべきものもまた生命であるということ

大切な人が息を引き取る前に病室で浮かんだ、「ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、」その続きのお言葉、「すぎし存命不思議とおもはせ給へ」「心こそ大切なれ」の言葉が感謝を表し、「すぎし存命不思議とおもはせ給へ」もまた感謝を表すものであること

<半島情勢が厳しい中では>

蒙古退治御旗曼荼羅というのがあり、真円の輪の中に御本尊が納められていて、国が日蓮大聖人を頼っていた時代もあったということ

いつの時代にか、こういった御本尊を国が重要視することがあるかもしれないということ

現代ではこのこと自体、またそういった御本尊があったこと自体ほとんど誰も知らないこと

身延山は明治時代に大火に遭っているので、様々な写しがデジタル時代の今になってようやく日の目を見ることになり、時代の変化があったということ
<本用に臨写された巷でよく使用されている資料>
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/823980

堀日享上人は身延には板本尊などが隠されているようで気になされておられたようで、詳細はわからないが、何故か日興上人に渡された御本尊(普通の)もあったこと(上記URLにも記録あり)

<上にペコペコの仏様>

偉い人がそれなりに地位も上がっていくだろうけど、その過程で財務をたくさんして功徳を貰ってくださいという腐れ話しもしていかなくてはならない、そんな上にペコペコした仏様が居るのかという話と、昭和50年代では財務の申し込みの時に一人一人面談みたいなものがあって真剣だったこと

それが100万円という話しがポンポン出るようになるだけでなく、支部幹部会でちょっと支部長に声を掛けただけで財務の決意発表で時代も変わったということ

戸田先生のお声では、生活に支障がありお金の懸念もあり財務だからやっておこうでは功徳はないという感じの話しになっていて、そんな人はしなくて結構ですということ

これは言葉をそのまま書いたわけではないので、あくまで感想的なものであること

ある婦人部の方から家の前で功徳があると思っては駄目という感じの話しをされていた理由が、戸田先生の後腐れのない財務にしか功徳がないという話しで納得出来たこと

<唱題での意識改革>

自身、普段から人の半分のスピードでしかお題目を唱えられなくなり、また息継ぎも数回で行わざるを得ない状況であることから、呼吸法を整えたりすることよりも一遍でも多くお題目を唱えることを重視して、億持不忘に重きを置いていること

そんな中で口をパクパクさせるまで行かない、人が間近に居ても唱える息吐き重視の口中唱題を実践していること

夜中の病室で皆が寝静まった後の点滴付けが22時から行われていた時、看護士さんが来てくれている最中でも口だけは開け下の口を一生懸命に動かしていたこと

夜眠る時も口を開けたまま唱題行での呼吸を忘れず、池田先生がされている「胸中唱題」とは少し違うかもしれないこと(移動中でもいつも口だけ動いていたらしい)

辻さんがお一人に指導されていたものでは、「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり」のお言葉と辻さんからご指導を受けられたという文面の後、「胎の底(丹田)から題目を唱えなさい」と指導を受けました!とあり、南無妙ー法ー蓮 華ー経ー と唱えます!つまり丹田に力を入れてゲーェと下から押し上げるように、そして唱えると力が更に沸いてくるとのこと ・・ー ー ・↓↑ ー

自分なりに解釈したこと

南無妙ー法ー蓮↓華↑経ー

蓮の時お腹を引っ込め、華の時横隔膜を広げる

(自身、早口で唱題する時は大体横隔膜を広げる意識で題目を唱えている)

先人のご指導というものは、たとえそれがお一人に対するものであっても万人に通じていくものであり、それでこそ人々に功徳が潤い、自分の生命の中に元々持っている福運を引き出せるというもの、自分はそう思うこと

それで、自分なりに私なりに解釈したことでは、まだ御本尊に向かっている状況ではないので、理論だけ書いたこと

自身、スキー教室で子供達を指導する仕事をすることになった時に、指導官の方から胸を横隔膜の下の丹田のところで折るように言われ、蓮ーとお腹を引っ込めた後で華ーと唱える時に横隔膜を広げるようなあばら骨を意識するような息の出し方は間違いでもなかろうと思うこと

世界平和文化祭の歌の練習の折、体をガクンと折りだらんとしたことをして、それがこれに近いと思われること

呼吸をする時にスーという言葉と共に息を吐く練習もしたこと

丹田という言葉については長い間知らなかったこと

<歓喜から感謝へ>

本質的なことは何もわからずとも、ご本尊に向かう時、仕方なく向かうのか、それとも何かを得ようと向かうのかで全然違うこと

最初に得た身の福運への感謝の念が止め処なく起きてきて笑みを止めることが出来なかったという体験、これが今は「感謝し抜ける自分に」と願うようになったこと

それは身の福運の部分、つまり生命にであり、もっと言えば元々持っている生命の福運であったのと、それは御本尊があくまで自分の胸奥にあるものと信じるからであること

また信とは感謝と捕らえていることで、その理由は、[母が息を引き取る前に病室で浮かんだ、「ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、」その続きのお言葉を思います。「すぎし存命不思議とおもはせ給へ」で、「心こそ大切なれ」の言葉が感謝を表し、「すぎし存命不思議とおもはせ給へ」もまた感謝を表すものであることを昨日知ったところです。]
と記述した通りであること

その時に書こうとは思ったものの、まだ書くには至らないと思い、書いていなかったことこそ、「不信ならば」というところの信こそ感謝と捕らえていること

感謝から歓喜へと向かい、そしてまたより深い感謝の念々。これこそが真に自身、目指すところであり、そのことが自身にとっての歓喜を呼び起こすことに即繋がることを知ったからでり、それは「色心共に歓喜」という御講聞書の中の一節を見て更に信じられたことであり、喜びがあれば信は感謝の中に含まれるということ

御本尊に手を合わせる時にまだ小学校くらいの時から自身、親指の付け根を胸に当てて4本の指は前に向けていたこと
化儀秘訣のところだけ読めばいいと思っているのだが、その中の文を見て自身信じられるところがあること

以下の文で「胸に当てゝ」と「胸にあつる」の部分が自身思い当たるところで、両肘を当てて親指の付け根を胸に当てている姿勢が自分としては楽であること

合掌の事。

問ふて云はく印契多き中に何ぞ合掌を用ゆるや、答へて云はく真言には印契之れ多し、法華経には多くは之れ無し、万法惣持の妙法蓮華経なる間、合掌は惣印なれば之れを用ゆ、所表は八葉の蓮花なれば胸に当てゝおがむなり、八文の肉団なり、大指二は境智定恵なり、十指は十界なり、三千なり、十合すれば十界互具なり、胸にあつる処は一念なり、色心二法合して題目を唱へ出す処が三業即無作三身、事業一念三千、当躰蓮華仏とは是れなり、十波羅密、十神力、十如等之れを思ふべし然る時は両手は境智なり定恵なり、経には欲聞具足道、合掌以敬心、或以説実相印云云、具足道と云ひ実相印と云ふは事の一念三千十界皆成の当躰なり、真言見聞の御抄等深く之れを見奉るべし之れを略す、必ず仏を拝むに限るべからず我仏身をおがみ給ふに成るなり、深く之れを案ずべし。

南無妙法蓮華経という時、華という時に胸を横隔膜を広げるようにお題目を唱えていらっしゃる方が居て、その方が唱え易いということであり、自身、それを信じられるということ

指を胸につけている時はその感じ方が確かに強く、楽に横隔膜を意識出来ること

呼吸が苦しくともお題目をしっかり唱えていくことが目下の課題でもあるので、その点はどこの誰がどこのどういう偉いさんが何と言おうが関係ないこと

お数珠も右に3房、左に2房。自分ではめやすいので勝手にやっていて、リンを叩く時に右手が2房だと何か嫌なので、足でリンを持つように感じてしまうからであること

<わかる人で>

判子の下に書いてあるお人の名前が御書の中にもあるけど、下のお名前が違うようで、遠藤という人は阿仏房でもないようだし、日興上人と連ねて書かれてある点も気になり、日興上人ってことはなさそうだという問いかけ

国立国会図書館デジタルコレクション(一例ページ)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1667231

遠隔複写サービス

http://www.ndl.go.jp/jp/service/copy3.html

集古十種 : 印章

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849543/47?viewMode=

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1881080/24?viewMode=

<根本義で読むこと>

元々家にある大きな指導集の中からこれしかないと思い、心の中に留めていた、「持っている福運には感謝していきなさいそうでなければその福運は消えてしまうからだ」、これは女子部へのご指導であることと、このご指導が大好きな方が多いことも知っていること

自身、「歓喜と感謝」ということに関連する記事にしっかり目を通すようにしていることで、それはしっかり伝わりやすいからであること

本部幹部会で池田先生が銅鑼を叩かれるというので、どのような音律で叩かれるのかしっかりと記憶しておこうと思い、お聞きしてその通りに叩かれた回数までハッキリと記憶している。それもたった一回聞いただけでだということで、しっかり心が伝わってきたように思うこと

昨年11月の人間革命の最後で汲めども尽きぬ喜びと記述があった時から、池田先生の生命変革の戦いは始まったのだと自覚し、日々の勤行・唱題もその為に行っていること
池田先生奥様他の方々の生命の蘇生を願い続けている・・・

<如来秘密>

2017年 4月27日(木)如来秘密について学んだこと

だいぶ過去に大白の上隅の文章の中にこういった趣旨のものが載っていた、池田先生からで、亡くなられた方が御本尊の中から見ているよという内容のもので、自身そのことがずっと頭から離れずに10数年過ごしていたこと

今日になって明確なまた多岐に渡る分析をされているサイトをたまたま見つけて感じ入り、それが学会の方であったこと

そこで再びこの御本尊が如来秘密という言葉と共に蘇ってくるとは思いもよらなかったことで、その理由は、「いかに日蓮いのり申すとも」という部分で、日蓮大聖人のお命が先世限りのものだという考えに立てば、日蓮大聖人はこちらを向いていないことになること

また法華経の知恵に示されている「境智冥合」もないことになる。ここまでは個人的な見方

ここからはその方の考え
「自分自身が妙法の当体であることを信じることが大切で、その祈りと行動で御本尊の力が働き、そこに御本尊と而二不二、境智不二の関係がある」という旨(失礼のないようにかなり短縮して文面を変えて書き直しました)、また御本尊を信じる一念より自分自身に対する一念について書かれている点が特に変わっていたこと
御本尊もお題目を唱えているという個人的な考えがあるようだった

母が亡くなってからは御本尊の中から見られているということばかり考えてきたことを自分なりにわかりやすく解釈すると、自身に対する見方や心は他人様へ対しても同じようになってしまうということ

「境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」

自分をどう見るかで御本尊への向かい方がまるで違ってくる、「自分を妙法の当体」と信じきれれば御本尊もまた妙法の当体として顕現してくるということではないかという自分の考え

それは「如来秘密」なので、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし、すぎし存命不思議とおもはせ給へ、の中の「ほくちに火をうちかくる」さまが凡夫には見えないということになるという解釈

ここまではあくまで理屈であり、自分の心に問うて御本尊に向かっていければと思うこと

ここで池田先生の言葉を紹介

「徹底して南無妙法蓮華経!」「ただ、南無妙法蓮華経!」「御本尊しかない!」「自分は根本として題目を唱えていくのだ!」ということになった場合に、最も楽しくなるのです。すると今度は・・。一切の悩みや、一切の苦悩が全部、解決する!ここだけわかればよいのです!

「幸せだから微笑むのではない。微笑んでいくことが幸せの因になっていくんだ。幸せだから微笑む、幸せの結果として微笑むんじゃないんだ。どんな大変な時も、そこでにっこり笑っていく、その命に福運が増していくんだ」という於保先生紹介の池田先生の言葉

また於保さんは、「同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。」「折伏すれば開ける」「新聞啓蒙すれば幸せになる」また「財務に何桁に挑戦すれば幸せになる」こういうのを餓鬼道と言うわけです。見返りを求めている。したがって、やっても開けなかったら恨みになってしまいます。菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。」と、言われていること

<常の所行>

道を歩く時、また店頭などで人と接する時、その人の内奥にはその人の生命を揺さぶる程の尊極の生命があることを体験していても、人と接する時には頭から離れていることがあり、こう思ったのに、こうだと思ったから来たのにということもある。だからこそ、唱法華題目抄の中の「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、」とある通り、自身の中にある尊い命を常に思っていくべきかということ

如何に人を敬える人間になれるか、如何に人を信じていけるかを考えながらひたすらお題目を念じていくばかりであること・・・。

母が亡くなった時に因果倶時を確信し、それは母に対してのものではなかったが、母自身は池田先生からお金をいただくこととなったこと

信心の中にちゃんと因果倶時があり、全く考えてもいなかったことが現出すること

母が亡くなった時に母が呼んだような福運が舞い込んできたこと

それが聖教新聞の記者さんの来訪で、孫に関することであったのだけど、皆が家に集まってお別れの式を執り行った。(これは私が地域で通夜と葬式をするのではなく、自分の家でやりたいと申し出たことによります。)

震災で亡くなられた人もそれに違いないと確信してることで、要は信心修行をして「一心に仏を見る心を一にして仏を見る心を見れば仏なり」とある通り、心を磨いていけばいいことだと訴えていること
 

何部分なんでしょうか

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編  投稿日:2017年 4月30日(日)23時00分3秒
  聖教新聞の代金で600万円分って聖教新聞の何部分なんでしょうね

一部増やすだけでもどれだけの労力でしょうか
それを思えば600万円の使い込みなんてできませんね
それがわからないのに価値ある新聞が創れるわけもない

真面目にやっていれば、一般紙は潰れる危険を横目に聖教新聞だけは逆に大もうけになっていたことでしょうにね
それを『功徳』というでしょうね

功徳どころかもはや維持すら難しくなってるってのは、大聖人様よりハッキリ「間違ってる」と言われてるようなものです

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

同盟題目は23時より開始します。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 4月30日(日)22時56分38秒
  よろしくお願い致します。  

外郭の改革

 投稿者:坂上忍魂  投稿日:2017年 4月30日(日)22時53分10秒
  学会本部関連法人部御中

外郭職員で悩み苦しんでいる方々が多く見受けられます。
外郭役員を定期的に信心指導すべきではないでしょうか?
外郭の顧問が月一で会社に訪れ指導だけしていても、血が汚れた悪い職員は心を改めません。
外郭の社長以下役員を指導して頂き、身辺調査もしっかりやるべきではないでしょうか?
会社の経費で不適切な使い方をしてないか、部下職員へのハラスメントはないか、活動状況はどうか、など。

外郭役員の心の乱れ、信仰の乱れは会社職員全体に広がります。
社風、業界的な理由など関係ありません。
そもそも、採算割れ赤字会社がほとんどで浄財から成り立っているわけですからしっかりとした点検をお願い致します。

また、全外郭職員が過去の全体会議の映像を定期的に見るようにしてはどうでしょうか。
全体会議での先生の指導は、本幹での会員皆様への指導とは明らかに違い、恐ろしいほどの厳しさがあると聞き及んでいます。

職員の給与については、この掲示板でも皆様より厳しいご指摘もあります。
そもそも、職員の給与が公務員並になった理由の一つに、夫人が共働きせずに職員の夫人として、婦人部で懸命に戦えるようにするためと聞き及んでいます。
ですから、本部職員・外郭職員の夫人は原則、職務に就くことは禁止。例外として、職務に就く場合は、夫である職員の給与を低減させ、夫婦で年収の制限を設けるなどしてください。
世の中は年収300万以下の時代であり、共働きでようやく生活を維持するケースも多くあります。
その会員より財務を受けるわけですし、現代の僧侶として、小欲知足を心掛け、禁止のはずの海外旅行へ行ったり、必要以上に豪華な家を建てたり、頻繁に銀座へ行ったり、使いこなせないであろうiPhone8を買おうとしないで頂きたい。※スマホが壊れたらゴムバンドを巻きなさい。

未来ある青年が職員になり失望しないように、学会本部だけでなく、特に外郭職員の青年のことを宜しくお願い致します。
 

さあ、今日も秋谷は5口、職員は2口、谷川は374919ww

 投稿者:八尋みのる  投稿日:2017年 4月30日(日)21時30分49秒
  ピロシ、タンジは5千万ww

タンジ一派は600万の使い込み認定ね~ww

おーい
♪♪中村く~んw  使い込みしたんだろ~ww
 

悪侶とはww 貴族気取りで学会員をいじめる職員ね~ww

 投稿者:八尋みのる  投稿日:2017年 4月30日(日)21時28分6秒
  昔は坊主。  投稿者:ダメよダメダメ~
投稿日:2017年 4月30日(日)19時19分27秒
今は貴族気取りの◯◯。
 

削除

 投稿者:反板の反板  投稿日:2017年 4月30日(日)20時51分16秒
  う~んさんは、管理人さんに続けて2回削除されましたね。

反板は先生も侮辱するようになったのでしょうか?
 

バカは無視しましょう(笑)

 投稿者:ダメよ~ ダメダメ  投稿日:2017年 4月30日(日)20時45分17秒
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「信念とはなんぞや」(1)

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 4月30日(日)20時10分3秒
編集済
  戸田城聖全集第3巻より・・

竹内景助氏は、三鷹事件の首謀者として、共産党の花形として世間をにぎわした。

氏が第二審のおいて死刑宣告を受けるや、一瞬、蒼白な顔となり、首うなだれたと新聞紙は報道している。

同志九名は無実で、自分一人が死刑の宣告を受けた。

彼の心中は悲しむべきものがあるのであろうが、しかし、主義に殉じ、かつ自己の行動に大確信があるなら、

そんなに驚くに当たらないはずである。悲しむべきではなかろう。むしろ、喜ぶべきではないか。

肉体が一個の「物」であるという、彼らの考え方からすれば、なおさらではないか。

しかるに、彼には、行動に絶対の確信がなかったのである。

その理由は、新聞紙上(毎日新聞三月十三日付)伝うる彼の手記の一部を述べると、

「刑務所で弁護団と合同面会をやっても党員は九人だけでコソコソ打ち合わせて私はいつも仲間外れにされた。

共産党員とはああ言うものです。何人よりも党に理解を持ち協力してきたのに今一片の同志愛も示さないならもう

何をか言わんやです。 一昨年七月当時は私の全収入がたった八千二百円。

これで一家七人が衣食住を充たすので私の所帯は難行苦行の歴史でした。

このような人間苦の中に”首切り”を何としても撤回しようと計ったのは止むを得ないことでした。

五人の子供を抱えて苦しい妻は私の検挙された後共産党に入り盲目的な浮っ調子になっていた。

昨年の春まで府中刑務所で面会の度毎に妻をたしなめましたが、その当時は全く焼け石に水、

判決後おだて半分の手紙もこず党員も寄り付かなくなって目が覚め私のところへ泣き言を言ってよこす始末、

困ったものです」
 

「法華経の智慧」に学ぶ(24)

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 4月30日(日)19時50分10秒
  日蓮大聖人の本地・神力品の付嘱の儀式とは

遠藤:   はい。地涌の菩薩は、釈尊が「久遠以来、教化してきた」弟子となっています。

      この「弟子」に「師匠」が、法華経の末法広宣流布を託すという儀式をとっ ています。

斉藤:   問題は、ここですね。この文上にとらわれると、日蓮大聖人が、「上行菩薩の再誕」として、

      釈尊の「法華経二十八品」を弘めた - という解釈に陥ってしまい ます。

須田:   ほとんどの解釈が、そうです。

斉藤:   しかし、日蓮大聖人はこう仰せです。

     「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり」(御書p770)

     「”釈尊の妙法”を弘めるのではない」と明確に言われています。

遠藤:   ただ、これも、“釈尊の妙法”を上行菩薩が譲り受けたのであって、父子の家督相続のように、

     「もう父の代は終わって、自分の代になったんだから(家督を譲 られたんだから)、

      すべて自分のものであって、父のものではない」と、こういう 解釈をする人もいます。

斉藤:   どう説明すれば、わかりやすいのか - 。

名誉会長:「家督相続」の譬えは、一面の真実を突いている。それは、末法は「上 行菩薩の時代」であって、

     「釈尊の時代」ではないということです。「後は頼む」 と、すべて神力品で譲ったからです。

      経文を見てみよう。

須田:   はい。こうあります。

     「要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、

      如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」(法華経p581) 有名な結要付嘱の文です。

斉藤:   要するに、「如来のすべて」が法華経には説き示されている。それを上行菩薩に付嘱すると。(略)
 

いま、ふたたび(10)

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 4月30日(日)19時43分56秒
  家庭

女性について

「女房のいうことは、よく聞け。しかし、それを実行してはいけない。」

「男の生き方と、女の行き方とは違う。女はやはり自分だけのことしか考えない。」
「四十歳代の女性の世の中の見方が小さい。
それ以上になると、世の中が見えてくるから、亭主の横暴がきかなくなってくる。」

栄養

「栄養をとらないと、頭が悪くなる。金がなくて栄養のとれない者は、八百屋か市場へ行って、菜っ葉か、
ネギのしっぽをひろってこい。よく洗って煮て食うのだ。買ったのだって、ひろったのだって、栄養は変りがない。
豆腐と味噌汁はよい。モツを入れて煮ろ。買うのが恥ずかしかったら、犬に食わせるんだといって買え。」

大衆と便所

「人が集まるときには、便所のことを、よく考えておかなければならない。
とにかく、食べること、出すことは、真先に考えろ。」


生命の問題について—人殺しはならぬ

「人間は法器である。人間のみが、仏道修行をすることができる。だから、人間を殺してはいけない。
正報が成仏すれば、依報も成仏するのである。動物は依報である。だから、動物を殺してもかまわない。
無量義経十功徳を参照せよ。」

「戦争で篭城して、死がいをかついできて食っている。
無量義経では、そういうことを好まなくなる慈悲の心が出てくるという。」


先生と後生

「先生というのは、先に生まれたから、そういうのだ。後生おそるべし、というのがあるだろう。
君たちは、後生だから、先生より偉くなれ。」


国土の開発

「日本海と太平洋とは、海面の高さが違う。
そこで、切り開いて運河を掘り、琵琶湖を利用して発電所を作れば、すごい発電所ができる。」


順位について

「十人中四番だった人が、百人でも四番ならばよいのだ。百人になったら四十番になったのでは、ダメだよ。
十人でも四番、百人でも四番、千人でも四番、そういう人が人物だ。」


二十代が基礎

「大事業は、二十代、三十代でやらねば、四十代ではダメだ。高杉も生きていれば元老だ。
伊藤は、ケツにいたが、認められていた。イギリスへ行くぐらいだから、二十代ではこれからだ。」


信心と恋愛について

「急がずに落ちつき、獅子王のような男子の貫禄をつくれ。女性を見る眼も、信心によって陶冶される。
こっちから女の子を追いかけるなどは、男子の恥だ。学会青年部員たる資格がない。こっちがりっぱになれば、
女の子が十人も二十人もついてくる。その中から、一番よいのを選べばよい。あわてるな、あわてると損をする。」


戸田前会長の若いときの勉強

十五歳のとき、今の中学二年、昔の高等科二年を卒業。在学中はニシンとりなどもやった。
学校では図画と書方が丙で、あとは全部甲だった。

卒業後、小僧奉公した。勉強したいと思って、二宮尊徳のように、仕事しながら勉強した。
朝は六時から七時まで勉強した。昼は働かれ、夜も七時から十時まで働いた。
そした、十時から十一時まで、また勉強した。


二十一歳のとき、一切の職務をなげうって東京に出た。

堀さん(牧口先生と同窓生でお目にかかっただけで、話されたことはないという)の紹介状をもらって、
牧口先生を訪問した。その時、教授法ではもっとも偉大で一番できると大見栄をきった。

すると、牧口先生は、君はうまくいくとすばらしい人物になるが、悪くするとその反対だ、といわれた。

三ヶ月間、短期大学に席をおいた。

牧口先生と同じ学校に勤めたが、牧口先生が学校を追われた時、行動をともにした。
牧口先生宅(目白)にかけつけた時は、牧口先生も相当の感謝をもっておられた。・・・


「恩師如是我們集」より・・



 

昔は坊主。

 投稿者:ダメよダメダメ~  投稿日:2017年 4月30日(日)19時19分27秒
  今は貴族気取りの◯◯。  

7.2東京決戦

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年 4月30日(日)18時01分32秒
  東京決戦に向けて皆阿修羅の如くに戦っています。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。北朝鮮撲滅戦争即時開戦を祈ろう、と地区部長が訴えています。北朝鮮撲滅唱題会丑寅題目の戦い。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。私は自分が何をしているのか、分からなくなりました。  

学会職員心得

 投稿者:南虎(正義の師子同盟)  投稿日:2017年 4月30日(日)17時57分43秒
  永遠の指針

一、会員奉仕第一の本部
一、戦う本部
一、迅速な本部
一、団結の本部
一、責任ある指導主義の本部


職員五綱

一、敵を忘れるな
一、外交で勝て
一、一人一人が全権大使であれ
一、生命力を常に備えよ
一、連携を緻密にせよ


職員憲章

一、職員は第一に学会員のために奉仕する精神を忘れるな
ニ、広宣流布の創価城を厳護する使命を忘れるな
三、師弟の道を忘れず、団結第一たれ
四、各人を尊敬し、信頼して、理想的な和合僧の世界の頂点たれ
五、死身弘法の御聖訓を忘れず、一切の法戦の原動力になる職場たれ




 

デジャヴ

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 4月30日(日)17時50分52秒
  皆さん、おっしゃる通りです。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68125
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68126
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68135
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68137
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68138
http://6027.teacup.com/situation/bbs/68139
ミネルヴァの梟さん、鋭い!!!「日本の刑法の基本は、疑わしきは罰せず」「共謀罪成立以降は、疑わしきはしょっ引け、に変わる」

信濃町のネット対策チームの対策さん、いつもながら上手く対比されます!!!「偽会長の秋谷元会長は池田先生の御指導と反対の行動をしていたのです」「偽会長の原田会長も池田先生の御指導と反対の行動をしています」

トインビー対談を古いと言う患部に腹が立つと言われる方がいらっしゃいますが、私はどちらかというと呆れてしまいます。
私は40年前に既に今を見越していた池田先生の「先見性」に驚いたものです。
それにここで「自衛権の行使ということの“本質”」と言われていることの重大さが分かっていない。古い? その患部は本当に仏法者か?
「本質」とは時代が変わっても永久に変わらないもので、こういうものを「中諦=中道」と言います。公明党はその「中道」じゃなかったのか?
「中道」とは「道理に中る(あたる)」という意味で、絶対的なものです。よく勘違いされている「中間」ではありません。「中間」は相対的なもので、全体が右寄りになれば結局、自身も右傾化するのです。やっぱり公明党は「中道」じゃなく「中間」だったのでしょう。だから、あっちにフラリこっちにフラリするのでしょう。
だから、また悪いことを繰り返している。この連鎖を今、断ち切らねば三世に後悔する。

↓このMTV冒頭のスピーチは黒船国の怒鳴花札大統領。こんなことを世界中が繰り返すのはなぜ? 「体」が曲がって「影」が斜めになっているのでは?
https://www.youtube.com/watch?v=C7rDpeyDR_Q

“またあなたは私の心の傷口をあけたわね”
“繰り返される過去 ただのデジャブだよ フィナーレまでたどりつくことはないのさ”
“過去のホコリは避けたほうがいいよね あの写真のようにまた狂気に陥りたくない ぜんぶ偽善だったのよ”
“誰が愛について語れる? 身を守ることができる? 手をあげてちょうだい”
“誰が心の痛みについて語れるの? 私の心から苦しみをとりさる保証をしてくれるの?”
“自分の精神をもてあそぶようにまたその考えが戻ってきたんだ 俺のもとに帰ってきてまた俺をだますために”
“繰り返される過去 ただのデジャブなのよ 結末には決してたどりつけない”
『デジャヴ』プリンス・ロイス&シャキーラ
https://www.youtube.com/watch?v=XEvKn-QgAY0
(新しい曲もどうぞ。将来アメリカではスペイン語が英語よりも主流になるとも)
 

反板の反板 様へ

 投稿者:mission  投稿日:2017年 4月30日(日)17時48分30秒
  貴重な資料ありがとうございます。

秋谷会長 談話(聖教56・12・9)
会長の椅子に座ってから5ヶ月しか経ってないんですね。
会員から“お金”を引き出す事しか考えて無い25年…ほんと最低な指導者。

随分前から会館建設が凄いですが、どこも携わる人材がいないので大変です。
創価班・牙城会・白蓮グループ・王城会・香城会・守る会…他にもありますょね?
各会館で名称は違いますが、婦人部がする(司会*受付*駐車誘導etc)の会など。

「現金資産は10兆円を軽く超える」と言われている創価学会。
なのに地方都市の田舎では皆、時間も労力も費やし疲弊しています。
「会館運営維持のための伝統として広布基金」
“会館運営維持”と謳うなら、駐車誘導や会館掃除等は業者に任せなければ潰れます。

こちらでは、最終日になる日曜夜の本幹同中やってません。
会館側は「木曜の夜にしているから」と意味不明な良い訳をしてますが、人材不足だと思います。
(金*土*日*月の日程では日曜してますが)
日曜夜が無しでは、仕事している者は行けません…本末転倒です。

会館使用料としては毎年の財務で十分だと思うので、私は今まで欠かさずしてきた「広布基金」でしたが、今年の1月から止めました。
 

今、学会が進む方向を知るために

 投稿者:ただのおじさん  投稿日:2017年 4月30日(日)17時35分2秒
  一つの詩を引用します。私の意見は述べません。



勇敢に開け!人間革命の世紀
山 本 伸 一

人間は
平和に暮らす
権利がある!

善良な平和の人々を
戦火に巻き込み
地獄の苦しみを与える
国々の指導者は
極悪である。
永遠に許せぬ犯罪者だ。

一人の人間が
強くなることだ!
断じて権力を抑え
勝ってゆくことだ!
それが
我々の権利である。

素晴らしき人生を
生き抜くために
私たちは
戦い そして叫べ!

強大の力が
国家の力と
錯覚してはならない。
人間の魂の力が
人間の精神の力が
何よりも偉大である。
最極に強い
平和の心を作るべきだ。
これが
人類の教義であり.
待望であり結論だ。

漫然と
支配者に左右されることは
物理的強制に
従順になっている証拠だ。

平和主義者は
常に精神的力を
常に精神的鼓舞を
互いに奮い起こしながら
過去に見た
人間の罪業の
戦火の悪夢を
最も重要な事件として
考えていかねばならない。

混沌として
右往左往することなく
未来に向かって
最極の力を発揮しながら
価値ある平和の統合の
足跡を残すべきだ。
正確に残すべきだ。
強き連帯の力をもって
作り上げるベきだ。

人類も時代も
耐え忍びながら
その平和の共存の
一点を見つめ抜き
耐え抜いてきたのだ。

決して
無関心であってはならない。
無関心は
曖昧なエゴイズムとなって
やがて
国家主義の
奴隷となるであろう。

「戦争の組織には
平和の組織を
対置しなければならない」とは
著名なオーストリアの作家
ツヴァイクの不朽の言葉だ。

我々は
この洞察の通り
平和の組織を
断固として
築き上げている。

先駆者には
様々な中傷非難もあるが
偉大なる哲学者
そして先覚者は
不滅の天才としての
言葉を残すものだ。

マハトマ・ガンジーいわく
「吾々の力戦は、
全世界との親交を
その目的としてゐる。
非暴力は、
人間の道として
生じたものであって
その必要や絶えぬ。
そは世界平和の先駆である」

人類には
完全無欠な理想の国は
あり得ない。

三世永遠に
超克を繰り返してゆく
平和へ運命づけられた
理想の現実の実現を
いつ達成できるのか。

世界中の為政者が
世界中の歴史家が
ありとあらゆる
狡猾な外交的戦術を
打ち破りながら
真剣に
すベての限界を乗り越えて
世界国家の統一の方向に
決定的な
最後の総仕上げへの
軌道修正をすべきだ。

誰人も
生きる権利があり
誰人も
人を殺す権利はない。

それぞれの人の
尊厳なる魂の奥底に
燃え上がる
幸福と平和の憧憬を
絶対に見逃してはならない。

人間は
どこまで無知なのか。
人間は
どこまで知的であり
精神的であるのか。

敵とは
いったい何なのか。
戦争とは
何のためにするのか。

営々として
永遠に求め抜いた
平和への世界市民の理念が
もはや
成熟しているではないか。
世界市民の
平和と安定のための
国連ではなかったのか。

あの力強く
明確に宣言した
国連憲章を
世界的な規模で
思想と理念の宝とも言うべき
平和への伝統とすべきだ。

そのための行政的組織に
華やかさと安心を
添えながら
平和の戦士の精神を
大地の根 深く
力ある使命として
実現してもらいたい。

政治家よ
何のための政治なのか。
為政者よ
何のための権力なのか。

愚昧な宣伝は
やめてもらいたい。
危険な宣伝もまた
やめてもらいたい。
外科的に装った
空しい試作も
やめてもらいたい。

そこには
平和への使命と
軌道を忘れた
個々の気まぐれと
それぞれの利益優先の
空虚な生涯が
待っているからだ。

オランダの人文主義者
エラスムスは訴えた。
「この世界は
すべての人間に共通の
祖国ではありませんか」

待ちに待った
新しき世紀は
世界の突端の
果ての果てまで
人間は
麗しい花と共に
平和を望んでいる。
意気揚々とした
衆生所遊楽の人生を
願っている。
権力を握ろうとする
有頂天な
卑劣な頭脳など
持たない。

高く聳えゆく
平和への理想をば
迅速な速度で求めながら
新しい
夢に見てきた
永遠の平和の天地を
待っている。

胸を裂く
あの砲弾の叫びなどは
真っ平だ。
毎日 襲い来たる
暗黒の嵐は
真っ平だ。

常に
悲痛な叫びを
持ちゆく生活には
絶対 反撃したい。

狂乱の
慈愛なき指導者たちの
稲妻のごとき嵐の中に
逆立つ髪の毛が恐ろしい
戦争も
紛争も
動乱も
真っ平だ。

為政者よ
聞いてくれ!
為政者よ
国民のためにあることを
誇りとしてくれ!

これまで
激しい苦しみの時代を
どれほど
喘ぎ苦しんできたかを
為政者よ
忘れないでくれ給え!

恐怖に青ざめた
あの戦慄のなか
逃げ惑った
子どもたちを
人間たちを
断じて忘れてはならない。

無数の人が
戦争の地獄の路上で倒れた。
血を吐きながら
血を流しながら
暗がりに降る雨のなかで
悶え喘ぎながら
この世を去った。
あの快活の人が!
あの希望に燃えていた
少年たちが!

月の光の彼方で
共に愛し合った
若き青春の友たちも
淋しく苦しく別れ
喪心の命に変わった。

落ちゆく春雨の調べが
楽しく
爽やかにあるべき二人の
その空虚な姿をば
切なく
あまりにも侘びしく
包んでいた。

彼方には
夕映えの
あの美しき雲もない。
沈みゆく
金色の太陽の光もない。

二人の屍は
いな精霊は
何処に
行ったのであろうか。
私たちに
教えてもらいたい。

為政者よ。
ありとあらゆる入々を
祝婚の歌で
飾ってもらいたい。
凱旋の曲で
励ましてもらいたい。

一人でも
貧しき不幸な人がいれば
その人を
どう幸福にするか
真剣に考え
奔走するのが
真の政治家だと
著名な文豪ユゴーは叫んだ。
まことに正しい。

議員とは
召し使いなりという
崇高な信念を持った
ユゴーの叫びに
涙が浮かぶ。

言葉のわからない人と人
語らいのできない人と人
しかし
その心の源に
生命を愛する
深さがあれば
不幸極まる紛争は
終局の方向に
進んでいくはずだ。

力尽き
命尽きても
戦争は断じて阻止する
訴えがなければ
正義とはいえない。
満たされた人間の
慈愛とはいえない。

そしてまた
我々も
いつの日か死んでゆく。
彼らもまた
いつの日か死んでゆく。
この死ぬという事実は
普遍である。

ゆえに
最も長遠な
慈愛の魂を持ち
幸福の氾濫する
平和な世界を築くべきだ。

自らを傷つけ
人々を殺害して
何の人生か!
それは
臆病そのものの
魂の証拠だ。

貧しくとも
平和の宮殿のような
団欒の家々で
一人も淋しさを知らぬ
芳しき香りの
人間と人間
親子 兄弟 姉妹。
平和な南風に吹かれ
朗らかな
そよ風に吹かれながら!

心の中には
曇りもなく
雨もなく
あまりにも
ありがたき
輝きわたる太陽が昇り
君たち
私たちを
守ってくれる。

君よ
愚かな夢をみながら
時代から遅延しゆく
人生を送るな。

君よ
多くの仮面の
一つに過ぎない
虚飾の夢に
憧れゆく愚者には
ならないでくれ給え。

さあ 友よ
人生勝利の演奏を
悠然と微笑みながら
バイオリンの弓をば
弾いていこうではないか!

気取りの人生の
英雄ではなく
素晴らしき
真実の人生の
英雄であってくれ給え。

時代がどうあれ
人々がどうあれ
友よ
君の信念の尊き行路は
いかなる風雨の間にも
パッと明るく
輝きながら
人生の目標を
追求し抜いて
いってくれ給え。

君よ
立ち上がれ!
最高の人生として
立ち上がれ!
悲しき
震えながらの人生と
さっぱり縁を切るのだ。

そして
あの暗闇の中に見える
這うように動いている
暗い顔の
人間だけにはなるな。

君よ
人生の己の目的のために
平和への戦闘のために
正確なる
唯一最高の道を歩め。
決して
心の黒い者に挟まれて
自身の後悔を作るな。
痛みを知らぬ
哀れな人影のような
甘い幻影の人生を生きるな。

今日も
そしてこの一年も
最適な自分自身の
春と飾りゆけ!

いかなる
ため息をつくとも
天の声を
朗らかに聞きながら
賢明に我を見つめて
厳しく戦え!
そして勝つのだ。

永遠の自身のために
最初から
最後まで
戦い勝つのだ。
人間革命の世紀を
断固と
勇敢に開きながら!


二〇〇一年十月二十四日
「国連デー」を記念して
   世界桂冠詩人
   二〇〇一・一〇・二七聖教新聞
 

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