憲法学者で首都大教授の木村草太氏が、埼玉弁護士会に対し、弁護士の大塚嘉一氏を懲戒処分するよう請求したらしい。
twitterに流れてくる断片的な情報から、大塚氏が木村氏をネット上で批判したのが懲戒請求の原因ということは察しがついた。
「言論の自由を重んじるべき憲法学者が安易に懲戒請求に訴えるのはどうよ?」
「充分な発言力を持つ木村先生なんだから、反論すればよくね?」
というのが第一印象だった。
しかし、その後に問題の大塚氏の記事を読んでみたところ、
「これは懲戒請求も仕方ないわ」
と考えを改めるしかなかった。
単なる人格攻撃で、それゆえ反論しても意味がないような記述を含んでいたため、木村氏が反論以外の制裁に頼る判断をしたのも無理はないと考えられたからだ。
木村草太の草太は、なんとお読みするのでしょう。PTAをクサすから、クサタ、でしょうか。頭がクサっているから、クサタに違いない。クサタなら、クソだ、まではすぐ。
知識はあるのに、知恵がないので、教授というよりも、書生のような人です。
書生っぽにも考えがあるなら、聞いてみたい。
といった記述。
これが懲戒相当かというのは微妙だが、懲戒されても驚かないレベルであるとは思う。
このような投稿を弁護士が実名かつ名指しでやってるというのは、法的リスク管理の観点からも「マジかよ」という感がある。
普通に臆病な法曹なら、民事訴訟での敗訴リスクや懲戒のリスクを考えるから、こういう書き方はしないと思う。*1
私も、下記エントリのように他人を名指しで批判することはあるが、
「絶対に訴訟で負けたり懲戒されたりする心配はないと自信を持てる」
「それでいて煽り力はある」
というラインを狙ってやるようにしている。
そういうラインを意識的に狙えるのが法律屋の強みのはずだ。*2
司法書士及川修平氏による素人並の駄文について - 弁護士三浦義隆のブログ
警察は行政機関ではないと述べた野村修也氏 - 弁護士三浦義隆のブログ
その点、大塚氏の問題の記事は、ちょっと危ない橋渡りすぎなんじゃね?と心配になる。
まあ、危ない橋を渡ったとしても、全体として良記事で、一部だけ筆が滑ったという話ならまだわかる。
しかし件の記事は全体としても支離滅裂で、ほとんど見るべきところがない。
何を言っているかよくわからない箇所が多いためかえって突っ込みも困難というある意味高度な文章だが、意味が取れる範囲で突っ込んでおく。
記事中で大塚氏は、「PTAは強制加入団体ではないから、保護者はPTA活動をする必要もないし、会費を払うこともない」*3という木村氏の主張に結論としては反対しつつ、
自分の子供たちのための活動を、強制や義務と捉えることが、そもそも間違っています。私は、PTA活動は、保護者の権利だと考えます。
と述べる。
しかし、権利ならば行使するか否かは権利者の自由なはずだ。どうしても皆参加させたいなら、むしろ義務や強制と捉えるしかない。*4
したがって、「PTAに参加するもしないも自由」という主張には反対するのに義務性・強制性を否定し権利性を強調するのは、整合性を欠くとしか思えない。
また、大塚氏は
戦うべき相手は、我々日本人の宿痾たる同調圧力
とも述べるが、同調圧力に反対し、かつPTA参加の義務性・強制性も否定するなら、やはり「PTAに参加するもしないも自由」と考えるのが素直だ。
ここでも大塚氏の主張は整合性を欠いているように思われる。
その他の箇所の記述は、上にも書いたとおりそもそも論旨が明晰でないから突っ込みようもないという代物なのだが、ざっくりまとめると、
「PTA活動は良いものだから皆参加すべきだ。よって、PTA参加は個々の自由意思によるべきだという木村氏の主張は許せない」
というのが基本的主張だろう。
これは「善いことであればこれを行わない自由はない」という価値判断を前提にしていると解釈するしかない。この考えは道徳的善悪と法的権利義務を同一視するものだ。
このような同一視を法律家がしているというのは驚くべきことだ。少なくとも私は驚いた。*5
週に1回以上の休肝日を設けるのは疑いもなく善いことだと思うけど、無理にやらされたら納得しないけどね俺は。
弁護士 三浦 義隆
おおたかの森法律事務所
*1:ひょっとしたら、リスクを厭わない勇敢さはよいことなのかもしれない。俺はそうは思わないけど。
*2:私に煽られた人は訴えるなら訴えてみてほしい。もちろん本稿も含め。
*3:これは木村氏自身の表現ではなく大塚氏による要約。
*4:例えば憲法学上、選挙権について、権利説と公務説の対立が昔からあるのは法学徒には周知だろう。この対立は、純粋な権利なのであれば自由に放棄できるし、自由に放棄できないと考えたいなら公務(義務)の側面を認めるほかない、ということを当然の前提としている。
*5:別に木村氏だって、PTA活動は害悪だという評価をしているわけではないだろう。善いことであっても参加しない自由はあると言っているだけのはず。多分。