「マスタリング・エンジニアが教える 音楽の聴き方と作り方 (CD-EXTRA付き) 」小泉 由香 (著)
この本の感想、というより、私が重要だなと思った箇所について、メモしておきたいというのがこの記事の趣旨です。
筆者の小泉由香氏については、以下の記事も参考になります。
インタビュー劇場 小泉由香(オレンジ) その一 |日本製のみの市
ハイレゾ版『First Love/宇多田ヒカル』徹底研究 〈前編〉~マスタリング・エンジニアと探る、テッド・ジェンセン氏のハイレゾ・リマスター
この本の趣旨は、マスタリングとは何か、ということですが、専門用語や機材の説明のようなとっつきにくい薀蓄のようなものはなく、平易で分かり易い本になっています。
が、音の奥行き、位相、音圧等の言葉は、抽象的なのでハードル高いかも知れません。かと言って核心となる部分なので省くわけにもいきません。そこで付属のCDでマスタリングの異なるトラックを聞き比べることで、同じ曲だが奥行きのあるトラックとないトラック等の聞き比べができるようになっています。個人的には、このCDを聞くのはとても面白かったです。
話を戻すと、そういう主軸となるマスタリング作業の話と別に、マスタリング現場の雰囲気、ミュージシャンとのやりとりなどについての対談などが大変興味深く、昨今の音楽業界の闇をさりげなく伝えていて重要だと思いました。
決して声高に批判するようなことはしていないし、したところで自身に跳ね返ってくることもよくご存知でしょう。そもそも、音質という抽象的で形のないものにおいては、自分の考える「良い音」、そして「音をよくする方法」が、絶対ということは誰にもできません。そのため、この本では筆者の問題意識はさりげない言葉の端々に間接的に示されるに留まっています。
この記事でそういう断片的な言葉を拾っていきたいと思います。では以下に。
(1)「録音スタジオで仕事をする人達はコントロール・ルームでもヘッドホンで仕事をしているという誤ったイメージを持っている人がたまにいます」
筆者はスピーカーでモニターを行なう理由を3つ挙げています。
1.部屋の空気の振動も音楽を構成する重要な要素である。「どういう風に聞こえるか」をモニターしているわけですから、部屋の残響まで含めてチェックしないといけないということです。
2.ヘッドホンは周波数帯域が十分でない。これはハイレゾの話でも重要ですが、仮に数字の上で十分なスペックがあっても、ヘッドホンでは音が耳の周辺にこもるため実用的な意味でのワイドレンジにはならないと思います。
3.スピーカーは前方に距離を置いて聞くものです。それに合わせて定位を考えるのだから、耳の真横から音が出るヘッドホンでは定位が大きく崩れてしまいます。(これもハイレゾを聞く時に重要な問題の1つです)
(2)「自分のシステムの限界点を知っておく」
意味は、自分の使っているステレオの音場の広さの限界をいろんな音楽を聞いて覚えておこうということですが。逆に言えば、使っているリスニング装置によって音場の広さは違う、更に、聞いている音楽によって形成される音場が異なる。
この音場を形成する2つの要素が混ざり合って聞こえるわけですので、今聞いてる音場が、どこまで装置によるもので、どこから楽曲によるものかを知るためには、使っている装置の音場の広さの限界というものをあらかじめ知っておく必要があるということです。
(3)「マスキング効果」
前後に楽器が配置されていると、後ろの楽器の音は聞こえない、というようなことです。
MP3やAACはこの効果によって「聞こえない音はなくてもよい」という判断で音を削っています。
「MP3は圧縮するので音が悪い」と言われていますが、なぜ音が悪いのかを知っておく事は大事で、全体になんとなく削っているのではなくて、特定の「聞こえない音」を抽出して削るという高度なことを行なっているのです。知っていましたか?
(4)「あなたは視覚派? 体感派?」
マスタリング技師は実際には、人によって仕事の方法論が異なります。なのでマスタリング技師が皆、筆者と同じ作業をしているわけでもなければ、同じ考え方をしているわけではありません。
世の中には「音楽家は」とか「マスタリングエンジニアは」とか、主語を大きくして、皆が同じだという決め付けを行なう人が多数います。ジョークなら許されるかもしれませんが、これは書籍なのでそういう態度では無責任になります。
「視覚派」は目の前のスピーカーを基準に音場にどう楽器が展開するかを聞いてバランスを調整するという仕事をする人であり、「体感派」とは自分の「耳」にどう聞こえるかという印象、要は音色を基準に調整する人を指します。結果、マスタリングと言っても全く違う作業をしていることになりますが、仕事を依頼する人がその結果に満足するなら、方法論は問わないわけです。
筆者は自分の方が正しい仕事のやり方であるとは主張していませんし、読者に自分のやり方が唯一だと押し付ける気もないので、異なるやり方を選んでも良いのだということです。
(5)「レコードの時代は何をするにしても、”レベルは自分で調整する”のが当たり前だったのです」
音圧競争の話。「音量の差」というのは普段はあまり気にしないかもしれませんが、気にしないからこそ、プレイリストで曲を連続再生していると、あからさまな音量の差にハッと驚いたりします。
リスナーとしては、BGMに気を取られることなく、同じ気分、静かな気分だったりノリノリにテンションを上げていたりしたいので、音量を上げ下げしなきゃというのは、白ける行為になってしまう。それくらい、音楽を聴くのに手間がかからないのが当たり前な時代になってしまったということです。
昔は異なるアルバムの楽曲の音量が違ったら、自分で録音するときに調整していたのでそんな問題にならなかった。今は適当に楽曲データを選択してリストに並べるだけですし、音量を調整する機能自体ありません(昨今ではそういう機能をつけている機器も登場しているようです)。
これが音圧競争の最大の理由であって、迫力を出したいとかは本質ではない、と述べています。
音量を調節しないで並べているなら、音のでかい楽曲が目立つ。良い音に聞こえる、ということですね。
(6)「私の知っているマスタリング・エンジニアで、ノーマライズやマキシマイズを使っている人は1人もいません」
「最近海外では、「ミックスでマキシマイズを使うより、アーティストとよくコミュニケーションをとって、マキシマイズしなくても大丈夫だよと、しっかり説明することが重要だ」ということが話題になっています」とのことです。
アーティストが、トラックダウンが終った仮CDを再生して、他のCDと音量を比べてしまうのだそうです。トラックダウン後というのはマスタリング前なので、まだ音量調整が済んでいません。すると、完成品として世に出ているCDより音が小さいということになります。そのためマスタリング前のミックスの段階で音を大きくしてくれと要望が出て、もはやマスタリング段階では手の施しようがない、ということが起きるのだそうで。
マスタリングでも、もちろん音量は小さく出来ますが、ミックスバランスがめちゃくちゃになったら、それは戻りません。ミックスで音量を上げて音が団子になったら、後から音を小さくしても団子のままだということです。
これを海外の話として紹介しているのが、心憎いですね。
(7)「ミックスの上がりをクライアントさんに渡すときに、「ちゃんとCDプレーヤーで聞いてくださいね」みたいな念押しはする?」
対談中の発言。CDで渡したのに、iTunesでmp3にリッピングして聞くミュージシャンがいるみたいですよ。それで、感想を言ってくるわけですね、もっとこうして欲しいと。
(8)「バウンスしたファイルは聞いて確認しないといけないですね」
バウンス(オーディオファイルの書き出し)で音が変わるとのこと。PCの負荷によるのではないかと考えておられます。作業量が大きいと変化が大きい、PCを再起動してから行なうと違いが出る等々。何回もバウンスして聞き比べたりもするとのこと。
レンダリングも同じ意味で使われます(エフェクト等をかけた結果を書き出して反映する)が、某マスタリング技師は音が劣化するのでレンダリングを極力しないそうです。
(9)「一時期、バウンスで「プツン」というノイズが入ることがかなりあったのね、それでエンジニアさんに確認してみると、やはりプレイバックしていなかったって」
プチノイズが入ってたらリスナーなら「音割れ」と思うでしょうね。まさか、制作側が聞いてない、知らない、なんてことがあるとは思いませんでした。
それ以前にバウンスでプチノイズが混入する、なんてことが、ありうるということが、そもそも現場でさえも知られていないのでしょうね。デジタルだから変わらないと思ってるでしょうし。
ちなみに、このようなバウンス段階での問題に気付かないままレコーディングやミックスが既に終了してしまったらやり直しできないため、マスタリング技師は四苦八苦するようです。
(10)「DAWを導入したのは、録音よりもマスタリングの方が先でした」
アナログマスターの音をPCに読み込んでデジタル化すると、ノイズを取るのに大いに役立ったそうです。ノイズの電気的な逆相を作り出して打ち消すとかできたそうな。
確かに一時期「デジタルリマスター」という言葉がよく売りとして宣伝されました。「デジタル録音」と別に「アナログのデジタルリマスター」という文化が育って、それが粗悪なリマスターの濫造という歴史に繋がったのかな、とか思います。
(11)「各トラックで気になるピークをコントロールしてあるものや、いやなピークが立たないように録音時から工夫されているものは、あまり問題なく自然とレベルの大きい上がりになっていきます」
マスタリングで何とかするだろう、ではなくて、録音、ミックス段階で工夫をされていれば、最終的な音圧感も出せるということ。
海苔波形は限界まで音量が上がって見えますが、問題はトータルの音量の大きさではなくて、何の音量が上がったかでしょう。
無駄にピークの多いミックスでトータルの音量を上げればクリップが増加して聞くに堪えないことになるでしょうし、ミックスに奥行きがなければ、目立たせたい楽器の音を前に出すこともできず、迫力が出ません。真の音圧は最終波形の見た目ではなくて、録音、ミックス段階で決まるということです。
(12)「"自分の適性ボリューム感"を持ちましょう」
音量を上げると音は潰れて行きます。耳も麻痺します。何よりも、音が大きいと良い音に聞こえる、これが判断ミスに繋がる。大音量なら細かい音も聞こえる、ではなくて、自分の耳で細部がよく聞こえる適正音量があるとのこと。
ちなみに筆者はオーディオメーカーの鈴木氏との対談時にも「作業時のモニターの音が小さくて驚いた」と言われています。
(13)「聴感レベルはマスタリングの基本」
これは複数の曲の音量を揃えるというときに、数字ではなく、自分の耳で音量感を揃えることができないといけない、ということです。自分の耳だけでやるということは、誰も正解を保証してはくれないということですから、耳とセンスが全てということになります。なるほど、これができないようでは、話にならないということでしょう。
音量感というのは、ミックスやイコライザで変わる、つまり定位や周波数特性で変わってきます。逆に言えば、数字の上で同じ音量になっていても聴感では違って聞こえるので、聴感の方に合わせないといけないということ。
敷衍して言うなら、音圧感の出せるミックスなら、やたら物理的な音量を上げる必要はないということですね。
(14)「オレンジでは音の補正についてはアナログで行い、DAWに録り込んだ後は一切いじらないようにしています」
「オレンジ」は筆者のマスタリングスタジオ。デジタルで補正をすると書き出したときにどんな変化が起きるのか予測がつかないから、ということらしいです。
そのため、デジタル録音された音源であっても、一旦アナログで出して、デジタルに戻したらもういじらない。とのこと。実質、アナログ・マスタリングだということですね。
但し、ADコンバーターは2種類あって、両方で書き出して、アーティストに聞いてもらってどちらにするかを決めてもらうそうです。
デジタル録音だったらアナログに劣化させなくても、と私も思いましたが、逆にここまで徹底していると、「デジタルだから変わらない」と盲信しないという意味では信頼できるなと思いました。
アナログ機器による変化というのは予測がしやすいです。だからこそ対策も立て易い。
デジタルの変化はどうなるかわからない、というのが真実です。建前上は変わらないはずですから、音が変わっているとなっても理由とか想像しようもない。だからデジタルは使いたくないというのは理解できます。
(15)「本当は僕らも突っ込みたくはないっていうか……。奥行きとかで聞かせたいんですけど、結局、いまの若者の好みに合わせるとそうせざるを得ないっていう現状なんですよね」
「残響レコード」の河野さんの発言。私の知る限り、音楽家がレベルを突っ込む理由は、プロデューサーに言われたとかマスタリングが下手とかではなくて、自分が好きか、あるいはリスナーが求めると言うかのどちらかですね。
では音楽家に対して音圧競争を話題にしているのは誰かと言うと、評論家と、マスタリング技師ですね。
ユーザーが音圧競争を問題視している、なんて話は、彼らの耳から聞いたことがありません。どうも音質を気にするリスナーというのは、存在しないことになっているようです。
(16)「やっぱり奥行きって、奥行き感が分かる人とじゃないと話ができないし……。」
これは筆者。業界にいる人が、自分が仕事上いちばん重視している点について「話ができない」と感じることがあるんだなあと。
(17)「遠いって感覚も、単に「ぬるい」とか言われちゃうと困ってしまう。「いや、それは奥行きなんだけど」って……。本当は奥行きって普通にあるものなんだけど、それが分かってもらえなかったりしますもんね」
「奥行き」は普通にあるもの。どうでしょうか、普通にあるものだと思いますか。恐らくは、この小泉さんの感覚は、イヤホンで聞く多くのリスナーには通用しないのではないでしょうか。彼女の抱く絶望感がじんわりと伝わってくる気がします。
(18)「奥行きがあると、削られてもまだあるよっていう」
「残響レコード」の川面氏。筆者との対談の中で、mp3で圧縮されるとレンジ感も奥行き感も削られる。だからと言って狭い範囲に音をまとめるのではなくて、逆に奥行きがある方が、圧縮されても削られないという話へのリアクション。レベルも上げすぎると劣化が激しいそうです。
つまり、音圧競争は、実はmp3に向いているようで実際には反対である、と。
mp3で聞くのは、音数が少なく音場に余裕がある方が良いというのは、私の経験でもそう思います。mp3で聞くと、音場が広くても小さくまとまってしまいますが、音場が小さくまとまった曲だと、もっと小さい音場になります。
(19)「僕がよくバンドに言っているのは、「自分が鳴らしている音ではなく、スタジオのスピーカーから聞こえるものを自分が鳴らしている音だと思え」ということ。」
河野氏。理屈ではわかっていても、これがわからない人は音楽家に限らず多いのではないかと思います。つまり、音質なんて環境が変われば変わってしまうものだということ。
自分で楽器を録音すると当然、生音より劣化します。それを他人に聞かせるときに、「本当はもっと良い音なんだよ」と思ったところで、相手にはわからない。
自分の記憶には生音が存在しているから、劣化した音を聞いても良い方に補正がかかります。相手にはそんなことは起きないんだと言う事は、なかなか思いやれないことではないでしょうか。
(20)「いまはすごくコンプをかけたものが持ち込まれるんですけど、そういうものをここで聴くと、なんか小さいんですよ」
音に強弱があった方が、平均では大きな音ではなくても聴感として大音量に感じる、という話。
(21)「日本のロックって音像がスピーカーにべったりしてるんですよ」
オーディオメーカーの鈴木氏。洋楽は空間が広くて、その方が音量も大きく聞こえるという話。
(22)「96KHzもやっぱりPCMだなっていう感じはありましたね」
ここでいうPCMとはCDの音の延長、という意味です。「ハイレゾはアナログに近い」なんてことは筆者は言わないということ。
(23)「CDの方が全然良いじゃんっていうものになりかねない危険性がありますよね。奇麗なだけで終ってしまっては、ここに残らないですから」
ハイレゾ話。ガッツがないんだそうです。ただ、音質重視の方に行って欲しい気持ちはあるから、ハイレゾもマスタリングするし、CDの方がいいとは言われたくないという気持ちはあるそうな。
(24)「歌にピッチ補正ソフトをかけた途端に、ミックスをしていると全然前に出てこなくなる」
エンジニアの山田氏。歌が前に出てこなくなる、存在感がなくなって、結局いろんなエフェクトで音をいじることになるので困るそうな。また、子供の合唱って、複数のずれた声が混ざるのがいいのに、(歌唱力をごまかすために)必ず補正ソフトをかけるから、音が被って歪んで気持ち悪いそうです。
(25)「「いやぁ、これってどうなの??」なんて言っても、それはもう成り立たないし、そんなことを言っていられない事情もたくさんある」
山田氏のピッチ補正ソフトの話の続き。つまり自分が嫌でも周囲が気にしないし、反対したくても仕切れない、と。
(26)「歌のうまい人なんかは、マイクとの距離を自分で調整するから、コンプレッサーなんて要らないですし」
ミキサーの山内氏。この方は歌が小さいと思ったら音量を上げるのではなくて、「大きな声で歌って」と要望するのだそうです。そりゃ、音をいじらないで人間の方が合わせる方が音は良くなりますよね。
この山内氏であっても、ピッチ補正には抗い切れないそうです、かと言って使ったらオケに馴染まなくて困ると。根深い問題みたいですね。
尚、音圧競争については、「小さければ、ボリュームを上げれば良いじゃんっていうね。」だそうです。
以上。
このようにまとめていくとデジタルレコーディング及び、音圧競争、ピッチ補正と様々な問題提起がされている本だとわかるのではないでしょうか。
本としてのテーマはあくまでマスタリングのやり方の説明で、ページの大部分はそのために割かれています。が、昨今の音圧競争を初めとする、マスタリングの問題に興味のある人にとっては大変読み応えのある本ではないかと思い、こうしてまとめさせていただきました。ここまで読んでくださった方にとって少しでも引っ掛かりがあれば幸いです。
ではでは。
この本の感想、というより、私が重要だなと思った箇所について、メモしておきたいというのがこの記事の趣旨です。
筆者の小泉由香氏については、以下の記事も参考になります。
インタビュー劇場 小泉由香(オレンジ) その一 |日本製のみの市
ハイレゾ版『First Love/宇多田ヒカル』徹底研究 〈前編〉~マスタリング・エンジニアと探る、テッド・ジェンセン氏のハイレゾ・リマスター
この本の趣旨は、マスタリングとは何か、ということですが、専門用語や機材の説明のようなとっつきにくい薀蓄のようなものはなく、平易で分かり易い本になっています。
が、音の奥行き、位相、音圧等の言葉は、抽象的なのでハードル高いかも知れません。かと言って核心となる部分なので省くわけにもいきません。そこで付属のCDでマスタリングの異なるトラックを聞き比べることで、同じ曲だが奥行きのあるトラックとないトラック等の聞き比べができるようになっています。個人的には、このCDを聞くのはとても面白かったです。
話を戻すと、そういう主軸となるマスタリング作業の話と別に、マスタリング現場の雰囲気、ミュージシャンとのやりとりなどについての対談などが大変興味深く、昨今の音楽業界の闇をさりげなく伝えていて重要だと思いました。
決して声高に批判するようなことはしていないし、したところで自身に跳ね返ってくることもよくご存知でしょう。そもそも、音質という抽象的で形のないものにおいては、自分の考える「良い音」、そして「音をよくする方法」が、絶対ということは誰にもできません。そのため、この本では筆者の問題意識はさりげない言葉の端々に間接的に示されるに留まっています。
この記事でそういう断片的な言葉を拾っていきたいと思います。では以下に。
(1)「録音スタジオで仕事をする人達はコントロール・ルームでもヘッドホンで仕事をしているという誤ったイメージを持っている人がたまにいます」
筆者はスピーカーでモニターを行なう理由を3つ挙げています。
1.部屋の空気の振動も音楽を構成する重要な要素である。「どういう風に聞こえるか」をモニターしているわけですから、部屋の残響まで含めてチェックしないといけないということです。
2.ヘッドホンは周波数帯域が十分でない。これはハイレゾの話でも重要ですが、仮に数字の上で十分なスペックがあっても、ヘッドホンでは音が耳の周辺にこもるため実用的な意味でのワイドレンジにはならないと思います。
3.スピーカーは前方に距離を置いて聞くものです。それに合わせて定位を考えるのだから、耳の真横から音が出るヘッドホンでは定位が大きく崩れてしまいます。(これもハイレゾを聞く時に重要な問題の1つです)
(2)「自分のシステムの限界点を知っておく」
意味は、自分の使っているステレオの音場の広さの限界をいろんな音楽を聞いて覚えておこうということですが。逆に言えば、使っているリスニング装置によって音場の広さは違う、更に、聞いている音楽によって形成される音場が異なる。
この音場を形成する2つの要素が混ざり合って聞こえるわけですので、今聞いてる音場が、どこまで装置によるもので、どこから楽曲によるものかを知るためには、使っている装置の音場の広さの限界というものをあらかじめ知っておく必要があるということです。
(3)「マスキング効果」
前後に楽器が配置されていると、後ろの楽器の音は聞こえない、というようなことです。
MP3やAACはこの効果によって「聞こえない音はなくてもよい」という判断で音を削っています。
「MP3は圧縮するので音が悪い」と言われていますが、なぜ音が悪いのかを知っておく事は大事で、全体になんとなく削っているのではなくて、特定の「聞こえない音」を抽出して削るという高度なことを行なっているのです。知っていましたか?
(4)「あなたは視覚派? 体感派?」
マスタリング技師は実際には、人によって仕事の方法論が異なります。なのでマスタリング技師が皆、筆者と同じ作業をしているわけでもなければ、同じ考え方をしているわけではありません。
世の中には「音楽家は」とか「マスタリングエンジニアは」とか、主語を大きくして、皆が同じだという決め付けを行なう人が多数います。ジョークなら許されるかもしれませんが、これは書籍なのでそういう態度では無責任になります。
「視覚派」は目の前のスピーカーを基準に音場にどう楽器が展開するかを聞いてバランスを調整するという仕事をする人であり、「体感派」とは自分の「耳」にどう聞こえるかという印象、要は音色を基準に調整する人を指します。結果、マスタリングと言っても全く違う作業をしていることになりますが、仕事を依頼する人がその結果に満足するなら、方法論は問わないわけです。
筆者は自分の方が正しい仕事のやり方であるとは主張していませんし、読者に自分のやり方が唯一だと押し付ける気もないので、異なるやり方を選んでも良いのだということです。
(5)「レコードの時代は何をするにしても、”レベルは自分で調整する”のが当たり前だったのです」
音圧競争の話。「音量の差」というのは普段はあまり気にしないかもしれませんが、気にしないからこそ、プレイリストで曲を連続再生していると、あからさまな音量の差にハッと驚いたりします。
リスナーとしては、BGMに気を取られることなく、同じ気分、静かな気分だったりノリノリにテンションを上げていたりしたいので、音量を上げ下げしなきゃというのは、白ける行為になってしまう。それくらい、音楽を聴くのに手間がかからないのが当たり前な時代になってしまったということです。
昔は異なるアルバムの楽曲の音量が違ったら、自分で録音するときに調整していたのでそんな問題にならなかった。今は適当に楽曲データを選択してリストに並べるだけですし、音量を調整する機能自体ありません(昨今ではそういう機能をつけている機器も登場しているようです)。
これが音圧競争の最大の理由であって、迫力を出したいとかは本質ではない、と述べています。
音量を調節しないで並べているなら、音のでかい楽曲が目立つ。良い音に聞こえる、ということですね。
(6)「私の知っているマスタリング・エンジニアで、ノーマライズやマキシマイズを使っている人は1人もいません」
「最近海外では、「ミックスでマキシマイズを使うより、アーティストとよくコミュニケーションをとって、マキシマイズしなくても大丈夫だよと、しっかり説明することが重要だ」ということが話題になっています」とのことです。
アーティストが、トラックダウンが終った仮CDを再生して、他のCDと音量を比べてしまうのだそうです。トラックダウン後というのはマスタリング前なので、まだ音量調整が済んでいません。すると、完成品として世に出ているCDより音が小さいということになります。そのためマスタリング前のミックスの段階で音を大きくしてくれと要望が出て、もはやマスタリング段階では手の施しようがない、ということが起きるのだそうで。
マスタリングでも、もちろん音量は小さく出来ますが、ミックスバランスがめちゃくちゃになったら、それは戻りません。ミックスで音量を上げて音が団子になったら、後から音を小さくしても団子のままだということです。
これを海外の話として紹介しているのが、心憎いですね。
(7)「ミックスの上がりをクライアントさんに渡すときに、「ちゃんとCDプレーヤーで聞いてくださいね」みたいな念押しはする?」
対談中の発言。CDで渡したのに、iTunesでmp3にリッピングして聞くミュージシャンがいるみたいですよ。それで、感想を言ってくるわけですね、もっとこうして欲しいと。
(8)「バウンスしたファイルは聞いて確認しないといけないですね」
バウンス(オーディオファイルの書き出し)で音が変わるとのこと。PCの負荷によるのではないかと考えておられます。作業量が大きいと変化が大きい、PCを再起動してから行なうと違いが出る等々。何回もバウンスして聞き比べたりもするとのこと。
レンダリングも同じ意味で使われます(エフェクト等をかけた結果を書き出して反映する)が、某マスタリング技師は音が劣化するのでレンダリングを極力しないそうです。
(9)「一時期、バウンスで「プツン」というノイズが入ることがかなりあったのね、それでエンジニアさんに確認してみると、やはりプレイバックしていなかったって」
プチノイズが入ってたらリスナーなら「音割れ」と思うでしょうね。まさか、制作側が聞いてない、知らない、なんてことがあるとは思いませんでした。
それ以前にバウンスでプチノイズが混入する、なんてことが、ありうるということが、そもそも現場でさえも知られていないのでしょうね。デジタルだから変わらないと思ってるでしょうし。
ちなみに、このようなバウンス段階での問題に気付かないままレコーディングやミックスが既に終了してしまったらやり直しできないため、マスタリング技師は四苦八苦するようです。
(10)「DAWを導入したのは、録音よりもマスタリングの方が先でした」
アナログマスターの音をPCに読み込んでデジタル化すると、ノイズを取るのに大いに役立ったそうです。ノイズの電気的な逆相を作り出して打ち消すとかできたそうな。
確かに一時期「デジタルリマスター」という言葉がよく売りとして宣伝されました。「デジタル録音」と別に「アナログのデジタルリマスター」という文化が育って、それが粗悪なリマスターの濫造という歴史に繋がったのかな、とか思います。
(11)「各トラックで気になるピークをコントロールしてあるものや、いやなピークが立たないように録音時から工夫されているものは、あまり問題なく自然とレベルの大きい上がりになっていきます」
マスタリングで何とかするだろう、ではなくて、録音、ミックス段階で工夫をされていれば、最終的な音圧感も出せるということ。
海苔波形は限界まで音量が上がって見えますが、問題はトータルの音量の大きさではなくて、何の音量が上がったかでしょう。
無駄にピークの多いミックスでトータルの音量を上げればクリップが増加して聞くに堪えないことになるでしょうし、ミックスに奥行きがなければ、目立たせたい楽器の音を前に出すこともできず、迫力が出ません。真の音圧は最終波形の見た目ではなくて、録音、ミックス段階で決まるということです。
(12)「"自分の適性ボリューム感"を持ちましょう」
音量を上げると音は潰れて行きます。耳も麻痺します。何よりも、音が大きいと良い音に聞こえる、これが判断ミスに繋がる。大音量なら細かい音も聞こえる、ではなくて、自分の耳で細部がよく聞こえる適正音量があるとのこと。
ちなみに筆者はオーディオメーカーの鈴木氏との対談時にも「作業時のモニターの音が小さくて驚いた」と言われています。
(13)「聴感レベルはマスタリングの基本」
これは複数の曲の音量を揃えるというときに、数字ではなく、自分の耳で音量感を揃えることができないといけない、ということです。自分の耳だけでやるということは、誰も正解を保証してはくれないということですから、耳とセンスが全てということになります。なるほど、これができないようでは、話にならないということでしょう。
音量感というのは、ミックスやイコライザで変わる、つまり定位や周波数特性で変わってきます。逆に言えば、数字の上で同じ音量になっていても聴感では違って聞こえるので、聴感の方に合わせないといけないということ。
敷衍して言うなら、音圧感の出せるミックスなら、やたら物理的な音量を上げる必要はないということですね。
(14)「オレンジでは音の補正についてはアナログで行い、DAWに録り込んだ後は一切いじらないようにしています」
「オレンジ」は筆者のマスタリングスタジオ。デジタルで補正をすると書き出したときにどんな変化が起きるのか予測がつかないから、ということらしいです。
そのため、デジタル録音された音源であっても、一旦アナログで出して、デジタルに戻したらもういじらない。とのこと。実質、アナログ・マスタリングだということですね。
但し、ADコンバーターは2種類あって、両方で書き出して、アーティストに聞いてもらってどちらにするかを決めてもらうそうです。
デジタル録音だったらアナログに劣化させなくても、と私も思いましたが、逆にここまで徹底していると、「デジタルだから変わらない」と盲信しないという意味では信頼できるなと思いました。
アナログ機器による変化というのは予測がしやすいです。だからこそ対策も立て易い。
デジタルの変化はどうなるかわからない、というのが真実です。建前上は変わらないはずですから、音が変わっているとなっても理由とか想像しようもない。だからデジタルは使いたくないというのは理解できます。
(15)「本当は僕らも突っ込みたくはないっていうか……。奥行きとかで聞かせたいんですけど、結局、いまの若者の好みに合わせるとそうせざるを得ないっていう現状なんですよね」
「残響レコード」の河野さんの発言。私の知る限り、音楽家がレベルを突っ込む理由は、プロデューサーに言われたとかマスタリングが下手とかではなくて、自分が好きか、あるいはリスナーが求めると言うかのどちらかですね。
では音楽家に対して音圧競争を話題にしているのは誰かと言うと、評論家と、マスタリング技師ですね。
ユーザーが音圧競争を問題視している、なんて話は、彼らの耳から聞いたことがありません。どうも音質を気にするリスナーというのは、存在しないことになっているようです。
(16)「やっぱり奥行きって、奥行き感が分かる人とじゃないと話ができないし……。」
これは筆者。業界にいる人が、自分が仕事上いちばん重視している点について「話ができない」と感じることがあるんだなあと。
(17)「遠いって感覚も、単に「ぬるい」とか言われちゃうと困ってしまう。「いや、それは奥行きなんだけど」って……。本当は奥行きって普通にあるものなんだけど、それが分かってもらえなかったりしますもんね」
「奥行き」は普通にあるもの。どうでしょうか、普通にあるものだと思いますか。恐らくは、この小泉さんの感覚は、イヤホンで聞く多くのリスナーには通用しないのではないでしょうか。彼女の抱く絶望感がじんわりと伝わってくる気がします。
(18)「奥行きがあると、削られてもまだあるよっていう」
「残響レコード」の川面氏。筆者との対談の中で、mp3で圧縮されるとレンジ感も奥行き感も削られる。だからと言って狭い範囲に音をまとめるのではなくて、逆に奥行きがある方が、圧縮されても削られないという話へのリアクション。レベルも上げすぎると劣化が激しいそうです。
つまり、音圧競争は、実はmp3に向いているようで実際には反対である、と。
mp3で聞くのは、音数が少なく音場に余裕がある方が良いというのは、私の経験でもそう思います。mp3で聞くと、音場が広くても小さくまとまってしまいますが、音場が小さくまとまった曲だと、もっと小さい音場になります。
(19)「僕がよくバンドに言っているのは、「自分が鳴らしている音ではなく、スタジオのスピーカーから聞こえるものを自分が鳴らしている音だと思え」ということ。」
河野氏。理屈ではわかっていても、これがわからない人は音楽家に限らず多いのではないかと思います。つまり、音質なんて環境が変われば変わってしまうものだということ。
自分で楽器を録音すると当然、生音より劣化します。それを他人に聞かせるときに、「本当はもっと良い音なんだよ」と思ったところで、相手にはわからない。
自分の記憶には生音が存在しているから、劣化した音を聞いても良い方に補正がかかります。相手にはそんなことは起きないんだと言う事は、なかなか思いやれないことではないでしょうか。
(20)「いまはすごくコンプをかけたものが持ち込まれるんですけど、そういうものをここで聴くと、なんか小さいんですよ」
音に強弱があった方が、平均では大きな音ではなくても聴感として大音量に感じる、という話。
(21)「日本のロックって音像がスピーカーにべったりしてるんですよ」
オーディオメーカーの鈴木氏。洋楽は空間が広くて、その方が音量も大きく聞こえるという話。
(22)「96KHzもやっぱりPCMだなっていう感じはありましたね」
ここでいうPCMとはCDの音の延長、という意味です。「ハイレゾはアナログに近い」なんてことは筆者は言わないということ。
(23)「CDの方が全然良いじゃんっていうものになりかねない危険性がありますよね。奇麗なだけで終ってしまっては、ここに残らないですから」
ハイレゾ話。ガッツがないんだそうです。ただ、音質重視の方に行って欲しい気持ちはあるから、ハイレゾもマスタリングするし、CDの方がいいとは言われたくないという気持ちはあるそうな。
(24)「歌にピッチ補正ソフトをかけた途端に、ミックスをしていると全然前に出てこなくなる」
エンジニアの山田氏。歌が前に出てこなくなる、存在感がなくなって、結局いろんなエフェクトで音をいじることになるので困るそうな。また、子供の合唱って、複数のずれた声が混ざるのがいいのに、(歌唱力をごまかすために)必ず補正ソフトをかけるから、音が被って歪んで気持ち悪いそうです。
(25)「「いやぁ、これってどうなの??」なんて言っても、それはもう成り立たないし、そんなことを言っていられない事情もたくさんある」
山田氏のピッチ補正ソフトの話の続き。つまり自分が嫌でも周囲が気にしないし、反対したくても仕切れない、と。
(26)「歌のうまい人なんかは、マイクとの距離を自分で調整するから、コンプレッサーなんて要らないですし」
ミキサーの山内氏。この方は歌が小さいと思ったら音量を上げるのではなくて、「大きな声で歌って」と要望するのだそうです。そりゃ、音をいじらないで人間の方が合わせる方が音は良くなりますよね。
この山内氏であっても、ピッチ補正には抗い切れないそうです、かと言って使ったらオケに馴染まなくて困ると。根深い問題みたいですね。
尚、音圧競争については、「小さければ、ボリュームを上げれば良いじゃんっていうね。」だそうです。
以上。
このようにまとめていくとデジタルレコーディング及び、音圧競争、ピッチ補正と様々な問題提起がされている本だとわかるのではないでしょうか。
本としてのテーマはあくまでマスタリングのやり方の説明で、ページの大部分はそのために割かれています。が、昨今の音圧競争を初めとする、マスタリングの問題に興味のある人にとっては大変読み応えのある本ではないかと思い、こうしてまとめさせていただきました。ここまで読んでくださった方にとって少しでも引っ掛かりがあれば幸いです。
ではでは。
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