この世には2種類の人間がいる。
エレベーターのボタンを「絶対押すマン」と「絶対押さないマン」である。
絶対押すマンである私は、絶対押さないマンに嫌悪感を抱いていたのだが、ここ最近この事柄について深く掘り下げてみると衝撃の真相が見えてきたのだ。
- 絶対押すマンの最低限のマナー
- 絶対押さないマンの出現
- エレベーターボタン善悪説の展開
- 超身近に絶対押さないマンが居た
- 絶対押さないマンの主張
- 物事を多方面から見る大切さ
- 心に余裕が生まれ生活が楽になる
絶対押すマンの最低限のマナー
かれこれ30年この世に生を受けてからというものエレベーターのボタンを率先して押し続けてきた絶対押すマンの私。
団地の9階で生まれ育った私にとってエレベーターとは身近な存在であり、「お先にどうぞ」や「自分が出ていく際に閉まるボタンを押す」といった行為は最低限のマナーであり当たり前に行ってきたのである。
少し開けるボタンを押す。「ありがとうございます」よくこの言葉を聞く。悪い気はしない。そうやって地域のコミュニティ(といっても自分の住んでいる団地が中心だが)は円滑に回っていくのだ。
絶対押さないマンの出現
社会に出てここ数年。様々なエレベーターを経験してきた。会社ビルのエレベーターや地下鉄のエレベーター。そこで私は衝撃の出会いをすることになる。
エレベーターのボタン絶対押さないマンである。
それも少数ではない。かなりの数だ。いやむしろ絶対押すマンの方が少なく感じるほどの絶対押さないマンの量である。
その傾向は公共の施設のエレベーターであるほど顕著に表れる。そこに乗りあわす誰しもがボタンを絶対押さないのだ。
私は信じられなかった。エレベーターに乗り込み少しボタンを押すのを我慢してみる。やっぱり誰も押さない。次に人が乗ってきたり、降りたりするにも関わらず絶対押さないのだ。結局、根負けして私はボタンの前に行き開閉操作をしてしまうのである。
エレベーターボタン善悪説の展開
いままで人と人とが円滑に生活するための最低限のマナーとして行ってきたエレベーターのボタン絶対押す行為。それは絶対的な「善」行為であると信じて生きてきたのが私である。生まれ育った団地の風習であったかもしれない。しかし、「ありがとう」と言われながら行ってきた行為である。「善」であることに絶対の自信を持っていた。
その反面、社会に出て湧き溢れる絶対押さないマンの存在。私にとっては何故押さないのか、生まれ育った常識とのギャップに嫌悪感を抱くのは自然の摂理である。いつしか私は絶対押さないマンを「悪」と捉えるようになり、苛立ちや不快感の対象と見るようになっていった。
超身近に絶対押さないマンが居た
私は自分が絶対的「善」であるという自信を持ち、我が最高の理解者である「最愛の妻」にエレベーター絶対押さないマンに対して嫌悪感を抱くことを告白したのである。
それは何げなく屁をこきながらテレビを見ていたときであった。もちろん私は最愛の妻が「確かに!私もそれ思ってた。考えられないよね」と返答がくるものであると確信していた。しかし最愛の妻の返答は私の目を剥きだしにさせ、耳からうずまき管が飛び出るものであった。
嘘やろ!!我が最愛の妻が今なんと…最高の理解者が何と申したのだ。
しかし、我が最愛で最高の理解者である妻が絶対押さないマンであったことで、いよいよ私は本腰をいれて絶対押さないマンと向き合うことになるのである。
ここが私の人生の価値観が変わるターニングポイントとなるのであった。
(ケンヂさんありがとう。いつか文字を震わせてみたいと思ってたけど、最高のタイミングで震わせることができたよ)
絶対押さないマンの主張
私は最高で最愛の妻の話ならなんでも吸収しようと思う絶対的嫁信者である。なぜ妻はエレベーター絶対押さないマンであるのか。妻の話であるからこそ初めてエレベーター絶対押さないマンの主張を真剣に真正面から受け入れる準備ができた。
操作盤の前に立つと邪魔説
一番最初に入ってくる人が操作盤の前に立ってしまうと、後から乗ってきた人が自分のお目当ての階のボタンを押し辛いのである。
操作盤の前に立っている人に対し、邪魔だなと思いつつも「ちょっとすんまへん…」と一言謝りニュっと腕を伸ばしてボタンを押さなくてはならない。
それであるならばエレベーターに入ってきた者は自分の階だけを押し、奥に詰め操作盤のスペースを開けたほうが理にかなっているということだ。
開閉ボタンの操作がそもそも必要ない説
エレベーターとはそもそも乗り降りに必要な時間を自動的に設定してくれているものであり操作する必要がそもそもない。
仮に乗り遅れそうな場合は、外からボタンを押せば開くのであるし、最悪の場合ドアに手を当てれば自動的に開くのである。
また閉める行為においては、ほんの少し時間が経過すれば自動的に閉まるのであるから、これまた押す必要性がない。それでも時間に追われているならば、お急ぎの人が勝手に押すべきである。
物事を多方面から見る大切さ
今回の件で私は自分の中でマイローカルルールを持っていたことに気付いた。もちろん純粋な親切心から開閉行為は行っていた。例えばそれはベビーカーを押すお母さんと赤ちゃんのため、足の不自由なお年寄りのための開けるボタン。時間に急く日本人のために閉めるボタン。自分なりに良かれと思って行っていたのは間違いない。
またこれからも必ず開閉ボタンを押すことが最善の選択である場面に出くわすことがあるはずである。
しかしながら、いつしかこの良かれという思いが自己陶酔の塊となり、絶対押すマンとして誕生してしまったのは事実である。
結果、絶対押さないマンを冷静に見ることすらできず勝手に「悪」と捉えるまでにひねくれて成長を遂げてしまっていた。
人にはそれぞれの主張があり、今回のエレベーターのボタンという些細な疑問から物事を多方面から見る大切さを再確認することができた。
心に余裕が生まれ生活が楽になる
ボタン開閉の操作割合から見て、絶対押さないマンの方が多数であると判断できる。いかに世の中からはずれ自分が凝り固まったマイルールに執着していたことか思い知らされた。
この件があり、私は絶対押さないマンに対して嫌悪感を抱くこともなくなり、心に余裕を持つことが出来た。
このエレベーターの件はケースバイケースで臨機応変に対応していくということで、絶対押すマンであった自分の価値観が変化したことを体感することができている。
もしもボタンを押してくれている人があれば「ありがとう」
絶対押さないマンの中にいても「のんびりゆこう」
みなさんはエレベーターのボタン「押しますか?」「押しませんか?」