又吉 直樹 著 『火花』
やっている芸もこれが芸なのかと思えるものばかりだ。そんな風に感じていた。しかしこの本を読んで、主人公で売れないお笑い芸人の徳永が師匠とする神谷の言葉を拾っていると、もしかしたら私は彼等の見方が間違っていたのかも知れない、と思うようになった。むしろどんな時でも、どんな人でも、例えば赤ん坊でも、あるいは同棲していた女と別れるときでさえも、笑わせなければならない姿勢は、やはり芸を追求する者の姿である。ただどんなとこでも“笑い”を取らなければならないという姿勢は、逆にその芸人を悲しく見せることにもなる。笑いのためならとことん阿呆でなければならないし、一歩道を外したように見せるなければならない。面白いと思ったら、それをとことん追求しなければならない。基準は面白いかどうか、その一点である。しかもそれは流行廃りがあって、絶えず新しい笑いを追求しなければならない。さらにその笑いがその芸人の個性まで昇華されなければならない。
神谷が追求しようとしている“笑い”はそうした厳しいものである。
「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまり賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」
「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実戦する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人間もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんかど、成熟させずにそれを捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝をポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんど衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くから見えへんし実も生らへん。これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」
徳永や神谷の存在価値を測る基準はそれが面白いかどうか、それだけなのである。少なくとも彼らを見る者にとって、それしかない。彼らの笑いにかけた「求道」など見たくて彼らを見に来たのではない。
そして彼らほど批判や批評に晒されるものはないかも知れない。その批判や批評に対しても、笑いのためなら耐えなければならない。そのことを言う神谷は芸人であった。
私はお笑い芸人など中途半端な人間だと思っていた。けれど笑いを取るということは、人より自分が阿呆であるといつも見せなければならない。上から目線では受け入れられない。「こいつアホじゃん」と思わせなければならない。自分をいつもその立場に置かなければならない。笑いのためなら人としてのプライドを押し殺す。それに耐える。
徳永が神谷にネットなどの批判を気にするかどうか、聞く場面がある。。徳永はそれが気になって仕方がないけれど、神谷はどうか?
「だけどな、そいつがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。俺の人格も人間性も否定して侵害したらいいと思ってねん。きついけど、耐えるわ。俺のいちばん傷つくことを考え抜いて書き込んだらええねん。めっちゃ腹立つけどな。でも、ちゃんと腹立ったらなあかんと思うねん。受け流すんじゃなくて、気持ちわかるとか子供騙しの嘘吐いて、せこい共感促して、仲間の仮面被って許されようとするんじゃなくて、誹謗中傷は誹謗中傷として正面から受けたらなあかんと思うねん。めっちゃ疲れるけどな。反論慣れしている奴も多いし、疲れるけどな。人を傷つける行為ってな、一瞬溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。可哀想やと思わへん?あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐ抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって」
ここでも芸人が取るべきスタンスをきちんと言う。しかし批判や批評を受けるばかりではない。ここでは批判や批評をする人間がいかに器量が狭いかをきちんと言う。そしてそれは面白くない、とも言う。徳永はそんな神谷を次のように思う。
僕は神谷さんを、どこか人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることが出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。
そして、
人の評価など気にしないという神谷さんのスタンスや発言の数々は、負けても負けではないと頑なに信じているようにも見え、周囲から恐れられた。恐怖の対象は排除しなければならないから、それを世間は嘲笑の的にする。市場から逸脱した愚かさを笑うのだ。
これが神谷が売れない芸人としてしまう。芸に毒舌だけでは済まない神谷の醒めた目が出てきてしまう。人は神谷の芸にある裏を見てしまうのである。だから神谷は大衆から受け入れられないかった。
そしてここが重要なのだが、神谷個人の笑いの追求は、神谷個人の中でエスカレートしていくことで、ここまで世間を見ていたのに、あるところで見えなくなっていることに気がつかない。
借金をして身を持ち崩し、面白いと思えば、豊胸手術をして自分の胸をFカップにしてまでも、笑いを取ろうとする。あれほど笑いの中に真実を見ていた男でも笑いに搦め捕られて、自分を失ってしまう。笑いをとことん追求していっても、限界があり笑えなくなってしまうことに気づかなかった。徳永がお笑いを引退して、しばらく姿を消していた神谷に会ったときに言っている言葉が悲しみを誘う。
「神谷さん、あのね、神谷さんはね、何も悪気ないと思います。ずっと一緒にいたから僕はそれを知ってます。神谷さんは、おっさんが巨乳やったら面白いくらいの感覚やったと思うんです。でもね、世の中にはね、性の問題とか社会の中でジェンダーの問題で悩んでる人が沢山いてはるんです。そういう人が、その状態の神谷さん見たらどう思います?」
「不愉快な気持ちになる」
「そうですよね。神谷さんには一切そんなつもりがなくても、そういう問題を抱えている本人とか、家族とか、友人が存在していることを、僕達は知っているでしょう。全員、神谷さんみたいな人ばかりやったら、もしかしたら何の問題もないかもしれません。あるいは、神谷さんが純粋な気持ちで女性になりたいのであれば何の問題もないのです。でもそうじゃないでしょう。そういう人を馬鹿にする変な人がいることを僕達は、世間の人達は知ってるんですよ。神谷さんのことを知らない人は神谷さんを、そういう人と思うかもしれません。神谷さんを知る方法が他にないんですから。判断基準の最初に、その行為が来るんやから。神谷さんに悪気がないのはわかっています。でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」
徳永は神谷が世間を無視してまでも笑いを取ろうとするのをよく見ていたのである。
徳永の相方が引退することを決意したとき、自分もこの世界から身を引く。その時徳永がこの厳しい世界で生きたことを決して無駄ではなかったと思う。
必要のないことを長い時間かけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。
引退を決意した徳永に言う神谷の言葉はいいものだった。
「俺な、芸人には引退なんてないと思うねん。徳永は、面白いことを十年間考え続けたわけやん。ほんで、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ」
「たまには、誰も笑わん日もありましたけれどね」
「たまにな。でも、ずっと笑わせてきたわけや。それは、とてつもない特殊能力を身につけたということやで。ボクサーのパンチと一緒やな。無名でもあいつら簡単に人を殺せるやろ。芸人も一緒や。ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん。だから事務所やめて、他の仕事で飯食うようになっても、笑いで、ど突きまくったれ。お前みたいなパンチ持っている奴どっこにもいてへんから」
「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかって言うたら絶対にそんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対に面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん」
「だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってねん。だから、何をやってても芸人には引退はないねん」
芸人にこだわっていた神谷だから言える言葉であった。浮き沈みの激しい世界で生きてきたから言える言葉でもあった。
これほど優しさを持って人を見る目のある神谷でも自分の芸のオリジナリティーを追求するあまり、最後は世間を見る目を失っていた。
笑いが世の中の中にあることがわかっているから、自分へのバッシングも受け入れようとしたが、そうした醒めた目は世間を見誤ったのだろうか。人に向かって笑いを取ることは世間を無視しては成り立たない。無視すれば不快だけが残ってしまう。神谷はそのことに気づくのが遅かったのだ。
又吉 直樹 著 『火花』 文藝春秋(2015/03発売)