(cache) 九州大学大学院 理学研究院 生物科学部門 / 広津研究室 | (下層ページ名)
Kyushu University Faculty of Sciences

研究内容

線虫C. elegansは嗅覚の優れた生物です。哺乳類とほぼ同様のしくみで匂いを感じている一方、神経細胞の数が少ないために解析がしやすく、嗅覚のモデル生物であると考えられています。
私たちは線虫の嗅覚を解析することで、人間の嗅覚を理解することを目指しています。 さらに、基礎研究で得た知見を元に、線虫の嗅覚を世の中に役立てたいと考えています。2015年、線虫ががんの匂いを感じることを発見しました。現在、線虫によるがん検査の一刻も早い実用化を目指して邁進しています。

1. 匂いシグナル伝達の解析

私たちは世界で初めて、がん遺伝子Rasとその下流のMAPK経路が嗅覚神経で働いていることを発見しました
(Hirotsu et al, Nature 2000)。

その後、MAPK経路が哺乳類の嗅覚神経で機能していることが報告され、高等生物においても保存されている可能性があります。
さらに、私たちはMAPK経路の下流で電位依存性陰イオンチャネルVDAC-1が機能していることを明らかにしました(Uozumi et al, Cenes to Cells, 2015)。Ras-MAPK経路が嗅覚システムにおいてどんな役割を担っているのか、詳細な解析を行っています。

2. 生きている個体でのタンパク質の活性化の可視化

Rasタンパク質が嗅覚神経で機能していることがわかりましたが、生きている生物の体内でいつ、どのように活性化・不活性化しているかは不明でした。そこで私たちは、生体内における匂い刺激に応答したRasタンパク質活性変化の可視化を試みました。 Rasタンパク質の活性変化を観察するために、Rasタンパク質の活性状態によって発する蛍光が変化するイメージング分子“Raichu-Ras”を、線虫の嗅覚神経細胞に導入ました。そして、生きたままの線虫に匂い刺激を与え、嗅覚神経をライブ観察しました。その結果、匂い刺激によってRasタンパク質が数秒という極めて短い時間で活性化・不活性化することを捉えることに成功しました(Uozumi et al, Scientific Reports, 2012)。これは、線虫において初めてタンパク質の活性化をライブで捉えた成果です。 この成果は、Nature 特集記事で紹介されました。
http://www.natureasia.com/ja-jp/jobs/tokushu/detail/26

3. 匂い経験、匂いの濃度による嗜好性の変化

生物は様々な匂い物質に対して、好き、嫌いのような好み(嗜好性)を持っています。そしてその嗜好性は常に一定ではなく、様々な条件によって変化することが知られています。しかしその神経、分子メカニズムはよくわかっていません。そこで私たちは、単純な神経系を持つ線虫を用いて、嗜好性が変化する仕組みの解明を行っています。
私たちは、線虫において、直前の匂い経験により嗜好性が変化することを発見しました。5分間匂い刺激を与えておくと、本来好きなはずの匂いが嫌いになってしまう現象です。東京大学の研究チームとの共同研究により、この嗜好性変化に、余分な神経突起の除去機構(Hayashi et al, Nature Neuroscience, 2009)や、フェロモンシグナル(Yamada et al, Science, 2010)が関与していることが明らかとなってきました。
また私たちは、同じ匂い物質でも濃度によって嗜好性が変化する現象が線虫にもあることを見出しました。人間では、同じ匂い物質であっても濃度が変わると、その匂いに対する好みが変化することが経験的に知られています。例えば、インドールという匂い物質は、低濃度のときはジャスミンのような花の香りがしますが、高濃度になると大便のような臭いがします。しかし高等生物は神経系が複雑であるため解析が難しく、その仕組みの大部分が謎のままでした。私たちは線虫を用いた解析により、匂いの濃度によって反応する嗅覚神経が変化すること(Yoshida et al, Nature Communications, 2012:東京大学との共同研究)、さらに応答する嗅覚受容体が変化することを見出しました(Taniguchi et al, Science Signaling)。

4. 線虫によるがん検査

線虫は嗅覚システムのメカニズムを解析するための実験動物だと考えられてきました。その優れた嗅覚を社会に役立てようという、これまでになかった新しい発想に基づいて私たちが発明したのが「線虫によるがん検査」です。
がんによる死亡者数は全世界で年間820万人(2012年)、2030年には1300万人に増加すると言われています。また、がん治療にかかる医療費、早期死亡、障害による社会的損失を含む経済的影響は100兆円にも上ると報告されています。我が国ではがんの影響はより深刻であり、1981年から死因第1位で、2人に1人ががんを経験し、3人に1人ががんにより死亡すると言われています。がんの医療費は年間3.6兆円(2011年)にも上り、がんによる経済的損失、社会的損失は莫大です。
がんによる死亡を防ぐ最も有効な手段は、早期発見・早期治療です。しかし、我が国のがん検診受診率は約30%にとどまっています。この受診率は他の先進国と比較しても低く、我が国でがん死亡率が高い大きな要因となっています。低受診率の理由としては、「面倒である(医療機関に行く必要がある)」、「費用が高い」、「痛みを伴う」、「診断まで時間がかかる」、「がん種ごとに異なる検査を受ける必要がある」などが挙げられます。そこで私たちは、手軽に安価に高精度に全てのがんを早期に診断できる、がんスクリーニング技術の開発を目指しました。
私たちはまず、がん細胞の培養液に対する線虫の反応を調べました。その結果、野生型線虫は、がん細胞の培養液に誘引行動を示すことがわかりました。この誘引行動は、正常細胞の培養液に対しては見られないこと、嗅覚異常の変異体では見られないことから、がん細胞に特有の分泌物の匂いに対して線虫が反応していると考えられました。
では、人間由来の試料に対して線虫は反応するのでしょうか?血液等に比べ、尿で診断することができれば最も簡便であることから、我々は尿に注目することにしました。がん患者の尿20検体、健常者の尿10検体について線虫の反応を調べたところ、全てのがん患者の尿には誘引行動を、反対に全ての健常者の尿には忌避行動を示しました。がん患者の尿に対する誘引行動は、嗅覚神経を破壊した線虫では起こらないこと、線虫の嗅覚神経はがん患者の尿に有意に強く反応したことから、線虫は尿中におけるがんの匂いを感じていると考えられます。
次に、線虫の嗅覚を用いたがん診断テスト(n-nose)の精度を調べるために、242検体(がん患者:24、健常者:218)の尿を用いて実験を行いました。その結果、がん患者24例中23例が陽性、健常者218例中207例が陰性を示しました。すなわち感度(がん患者をがんと診断できる確率)は95.8%、特異度(健常者を健常者と診断できる確率)は95.0%であり、同じ被験者について同時に検査した他の腫瘍マーカーに比べ、感度は圧倒的でした。さらにn-noseは早期がんでも感度が低下しないという特徴も持っていました(Hirotsu et al, PLOS ONE, 2015)。

n-noseは、以下の優れた利点を全て合わせ持った、従来にない画期的な技術です。
①苦痛がない:尿サンプルを解析します。必要な尿はわずか1滴です。
②簡便:尿の採取に食事などの特別な条件は定めておらず、通常の健康診断などで採取した尿を使うことができます。また医療機関に行く必要がないため、地域間格差がありません。
③早い:診断結果が出るまで約1時間半。
④安価:1検体あたり材料費だけなら百円程度です。検査システムの立ち上げコストも安価であり、開発途上国での導入も期待できます。
⑤がんスクリーニング:これまでに調べた10種類程度のがんについてすべて検出可能でした。その中には早期発見が難しい膵臓がんも含まれています。
⑥早期発見:ステージ0、1の早期がんでも高感度でした。
⑦高感度:感度95.8%
   このn-noseが社会実装されれば、がん検診受診率の飛躍的向上とそれによる早期がん発見率の上昇、がんの死亡者数の激減、医療費の大幅な削減が見込まれます。さらに、がんは“治る病気”であると認識されるようになり、人類社会全体の変革につながると期待されます。私たちは一刻も早い実用化に向けて開発をすすめるとともに、より良い検査を目指して基礎研究も並行して行っています。

九州大学大学院 理学研究院 生物科学部門 広津研究室