この間、ブクマにて私の言葉足らずが原因で相手を不快にさせてしまったので、備忘録代わりにこれを記すことにする。肝心の記事は……相手の方に申し訳ないので紹介しないが、私のブクマ履歴をたどってもらえればすぐわかると思う。
これは私個人としての立場表明であるとともに、「言論を他の誰かに公表するとき、どういう心持ちで臨めばいいのか」という一般論にもなっているので、ブログとかを普段書いていない方にも応用が利くと思う。
それでは、当たり前のところから攻めていくよ。
ことばの原理
人間はふつう、ことばによってコミュニケーションを行う。これは前提中の前提だけど、ここから「隠れた事実」めいたものが出現する。何かというと、ことばについての属性が示す、とある二つの真実(のようなもの)だ。
そのためには、ことばがどうやって伝わるのか、を考えねばなるまい。
我々はなぜことばを使うのか?
もちろん「自分の考えを他人に伝えるため」だ。
なぜそんな回りくどい方法を使うのだろうか?というのは尋ねずともわかるとは思うけど、当然「自分の頭の中のことは、他人には直接伝えられないから」だ。
これを図にしてみると次のようになる。
こっちは理想の世界。私の脳に浮かんできた想いが、そのままあなたの脳に伝わる。
何の違いもなく、考えていることがそのまま伝えられるわけだから、誤解なども生じない。
だがこんな都合の良い世界に我々は生きていない。現実はこっち。
そのまま伝わらない。
だから幾分か回りくどい方法をとらねばなるまい。そのために用いるのが「ことば」だ。
私の脳に浮かんできた思いをことばに仕立て上げ、口で発音する。
その音はあなたの耳に届き、「腹/減った/なぁ」というように恐らく情報としての単位に分解され、再構成されてあなたの脳に入るとき、「コイツ腹減ってるんだな」という情報が手に入る。
こんな当たり前のことを!と憤るのは全部読んでからにしてほしい。こんな当たり前のことなのに、変に当たり散らす方もいらっしゃるからだ。
さあ、道具はそろった。あとはことばを使うことに関する「隠れた事実」とやらを明らかにしてみよう。
誤解はいかにして起こるか
人間が作り出した最古で最強のコミュニケーションツールが「ことば」だが、当然弱点が付きまとう。情報がどうやって伝わるかを考えれば答えは自明だ。
まず、私の脳に浮かんだ想いは、私の口で一度ことばになる。これは良いとしよう。問題はその後だ。
あなたの脳にこの情報が入っていくまでに、何が行われるだろうか?
耳にことばが入る。これが自分の知る言語なら、ちゃんと処理される。
ことばから相手の考えを再構成、そうして入っていった。
そう、再構成だ。
相手の考えと、再構成された「(自分が推し量った)相手の考え」が同じであるなんて保証は、どこにもない。
もっと簡単に言おう、「こいつきっとこう考えてるんだろうな~」という推測が当たってるかなんて、誰にも保証しようがない。
なぜなら、人間の使うことば(自然言語と言い換えてもよい)というのは基本的に開かれており、意味が何通りも生まれてきてしまうからだ。これは人間の生物的な記憶力、分析力の限界に起因するものだから、改善しようがない。
まあもっと簡単に言えば、人間が使う全てのことばに対し、その一つ一つ別々の文字、記号を使った言語体系を作ることはできないことはないが、そんなの記憶力が持たないだろう、という話だ。
単語一つに関しても、文法に関しても、または文章全体に関しても同じことがいえるが、基本的に人間は『多義的な』ことばを操る生き物なので、相手から受けたことばから意見を再構成する時点で、まず間違いなくどこかに食い違いが起こっていると思ってもらってよいだろう。それはたびたび同じ発音に由来したり、使い分けに由来したりする。
例えば、「Aくんの非難にBくんが非難で返した?うーん、そりゃあまずいね」という文章があったとする。この話し手は結局、誰に対して「まずい」と言ってるのだろう。
私はBくんだと思うが、Aくんの人もいるし、もしかしたら話し手自身かもしれない(たとえばAくんとBくんの喧嘩の発端を、彼が作ってしまったとか)。
この場合、どんなに正確に答えを導くコンピュータがあっても、解は一意的に決定されない。なぜならことばそのものが『多義的』だからだ。
店員がこけたせいでジュースを顔にぶちまけられた女性が「どうも!」という。
これは当然感謝の意からなることばではない。にも関わらず女性が怒ってることを理解できるのは、文脈があるからに他ならない。この場合、「感謝の意を示す際に使う」という本来の意味に、文脈が先行し、皮肉であることが理解されうる。
ことばの多義性を示す一例である。
だが、この皮肉が通用しない(結果誤解してしまう)人も、おそらく世の中にはいるだろうし、普段から文脈について意識することはない。
これらについて、普段意識することはほとんどない。意識してたら気が狂いそうだからなのか、「自分の考えがちゃんと相手に伝わってるか」に日常で気をかけてみたりはしない。
ここから二つの事実が導かれる。
1、どんなことばにでも、相手に再構成される段階で、誤解される可能性がある。
2、誤解される可能性について、普段はほとんど意識しない。
そしてこの2つの事実じたい、また日常では全く考慮されない。それをいいことに、自分の言いたいことだけを押し付け、相手に誤解を生ませてしまっている例などもある。
そのことばは誰のものか
ここで、読み物に焦点を当ててみよう。読み物とてことばであり、声か文字かの違いしかないはずだ。よって、当然先ほどの2つの事実が効いてくる。
だから誤解が0%になることは絶対にない。(※自然言語について)
これはかなり悲しいが認めるほかあるまい。人間という動物の生物学的限界に起因することばの多義性などが誤解を引き起こすのだから、どうしようもない。
読み物に関し、どんなに努力しても誤解がなくならないのはなぜか。
それは、自分が書いた意見は、文字になって公表された時点で自分だけのものではなくなるからだ。
ことばになった自分の意見を他人が読み、再構成する。その過程で誤解は生まれてしまう。モノの贈与とは違い、自分の意見は他人に渡してもなくならないから「共有」だ。自分の手元を完全に離れることはないにしろ、独占はできまい。
誤解を生みたくないなら、いつまで経っても文章を公表できないことになる。
もっと発展させていうならば、「自分の文章を他人がどう読もうと、それを阻害することはできない」はずだ。
あるヒネクレ者がこの文章を読んで、「なんだ、ブロガーが最高って言いたいのかよ、カス」ということを考え、ブコメに書いたとしても、私はそれを邪魔する権利がない。
自分の意見を文字としてここに書き込んだ時点で、皆さんがそれを再構成(解釈)するのは明白な事実で、そこにことばの多義性という不可避的な要因が絡み、結果として誤解が生まれてしまっても、もはや誰のせいでもないのだ。(強いて言うなら書き手か)
だから阻害の権利がない。
それを身も蓋もない言い方にすると、タイトル通りになる。
書き手が「こう考えてほしい!!」と望み、そう仕向けるように文章を書いたとしても、自分の手を一度離れた文章は他人に如何様にでも解釈されてしまう。
これをよく覚えておいてほしい。
誤解されぬ努力を
何か批判をされたとき、「揚げ足を取られた><」と感じる人は必ず出てくるし、そういうコメント全てを「悪口コメント」と呼ぶ人もいるが、それはおかしいと言わざるを得ない。(一部本当に揚げ足取ってるようなのもあるが……)
自分の書いた文章でいかに誤解が起きやすいかを本当にわかっていれば、「批判は全て悪口粛清だ粛清」というドコゾの北の国のブタさんのような態度をとることなんてできないはずだ。
誤解のない文章を書くにはどうしたらよいか?という真摯な態度が生まれこそすれ、「批判する奴は全員根性がひん曲がってる」なる決めつけが出てくるはずはない……と思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
私は決して「批判を100%全て受け止めろ」と言っているのではない。批判の中には「これだけは誤解されたくない、譲れない」という部分があるに違いない。そういう時は追記でもなんでもして、誤解を解かねばなるまい。
私はそうしているつもりだ。
そういう姿勢がいずれ書き手への信頼性、個性に繋がっていくと信じている。
というわけで今日のまとめ。
1、誤解は書き手の意思に関わらず発生する。
2、そのことについて普段は意識しない。
この二つの事実が原理のように成り立つ。情報を発信する人間は、できれば情報の受け手にその責を擦り付けるのではなく、二つを意識して「誤解をより少なくするようにはどうしたらよいか」という姿勢を模索すると良いと思った。
時には直接言及し「それは誤解です!」と伝えるのも手だろう。
その真剣な態度がいずれ読み手にも伝わっていくに違いない。
追記:途中、理想のコミュニケーションの話をしたが、そもそも考えてることがそのまま伝わるのであれば、ことばというものは必要でなくなるはずだ。「腹減ったなぁ」「腹減ってるのか」という「ことば」も彼らにとっては必要ではない(だから本来は脳内に浮かんだイメージだけで会話してる)わけだが、そこは例え話として、ご理解いただきたい。