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これからのキャリア論

バイアスを外して「自己認知力」を磨こう──妙心寺春光院・川上全龍が説く、禅の哲学

人間は「固定概念=バイアス」によって無駄を省き、効率を求める性質がある。それを禅では外すように教える。いまビジネスの世界は、禅の哲学に注目すべき時かもしれない。

NHK出版の松島倫明は弊誌のインタビューで、最近の日本の企業は思想が欠けていると指摘した。

カウンターカルチャーとデジタルカルチャーをつなぐ象徴的な存在だったスティーブ・ジョブズこそ亡くなってしまいましたが、現在のシリコンバレーのエスタブリッシュメントは『Whole Earth Catalog』以降の西海岸的エートスを体現しています。グーグルにしてもフェイスブックにしても、巨大な営利企業である一方でその背景には、テクノロジーによって人間が個として持っているパワーを十全に発揮できることこそが正義だという価値観があります。

翻訳書をやっていると、彼らの強さはそうした思想がブレないことにあると感じます。そして翻って、日本のテクノロジー企業が弱いのもそこだと感じます。単にビジネスとして儲かるからとか、技術的に新しいからというだけでなく、テクノロジーは人間を人間たらしめるためのツールとしてある、というブレない思想こそが重要なのではないかと思います。

スティーブ・ジョブズも禅を好み、よく瞑想をしていたことで知られるが、最近の海外の経営者や名門大学のビジネススクールに通う学生たちは、京都の妙心寺・春光院という場所に集い、座禅体験をしているという。

いま日本でも働き方の多様性にまつわる議論が広がり、あらためて自分の仕事を問い直す機会が増えている。ずっと定年まで同じ会社にいるのではなく、転職や独立する人の数も増え始めている。

自分だけではなく、他者との関わりについて考える機会も増えている。社外のビジネスネットワークを活用したオープンイノベーションによって、企業の中で新規事業を起こす人も、最近よく聞くようになった。

それらの過程では、いま一度、人間というものを捉えなおし、他者との関係性や、企業や社会の思想について思考を巡らす場面も増えてくることだろう。

日本人はどうしても宗教色のあるものに抵抗があるが、もしかしたら、いまこそぼくらは禅の思想を学び直すべき時なのかもしれない。その問いの答えを確かめるべく、京都にある日本最大の禅寺、妙心寺の門をくぐった。

妙心寺春光院の正門。座禅体験を目的に世界中から人が集まる。この日も取材の前後に外国人が訪れていた。

昔は人類みんな東洋的だった

──わたしは最近思うところがあって、いま日本のビジネスはもっと思想的な面を学ぶべきでないかと考えているのです。本日は「禅の思想からビジネスは何を学べるか」。そのヒントを求めて参りました。

日本人は思想的な面について、意外と子どものころからきちんと教育を受けていないなと、わたしも最近思うところがあります。特に「哲学」が欠落していると思うのです。

──どういうことでしょう?

例えばフランスでは、さすが啓蒙思想発祥の国だけあって、小学生のころから「人生とは?」とか「幸せってなに?」とか、生徒に哲学的な問いを投げかけるそうです。一方、日本では「形式から学べ」と言われて、まず形から入り、ルーティンを積み重ねていくなかで、自分自身で答えを探し求めるように教わります。しかし、いまの日本人は勘違いしているようです。

──勘違いとは?

漠然とした全体から入って徐々に中へと攻めていく昔の日本のやり方が、どうも失われているように感じるのです。西洋と東洋の違いで、よく言われるのは、「西洋人は木を見る。東洋人は森を見る」という話です。西洋では、森があって、木があって、動物がいて...というふうに、一つひとつの要素を細かく分析することで、全体を理解しようとするのですが、東洋は逆だと理解されています。

──そのようにわたしも理解しています。

それが最近ミシガン大学のリチャード・ニスベット教授の本や論文を読んでいて、新しい気づきを得たのです。もともと人類はみんな東洋的な「森を見る」思考法だったそうなのです。

──え、人類全体が東洋的だった!?

どうやらそうらしいのです。なぜ西洋人がある時から分類化する習慣がついて、現代のような科学的なアプローチを得意とするようになったかというと、ギリシャ哲学者たちが発展させたからだ、というのが定説なのだそうです。

──なるほど。

昔の人は木を見ることもできたし、一歩引いて森を見ることもできた。でも、いまはどちらも満足にできなくなってしまった。そこで、わたしはいま「注意の柔軟性」について関心を持っています。

お坊さんから「バイアスを外せ」と言われると、どこか新しい響きを感じる。

「バイアス」と禅の深い関係

──注意の柔軟性とは?

マインドフルネスとは結局、自分の注意をどこに向けるか、というものなんです。たまには木を見てたまには森を見る。両方ができる柔軟性が求められます。同様に禅も柔軟性を強調します。ぼくは最近「バイアス」という言葉を使っています。柔軟性とは、自分のバイアスをどれだけ外せるかということなんです。

──バイアスと禅はどう関わりがあるのでしょう?

人間がいちばん好むものは「恒常性」です。落ち着きや安らぎを与えてくれるからです。それを守るために、人間はいろんな物事に対して「世の中はこうだ」という概念をつくります。それがバイアスになるのです。概念をつくれば、カオスや秩序のないものから自分を守り、時間とエネルギーを節約できます。無秩序はとにかく多くのエネルギーを使います。脳自体が人間の1日のエネルギー消費量の18%〜25%を使いますから、それをなんとか削減しようとするわけです。

──脳を消費量で計算する発想は面白いですね。

人間はいろんな概念をつくりだして、自分を「自動操縦モード」に入れるようにしている

過去1万年の人類の歴史を振り返ってみると、狩猟に頼っていた時期が長いことがわかります。飯なんていつでも食べられる状況ではありませんでした。食べられる時に食べて、エネルギーをセーブしておかないと生き残れない。だからいろんな概念をつくりだして、自分をいわば「自動操縦モード」に入れるようにしているのです。

──概念をつくって「省エネ」していたということですね。

宗教の修行は「階段を登りつめていく」イメージがあるかと思います。でも禅は目標に向かって登っていると、途中で階段を崩されるのです。「登りつめる=バイアスがどんどんかかっていく」ということなので、そのバイアスを取り外さないと駄目だ、という発想からきています。「禅はこうだ」とか「座禅はこうやるべき」とか言う人はバイアスがかかっているので、「それはすでに禅ではない」と言われてしまいます。だから常に自分をオープンにして、周りの状況がどういうものかを客観的に把握できるように修行をします。

禅に絶対はない。別に椅子に座っても問題ない。「座禅はこうやるべき」と言い始めた時点でバイアスがかかってしまうから。

転職でバイアスを外す

──最近は定年までずっと同じ会社にいたいと思う人は減っていて、転職者数は年々増加傾向にあります。SNSでは、個人の関心事や意見を発信しやすい時代でもありますが、バイアスを強めることにもつながると思うのです。転職は、仕事のバイアスを外す助けにはなるのでしょうか。

ソーシャルメディアとか、自分のカテゴリとか、そういう枠に入るのはとても居心地がいいのです。カテゴライズされて、こういう人間だと相手に思わせることで、相手の動きも読みやすくなります。しかし、同じことをやり続けていると、ずっと同じバイアスがかかっている状態になります。しかも最近のソーシャルメディアで怖いのは、カスタマイズされた情報ばかり入ってくることです。

転職で一度自分のバイアスを崩して、わざとカオスな状態に身を置くのは良いこと

スタンフォード大学のマイケル・コジンスキーというビッグデータ解析の研究者によると、Facebookでたった68回分のいいね!を分析するだけで、その人の肌の色が95%の確率で当てられるそうです。さらに150回分のいいね!で、その人の両親のことまで大体わかるというのです。

そういう分析をもとに、自分に合った情報が送られてくるようになる。そうすると、気づかないうちに、どんどん自分のバイアスが強くなります。だからこそ、転職などで一度自分のバイアスを崩して、わざとカオスな状態に身を置くのは良いことでしょう。

──バイアスを崩すためにも、たまには転職するのも良いことなんですね。

でもまだ日本人はあまり慣れていないようです。自分の固定概念を外していくのが禅の考え方なのに、アイデンティティをつくって、「わたしはこういう会社の者だからこういうもの」と、自分で自分を束縛しているようにも見えます。注意の柔軟性が欠けていると、表面的なところでバイアスをかけてしまう。バイアスはさっき言ったように、エネルギーと時間をセーブするものなので、気をつけていないとバイアスを使ってどんどん楽をしようとして、視点が狭まってしまいます。

この写真のファイルサイズは212KB。つまり1696キロビットに換算されるので、1秒間の人間の注意力の約13倍もある計算だ。

人間の情報処理性能は126ビット/秒

──自分で自分の視野を狭くしてしまうのは、もったいないですね。

仏教の説話をひとつご紹介しましょう。3人の盲目の人間が象を説明しようとします。ひとりは象の尻尾を触っていて、もうひとりは牙を、もうひとりは耳を触っています。尻尾を触っている人は、象というのはクネクネして毛で覆われている生き物だと言う。耳を触っている人は、「いや、象は平らだよ」と言う。牙を触っている人は、「大理石みたいにツルツルしていて堅いものだ」と言うわけです。バイアスがかかっている人は、いち部分しか見えていないから、それが象の全体だと勘違いしまうのです。

──3人とも視野が狭いわけですね。

人間の注意は非常に限られた資源なのです

人間には「認知の限界」があります。「フロー」の研究で有名なミハイ・チクセントミハイが、人間の注意をデータ化した研究を発表しています。中枢神経の情報処理性能をバイナリーディジットに変換すると、1秒間に最大でも126ビットしか注意を向けられないことがわかりました。さらに、このように会話をしている時は、周囲の環境や自分の身体にも意識を向けるので、毎秒40ビットくらいしか相手の声を拾うのに使えていないのです。人間の注意というものは、非常に限定されている資源なのです。

──人間の注意をデータ量に換算する視点、面白いです。

最近のデジタル写真は小さくても数百キロバイト(1バイト=8ビット)はあります。つまり、人間は写真のような世界はまったく知覚できていないということです。ほんとに一部の情報のみを切り取って視ているのです。それに、もともと持っている概念を加えて、目の前の現実はこういうものなんだと、いわば嘘の現実をつくっています。

自分は本当に世界の一部しか見れていない。そのバイアスを意識することは重要です。禅の極意ってそこだと思うんですよ。自分がどういうバイアスを使っているかに気づき、そのバイアスを外して、本当の「象」という動物の全体像を捉えるのです。

──「注意の柔軟性」と最初仰っていたのは、そういう意味なんですね。

その通りです。世の中を理解しようした時に、いまは細分化していって一つひとつの要素を検証して、良い悪いを判断するところがあります。でもアリストテレスも指摘していたと思うのですが、分解して全部を足すと全体の説明になるかというと、ならない。それは古代ギリシャの時代からわかっていることなのです。いまの科学はニュートン力学をベースにゼロかイチか、という考えですが、一度壁にぶち当たったから量子力学がでてきた。だから量子力学は、わりと禅の発想に近いのです。

アメリカの大学で宗教学を専攻した川上は英語も堪能で、お寺を訪れた外国人観光客を相手に、日々禅の思想を説いている。

アメリカでマインドフルネスが流行った理由

──アメリカのテック企業が、マインドフルネスや禅に興味を持つようになった理由も、ニュートン力学が壁にぶち当たったからなのでしょうか。

結局デジタルの世界は、ゼロかイチかの世界ですからね。人間の行動をニュートニアンなアプローチで理解しようとして突き詰めていくと、プラグマティズム(実用主義)に行き着きます。良いか悪いかに分けて、良い選択、良い選択、良い選択とずっと突き詰めていけば、何か良いところに行くんじゃないか、というのが基本的なプラグマティズムの考え方です。

もう一度「人間って何だろう?」とか、「世の中ってどういうふうに動いてるんだろう?」と考えるようになった

しかし、プラグマティズムは2000年代くらいからうまくいかなくなってきて、その傾向は08年のリーマンショックで如実となり、アメリカはパニックに陥いりました。「何か根本的に考え方を変えるべきでは?」「自分たちは過去100年間何をしていたんだ?」と省みた時に、もう一度「人間って何だろう?」とか、「世の中ってどういうふうに動いてるんだろう?」と考えるようになった。それがいまマインドフルネスや禅に多くのアメリカ人が興味を持つようになった根本的な理由だと思います。

──アメリカ人は一度思想のレベルで行き詰まりを感じたわけですね。

キリスト教は善か悪かという二元論の世界観なので、彼らにとって禅はとても新鮮に感じるはずです。でも実際、完全に善か悪かの世界は存在しないわけであって、良い悪いの判断なんて個人的なものだし一時的なものです。その意味においては、最近の日本におけるマインドフルネスの動きをみていると少し怖いと思うのが、「マインドフルネスいいですよ!」と言っている人がいることです。

──確かに「いいですよ」という声、最近よく耳にするようになりました。

マインドフルネスは科学をベースに組み立てられています。科学は、いろんなアングルから検証し直す、懐疑主義の性質があります。しかし、いまのマインドフルネスの動きは、ポジティブなバイアスが相当かかっています。研修会社などの立場からすると、良いと言わないとビジネスが成り立たない面もあるかと思いますが、科学者までが良いと言ってしまっては問題です。データはニュートラルなものであるべきで、「こういう結果が出ました!」と言われたら、「長期的な研究に直したときにも本当に正しいと言えるだろうか?」といった懐疑的なアプローチは必要です。

──マインドフルネス自体がバイアスに縛られてしまっては本末転倒ですね。

マインドフルネスは、ストレス緩和などの効能に注目されがちですが、根本的にはバイアスを外すという考え方です。それを外して自分の考え方のベースがどこにあるかを常に見据えられることが求められます。もう少し宗教的な角度から言うと、そこから自分というものをなくしてしまうという話になるのですが、そこがマインドフルネスと禅の異なるところですね。

──自分をなくしてしまう、というと?

「フロー」を提唱したチクセントミハイと、道教の始祖である莊子の発想にも実は似たような違いがあるのです。没頭することによって満足感を覚えて、自分というものを見出すというのがフローだとすると、莊子の場合は没頭することによって自分の存在をなくして、自分と周りが融け合うという発想なのです。この莊子の考え方は禅にもあると思います。

春光院は公道から離れているため、とても静かで、鳥の鳴き声が心地よく響いていた。

企業と個人のゴールを「融け合わせる」方法

──「融け合う」という言葉には、とても禅的なイメージがあります。自由と不自由の概念を超越しているような。

たぶん本当の自由って人間は耐えられないと思うんです。重圧がかかるし、不安になるし。まあ、それをなくすために自分をなくすというのが禅だと思うんですけど(笑)。でも「自分をなくすことは実践的に可能なんだろうか?」と考えた時に、たぶん無理というのが、わたしのコンセプトです。そんなことをお坊さんが言ったら怒られると思いますが(笑)。

──企業の目標と個人の目標はズレが生じやすいものです。「もっと自分のやりたいことを追求する自由が欲しい!」という声もあったりします。企業と個人のゴールを融け合わせる良い方法は、何かありますか?

最近の企業はいろんな新しい事業をやっていて、「え、この企業がこんなことまでやっているの!?」と思う機会が増えてきました。「何をやってもいい部署」をつくっている企業が増えているからだと思います。予算はないけれど、「これは面白い!」というものがあったらお金を出すから頑張れ、みたいな(笑)。

──確かに新規事業担当の部署は、最近よく見かけますね。

おそらくそういう部署が多く新設されている理由は、従来の固定概念から脱却する必要性を経営者が感じているからでしょう。例えば、自動車メーカーを例にあげると、「クルマが人に与える影響って何だろう?」と改めて考えてみるのです。A地点からB地点へ移動するだけではなく、車内を快適な空間にして、心を落ち着かせる方法はないか。あるいは逆に、運転する人に興奮を与えるものとして考えてみてもいいでしょう。そういう問いを生み出すには、やはり従来の「クルマ屋」のバイアスに縛られた考え方では無理なのです。

──さきほどの象の話を自動車に置き換えて考えてみたら、ということですね。

「企業として存在する意義は何?」「もう少し大きな目的があるのでは?」と改めて考えてみるべき

まさしくそうですね。これからは、いろんなアングルから攻めていくことが絶対に求められてきます。それによって従来の企業のイメージからズレていくこともあるかもしれません。でもそのバイアスから外れる自由さがいま必要だと思うのです。「企業として存在する意義は何?」「もう少し大きな目的があるのでは?」と改めて考えてみたり、会社の存続だけにこだわらず、例えば「日本をもっとこう良くしていこうよ」とか、「その次は世界をこう良くしていけたらいいよね」みたいな議論を行うべきです。

──より深い理念のようなものが必要になりますね。

極めて単純な話にしてしまうと、その深い理念は「みんなが幸せに生きる手伝いをしたい」ということだと思うのです。そうすると、確かに"自動車メーカー"だけれど、自動車以外のものをつくってもいい、となり得るわけです。

──そうすると、個人のやりたいことも組織の中で追求できると?

個人の場合もまず「これやりたい、あれやりたい」という前に、その目的は何なのかをはっきりさせることが重要です。

──やりたいことの中に思想が必要ということですね。

そうです。やっぱりこれから哲学の教育が必要になってくる理由はそこだと思います。大きな目標を明確にするときに、「人間や集団の存在意義ってなに?」という話になってくるからです。これっていい機会だと思うのです。「人間の幸せってなんだろう?」とか「個としての存在と団体のつながりってどういうものなんだろう?」とか、あらためて考えるいいきっかけになるでしょう。

『世界中のトップエリートが集う禅の教室』 川上全龍著。なぜ座禅がビジネスにつながるのか。利他を行うための共感、そしてそれを生む「自己認知力」の必要性を説き、ビジネスパーソンのために禅の教えをまとめた一冊。

多様性の中に共感を見つける「自己認知力」

──著書の中で「自己認知力」という言葉を使われていました。

自己認知力がいちばんわかりやすいのは、「これ好き、これ嫌い」と言う時です。感情は脳だけでなく体全体で感じるもの。体が刺激を受けるレシーバーになっていて、そこを経由して入ってきた刺激を脳で処理し、嬉しさや怒りを感じるのです。マインドフルネスの言葉で自己認知を表すと「セルフアウェアネス」になります。感情が起こる前に、体の反応で気づけるようになるので、例えばいきなり激昂するのではなくて、怒りの感情が起き始めた時にあえて注意を他に向けて心を安定させたのちに、対応できるようになります。

もうひとつ、本の中では書いていなかったことは、「その時のバイアスをチェックしてみよう」ということなんです。

──どういうことですか?

「好き」と思った理由は何かということです。自分はどういうバイアスで見ているから好きなのか、あるいは嫌いなのか。とにかくその感情が出てきた理由を問うこと。自己認知力は突き詰めていけば、そこにたどり着きます。

──仕事において自己認知力を突き詰めていくと、他者との関わりも入ってくると思うのですが?

違う企業文化を持っているところと一緒に仕事はしにくいものです。いまは社内の多様性も大事だと言われています。でも多様性のあるチームは、ウマが合わない人もいてしんどい時もあるでしょう。でもそのしんどさの先に気づかなければ、クリエイティブなことはできないしイノベーションも生まれない、というのがいまの考え方なわけですよね。

──そうですね。大企業とベンチャーのオープンイノベーションが必要だとか、そういう話も最近よく聞くようになりました。

多様性は生きづらい世界。でもそこを乗り越えない限り、イノベーションは生まれない

自分のバイアスに気づいてから、相手のバイアスにも気づく。自分が象の尻尾を触っている人なのか、牙を触っている人なのか、耳を触っている人なのかに気づくこと。それができないと全体像が見えなくて、新しい発想も生まれません。「多様性のあるオフィス」や「異業種のコラボ」って、結局違うバイアスでぶつかり合って、うまくいかないことが多い。ぶつかった時こそ、自分のバイアスを意識してみてください。相手がどういう部分の利点を見ているのか。相手はこう言っているけど、それはどういうベースで判断を下しているのか。反射的に良い悪いを判断せず、まずはそこから入っていくことです。多様性って生きづらい世界です。ストレスもたまります。でもそこを乗り越えない限り、イノベーションは生まれません。

──多様性の中に、共感できるポイントをどう見つけていくか、ということですね。

お互いのバイアスを認識したら、自分たちのゴールはどこか、という問いに戻るのです。「このプロジェクトを始めた理由は?」「本当は何がしたい?」「どういうインパクトを社会に伝えたい?」

インパクトの伝え方に対する考え方が違うから、あるいは違う現実やデータを見ているからぶつかりあうわけで、うまく全体が見えるようになれば、結束していけるはずです。

マインドフルネスの研究に関心を寄せており、日本国内初のマインドフルネス・アプリ「MYALO」の開発にも協力している。

何かをしたいと思うことがバイアスになる

──川上さんにとっての思想的なレベルでのゴールは何ですか?

日本だけに限ると、いちばん先に置いているゴールは日本の幸福度ランキング53位(2016年)を10位以内に入れることです。世界的には、海外から来てもらった人たちに少しでも幸せになってもらいたい。「こういう考え方ができれば、明日からちょっと人生が楽になるかも」と思ってもらえたら嬉しいですね。

──英語で禅の哲学について出版したり、海外に積極的に情報発信しようとは思わないのですか?

逆に普段(座禅体験を通して)英語で教えることが多いので、もっと日本語でも教える機会を増やしたいと思っているくらいです。マインドフルネスが海外で注目されていますが、禅の発想や仏教の学識に関しても、意外と海外の方が進んでいたりします。日本は、仏教のさまざまな宗派の大学がありますが、それぞれ自分の宗派が中心になるので、学者として第三者の目線で書いたつもりでも、どうしてもバイアスがかかってしまうのです。一方で海外の学者は、完全なる第三者の目線で書けます。

最近わたしは、もう少し日本の学校とか企業向けに何かやってみてもいいかなと思っています。

──やはり教育に興味が向かっているのですね。

昨年SIY(Search Inside Yourself)の5ヶ月間のプログラムを修了して、教えられるようにもなっています。ただ、マインドフルネスに関して客観視したドライなデータをもう少し見てみたいと思って、最近は海外の心理学者や脳科学者と組んだりしています。そういう人たちと組むと、今度はまた哲学に興味が戻ってくることもあるのです。その行ったり来たりの面白さというか、ドライに行ったり、ウェットな世界に戻ってきたりする感じの柔軟性を磨くように意識していますね。

わたしの最終的な目標ということで言えば、自分の発想が10年後、20年後、30年後、さらに100年、200年と残るか残らないかはわからないですけれど、「この時代にコイツこういうこと言ってたんだな」「意外といいじゃん!」と思えるようになりたい。その人が何となく心が楽になるお手伝いができればと思うのです。だから何をしたいとか、本書いて自分の考えを世界中に広めたいとか、そう思った段階でもうバイアスがかかってしまうのです。

腕にはApple Watch、メガネは自らアプリの監修に携わったJINS MEME。禅とテクノロジー。これも柔軟性といえるのだろう。

柔軟性から生まれるイノベーティブな出会い

──やはり大事なのは「柔軟性」ですね。

15年前から、自分で何かをやろうと考えること自体やめた

「絶対にこうだ」という思考は避けたい。それをサポートする本や研究データばかり集めて読んでしまって自分のバイアスを強めてしまうので。科学の本を読んでいて、思いがけず禅とリンクする時の方が面白い。例えば、フローの本を読んでいて、莊子の話とリンクして、それが禅とマインドフルネス、西洋と東洋の相違点に気づいた時もそうでした。

実は15年くらい前から、自分で何かをやろうと考えること自体をやめたのです。知り合いに「これやってみたら?」と言われたことだけをやることにしています。

──どうしてですか!?

やりたいと思ったことに対して、「自分は絶対こういうことをやりたい!」と思った段階で、かなり強いバイアスがかかっています。自分にはそんな能力がないのに、無理にやろうとして失敗する可能性も高くなってしまいます。

「あの人と仕事したいです!」と言う人は、すでに確実に自分のバイアスがかかっているし、「あの人はきっとこういうことを言ってくれて手伝ってくれる」というふうに考えてしまって、たとえ何かを一緒に実現できたとしても、「当初の想定通りのことしかできなくて、なんかつまらかったね」という結果に終わってしまう。

そうではなくて、何となく周りの人に「こういうことをやりたいんだけど、でも何をやったらいいかはわからないや」と適当に投げておくと、「こういう知識持った人なら知っているよ...」と紹介してくれたりして、だんだん人が集まってくるのです。

──実際にそれでうまくいっているのですか?

わたしが「JINS MEME」のアプリ「ZEN」の監修に関わったのも、開発統括の井上一鷹さんにお会いした経緯はそういうところから来ています。いま一緒に企業向けの研修をしている予防医学研究者の石川善樹さんと出会ったのも、元グーグルの山本康正さんにお会いした時に、「瞑想に興味持っている科学者って日本にいます?」みたいな話をしたら、ご紹介いただいたのです。だから何となく自分のやりたいことや興味あることをボヤッと周りの人に投げておいて、そこから生まれる出会いを大事にする方がバイアスがかからないし、よりイノベーティブな出会いが生まれやすいと思います。