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失意のボロネーゼと一条の光明

 

GW初日の昼。私は或るイタリア料理店の一席に腰掛け、私の白いシャツにべっとりとついたボロネーゼを見つめながら、我が行く末を案じ、途方に暮れていた。

そう、私はボロネーゼを白いシャツの腹の部分にこぼしたのである。

シャツの茶色いシミを見ると、私のGWはもう終わった、という感じがした。そのボロネーゼはシャツだけでなく私の人生にも消し去る事の出来ない深く暗いシミを残した感じがした。

私はボロネーゼすらこぼさずに食べることのできない愚鈍な男という烙印を押され、道行く人々から嘲笑され、一生女にもモテず孤独に死んでいくのだ。そんな人生なら今すぐ終わらせてしまった方がいい、今すぐ厨房に突入してピザ窯に飛び込んでやろうかと思った。

いや、しかしそんな事をすると、この美味しいボロネーゼを作ってくれたお店の方々に多大な迷惑がかかるし、その程度の失敗で死んでいたら命が幾つあっても足りない。

なら誤魔化すか?どうやって?シャツに最初からついていた模様だという事にするか?いや、こんな糞を擦り付けたような不細工な模様があるものか、こんな模様のシャツを好き好んで着る奴こそ極度の阿呆だ。

それに、思い返せば私の人生は誤魔化しばかりだった。過ちを犯し、悪事を働いては有耶無耶にし、誤魔化してきた。誤魔化しだけの人生だったと言っても過言ではない。

これからもそうやって誤魔化しながら生きていくのか?それでいいのか?

と考えながらうんうん呻っていると、斜め右前方の席でミネストローネを啜る西郷隆盛似のおばはんが目に留まった。そのとき私は西郷どんの或る言葉を思い出した。

「間違いを改めるとき、自ら間違っていたと気付けばそれでいい。そのことを捨てて、ただちに一歩を踏み出すべし。間違いを悔しく思い、取り繕うと心配することは、たとえば茶碗を割り、その欠けたものを合わせてみるようなもので、意味がないことである」

そうだ、いつまでもクヨクヨしていても仕方がない。歩き出すしかないのだ。

そしてまたその西郷どんは次のような事も言った。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

西郷どんは我欲を棄て去り、世のため人のために、徳による素晴らしい国家を建国しようと尽力した。それなのに私ときたら、自分の利ばかり考えて、我利我利亡者ではないか。それだから人目が気になるのだ。そんな事では駄目だ、これからは世のため人のために生きよう。利他の心で生きよう。

私のシャツのシミを見て、誰かが笑顔になってくれればそれでいい。ありのままの私をさらけ出して、無様な私を見て、ああ、あんな愚鈍な阿呆丸出しのボケナスでも生きていていいんだ、ならあいつよりマシな私だって生きていていいんだ。と思って誰かが自殺を踏みとどまってくれればそれでいい。何を恥じることがあろうか。

そう思った瞬間、迷いは消えて、私の人生に一条の光明が差した気がした。

私は立ち上がり、会計を済ませ、イタリア料理店を退店した。店の外、街の繁華な通りには春の眩い陽光が照り付けていた。

私は太陽に向かって歩いた。シャツのシミは陽光に照らされ、道行く人々の顔は逆光で影のようになり見えなかったが、私はもう何も恐くなかった。