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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

社会運動を効果的に行うためにはどうすればいいのか?

 

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (English Edition)

 

 

 

 今回は、ニック・クーニー(Nick Cooney)の著書『心を変える:社会を変える方法について心理学が教えてくれること(Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change)』について軽く紹介しよう。

 

 クーニーは主に動物愛護運動を行っている社会活動家であり、  Wikipediaによると、Mercery for AnimalsThe Humane Leagueなどの動物愛護団体の運営に関わっているようだ。『心を変える』は、クーニー自身が動物愛護運動で培ってきた経験と社会心理学の知見を合わせて書かれた本であり、「ある社会問題について、社会運動によって自分たち以外の人々をその社会問題に注目させて、それらの人々の考え方や意見を変えることで社会も変化させることを、効果的に行うためにはどうすればいいか」ということについての実践的なアドバイスやテクニックが論じられている本だ。

 ポイントとなるのは「効果的」というところである。現行の社会構造や慣習のために苦しんでいる弱者(国内/国外の貧困層、難民や戦争の犠牲者、被差別者、動物など)を救うために社会を変えようとすることを目指す運動を社会運動と定義すれば、運動が成功を収めれば弱者は救われる一方で運動が失敗した場合には弱者は現在と同じように苦しみ続けることになる。特に、一部の国々の人々や動物たちなどには現在進行形で死がもたらされているのであり、彼らにとっては社会運動の成否はまさに生死に関わる問題であるのだ。…このような事情をふまえれば、社会運動を行っている人々は自己満足や視野狭窄に陥らないようにするべきであり、成功を目指して効果的な運動を行うことを心がけるべきである、というのがクーニーのスタンスだ。

 

 この本の紙面の大半は「他人の心を変えるにはどうすれば良いか」ということについて割かれており、自分たち以外の人々を社会問題に注目させる・自分たちの意見や主張を自分たち以外の人々に受け入れさせるための心理学的・実践的なテクニックが論じられている。

 ごくごく一般論として、人間は理性や論理だけで動く生き物ではなく、感情というものを持っている。単に正論を主張し続けたり議論に打ち勝つだけでは他人の意見や考え方を変えることは難しいのであり、理性の背後にある感情を刺激することこそが他人を変えるための近道なのだ。だが、人間の心理というものには自己欺瞞や認知的不協和や公正世界信念などの様々な事象がはたらくのであり、一筋縄ではいかない。たとえば、ある意見に対して「この意見は自分のことを非難している」と感じた人は防衛的になり、その意見を否定して認めないことに全力を尽くすようになってしまうものである。このことをふまえれば、「市場に出回っているチョコレートのほとんどは、児童労働を行っている途上国のカカオ畑から採れたカカオを原材料としている」とか「畜産品の生産過程では大量の苦痛が動物に生じている」とかいうことを訴えてそれらの問題を解決することを目指す運動であっても、自分たちの主張をストレートに訴えてしまうと、普段からチョコレートや畜産品を食べている多くの人々は自分が非難されているように感じてしまい、運動に対して否定的になってしまう。このことを避けるためには、個々人の消費者を糾弾しているように聞こえるような訴え方をするのではなく、チョコレートや畜産品を生産して流通させている企業や業界を非難の対象とするような訴え方をするべきであり、「企業や業界はチョコレートや畜産品の生産過程の実像や現場で生じている倫理的問題を隠すことで、消費者たちをも騙している」という点を強調して消費者の正義感を刺激したり、運動家たちは消費者の味方であると思わせたりすることが効果的である…などなど。

 個人レベルでのミクロな説得や対話を効果的に行う方法から、SNSなどのメディアの利用をしてマクロに主張を発信する方法まで、様々な場面でのテクニックやアドバイスが『心を変える』には書かれている。著者のクーニー自身の専門は心理学ではないようだが、専門的な心理学の論文が大量に引用・参照されており、充分に信頼できると思わされる内容だ。

 

 …が、私にとって特に興味深かったのは本の前半であり、運動家たち自身の心理について書かれている箇所である。運動の対象となる一般の人々に様々な心理傾向が存在しているのと同様に、運動家たち自身にも様々な心理傾向が存在している。多くの運動家たちが自己満足や視野狭窄に陥って効果的な運動を行うことに失敗するのも、これらの心理傾向が原因である、とクーニーは論じているのだ。

 たとえば、人の外見というものは相手に対する印象を大きく左右するものである。同じ意見を主張するとしても、汚くてだらしない格好をしたひとが主張した場合よりも小綺麗でフォーマルな格好をした人が主張した方がその意見の説得力はずっと増すだろう。だが、左派の活動家の多くはヒッピー的でカウンターカルチャー的な価値観を抱いており、自分の外見にあまり気を使わず、フォーマルな格好をすることを嫌悪している。外見に気を使わないことをむしろ誇りにしている人たちにとっては、フォーマルな外見をしている方が抗議活動や討論の場で有利に働き自分たちの運動を成功させやすくなるとしても、その事実を理解して実践することは難しいものだ。このことは外見というものがアイデンティティと密接に結び付いているために生じる心理的傾向であるが、効果的な運動を追求するためには、この種の心理的傾向は克服しなければならない。ちょっと長くなるが、この話題について、本文から引用して訳して紹介しよう。

 

…私たちの外見がどのようなものであるか、どんな服を着るかということは、私たちの自己アイデンティティと密接に結び付いている。 また、私たちの外見がどのようなものでありどんな服を着ているかということは、私たちがどれだけ他人を説得することができるかということにも大きな影響を与えるのであり、そのために、私たちがどれだけ効果的に社会変革をもたらすことができるかということにも大きな影響を与えるのだ。環境(や動物や人々)を守ることについて効果的になるために自己アイデンティティの一側面を捨てることは、そのような決断を下したことがない人が思っているよりもずっと難しいことである。

あなたが、外見や服装について自分たちなりのスタイルを持っているサブカルチャーの一員である場合には、外見や服装を変えることは更に難しくなるだろう。この場合、外見を変えることは自己アイデンティティの一部を捨てることに済まず、集団アイデンティティを示す社会的な記号を捨てることも意味するからだ。あるアナーキストが、ドレッドヘアーを切ってつぎはぎだらけの黒い服を処分して、代わりにカーキパンツを履いてセーターベストを着たとすれば、彼は効果的に人々を説得できるようになり自分の主張のキャンペーンにも成功するようになるだろう。だが、彼は、自分が仲間のアナーキストたちから離れてしまったような気持ちも少しばかり抱くはずだ。彼は自分のことをアナーキストであると"感じられ"なくなるかもしれない…そして、自分を自分たらしめていたものの一部を失ってしまったように感じるかもしれない。(昔はアナーキストらしい格好をしていた)私が髭を剃って普通の服を着ることを決断するまでには一年かかったし、最終的に髪も短くするまでにはさらに数年かかったものだ。

自分たちとは異なった外見をしているからという理由で他人に対して偏見を抱く人たちのために、私たちの方がファッションの趣味や髪型などを変えなければならない、ということは不公平に感じられるものだ。そもそも、外見に基づいて人を判断することも("ルッキズム"と呼ぶ人もいる)、それ自体が社会問題ではないのか?だが、それが公平であるか不公平であるかに関わらず、そのような偏見は現実に存在しているのだし、これからも長年に渡って存在し続けるだろう。自分たちの活動においてメインとなっている問題について人々に影響を与えることが可能になる程度の説得力がある外見に変わることをしないとすれば、もはや私たちは一つの問題に対して戦っているのではなく、二つの問題に対して同時に戦うことになる…そして、最もあり得るのは、どちらの戦いにも負けてしまうということだ。外見を変えるという心理的には難しいが実行すること自体は簡単である行為は、私たちの人生の質を重大に下げる訳ではないが、私たちが外見を変えることは(そして、そのうえで思慮に富んだ活動やキャンペーンを行うことは)他の人々や動物や生態系にとっては本当に生死を分ける問題となるのだ。

私たちの外見が私たちの活動に与える結果について考えるだけでなく、私たちの感情が私たちの活動に与える結果についても考えなければならない。着たいものを好きに着ることは許されることであるように思えても運動にとっての最善の結果にはつながらないことと同じように、私たちが感じたことを何でも発言したり行動に移したりすることは、許されるように思えても、大半の場合には運動にとって最善の結果にはつながらないのだ。

(p.13-14)

 

 

 クーニーの主張の本筋からは外れるが、「ある社会問題や差別を解決するための運動を有効に実践するために採用される戦略(外見を小綺麗にする、など)」が、その戦略を採用すること自体が別の社会問題や差別(ルッキズム、など)であるとして批判されて否定されて、結局有効な戦略が取れなくなる、ということは社会運動に付き物のジレンマであるかもしれない。日本の事例で私がまず思い出すのは、学生団体のSEALDsが反戦運動を行う際に「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」というレトリックを用いたらフェミニズム的な観点から批判された、という事例だ*1

 

 

togetter.com

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 これは厄介な問題で、たとえば「同性愛者の権利を守る運動」や「外国人に対する差別に反対する運動」などの事例においても、それらの運動の個別のテーマは同性愛者や外国人であるとしても、多くの場合には、「同性愛者の権利は守られなければならない」「外国人に対する差別は不当である」という主張の背景には「人権は守られなければならない」「全ての差別は不当である」という普遍的な原則があるはずだ。その運動の個別のテーマは同性愛者であるとしても、仮にその運動の過程で別の人々の権利を侵害するとすれば、「同性愛者の権利は守られなければならない」という主張の背後にある「人権は守られなければならない」という原則に運動自体が違反することになり、その運動は矛盾して一貫性のないものになってしまう。外部の人々はその運動に説得力を感じなくなるだろうし、運動内部の人々も自己矛盾に苦しむことになるだろう。

 一方で、何を「権利の侵害」や「差別」とするかということ自体にも、理論や価値観によって見解の差が生じてくる。「汚い格好をしている人々の主張に対して説得力を感じない」ことは、差別であると考える人もいるかもしれないが、妥当で当然の反応であると考える人もいるだろう。そして、差別であることは否定できないが悪質度は低く、生死にかかわる問題に比べると大した問題ではない差別である、と考える人もいるかもしれない。優先順位をふまえれば、誰かの生死に関わる問題に対処するための運動においてルッキズムを用いることは問題ではない、という価値観もあるだろう。

 ここにあるジレンマは、ある運動をするうえでその運動のテーマではない別の問題に対してあまりに鈍感過ぎることは運動の説得力を失わせるし倫理的にも認めがたいが、他の問題をあまりにも意識し過ぎてしまうと運動を有効に行うことができなくなってしまうということだ。社会運動界隈でよく登場するインターセクショナリティピンクウオッシュといった言葉には「ある社会問題に対処するうえで別の問題を無視することはできない」「ある社会問題に注目する一方で別の社会問題を見過ごすことは、一貫性がなく矛盾している」といった意識が反映されているのかもしれないが、「移民に対する差別に反対しなければ"真の"フェミニストとは言えない」「イスラエルを非難しないLGBT運動はパレスチナ人に対する抑圧に加担している」といったように、社会運動に参加したりその運動を支持するうえで要求される基準を過剰に引き上げて、運動の潜在的な支持者や参加者を失わせているように思える。クーニーの言葉を借りれば、本来なら一つの問題に対して戦えば済むところを複数の問題に対して同時に戦いを挑んでしまっているのであり、結局は勝ち目のない戦いを自ら招き寄せてしまっているということになるのかもしれない。

 

 

*1:このレトリックが実際にどれだけ効果的であったかはさておいて