▼ 男性・50代・夫婦円満の秘訣を訊かれて
「無抵抗、不服従」
▼ 女性・70代・子育てのアドバイス
「子供は小型の大人、大人は大型の子供だと思って相手をすると、間違いは少ないですよ」
▼ 男性・50代・筆者の実感
「希望が長く続くと、次第に人間は愚かになるし、絶望は極めて短い間、人間を驚くほど賢くする」
▼ 男性・60代・会社役員
「能弁は他人に対する恐怖を隠す道具になるし、無言は自分の怒りを隠す道具になるね」
▼ 女性・60代・主婦
「失敗は成功のもと、と言いますでしょ。でも、成功が失敗のもとだとわかる人はあまりいませんね。特に男には」
「無抵抗、不服従」
▼ 女性・70代・子育てのアドバイス
「子供は小型の大人、大人は大型の子供だと思って相手をすると、間違いは少ないですよ」
▼ 男性・50代・筆者の実感
「希望が長く続くと、次第に人間は愚かになるし、絶望は極めて短い間、人間を驚くほど賢くする」
▼ 男性・60代・会社役員
「能弁は他人に対する恐怖を隠す道具になるし、無言は自分の怒りを隠す道具になるね」
▼ 女性・60代・主婦
「失敗は成功のもと、と言いますでしょ。でも、成功が失敗のもとだとわかる人はあまりいませんね。特に男には」
手抜き記事ではないですよね?
「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している―――自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―――このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消えうせてしまった。」(アングッタラニカーヤ、中村元訳)
まさに、私のためにあるような思想だと思いましたよ。そういうものに若い頃に接していたら、どうなっていたかなあ、と考えることがありますが、その時は、ナンセンスと思って相手にしなかったかもなあ、とも思います。
私は、命の危険というほどではなかったですが、生来の病弱で、自分の将来に希望を持てず、家庭を持つのは無理だろうと考えながら育ちましたが、まあやれないことはともかく、やれることを目一杯楽しもうとしてきました。だから、哲学書にも仏教にも関心が湧かなかった。あ、大人になって寺の相談ダイヤルに電話したことがあったのを思い出しました。その対応に幻滅して、こりゃ仏教じゃ駄目だなと思ったことがありましたね。
そんなこんなで、悩みつつ、欲望のままに楽しみつつを繰り返していて、30歳を過ぎて、決定的に厄介な今の病を得て、地獄の日々。そこで真剣に仏教にすがった、という感じ。今では、家庭を持たないという選択で良かったかも、と思ったりしています。
インドの思想ってのは、すごいですね。何千年も前に、財や子供より大事なものがある、財や子供への執着を捨てる、なんてこと考えていたのですから。
まさに、私のためにあるような思想だと思いましたよ。そういうものに若い頃に接していたら、どうなっていたかなあ、と考えることがありますが、その時は、ナンセンスと思って相手にしなかったかもなあ、とも思います。
(最後のコメントで、前のコメントとダブった部分がありますが、前のコメントの方がコピペに失敗したものです。)
無駄死には合理だが不正解。
人生はどうやら途中で合理的に精神消耗生存耐久レースなるようだ。
日常においての常識的生活空間はユークリッド空間である。
対照的教訓…… 対照的な教訓…
一喝されるのか思いきや そうでもなく、今回の記事にはどういう意味が込められているの?
教えて 賢い人。
前回のことは 関心なし?
いや、遠回しに叱責されてるのかしら?
分からないな
だからお互いがお互いを自分自身の反照として 受け入れなさいってことなんかな。
「根拠は自分が作り出している」ことまでは頭ではわかっている。でも「もともとは無根拠である」ことを人為的に、定期的に気が付くのは難しい。
坐禅のご指導、何卒、宜しくお願い申し上げます。
追伸:
非常に規則的な勤務のように見えますが、非常に不規則な内容に対処する仕事ですので、日時を定めるのはやや難しいようです。
したがいまして、今年の恐山お参りの際に、偶さかに恐山にいらっしゃた方丈様に、坐禅のご指導をいただける僥倖をあてにするような状況です。
それにしても、お布施して警策をいただくのは、どうも理に適わないような気もしますが、別の見地からは当然に理に適うとも思っております(笑)
合掌
「警策」は、自分から願い出て、受けるものです。
昔、円覚寺の居士林で、朝比奈禅師が管長であった時期、後の管長の足立大進老師が坐禅の指導をしていましたが、襷掛けして「警策」をもって「単」の周りをぐるぐる巡っていました。
が、坐禅が長くなってくると、「警策」を願い出る者が多くなり、
大きな声で「俺は按摩ではない」とおっしゃっていました。
私は「警策」を受けない様に心がけていたのですが、長時間なのでいつの間にか姿勢が悪くなっていたようで、「警策」を受ける事になりました。
すると、全身の力が抜けていき、いい気持になりました。本当に「按摩」でした。
また、臨済宗は「対面」で坐禅をしていますので、「警策」を打っているのも見えます。
或る時「警策」の棒が折れるのも見えました。
お互いに真剣でやっていると「何かのはずみで」折れる事もあるのでしょう。
不思議でした。
(当然、受けた人は、何も怪我はしていません。)
「警策」は有難いものです。
「無抵抗、不服従」が
当てはまるということかな?
猫にも「慈悲」があるらしいよ。
お互い様に喜ぶこともあるでしょ。
よく読め
いらないから
足の引っ張り合いしてるの?
困った人達だ😥
人の心の妄想が欲である。
様々なものは、世の中にただそのように在るだけである。
それゆえ、賢者は心の欲を捨て去る」
絶望も欲みたいです。
癒されるなぁ。。
記事とは
関係ないみたいだけどね、、
(;^∀^)
必ず剛があり、柔がある。剛だけ、柔だけの技はない。横綱相撲を要求されることはあっても、モヤシのような力士はいないとしても、相撲は決して「力相撲」ではない。しかし昔日の多くの剣客は刀を捨ててしまった。人を殺す刀の先っぽまで柔と剛が助け合う世界に耐えられなくなったからです。生命の論理的帰結は剛と柔も、苦と楽も突き抜けた場所を目指していくのです。
何と何が対照的?
向いている方向?
普段忘れている大切なことを思い出させてくれます。心優しい目線言葉。
似たような教訓という訳ではないのですが、この週末に「哲学的問題を教えてくれる7つの映画」みたいな記事を読みました。その一つとして解説されていたのが、日本では2004年に公開されたらしい『春夏秋冬そして春』という韓国映画でした。
どんな話かというと、山奥の小さなお寺にお坊さんと二人で暮らしている子供がいて、この子が主人公。やがてこの子は成長し、ある日このお寺に養生のために滞在しにきた女性と恋におちいってしまう。彼女がこの寺を離れると、彼も後を追って寺を出てしまう。二人はその後結婚したらしいのですが、何年かすると、この女性は他の男の方に逃げてしまう。嫉妬にかられ激昂した主人公は彼女を殺害してしまい、お寺まで逃げてくる…といった話です。
私の読んだ記事では、スラヴォイ・ジジェクという哲学者がこの映画についてコメントしているのですが、彼は、なぜ執着するなと教えられ育ったはずの主人公が、嫉妬心に駆られ殺人まで犯してしまったのか、と問います。普通ならば、失恋で落胆することはあっても、殺人まではそうはいかない。彼が育てられたお寺の環境・教えこそが、彼をその様にしてしまったのではないか、と提起します。つまり、「執着を捨てるべき」と考えているから、この女性は性欲・所有の対象としか主人公には映らなかった。悪いのは性欲・所有欲だけではない。執着を「悪」だと見る目にも問題がある。「悪」は、まわりに「悪」を認識する者の見方に存在する。執着を「悪」だとするものは、その「悪」を構成するシステムの一部になりうる。そんな解説でした。
仏教は執着を「悪」だといっている訳ではないと思うのですが、執着が問題だと思った時点で、その心は既にその問題の一部をなすという見方は、私には何か仏教的に思えました。
どうなんでしょうねえ。
ラドヤード・キプリングの詩の “If” の一節にこうあります。
If you can meet with Triumph and Disaster
And treat those two impostors just the same;
(もしあなたが、「成功」と「失敗」に向き合い、この二人の成りすましに、どちらとも同じように接することができるなら)
幸せとか不幸とかいうよりも、大事なのはそうことではないでしょうか。
非想非非想の静寂の中に議論の種が舞い落ちて貪瞋痴慢の花が咲く…特に男には。。。
30代ブッダ
体験からアートマンは居ないと思うが、
道理から「神は居る」と私は知る。
うまいなぁ。非教訓かぁ。
私もそれならあるな。
後、継ぐしかねぇべ。