お返しに義務感が生じる時
はてなブログで言うならば、「はてなスター付けてくれた、嬉しい」とか「はてブしてくれた、やったぜ!」みたいな事があった時に、そのアクションを起こしてくれた人のサイトとかを見に行ったりする。
で、初めて好意を受けた時ってのは物凄く嬉しいから、大体の場合がお返しにはてなスター付けたりはてブしちゃったりすんだよな。
やってくれた事に対してはお返しをしたくなる。好意に対しては好意で返したくなる。これが好意の返報性って奴である。
良いことをすると自分に返ってくる!っていうのは、まぁこういう事である。
お返しされた人は嬉しくてお返しのお返しを行って、お返しのお返しをされた人はそれが嬉しくてお返しのお返しのお返しをする。
お返しの連鎖、つまりは正の連鎖である。優しい世界!!!
ってな感じでめでたしめでたしなら万事オッケーなのだが、実際問題そんな事は起こらない。
何が理想とずれてくるのか?
それは「好意を受けた時の喜び」である。
これもなんか法則があった気がする。なんちゃらららら逓減の法則みたいな。
ネットで調べた。「限界効用逓減の法則」だと。
何回も同じ事が繰り返されると快感ってのは減少するって奴だ。空腹の時に食べる一口目のチャーハンは天国の味がするけど、満腹の時に食べるとモサモサしてキモい感じになるアレである。
要は飽きるのである。何事も。
で、この限界効用逓減の法則って奴は何にでも適用される。つまりは好意についても適用される。
好意に対して好意で返す。この動作は基本的に繰り返される。よっぽどの何かがない限り。
しかし繰り返されるのは動作のみである。気持ちは次第に減少する。
そうするとどうなるか?
「やりたくねぇけど、なんかやらないと気まずいから、やらないといけない」という義務感になってしまう。
昔で言う所のお中元みたいなものだろう。
で、最初の内は誰かの好意に感動していて、お返しをすることに大きな快感を得ているのだけれど、それがいつしか義務になって面倒になる。
入り口は広く、出口は狭いしがらみ
つまりは好意の返報性ってのは実は好意に対して返報するっていう法則ではなくて、受けた快感に対してお返しをしようとする法則なんだと思う。
相手から好意が伝わってきても、快感が伴わなければ不快だったりする事は誰にでもあるだろう。
快感が伴わない行為は全てにおいて打算が発生する。社会的な損得で行動を決定するし、お返しの質や量についても熟慮するようになる。
好意の返報性が習慣化した後の惰性的行為は、「人間社会のしがらみ」が原動力になる。
「今まで続けていたのに、ここで辞めてしまうと相手に嫌われてしまうだろうな、不快だと思われるだろうな、今後社会で面倒事が起こりそうだな」という惰性の要素で「上っ面の好意のキャッチボール」が続いてしまったりする。
(無論、心からの好意のキャッチボールが延々と続くパターンもあるだろうが。)
好意の返報性の原理が「世間体を守るための仲良しごっこ」を生み出してしまったりもするのだ。
嫌々の上っ面の惰性の関係性
嫌々の上っ面の惰性の関係性が生み出す利益なんてない。ないと思う。あっても少ないだろう。
人間関係でも恋愛でも結婚でも、特定人物に対する好意ってのは、始めるのは簡単だけど、維持するのには努力が必要だし終わらせるのには尋常じゃないエネルギーを必要とする。
しかしマンネリで続く関係が楽しい何かを生み出す可能性は低い。
退屈な惰性で続く関係性は自分にとっても相手にとっても損をさせるばかりなので、どこかで断ち切った方がお得なのだろう。そうやって人間も物事も循環していくから前に進んでいけるのだろう。
つっても、どうやってそれを終わらせるの?って所が難しい。
どうすんだろ?
「もうてめぇとの関係性には何の利益も望めねぇから金輪際連絡すんじゃねぇぁぁぁあ」みたいな事は言えない。私は言えない。
でも、うまい具合にフェードアウトさせるだけのテクニックに精通している訳でもない。
両者が傷つかないように終わりを伝えられるサインみたいなのがあるといいのだが。
ぶぶ漬け的な発想って、そういう意味ではスゴイと思う。