シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「等身大のアフリカ」(協力:NPO法人アフリック・アフリカ)です。
人口増加と土地不足を抱えて
アフリカには未開のフロンティアが広がっている、というのはもはや過去の幻想だ。アフリカでは今世紀も引き続き人口増加が予測されており、22世紀前半には人口は40億人、世界の人口の4割がアフリカ人ということになる。こうしたなか、現在のアフリカ社会は、土地豊富経済から土地稀少経済への構造変化を経験しつつある(峯, 2014)。
農村部においても学校教育や医療が普及し、それらに大きな費用がかかるようになった今日、農民は換金作物栽培や余剰生産に精力的に取り組むようになった。その結果、より多くの農地が必要となる反面、限られた土地で相続を繰り返し、土地の狭小化がどんどん進んだ。こうした土地不足の影響で、たとえば焼畑農耕の休閑地や家畜を放牧する草原といった、それまで地域の人びとによってゆるやかに共有されてきた土地が、個人によって囲い込まれるという事例が多数報告されている(山本,2013)。
増え続ける人口と開墾地・・・それらのしわ寄せはどこへ及ぶのだろうか。本稿は、タンザニアの小さな農村を舞台に、土地問題を抱えた他民族による季節湿地の開墾と、都市人口をまかなうためのダム建設計画という、ふたつの出来事に翻弄される人びとの対応を紹介し、アフリカの土地や開発をめぐる現代的な問題について考えたい。
多様な環境の有効利用
わたしは、タンザニアの中央部に位置する首都ドドマから約100キロメートル北に位置するF村で、サンダウェという民族の生業活動と資源利用について研究している。
サンダウェは19世紀中頃まで、遊動しながら狩猟採集を基盤とする生活を送ってきたと考えられている。一方で、家畜や作物がかれらの社会に普及した歴史も比較的古く、19世紀後半にドイツの植民地行政官が訪れた際には、多くのサンダウェはすでに定住し農耕をおこなっていたと報告されている。
サンダウェが暮らす地域は降水量が少ない半乾燥地帯で、他地域のタンザニア人から、「カラカラで、ブッシュ(藪)しかない場所」だといわれている。しかし、実際のこの地域は、地形や土壌成分の細かな差異によって複雑に植生が変わり、狭い地域のなかにも多様な景観が広がっている。そして、そうした自然環境の多様性を活かして、サンダウェは狩猟採集とともに、農耕や小規模な家畜飼養、養蜂などを組み合わせた複合的な生業活動を展開してきた。
かれらは作物の栽培を始めて以来、トウジンビエやモロコシという乾燥に強い雑穀を砂地で栽培してきた。とくにトウジンビエが大好きで、少ない降雨にも耐えてくれるという作物の特性だけでなく、その味や腹持ちを高く評価しており、調理方法もとても多い。しかし1960年代より作物の種類は徐々に増え、サンダウェは、トウジンビエよりずっと味が劣るというトウモロコシを広く栽培するようになった。サンダウェはそれまで、砂地以外はトウジンビエ栽培に不向きだとして農耕に利用してこなかったが、逆にそうした未開墾地がトウモロコシ栽培には適していると、砂地以外にも農地を拓くようになった。
サンダウェご自慢のトウジンビエ
とはいえ、サンダウェにとって季節湿地だけは農地にならなかった。季節湿地の土壌は黒い粘土質で、雨季には水はけが悪く湛水し、一方で乾季になると表層がひび割れるほどに乾く。サンダウェが好きなトウジンビエやモロコシは湿害に弱く、湛水するこの土壌では栽培ができなかった。また、粘土質の土壌は鍬を使って耕すには重労働で、サンダウェはそれを嫌った。
他方、季節湿地にはイネ科の草本が多いことから大型のアンテロープが生息し、それらを狙った狩猟や、ハチミツ採集の場としては非常に有用だった。タンザニアの法律では、狩猟をするには高価な免許取得が義務付けられているが、サンダウェは免許をもたない。しかし、農耕をやりつつも「自分たちは狩猟民だ」と語るかれらにとって、狩猟は社会的にも文化的にも重要であり、こっそりと季節湿地に狩猟に出かけて行き、立派なアンテロープの肉を村にもたらしてくれる人もいる。
スクマの移住と水田開拓
さて、その季節湿地に水田をひらくことを目的に、2000年代後半から、スクマという民族が移住してくるようになった。スクマはタンザニア最大の人口を持つ民族で、多くの家畜を所有するとともに、その畜力を利用して大規模な水田稲作を営む人びととして知られている。
かれらはタンザニア北西部をもともとの居住域としていたが、人口と家畜数の増加やそれにともなう農地・放牧地の不足により、1970年代に入り、その一部が国内各地に移住を開始した(泉, 2013)。ところが、牧畜民が飼養する大量の家畜が国内各地で環境被害を引き起こすことに懸念を抱いたタンザニア政府は、牧畜民にたいして家畜を減らすように求めてきた。
近年では移住をしたスクマが移住先の地域住民と対立する事件も多く、スクマにたいする政府の圧力はますます強まり、しばしば「スクマvs政府」、「スクマvs地元住民」の諍いが報じられてきた。一般的に牧畜民は家畜(スクマの場合はとくにウシ)にたいして文化的に高い価値をおいており、その飼養のために牧草を求めて遊動する。しかし、冒頭で述べたように農地や放牧地の不足が深刻になっている現代において、かれらが移動できる先はかなり減少しており、スクマもまた、今の時代にウシを抱えてどう生きればよいのか模索しているのだ。
サンダウェの居住地域にスクマが増え始めたのは、そうした諍いが他州で起きている頃だった。スクマはサンダウェの居住地域内に続々と移住し、そこに広がる季節湿地に大規模な水田をつくり始めた。先に述べたとおり、サンダウェは季節湿地を狩猟やハチミツ採集の場として利用してきたが、農地としては使ってこなかった。また、少数ながら昔からこの地に暮らしてきたマサイら牧畜民にとっても、家畜の放牧地ではあったが、やはり農地ではなかった。決して「未利用地」ではなかったが、土地利用の体系がサンダウェらと異なるスクマにとっては、「未利用地」に映ったのだろうか。季節湿地はあっという間に水田と化した。
収穫後のスクマの水田で放牧されるスクマのウシ
タンザニアの法律では、すべての土地は国有地であり、そのうちの村土地部分については、村評議会(注1)が管理、配分することになっている。サンダウェの居住地域において、スクマ移住の中心になったのはF村の北隣の2村(M村とB村)で、そのうちB村の村評議会の代表者らは、他県から派遣されてきたサンダウェ以外の民族だった。スクマのなかにはB村の評議会のメンバーに賄賂をわたし、広大な土地の保有権を得た人も少なくなかった。
(注1)村評議会とは、村人によって選ばれた村長を含む村の代表者の集まりのことをいう。
一方、サンダウェの土地保有制度はかなりゆるやかで、基本的には、過去に誰かが利用したことのある土地であれば、その個人あるいは親族に用益権の「交渉」をし、たいていの場合は快諾される。かれらの畑には柵もなければ境界の目印もなく、どこからが誰の畑なのか、かれら自身はわかっていても、新参者にはさっぱりわからない。さらに、本来は伐開前に、村評議会に土地利用の届けを出さなければいけないが、実際にはその手続きをしていない人がとても多い。
このゆるい土地保有制度のなか、農地として利用されない季節湿地ならなおさら「誰のもの」とも認識されず、スクマにとって土地を得ることは容易だっただろう(注2)。季節湿地には次々に水田がつくられ、移住者はどんどん増えて、2012年の人口統計ではB村の過半数世帯が移住者世帯になっていた。
(注2)タンザニアでは現在、土地登記事業が進められているが予算不足もあり全く進んでいない。また、サンダウェがおこなってきたような移動耕作や、家畜を連れて遊動する牧畜民の生活スタイルには、土地を登記し私有化するということ自体が適していない。土地不足は大きな課題であるものの、そこに暮らす人びとの土地利用体系と合致するような対策が求められる。
つのる不満、広がる格差
2013年1月、わたしはスクマの水田を見にB村を訪れた。そこでは、ちょうど田植えがおこなわれていた。話を聞かせてくれたスクマは、わたしにこういった。「サンダウェに稲作はできないよ、かれらは泥に入って作業することを嫌がるし、なんといってもサンダウェは働かないじゃないか。」
当時、身近でスクマが稲作をおこなうようになっていたとはいえ、数人を除いて稲作に参加することはなかった。むしろ他州におけるスクマと地元住民との対立をラジオで耳にしていたサンダウェたちは、自分たちの居住地域へもスクマがやって来たことに困惑していた。
サンダウェのなかにもスクマと早々に友好関係を結び、かれらがつくったコメと自分がつくったトウモロコシを交換したり、かれらがつくったコメを買いとってさっそく自分の売店で販売したりする人もいた。しかしそうした個人的な関係を越えて、「スクマ一般」について語るとき、サンダウェの口から出るのは不満ばかりだった。「このままだと、自分たちの子どもの世代には土地がなくなってしまう」と。
そしてついに、B村でも2014年8月に事件が起きてしまった。サンダウェと近隣民族の青年が結託して、ブッシュのなかからスクマ男性に弓矢を放ち殺害したのだ。噂によると、土地をめぐる諍い、女性をめぐる諍い、スクマがサンダウェを「怠け者」とバカにしたなど、いくつもの原因が積み重なった結果だという。この事件によってサンダウェの弓矢を恐れたスクマのなかには、B村を去った人も少なくなかった。毎日のように、街へ向かうスクマのウシ群がF村を通過していき、「これでいなくなるね」と安堵するサンダウェもいた。
この事件後、B村の村評議会のメンバーが、賄賂の見返りとしてスクマに広大な土地の保有権を与えたことが発覚した。県政府はその評議会メンバーを更迭し、サンダウェの怒りの矛先も、いつしかスクマからこの評議会メンバーへと移っていった。しかし、たとえ怒りの対象が誰になったとしても、水田がもとの季節湿地に戻るわけではなかった。また、多くのスクマは事件後にいったん去ったものの、しばらくすると戻ってきて、さらに水田を拡大するために、今度は安価でサンダウェから土地を買うようになった。
ウシをもち、コメを販売するスクマと、市場価値の低い雑穀を小規模に栽培するサンダウェとでは、経済格差は広がる一方で、B村のサンダウェのなかにはスクマに土地を売り、村の中心部から離れたブッシュの中へと移住していった人たちもいたという。そしてスクマは相変わらず今日もB村とその近郊で水田稲作と牧畜を続けており、今ではB村の村長までもが、サンダウェではなく移住者になった。【次ページにつづく】
田植えをするB村のスクマ