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善意の行方-ボランティアという病-

このblogは個人の感想兼気晴らしである。

熊本地震から8か月あまり、この度の震災では「善意」のあり方について大いに悩み、考えさせられた。なかでも印象に残った出来事、善意が暴力に変わった瞬間を見たことについて書き記しておきたい。

熊本地震発生直後、県の自粛要請にもかかわらず現地入りし活動開始したボランティア団体があった。
彼らの東北での活動を知っていたり、現地での行動を目の当たりにしたネットユーザーからは心配と非難の声が吹き荒れ、ある種の炎上状態となった。
その一連の流れをまとめ、現地での取材を加えて補完したのが「ボランティアという病」である。

結論から言うと、読んで良かった。
東日本大震災を通してボランティアや様々な支援者に対して尊敬しつつも、彼らの態度に疑問を持つ場面もあった。しかし、それらは口に出してはいけないことだと思っていた。だけど明確に迷惑だと言えること、自分の善意が誰かを寂しくさせる可能性は存在するのだから、疑問を持つことはむしろ大事なことなのだと教えてもらった。

問題は「その後の出来事」である。

例のボランティア団体を通して御船町の問題を見守っていたネット(主にTwitter)ユーザーの中にとりわけ熱心に情報を収集し問題提起をするグループがあって、著者はそのうちの一人。
実際本の内容の多くはそこで話し合われた内容を簡潔にまとめ、補完したものである。
おそらく購入者層の大半も彼らのツイートを見て御船町問題に関心を持っていたユーザーだろう。

発売直後はそういったユーザー達の好意的な感想が多く見られたが、グループの一人で本の協力者である南三陸町の出身者が「この本には事実と異なることが書かれている」と訴え始めたことで雲行きが怪しくなる。

彼女が言うには、「問題のボランティア団体の設立当時の目的は別の人物が設置した仮設入浴施設の運営だった。と書かれているが、事実と異なる。湯主が事業を団体に継承するなどの事実はなく、その事を著者に再三にわたって指摘したのに対応されなかった。」「この件について当事者は深く傷付いている。」らしい。

彼女のタイムラインには本と著者に対する苦言が連投され、Twitterではよくある身内の暴露話かと思いきや、一方で著者の個人アカウントでは何か困惑している旨のツイートがあり、著者公式の方で反論が載せられた。要約すると、
「彼女の指摘は把握しており、その都度対応してきた。しかし指摘された箇所は別の協力者に取材をして書いたものであり、彼女には何の責任もなく修正の必要は無いと考えている。」
つまり、彼女がなんと言おうと事実と異なることを書いたつもりはないし修正する必要はない。という真っ向からの対立である。

一旦はそこで収まったものの、次の日には協力者側から「湯主が事業を団体に継承していない証拠」が延々と提示されることとなり、著者と協力者による直接的ではないものの、お互いへの苦言の応酬となり『どちらの言い分を信用するのか?』と暗に問いかけられることとなる。

正直、彼女達のやり取りを見て「何がなんだかよくわからない」というのが率直な感想だった。
が、それでよかったのだろう。
そしてTwitterで協力者を批判していた人のほとんどは気付いているだろうが恐らく「傷付いた当事者」は存在しない。

協力者側の言動には不思議な点が多いのだ。
まず、この本には確かに「団体設立当時の目的は湯の運営だった。」と書かれている。しかし、それだけで文章は終わっていて「事業を継承した。」とは『一切書かれていない』。つまり、継承の事実はありませんでしたと言われて、どれだけ証拠を出されようと、始めからそんなことは書かれていないのだから著者側は対応しようがない。それは読んだ側のいち解釈に過ぎず、修正する理由にはならないのだ。

(もっと言うと、この文は「この計画が頓挫した後…」と続くので、恐らく団体メンバーが自分たちで湯の運営をすることを目的に湯主にもコンタクトを取り何かしらのやり取りを重ねたものの上手くはいかなかったとも解釈できる。この一文だけで「継承した」なんていうのは曲解ではないだろうか。)

次に、この文章が事実誤認だとして、何故当事者本人ではなく協力者が異議申し立てをするのか。いい歳した大人がこの一文だけで自分では身動き出来なくなるほどショックを受けるとは考えにくいし、まさか協力者が「こんなことが書かれているから抗議してきますね!」などと勝手に行動を起こしているわけではあるまい。修正を求めるのなら本人を直接出版社に寄越すなり、電話でもSkypeでもコンタクトの手段はいくらでもあると思うのだが。

彼女の主張をよく見ると、「こうしてほしい。」とははっきり書かれておらず、あくまで著者に思うように対応してもらえなかった不満が主であり、ましてや「知り合いに頼まれていたけど本を渡せずにいる。」など個人の事情にも程がある。当事者本人の言い分も「事業を継承していないと訴えている。」という話以外一切出てこず、いつのまにか彼女自身が著者から何かしらの被害を受けているという内容にすりかわり、
何故か自身が過去に裁判で和解した話をしている。

自分の目的を明かさずに被害だけを訴え、周りを誘導し望む結果を得ようとは、いささか不誠実ではないだろうか。

もっと愚かなのは彼女の主張に乗ってしまった者達だ。
繰り返すが、この本には協力者が主張するような文章は一切書かれておらず、いくら「この主張をするに至った経緯」を説明しようと修正の理由にはならないし、必要もない。

しかし「広島市の折り鶴問題」の中で決定的な事実誤認が発覚し、著者が謝罪すると共に検証ブログを書いたことで彼女の主張も正当なものだと勘違い、あるいはそれまでの態度を翻し、「本の内容の正当性を確かめる」体(てい)で粗探しをする者が現れた。その多くは実際現地を取材した著者に対してネットの情報だけで反論しようという実に浅はかなもので、本を貶めたい気持ちばかりが伝わり見ていられなかった。

さらに衝撃だったのは、それまで自治体の支援情報などを収集、発信し公的な制度に対してこうすべきなど意見を述べたりアドバイスをしていたアカウントが「修正するのだから著者が悪いのだろう。Twitterの態度を見る限り解決する気もないのだろう。」と、あっさりアンチに回ってしまったことだ。
何度も書くように、最初の主張は対応のしようがない、いわば理不尽なクレームであり、それを支持することは文章をよく読んでないことを意味する。
そもそも重版時の修正は別にミスでなくとも発生するのでそれだけで著者を批判するのはお門違いも甚だしい。Twitterの態度がイコール本性だと断ずることも軽率だ。
自分も勝手ではあるが、自治体やボランティアの支援のあり方に口を出すならそれなりに経験があり、自分の目で見てきたものがあってのことだろうと思っていた。
(できる範囲の手伝いを否定するつもりはない。ネットでの情報収集も支援のひとつとは思う。)
しかし、本当にネットを眺めていただけ、自分では何も行動しないのに文句だけは立派になるとこうなってしまうのだと、その後の著者の言動を逐一観察し、「タグつけすぎ」などタグと記事の関連性を判断するのは投稿主であるはずなのに第三者がそれを決めようとする、残念な様子を見て、こういう人達が必ずしも賢いとは限らないのだと思い知った。
はからずしも、彼女達の言動が「病」を体現してしまっていることも。

おそらくこの件は「解決」はしないだろう。
しかし、この出来事を通して多くのことを学んだ。

「ボランティアという病」はボランティアや復興支援に興味がある人は是非読んでほしい。
しかし、検索すると事実誤認やクレームなどマイナスな記事の方が多いので、こういう視点もあるということを記しておきたかった。

この記事を読んで何をどう判断するかは自由だ。