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管理人様

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月21日(土)06時06分9秒
返信・引用
   おはようございます。

 見ての通り対話が成立せず、その上雑音がおおすぎますね。
 提案致します。

 この板に私と阿部日さんのスレッドをお立てくださいませんか?
 そこでは管理人様と私と阿部日さんの三人だけが書き込める。

 内容を私の板へそのままアップして周知いたします。

 これで如何でしょう?

 結論が出るまで阿部日さんとの対話を中断致します。
 

阿部日さん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月21日(土)06時03分21秒
返信・引用
   やれやれとお疲れのようですが、稚拙な感情論より実際の祈りです。

 御本尊を信じることが出来ない貴方は功徳が書けません。

 幾ら口角泡を飛ばし論師を気取って見ても、現実釈迦での創価の勝利が書けない。
 情けない限りです。

 本題です。

 貴方はルールを守れません。
 他人に質問はするが、自身は他人の質問に答えることが出来ない。

 おまけにタイガさんとか!さんとかおっちゃんさんまでがルール無視で勝手に書いておられる。
 本来この方々は喧嘩スレに書かねばなりません。
 板の簡単なルールすら守れなくて何処が仏法者でしょうね?

 少しの間貴方との対話を中断いたします。
 その上で提案を致します。

 
 

やれやれ・・・

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月20日(金)23時55分21秒
返信・引用 編集済
  ※貴方にとって命の次に御本尊を大事にしている人が何故本尊軽視なのか?

ーーー

御本尊を「迹」としてのみしか捉えていないからですね。

口先でいくら「御本尊は自分の命の次に大事だ」とか「御本尊として毎日拝んでいる」と
繰り返し叫んでみても、

『曼荼羅を本門の本尊と位置付けていのは大聖人仏法を逸脱した邪義』としている時点で

曼荼羅を本尊としていないことは明白じゃありませんか。

では、お尋ねしますが「曼荼羅を迹」と位置づければ、本門の本尊は何になるのですか?

またその理屈を肯定する文証と、歴代会長の指導を提示していただけますか。

日蓮大聖人は「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」(義浄房御書)
と仰せです。

これは法華経寿量品の「一心欲見仏」を釈された箇所ですが
仏を求める凡夫の一心がそのまま仏の一心となって現れることを示されています。
つまり「御本尊(曼荼羅)を求める心に」おいて、凡夫は仏となるのです。
池田名誉会長の方便品・寿量品講義の148ページにそう書いてあります。

ところが沖浦さんは、曼荼羅を本尊と位置づけるのが「邪義」であると断言された。

御本尊を拝んでいるといっても面従腹背の状態ですね。
 

阿部日さん 

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月20日(金)21時46分1秒
返信・引用
   いい加減にして下さい。

 私は御本尊が命の次に大事だと常に書いております。

 貴方にとって命の次に御本尊を大事にしている人が何故本尊軽視なのか?

 この点を明快に具体的にお答えくださいませ。

 管理人様へ。

 このままでは対話が成り立ちません。

 ですので、もうこれで終わっても良いと思いますが、如何でしょうか?
 

Re: (無題)

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月20日(金)18時34分55秒
返信・引用
  > http://6903.teacup.com/huwahuwakujira/bbs/2682
>
> >今回の、曼荼羅を本門の本尊と位置付けている件も、大聖人仏法を逸脱した邪義に他なりません。


創価学会の公式見解などを邪義と申すは不適切でござるし、
この沖浦殿の主張が正しいはずはないと思うぞよ。

クジラ殿からは注意があった故、今後は控えるでござろうが、
書かないまでも、こうしたスタンスを変えないのか、誤りと認めるのか、おっちゃんは知りたいところでござる。
 

却下

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月20日(金)18時18分5秒
返信・引用 編集済
  今回の(趣意)の投稿も、 御本尊が 迹 との指導根拠とはなっていません。

ところで拙は 御本尊の次に命が大事 だとか 御本尊が人間より仏 と

書いた覚えもありませんので、批判をされても困りますね。

ちなみに、世間法でも「命に関わるような突発的な災害、事故」に
遭った時に「自分の命」を優先することは責められるようなこと
ではありません。
(緊急避難といいます)

https://www.bengo4.com/other/1146/1288/d_4295/

それと同じ事であって、仮に震災の時などに御本尊様を無くされた
かたに対し「命に替えても守らなきゃダメだ」などと論じるのは間違っています。
仮に災害で失ってしまわれても、申請すれば御本尊様は再度いただけます。

そういった、のっぴきならぬ事情と なんら問題なく御本尊を受持しながら
「御本尊は 迹」と論じ 「創価学会の教義は邪義」 などと唱える のは
前提条件がまったく違います。

相手を誹謗する前に、いい加減ご自身の論を具体的な指導を
挙げた上で説明なさってください。

もっと沖浦さんの主張にそった質問方法へ変えましょうか?
 

(無題)

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月20日(金)18時13分37秒
返信・引用 編集済
  http://6903.teacup.com/huwahuwakujira/bbs/2682

>今回の、曼荼羅を本門の本尊と位置付けている件も、大聖人仏法を逸脱した邪義に他なりません。


南無妙法蓮華経という「法」が「本門の本尊」のメインですよ。
ただ具体的に表現しなければ、見えない「法」は、凡夫にはわからないから
大慈悲で、曼荼羅で「仏の真意」を文字で顕して下さったのですよ。
先生の「御書の世界」に有りますよ。

あのような表現の曼荼羅‥大聖人の深いお悟りと言うしかないと(御書の世界)
もっとも、釈尊や天台だって図顕そのものはできたということだけど
「時」「資格←最重要」


>ですが、創価学会の公式見解も、教義内容も、このわずか四半世紀で2回も変更されています。


平成14年の改正以前の「本門の本尊」の定義は

「日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経であり、 それを図顕した曼荼羅」

内容は同じですよ。

それ以前の会則は宗門の外護団体時代のままで、
本部としても早く改正をと思っていたでしょうが
1990年代後半は学会もいろいろ多事多難で大変だったと思いますよ。

http://

 

Re: 今晩は

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月20日(金)18時04分13秒
返信・引用 編集済
  >  それと、
>
>  大河さん、貴方邪魔!!

沖浦殿、
それは失礼でござるぞよ!
少々分別を弁えて下されぞな。
 

Re: 今晩は

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月20日(金)18時03分27秒
返信・引用
  > No.9297[元記事へ]

>  大河さん、貴方邪魔!!

①あるいは②と、ハッキリさせることができないのは
ハッキリとさせてしまえば、管理人さんから
レッドカードが出るのは、流石の沖浦さんでも
予測できるからですね。

今までは、さんざ公式見解・本門の本尊を
大威張りで否定の主張していたではないですか。

ハッキリと肯定できないのは、事実として
否定しているからですね。

大五郎さん、そういうことですよ。
 

今晩は

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月20日(金)17時44分22秒
返信・引用
   阿部日さん、今晩は

 対話になりませんね。
 私は池田先生が阪神大震災の時奥様に云われた、

 『御本尊より命が大事だと会員に教えて来て良かったね。』(主意)

 との言葉を引用致しております。
 私共の命は御本尊より大事なんです。
 御書も引用しております。

 『命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、』
 (可延定業書)

 書いてあるでしょう。
 何故理解出来ませんか?

 私は御本尊は命の次に大事だと何時も書いております。
 これは師匠も同じご意見です。
 鏡に例えようが、幸福製造機と呼ぼうが命には代えられません。
 これが創価思想と大聖人仏法の基本。

 所が貴方はそれを真っ向から否定される。
 ですので、命の次に御本尊が大事な私が何故、

 御本尊軽視論者?????

 になるのですか?
 御書を引用し証明して下さい。

 つんくさんが声帯を癌の治療で摘出なさいました。
 その時云われた言葉を引用致します。

 声を大事にしてきたが、命を守るために捨てました・・・・

 貴方の論ではつんくさんは、声軽視主義者になります。
 然しながらこの記事を読んで、つんくさんが声を大事にしない人だと思う人はいませんよ。

 御本尊を命の次に大切にする人は、御本尊軽視主義者??

 こんな理論滅茶苦茶です。
 少し頭を整理してお書きなさい。

 それと、

 大河さん、貴方邪魔!!
 

御本尊は鏡との指導

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月20日(金)14時28分19秒
返信・引用 編集済
  おそらく次は池田先生はアメリカでの婦人部指導で

御本尊こそ、宇宙全体をありのままに映しだす明鏡中の明鏡であられる。
この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿を観、仏界を涌現できる。
私どもの信心の一念は、そのまま御本尊に映り、大宇宙に反映される。
これが一念三千の法理である。

 (1990年2月27日、アメリカ)


との指導を用いて、

池田先生は御本尊を鏡だと譬えられている
鏡は自分の仏界を映す道具ですね。 したがって御本尊は 迹。 これが仏法の道理です。

とでも主張してくるでしょう。

これについては、指導の元となっている「一生成仏抄」を見なければなりません。
ちょうど大白蓮華1月号の68ページ~71ページに解説と指導が掲載されています
ので、どうぞ皆さん研鑽してくださいね。

ポイントは「御本尊に祈ることによって磨かれる」というところでしょうか。
ダイヤがダイヤでなければ磨けないように、我が身の仏界を磨き出すには、「仏」に依って磨くしかないです。
妙法蓮華経のお題目を妙法蓮華経の御本尊に唱えることで我が身の御本尊(仏)もあらわれてくる。
これが日蓮仏法の原則だといえるでしょう。

◎今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、
 されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、
 此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり

(御書聞書 より抜粋)


つまり 御本尊様にお題目を唱え、折伏弘教・学会活動に邁進するところに
「功徳」がでてくると拝せますね。

傍論になりますが、出張や旅先、病院などで御本尊様がない場合、唱題を
しても功徳がでないのでしょうか。
いえいえ、お家に御本尊様を安置されている事実は変わらないのですし、帰宅されたら
また御本尊様に唱題をされるでしょうし、学会活動を再開されるでしょう。
そういった弛みない「信心」があるからこそ功徳がでるのです。

逆に人生のピンチになった時、一生懸命御本尊様にお題目を唱え、学会活動に
率先して参加していたにも関わらず、功徳をいただいてピンチを脱したことで
「信心」や「学会活動」から足が遠ざかる人がいますよね。

同じように、御本尊様も安置されているし、お題目も唱えている、なのに
弘教活動である学会活動ができない。 本心では心が痛むので
仕事は明日もいける。予約がはいっているという目先の利益だけで「信心」
がある証拠にしてしまいたいのが惰弱な凡夫です。

結局は「信心の一念」が御本尊を通じ原因と結果となって同時にでている
といえるでしょう。

惰弱な信心に陥らないための「異体同心」。
具体的にいうならば弘教達成の目的をもった人々の組織が“日蓮が弟子檀那等”
の 和合僧 なのですね。

この信心のキモ(肝要)は今月の座談会御書を現場の皆さんと研鑽してくださいね。

 

大河さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月20日(金)13時58分16秒
返信・引用 編集済
  返答をまつまでもなく沖浦さんは創価学会の教義条項(公式見解)について
「邪義」 と断定しております。

自城魔突さんが、クジラ掲示版での投稿を引用してくださいました。
http://6903.teacup.com/huwahuwakujira/bbs/2682

大河さんの論を引かせていただくまでもなく「御本尊を軽視」していると拙は判断しています。

悲しいかな。ここまで書かれても誰も言及されていませんね。

『マァマァ、そう目くじら立てなくても世界チャンプで努力家の沖浦さんが
おっしゃることだし・・・・』と考えている方がいるのなら宿坊の掲示版の面々と
本質では変わってないと思います。

こちらにおわす皆さんは、一度は宿坊の掲示版を通し一人「邪義」に
立ち向かった気概溢れる方々じゃありませんか。

今一度、勇気を出してほしいものです。


 

ルール違反ですが、先に進めないようなので

 投稿者:大河  投稿日:2017年 1月20日(金)13時36分52秒
返信・引用
  毎度ですが、沖浦さんは
創価学会公式見解の「本門の本尊」

http://www.sokanet.jp/info/kaisoku01.html
(教 義)
第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。


原田会長の話・・・・・・
末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」であります。
 そして、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となります。改正のこの部分は、そのまま大聖人の法門を信ずるということであります。

---------------------------------
①「その通り」と肯定する。
②「違う」と否定する。

①か②か、それだけで結構です。

日顕宗の方々は好き勝手なことを言いますが、創価学会員であれば
創価学会が教える教義を遵守することが、基本だと思いますし
沖浦さんの御返答が、②であればそれこそ「御本尊軽視」だと
私は思います。
 

まだソレ使ってるんですか?

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月20日(金)13時24分51秒
返信・引用 編集済
  沖浦さんが引用している(第70回本部幹部会 H5.9.7)の文言は、山崎正友が関与している
「自由の砦」というアンチ学会サイトのニセ情報だと、三年前に示しましたよ。
たしかに池田先生は戸田先生の指導を引用され「幸福製造器」と
譬えられましたけど、ちゃんと「結論」まで示しましょう。


以下拙の主張を再掲しますね。

----

残念ながらこんな改変された内容を真に受け、持論の中心にすえる沖浦さんの信心
の傾向が見て取れるのではないでしょうか。

このスピーチは池田大作全集83巻の162ページにございます。

ちょっと長いですが、迷妄を断ち切るために引用しましょう。

///////////

◎大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書一二四四ページ)と
 仰せである。
 「信心の二字」の中にこそ御本尊はまします、と。
 戸田先生は、御本尊を「幸福製造器」と譬えられたが、強盛な「信心」によって
 のみ、御本尊の広大無辺の大功力も現れるのである。
 この一点に、大聖人の仏法の真髄がある。

 そして日寛上人は「こういう法門は、前代未聞である、だれが信じられようか」と
 問いをもうけられたあと、大聖人の血脈抄である「本因妙抄」の次の一節を引かれ、
 答えとされている。
 (略)
 つまり、たいへんな修行と能力を必要とする 天台大師の仏法を開いて、大聖人は
 「信心」の二字におさまる「事の一念三千」の御本尊を顕された。
 このことこと、天台大師が知っていて、しかも説かなかった「深意」であり、
 末法衆生への釈尊の慈悲である。
 (略)
 この「観心の本尊」の本義からいえば、「信心」強き人ほど、尊き人はない。
 その胸中には「御本尊」がましますからである
 この最も「尊き人」こそ広布の戦士であり、皆さまである(拍手)
 皆さまをいじめ、苦しめたなら、仏罰は絶対に間違いない。
 そして、日顕宗は「最も信心強き人」―――すなわち創価学会を破門したという
 一点だけでも、じつは「不相伝の輩」なのである。
 「観心の本尊」すなわり、「信心の本尊」の深義を否定したことになるからである。

(以上、抜粋引用)

◎世界を変えゆく悠然たる君に
第七十回本部幹部会、全国支部長会、第二回SGI世界青年部総会、全国青年幹部会
                               1993年 9月7日



ご理解いただけますか?沖浦さん。
このスピーチは「自由の砦」に書かれたような創作指導ではなく、また御本尊様は
信心の厚薄によってのみ大功力が現れるとされている箇所です。
しかも後段を読めば、池田先生は烈々と「不相伝の輩」と日顕宗の破折をされています。

まして折伏や学会活動に邁進されている創価学会員さんを誑かす文証を引いて
『依義判文と申します』(沖浦さん談)などと、どの口が言っているのでしょうか。

(転載ここまで)

いまだに、学会員さんを惑わせている事。
都合良く池田先生を利用するその手法。

猛省をされたほうがよろしいのではないでしょうか。

いちおう「人本仏釈論」をもとにした、御本尊軽視論の文証を沖浦さん
は示された形となりましたが、アンチ学会サイトのニセ文証では
話しになりません。

再度 「御本尊が迹である」と言及されている学会指導を求めます。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月20日(金)07時15分46秒
返信・引用
   マイナス10℃。

 寒い朝。
 今日はGSです。

 昨日は出張でスキーは出来ませんでした。
 12月9日から滑り始め、5日間ほど滑れない日がありました。
 仕事で出かけると無理ですから。

 スキーが下手なので、他人に追いつくために毎日滑りたいのです。
 今、素晴らしい環境を手に入れました。
 頑張ってスキーが速くなりたいです。

 頑張る人生!!

 功徳~~!!!!
 

阿部日さん、おはようございます

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月20日(金)07時14分31秒
返信・引用
   私の質問にキチンと答えて下さいませんか??

 ごまかしするなら対話をお断りいたしますよ。
 今後はルールをお守りください。
 折角クジラさんが造られた貴方と私に対話のチャンス。
 大事にしましょうよ。

 私が御本尊軽視である理由を、具体的にわかりやすくお書きください。
 その後貴方のご質問にお答え致します。

 『宗祖日蓮大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまれり、と言われたのであります。 信心の2字の中にしか本尊はないんです。
 本門戒壇・板御本尊がなんだ。
 寛尊は、信心の中にしか本尊はないと。
 ただのモノです。
 一応の。
 機械です。幸福製造機だもの。』
 (第70回本部幹部会 H5.9.7)

 戒壇本尊本懐論の真っただ中でご指導です。
 戒壇本尊を本懐としていた時、池田先生は信心がない人が拝んでも、只の物でしかない。
 概ねこう云う指導をなさいました。

 宗門、法華講員は一斉に御本尊軽視だと責め立てました。
 貴方が今やっていることと瓜二つです。
 以前この発言を音声と共にアップした時、多くの方々が、

 法華講が盗み撮りして利用しているものと引用するとは何事か!

 と本筋とは関係ない事で浮かれ騒がれました。
 発言があったことが大事であって、その発言を何故手に入れたのかは本筋ではありません。
 貴方は私が先生のご指導を主意で書くことが偽書と同じだと云われる。
 この時浮かれ騒いだ愚かな方々を思い出します。

 師匠の指導を本気で求めるなら聞きにいらっしゃい!!

 私のスタンですし、変えるつもりがありません。
 指導の内容が間違っているとお思いなら、ご自分で調べて原文をアップしなさい。
 その程度の努力が出来なくて、論師気取ってどうしますか?

 池田先生が、本尊は拝む人の信心がないなら只の物だと明言されておられる。
 御書を引用されておられます。

 貴方の論では池田先生は本尊軽視論者となってしまいます。

 先生はさておかせて頂きます、師匠でおわしますので。

 私が何故本尊軽視論者なのか?

 明快なお答えをどうぞ。

 これが解決しないなら先に進めませんのでね。 
 

 投稿者:  投稿日:2017年 1月19日(木)19時50分41秒
返信・引用 編集済
  今の学会の教義より、過去の会長指導。
公明党にも批判的。
なんだ沖浦さん一派って、宿坊の掲示板と同じ思想だ。
 

こんばんはでござる(^o^)

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月19日(木)19時24分55秒
返信・引用 編集済
  普通の人殿、
多忙の中、いろいろと考えて頂いてご返答くださり有り難きでござる(>_<)

ご意見拝見致したぞよ。
おっちゃんと異なるご意見で新鮮でござる。
否定するつもりに非ずでござるが、おっちゃんもまた意見は述べておくぞな。

クジラ殿が申しておられたぞよ。
「公平で厳格なジャッジはクジラは無理なので」
とぞ、誰でも容易ではござらん。がだ、しっかり考え続けておられると思うぞよ。

依怙贔屓うんぬんは、おっちゃんは思うところ、
クジラ殿は阿部日殿とはいっぱい忌憚なく言い合いした
仲ゆえ、阿部日殿には遠慮なく失礼でも言っちゃえる訳
ぞよ。
一方、沖浦殿には善し悪しに関わら配慮が生じるように思うぞよ。前にも、現場組織の経験とかこちらが理解していくとか、申されておる故もあり大事に大切にしていきたい性分しかりでござる。
クジラ殿はおっちゃんなんぞより立派な方でござる。

ともあれぞ、普通の人殿、
ご意見うれしく思うぞよ。(^o^)
 

余談になりますが雨煽りさん

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月19日(木)17時35分27秒
返信・引用 編集済
  ※沖浦さんは「人本仏迹」を主張なんかされていませんよ。

http://6903.teacup.com/huwahuwakujira/bbs/9102


とのことですが、10数年前から「人本仏迹」は沖浦さんが主張されていました。
ログを提示します。 リンク先は法華講のサイトなので割愛させてください。


(以下引用)
///////////////////////////

私と同意見です。

この観点から仏教を捉えれば仏は迹、衆生は本でしょう。

仏は衆生のために出現し衆生ために法を説きます。

このとき仏と説かれる法は手段であり、衆生の救済が目的となります。


 簡潔に表現しますと、衆生のための仏。となります。
 AのためのBならば,Aは手段,Bは目的。となります。
 手段が迹、目的が本。  仏が迹、衆生が本。

簡潔な理論です。これが仏法の大前提です。

(本迹  投稿者:沖浦克治  投稿日: 5月31日(火)00時47分41秒)

////////


この当時は今よりも表現が丁寧でしたね。
「この観点から捉えれば」と一義的であることを強調されています。
おおむね諸法実相抄にある「人本仏迹」の説明になっているとおもいます。

ですが数年かけて、ここから「日蓮大聖人が本仏」であることを疑問視し
その代替案として身延の「日蓮大菩薩論」を是認するに至っています。

まぁこの当時から「創価学会の公式見解には束縛されない」と宣言されて
いますから、今現在、沖浦さんが創価学会の会長指導を論じたり聖教新聞
を引用されるのは滑稽ですけれどね。

当時は、「創価学会に傷をつけないための配慮だな」などと感じ入って
おりました。 もちろんこれは沖浦さんに問いただした訳でもないので
全くの拙の主観です。

雨煽りさんが沖浦さんの論について教学的肯定をされるのなら
喧嘩スレ2 にでもいかがでしょうか。
 

普通の人さんへ

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月19日(木)15時52分59秒
返信・引用 編集済
  クジラ管理人さんには「なるべく依怙贔屓はされませんよう」と書きましたが

ようするに 対論を設定された以上「立証責任」は双方にあり、
判断を下す責を負われた方が、片側だけに「正確な論拠」を求めるだけでは
不公平だということを感じて欲しかったのです。 怒らせるつもりはありません。

公平にされないと読者さんの中には、管理人さんに求められた側だけが不利にみえる
という心証を与えてしまうでしょう。

また、沖浦さんに関し管理人さんは
「常に付きまとわれているストーカーのように感じているのではないか」との
かなり同情的な心証を明示されています。

この時点でも、かなり沖浦さんに反論する側は不利になってきてます。

その上で反論する側に対し「(沖浦さんの)根底の想いなど関係ない」と
感情的になっているかのように判じておられますね。

対し、沖浦さんは管理人さんの進言も受け入れず懲りもせずに
主観をまじえて反論すれば「謗法者」あつかいです。

なぜだとおもわれますか? それは自分がおもっているほど「中立」の立場では
ないからです。

たとえば
「まず、沖浦さんの教義解釈に反論を持つ方が、沖浦さんが納得出来る領域まで
意見が出尽くしていない可能性があります」 とクジラさんは類推されました。

ならば

「反論する側の解釈に反感を持っている人たちは、あべひが納得出来る意見を出尽くした」

のでしょうか。 全然平等ではありませんよね。 でも気がつかない。

たしかに沖浦さんに反論されている方の中には感情的になっていた方もおられます。
また拙がどんな思いで反論しているのか。そんな事は受け取る相手の境涯次第なので
クドクド説明するのは野暮ですし、恩着せがましい。

勘違いなさっているかもしれませんが、まず
「人本仏迹」論を用い御本尊が迹だと断言したのは沖浦さんであり、
ます沖浦さんがその論拠を揃えていただかないと対話がすすみません。

だから「人本仏迹」論をもとに 御本尊様が迹であると論じた会長指導を提示して
くださいと具体的に請求しています。

次は

「功徳が出ない書けない人には共通点がございます。ご本尊を信じることが出来ない。」

との沖浦さんの主張の文証と会長(学会)指導を求める予定です。

これも沖浦さんの「人本仏迹論」を用いれば容易に説明できますし、なぜ沖浦さんが
毎日利益の報告をするのかが説明できます。
「御本尊を信じてるから(正しい信心をしている)功徳がでている」ということを暗に
印象づけたいからでしょう。
また、毎日毎日「利益」の報告を書き込むことで、批判的な意見をするものに対する
「優劣」を付けやすいですし一石二鳥です。

また以下のような牧口先生の指導があります。

※信心をしても、指導に反して我見の信心をしては、功徳の結果は出ない。
 組織につかないで、注意すると反発しながら、勝手な信心をする人は、尺八を
 逆さに吹いているようなもので音は絶対にでない。すなわち功徳はない。

( 牧口常三郎箴言集 198~199ページ )



上記のような指導は戸田先生も池田先生も論じられていますし
チャンピオン沖浦さんはよくよくご存じの事だとおもいます。
だからこそ「利益」にすぎない事までも「功徳」ということにして
ネット上の学会員さんの前でだけ披瀝し
「我見の信心ではない」「組織にもついている」ということを逆説的に
印象つけようとされるのではないでしょうか。
そんな為の報告なんて虚しいですよね。


ネットで功徳が出ている~なんて書かれた人に対し批評するのは気が引けるでしょう?
およそ学会員さんであれば人情的に抵抗感があるのは理解できます。
また批判をいっさいせず、どんな事でも付和雷同しているほうがネットコミュなんて
楽ちんです。

ですが、こと根本教学においては「見逃してはならない」ことがあるのです。
 

立証されませんので再掲いたします

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月19日(木)15時15分44秒
返信・引用 編集済
  ※万人が納得できる回答をせず次の質問をしてごまかしてはいけません。
 それでは対話になりませんね。

---

万人が納得できる回答なんて、どだい無理難題ですね。
沖浦さんが納得していないだけのことを、ごまかしの論拠
に転換されるのは悪手だとおもいますよ。

すでに沖浦さんの発言から「人本仏(曼荼羅)が迹」と御本尊軽視論について
また、なぜ御本尊軽視論を説いている沖浦さんが御本尊を拝んでいるかについて
沖浦さんの主張をもとに返答をさせていただきました。
曼荼羅が不要だと述べた発言はあえて出しません。 元(ソース)が消されていますから。
沖浦さんはその「ソース」が見つからなかったことを安堵されている投稿もありました。


ともかく今度は沖浦さんが答える番ではないでしょうか。でないと対話になりませんね。
むしろ、対話にならないように論点をずらしている感があります。

では再掲いたします。

沖浦さんは
「功徳(結果)がでていれば、御本尊は絶対条件ではない」と論じました。
ですから解りやすいように「御本尊軽視論」と表現します。
沖浦さんが示された「人本仏迹論」の根拠とされた(イ)と(ロ)の状況は
「御本尊がない」状況だからです。
(イ)日蓮大聖人が妙法蓮華経と日蓮を首題とされた御本尊を顕される前
(ロ)戸田先生が獄中で悟達を得られた時

繰り返しになりますが、絶対(必要)条件・充分(十分)条件は本来
対で相互補完となる条件です。ですから、一方を(迹)と断じるだけ
では本来の意味合いとは違う概念です。
仏法的な面で「人と仏が等しい」のであるならば、わざわざ人と仏(曼荼羅)
を 迹 と論じ差異をつける必要性を感じません。

また、一義的に「迹」と論じただけでは「人と仏が等しい」ことにはならないでしょう。


まず沖浦さんなりに「絶対条件」と「充分条件」の関係性の説明をされたうえで、
なぜ「人と曼荼羅(仏)」をわざわざ、たて分けねばばらないのかを論じて
もらえませんか。
それから、沖浦さんが本迹のたてわけが信心において重要であるとされるのなら
御本尊(曼荼羅)は迹だから・・など言及された学会指導を提示いただきたいです。


----------

予告してあった沖浦さんの「日蓮大菩薩」説に関する質問は保留にしておきます。
読者の皆さんに「沖浦さんはこんなことを正しいと主張できる」方で
あることを知ってもらえればよいのです。

ところで。
貴殿がいくら「私はそう聞いた」とか「たくさん学んだ」とか力説したところで、
そういった指導が全くでてきません。
“趣意の会長発言”は「偽書」と同じようなものです。
 元がたどれない以上、対論を受ける側が資料として精査できません。
それに「音源」があるのであれば、「趣意」ではなく何度も聞き直して
テキスト化することが可能なはずです。

相手には一字一句違わない「証拠」を求めるのに、自分は曖昧かつ質問に
も踏み込まないまま時間とスレを消費するのは、投稿をひかえるよう
お願いされた他の投稿者さんにも、提案をされた管理人さんにも迷惑
ではないでしょうか。

せっかく対論を期待されている方も「あべひ」は謗法者なのかの弁証に時間を
費やされては興ざめです。
 

おっちゃん。

 投稿者:普通の人  投稿日:2017年 1月19日(木)12時43分6秒
返信・引用
  おそようございます。
返事が遅くなり、すみませんでした。
おっちゃんに尊敬されるとは、それは私を買い被りです。
しかし、ありがたい事です。
阿部日さんのお話しですね。

クジラさんが、殆ど返答されましたので、私が、口を挟むような事では、ないと思うのですが。
一つ気になる、事があります。

以下は、クジラさんの、判断された事に対しての、阿部日さんの返答ですが。

> またクジラさんの気持ちは理解しますが、なるべく依怙贔屓はされませんように
> お願いします。

と、ありますが、私が見る限りクジラさんは依怙贔屓、されていないと思うのです。
阿部日さんが、思っている事と、クジラさんの考えている事は、全く逆なのかも知れませんね(笑)

今の件は、ほどほどにして、次の議題に移って、対話を進めて行く事を、促しています。
途中の勝敗は(勝ち負けではないのですが、分かり易く例えます)あまり重要ではなく、最後の勝ち(決定的な勝ち)を、取れば良いのではないでしょうか、と理解しました。

沖浦さんの対話は「クジラの掲示板」でこそ、意味が(成立する)あると思うのです。
ご自分の掲示板だけに、収まってしまっては、皆さんも寂しくなると思います。
だから、細野さんや、他の方も賛同されたのだと思のです。

今回の、クジラさんの提案は、ある意味、阿部日さんの、意を汲んでの事かも知れないと、私は感じておりました。

これは、私の想像なので、勝手な妄想は、クジラさんに叱られるかも、知れませんので、これくらいにしておきます。

それと、クジラさんは肩書に、左右される方ではないと、私は思っています。
宿坊の掲示板、当時の闘いから見ていた、私の感想です。あくまでも私の感想ですが。

おっちゃんの質問の、答えになっていなくて、すみません。
本スレでは、やはり、おっちゃんが一番輝いていますね。

それと、モウさんと、雨煽りさんに関しては、何故こうなってしまったのか?と、疑問を持ちながらの、不思議な対話になっていますが、そもそも会員同志、対話に敵意を出す必要もなく、仲良くも、高尚なる教義の対話を皆さんは、学ぶ思いで見ておられます。4名の論客の方々に感謝の思いであります。

 

功徳書きます!!

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月19日(木)06時10分16秒
返信・引用
   昨日は大忙し!

 朝5時半から書類作りでそのままゲレンデ、今シーズン初スラローム。
 45旗門7本やってから、生徒駅まで迎えに行って一緒にトレーニング。

 私はヘロヘロで170キロ何とか2回で終了。
 生徒は夜の大会の第一試技まで三種目やって、一緒に飯食って昼寝。

 3時半にはビジターがお二人。
 4時から大会の準備で、5時からの検量を私がやりました。
 慌ててジムを大会モードにして、大会やりました。

 10人が三種目で90試技。
 終わったら9時半。
 片づけてから長野県の臨時理事会。
 5月の全日本大会開催の打ち合わせ。
 12時前にようやく休みました。

 一番大変なのが恋女房。
 この人いないと回りませんね。

 感謝~~~!!!

 今朝は8時には家を出て愛知でミーティングです。
 とんぼ返りで夜10時からビジターを見ます。

 明日も朝一からGSやって、その後ビジター指導。

 凄く大変と云うなら大変ですが、多忙を楽しむ日々。

 凄い功徳です。

 創価の冥益。

 本当ですね。

 10人が三種目で90試技。
 終わったら9時半。
 片づけてから長野県の臨時理事会。
 5月の全日本大会開催の打ち合わせ。
 12時前にようやく休みました。

 一番大変なのが恋女房。
 この人いないと回りませんね。

 感謝~~~!!!

 今朝は8時には家を出て愛知でミーティングです。
 とんぼ返りで夜10時からビジターを見ます。
 明日も朝一からGSやって、その後ビジター指導。

 凄く大変と云うなら大変ですが、多忙を楽しむ日々。
 凄い功徳です。

 創価の冥益。
 本当ですね。

 功徳~~~~~~~!!!!!

https://www.facebook.com/katsuji.okiura/videos/vb.100003945214954/869955803145919/?type=2&theater&notif_t=feedback_reaction_generic&notif_id=1484733621631735

 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月19日(木)06時01分3秒
返信・引用
   阿部日さん、何回も書いていますが、生命軽視が根底にある書き込みは怨嫉謗法ですよ。

 貴方ご自身の人生のために、人生と信心の先輩として一言ご忠告させて頂きます。
 例をあげます。

>では以後、沖浦さんの主張は「御本尊軽視論」と改めていきたいと思います。

 これが軽善謗法です。
 ご意見を書く時今後は充分に注意して下さい。

 私は命の次に御本尊を大切にしております。
 その私が御本尊軽視であるなら、貴方にとって御本尊はご自分や他人様の命の上にあるものです。

 この思想は仏法から逸脱しております。
 命はそのままで南無妙法蓮華経です。

 南無妙法蓮華経の上に何かを位置付けてはいけません。
 以下於保さんの講演から抜粋引用致します。

 『海の文化と村の文化』 (2000年4月23日)

 ドクター部 於保 哲外 先生「第5総県ドクター部・白樺・医療技術部会合同部員会」
 厚木平和会館

 前略

 実はこういう現象が起きる原因は、その奥に一つの法則があるからなんですね。
 表面の現象でなく、その奥の法則を「不思議法則」と勝手に名づけたんです。
 どういう法則かというと、たとえば、困っている人のため、家族のため、また、学会活動のため、広宣流布のため、世界平和のため、世の中の正義のために、戦う。
 だけど我慢して、自分を殺して、すなわち、自分を粗末にしてやる人は、福運を失う。
 したがって、自分を粗末にしているように、人からも粗末にされるようになっていくという法則なんですね。
 「私さえ我慢すれば、私さえ耐えていれば、いつかこの苦労が実るときが来る。
 それまでの辛抱だ」。
 「陰徳あれば陽報あり」なんだからと。
 やればやるほどひどくなるんです。
 これでもかこれでもかというくらい、ひどい目に遭うんです。
 つまり、これは陰徳にならないんです。
 どうしてかというと、妙法の当体を殺しているからなんです。
 同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。
 したがって、自分を大事にしているように、人からも大事にされていく。

 ~中略~

 大聖人の仏法というのは先ほど図々しく、図太く、たくましくとありましたが、自分を100点満点と見る宗教なんですね。これは非常にわかりにくい。
 信心。
 信じる心と書きます。
 何を信じるか。
 御本尊ですね。
 また、法華経でしょう。
 では、法華経を信じるというのはどういうことなのかと考えてみると、自分自身が妙法の当体であると信じることですね。
 頭は妙、喉は法、胸は蓮、腹は華、足は経。自分のこの生命が南無妙法蓮華経なんだと、妙法の当体なんだと信じることが信心だと教学で学びましたね?とすると、自分自身を60点ということは、南無妙法蓮華経如来を60点とつけることになってしまいます。

 ~中略~

 私たちは、朝晩勤行します。二座の御観念文は本尊供養です。
 「一閻浮提総与三大秘法の大御本尊に南無し奉り報恩感謝申し上げます」。
 この二座の本尊供養のときに、この本尊を自分のことと思ってやっていますか?
 みなさん「仏壇の中の御本尊」だと思っていませんか?
 そういう人を指して大聖人は、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書P384)とおっしゃられている。すなわち、法華経じゃないんです。
 また別の御書でも、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書P1244)。
 此の御本尊は「胸中の肉団に」、自分の生命に、「おはしますなり」と勉強したはずですが、実際勤行をする時は自分の生命の外に置いていますね。
 不思議なんです。
 学んだこととやっていることが違うんです。

 ~引用終わり~

 貴方は御本尊を人の上に位置付ける発言をされた。
 これは南無妙法蓮華経を貶める行為です。
 軽善謗法なんです。

 今後は気を付けて下さい。
 私は与同罪を恐れます。
 ですので忠告致しました。

 さて、私はこの元旦、今年は御本尊送りをすると決意し、朝夕その事を仏前で深く祈っています。
 当然創価の御本尊にです。

 更に、創価の御本尊を命の次に大事だと書きづ付けて来ましたし現在もそうです。
 御書には、

 『いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財もいのちにはかへぬ事に候なり、』
 (白米一俵御書)

 大宇宙の中の財宝でも命の大事さには及ばない。

 書いてあります。
 今後は御書を正しく拝しなさい。
 更に池田先生は阪神大震災の時奥様に云われました。

 『会員に御本尊より命が大事だと教えて来て良かった。』(主意)

 命の次に御本尊を大切にすることは、池田先生も大聖人も同じです。
 創価の根本理念です。

 所が貴方はそれを否定された。
 ですので、

 私や貴方より曼荼羅本尊が大事だと云う根拠をご提示ください。

 詭弁はダメですよ。
 正々堂々と返答下さいませ。



 
 

そう言えばだ

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月18日(水)21時54分28秒
返信・引用
  >
> 世間では、“post-truth”(脱真実)がキーワードになっていましたが、
> クジラ掲示版がそれらと同じようになるのではないかとの懸念を
> いくばくか持っています。
>

阿部日殿、
どこかのタイミングで教えてくだされぞよ。
 

こんばんはでござる

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月18日(水)21時34分31秒
返信・引用
  クジラ殿、
日々お疲れ様でござる。
おっちゃんとこでござるが、にわかに盛り上がっておるぞよ。
おっちゃん取り残されぬよう頑張らねばでござる。
新しい方が来られたり、理解者拡大で新鮮な空気が流れておる感じぞな(^o^)

でだ、女房の啓蒙用紙が仏壇に何枚もあって、おっちゃん焦るでござる(>_<)

それはそうとだ、
阿部日殿は誠実に真剣にこの掲示板を大切にされておられるとおっちゃん思うぞよ。
しかしだ、
文中におっちゃんのHNを挙げてくださることは、恐縮の極みでござる(>_<)

ともあれぞ、
皆の方々、睡眠不足などで体調を崩さぬようご自愛くだされぞよ(^o^;)

最近は色々な方が投稿され、おっちゃん多くを学ばさせて頂いておるぞよ。
\(^o^)/ホントピョ~ン
 

Re: 困りましたね。

 投稿者:雨煽り  投稿日:2017年 1月18日(水)19時38分31秒
返信・引用
  モウさん、私も困ります…

クジラさんのリクエストですから仕方ないですが、
敵意の無いモウさんには、書き込み難いのです。

モウさんと私に書かせて、
クジラさんだけ、楽しんでるのでしょうかね…


えっと…若干、相違点がありますので、それだけ書きます。



> 全ての「真理」が「不変真如の理」で、「現実に顕現した姿」が「隨縁真如の智」に
> なるという理解だったら、「法身」が「迹門」で、「応身」が「本門」になってしま
> います。それでは、おかしいですね。

これ、少し違います。
隨縁真如は不変真如を含むのです。
三身は相即で、報身に応身・法身を含むのです。



> 御本尊は真理で、これを拝んで顕現するのだから、迹門だという言い方はありません。
> 何よりも「本門の本尊」だと宣揚されてきた大聖人が、「迹門」の本尊という言い方
> を好まれるかどうか、考えてみれば分かることではないでしょうか。

これも、少し違います。立て分けの問題です。
「御本尊は真理」のまま、変わらざる真理、不変真如の妙法蓮華経。本迹では迹です。
「これを拝んで顕現する」のだから、縁に随って真如の姿を現す、隨縁真如の南無妙法蓮華経。本迹では本です。

「本門の本尊」とは三秘ですから、本門の題目を本尊にしたもので、戒壇もセットです。
で、本門と云うくらいですから、対義の迹門の存在があります。天台宗が迹門です。迹門の戒壇があるでしょう。



> 理屈の上では、紙の御本尊は、真理でしかなくて、衆生の上に顕現する御本尊こそが
> 智慧の姿ではないかという発想は分からないではありませんが、厳密には、御本尊は
> 物体としてあるだけでは御本尊(真理)とは言えません。信心を持って衆生の側に
> 御本尊として顕現するときに、同時に御本尊になりえるのですから。
>
>
> 「本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。
>  この二つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する。」
> (1993年、創価学会教学部)

これは信心の血脈という事ですね。



> 境智の妙法ですから。たとえ己義であろうが、誤解を生もうが、御本尊を不変な真理
> だと言いたいだけなのだというのであれば、同時に、題目もそうです。唱題できない
> 時でも「信じる」ことが根本ですから、功徳はあることになります。

う~ん…いろいろ意味の取れる文章です。
でも、モウさんは敵意なく書かれていると思うので…


仏、つまり仏陀ですが、覚った人・覚知した人という意味ですね。
何を覚ったか…真理です。仏界です。人が幸せになる法です。妙法蓮華経です。
戸田先生は、宇宙にも一念三千があると言われました。仏とは生命だと言われました。
池田先生は、宇宙根源の法と言われました。
と、いろんな言い方をしますが、全て不変真如です。

不変真如は、隨縁真如でしか、現す事ができません。

その不変真如を隨縁真如と現す方法が唱題行です。
天台・伝教は、自行の唱題です。一日一万遍だったそうです。
大聖人は、化他行も入ります。

で、不変真如が解るという事は仏界が解るという事です。
世の中が、娑婆世界が、仏界だという事が解るという事です。

ただ、解ったところで、現実の姿形は何も変わりません。
変わるのは、自分の意識です。一念です。

一応は、
不変真如が解らなければ、隨縁真如を現せません。
不変真如と隨縁真如を、立て分ける意味は、そこにあると思います。

でも、
不変真如が解らなくても、信じて唱題行に励めば、同じ功徳がある。という事です。



> 私としては、こういった理屈に拘泥するのは本当に不本意です。これで意見表明とい
> うことで、あとはお許しさせていただこうと思います。

私も、読んで解らない人が沢山いる処で仏法を語るのは、空しいのです。
ですから、これで、終わりにしましょう。

 

返答させていただきます

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月18日(水)15時46分45秒
返信・引用 編集済
  まずはお忙しい中、長文の返答ありがとうございました。
ちゃんと見ていただいているのだなと安心しました。
その上でいくつか返答させていただきます。

/////////////////////////////////////

※沖浦さんが「御本尊不要論」を発言していると言いますが
 沖浦さんは発言していないと言っています

---

では以後、沖浦さんの主張は「御本尊軽視論」と改めていきたいと思います。
拝んでいるのだから軽視していないだろう、という反論は日蓮正宗門徒を
見れば解るとおもいますので、あえて追加説明はいたしません。
「人本仏迹」は異論がないようなのでそのまま使わせていただきますね。


と同時に拙も、「人本仏迹」に基づく「御本尊軽視論」の学会指導の
根拠を沖浦さんに求めてまいります。
そういった指導がでてこないということは「無かった」ということですよね。
同志なので一々見解の相違で謝罪は要求しません。
またクジラさんの気持ちは理解しますが、なるべく依怙贔屓はされませんように
お願いします。


////////////////////

※実は日蓮正宗に対する対決姿勢だと捉えています。

--

発端はそうだったかもしれません。
しかし、沖浦さんはすでに日蓮正宗に対する対決姿勢を解いただけではなく
日蓮正宗であっても摂受の行を推奨されているようです。
元となる発言は割愛させていただきます。

その故あっての「謗法の地であっても御本尊を拝めば・・」発言だと
おもうのです。
むしろ、日蓮正宗に対する対決姿勢を解いたかわりに、創価学会で
指導されている内容を都合良く改変している感が私にはあります。
日蓮正宗に対する対決姿勢よりも、創価学会(の現執行部)に
対決姿勢を取っているのは「宿坊の掲示版」等の退転者と現役学会員
のコラボ掲示版ですよね。
胡散臭い情報が教義論も交え飛び交っています。

世間では、“post-truth”(脱真実)がキーワードになっていましたが、
クジラ掲示版がそれらと同じようになるのではないかとの懸念を
いくばくか持っています。



////////////////

※世界一を取るほどの強烈な性格であり闘争心が凄い!
 (略)
 まずは根底にある、想いを汲んであげてから・・・

--

 沖浦さんは創価学会としての自分を認めて貰いたいが故に
 チャンピオンをめざされました。 動機としては悪くないとおもいます。
 しかし、チャンピオンになったからといって、他を軽んじるのは間違っています。
 元職員だから、幹部経験者だからという事で、他を軽んじる「宿坊の掲示版」の轍
 を踏んではいけません。

 ◎「『法』のために、また悩める人々のために尽くしていただきたい。
   やはり自分の幸福のみを追求する行き方だけでは、エゴとなるし、
                   自らも成長できないからである」

【2014/11 聖教新聞 社説:平和の光放つヤング・ミセス より抜粋引用】


 何年も御本尊様に唱題を重ねているのに「自分の利益」ばかりを毎日
書き連ねるのは、自分の為の幸福だけを追求している証左ではないでしょうか。
たとえ間違った信心をしていても、信心していなくても。道理に適っていれば
それ相応の小利益はあります。
仕事をすればお給金がもらえます。明日の予定も立ちます。顧客に会うことも
あるでしょう。 それが御本尊を拝んだ成果としての「功徳」だと
学会員の前でだけ披瀝することに満足しているなら、まだまだではないでしょうか。


////////////////


※と、御本尊がどれほど大事かを説明させていただきます

--

クジラ管理人さんのこのご意見に関しては全く異論ありません。

では、「人本仏迹」を元に「御本尊軽視論」をされる沖浦さんに対して
なんら反論をされないのは、ひとえにクジラ管理人さんが「人本仏迹」で御本尊様を
「迹」と断じることに異論がないということになるでしょうか。

またこちらに書き込まれた事ではありませんが「謗法の地にある御本尊」を
拝んでも功徳が出るという論も「人本仏迹」論に
端を発しているようにおもいます。
これについても是非見解をお願いします。

////////////////////////

※教義一色(本来のクジラ板の趣旨と変わってしまう)になってしまう可能性があるので・・

---

クジラさんのトップ掲示版では、日報報告ついでに「教義」の話題が結構語られている
ようにおもいます。 (たとえば功徳だとか怨嫉謗法だとか)

それはOKなのでしょうか。

どうもクジラ管理人さんは「肩書」と「成果」に弱いようですね。
沖浦さんの発想は、まず自分が幸せにならなければ、実績をださなければ
(厳密に言えば実名で功徳がかけなければ)
地涌の菩薩たりえないという「結果論」です。

だからこそ、学会員さんの前だけ日々の小功徳を羅列し、過去の実績にこだわり、
自分を飾らなければ光れないとおもっておられるようで痛々しいです。

日蓮仏法ではあるいみ「エゴ」を変革する教えだと思います。
自体顕照とは、自分自身を名誉や肩書を得て光らせるという意味ではありません。
みずからを磨きながらも、信頼を得ることで、社会の平和と繁栄に貢献できなけれ
ばならないのです。
もちろん創価学会に貢献しなくても良いという訳ではないことは、承知されておられる
ことでしょう。

たとえ世界チャンピオンになっても、その肩書や利権で人が集まってくるだけで
信頼を得ているとまではいえません。事実沖浦さんはネットのおかげでたくさんの人
と会うことが出来たと言われますが、離れていった方も相当おられます。

それよりも、クジラさんやおっちゃんのように、世界タイトルなどなくても、信仰で
磨いた飾らない人間の魅力で人を助ける事に喜びを感じ、弘教にむけて日々活動
されている人こそ
が自体顕照になっているのではないでしょうか。
拙があえて肩書や日々の活動。学会員であるかどうかすら明確にしないのは、
HNで書き込まれている皆さん同様「書いている内容」でのみ判断していただき
たいからです。

「自讃顕照」はしたくありません。 冥の照覧を信じています。

厳しい事をいうようですが、過去がどうであっても、他者をあなどる人は
今、勝利者ではなくなっているのだと思います。

--

で、管理人さん。 沖浦さんに中傷に対して一定の見解をしめされたとは
いえ反論する人に対し一方的に「怨嫉謗法」「頭破七分」断定発言についても
チャンピオン沖浦さん(と賛同者)さんはOKなのでしょうか。

拙はこういった謗りをずっと受けているのですが、実際に反論をされている方
「それは違う」と思いつつROMされている方に対しても投げかけられていること
に管理人さんもそろそろ気付いて下さい。
富士宮ボーイ掲示板の件で申し訳ないですが「結果的に同志誹謗になる内容」を
ルールで禁じてもらったのは、沖浦さんが今と同じ事をやってしまうからです。

クジラ管理人さんは、御本尊に関する見解において、日蓮正宗の
「神仏が上、人間が下という信徒蔑視に対する意見を言いたいのが本音」と評され
ましたが、彼等(僧と退転者)が健気な学会員さんに対してやったことが
「驕慢謗法だ」との謗法者扱いだったということをご存じだと思います。

今、チャンピオン沖浦さんが、こちらでされている事もまた同じだと思うのです。


本日分の投稿数を満たしましたので、また明日にでも再開させていただきます。
文字数が多くなって閲覧の皆様にも申し訳ないです。
 

皆さん( ^ ^ )/□

 投稿者:クジラ  投稿日:2017年 1月18日(水)15時01分39秒
返信・引用 編集済
  皆さん( ^ ^ )/□
こんにちは!
熱い討論ありがとうございます!
沖浦さん、阿部日さん、雨煽りさん、モウさん
素晴らしい対話、勉強になります!

阿部日さん( ^ ^ )/□
> 拙がクジラさん掲示版において根本的問題としているのは、
> 沖浦さんの論そのものではなく、ルールと運用 についてです。
> これを念頭においたうえで、管理人さんの見解を明確にしていく形
> をとりたいと思います。
>
> 沖浦さんは 人(凡夫・衆生)本 御本尊迹 と説かれました。
> このように書くと「人本仏迹」ではないじゃないかというご指摘をされた
> 方がおられましたが、あらためていうまでもなく御本尊は末法衆生の「成仏」
> の為に「仏」を書き顕されたものですよね。
>
> ところが沖浦さんはこのように主張されます。
>
> ※更には、御本尊はそのままで仏ではございません。
>  私共は自行化他の唱題をしてこその御本尊。
>  謗法の地にあろうがなかろうが、私どもが前で唱題するなら、
>  キチンと功徳は出ます。
>
> (2014/11/10(月)
>
> 御本尊は、そのままでは仏ではない。自行化他の唱題をして「仏」となる。
> おそらくこれを説明するのに沖浦さんは「草木成仏」の御書等を引用される
> でしょうけれども、謗法の地にある御本尊に唱題しても「功徳」がでるという
> 主張は池田先生の指導に反します。 あえてその指導は引用しませんが
> 沖浦さんの論理は「正しいこと」と「我見」をまじえて強引に結論づける
> のが特徴です。
>
> 正直なところ、すでにこの件についての対話は八年前に終了しているので
> 両論併記の状態になるとおもいます。
> 沖浦vsあべひでは、管理人さんがおっしゃるように「長文テキストの羅列」
> にしかならないでしょう。

> となると、どこかで判断をしていただく人間が必ず必要となってきます。

承知しました。
そこの判断は役不足ですが、クジラがやらせていただきます。

では一つ判断をさせて下さい。

阿部日さんは
沖浦さんが「御本尊不要論」を発言している
と言いますが

沖浦さんは発言していないと言っています。

阿部日さんは、その証拠をUPできない

それでは、これ以上「御本尊不要論」については
対話する意味がありません。

阿部日さんの意図とするところの「御本尊不要論」などの発言を
今後はないようにしたい
そういう意図であると理解していますので
今後も無いと思いますので、既に一つ解決していると思います。

「証拠は出ていないので、私の勘違いのようですね。すみませんでした」
これで「御本尊不要論」について終わりにして、次に行けばいいと思います。

不本意であるかも知れませんが
そういう対応で、次に行くのが価値的かと思います。


> まず管理人さんにお願いしたいのは、「人本仏(曼荼羅)迹 の考え方を受け入れ
> 難い方」 は 怨嫉謗法が原因である とか 沖浦さんを怨嫉しているなどと、断定する
> やりかたに、不快感を感じている方が何名かおられるようですが(拙も同意見です)
> これは「学会員さんが不快に感じる投稿」にはあたらないのでしょうか。
>
> たとえば拙が管理人さんに対し
> 「私の論を批判するのは怨嫉謗法からの頭破七分故です」
> 「怨嫉謗法の書き込むを見て置いて責めないなら、
>  書き込んだ人も責めない人も共々に無間地獄です」と書けばどうでしょうか。
>
> ハッキリいって「功徳」とやらを書きつらねながら、同時に相手を中傷するやり方に
> 飽き飽きしています。

沖浦さんからすれば、常に付きまとわれているストーカーのように
感じているのではないかと思います。
まず、沖浦さんの教義解釈に反論を持つ方が、沖浦さんが納得出来る領域まで
意見が出尽くしていない可能性があります。

「反沖浦さん」からすれば、何故そこまで飛躍した解釈をするのか
そんな話しは聞いた事が無いし、そんな指導は今まで無かった
だから沖浦さんの言う事はおかしいんだ!
根底の想いなど関係ない
発した言葉が問題であり、創価学会の教義が大事なんだ!
こういう感じでしょうか。

今回の問題の深い根っこのような部分があります。
それは日顕宗との決別による創価学会の教義解釈が
大きく変わっていった事による影響だと考えています。

沖浦さんが主張されるところは学会員さんに言いたいと言うよりも
実は日蓮正宗に対する対決姿勢だと捉えています。

神仏が上、人間が下という信徒蔑視に対する意見を言いたいのが本音であると思のです。
だから、主役は人間だ!
本来は、神仏が下で、人間が上になる!
これも間違っていません。(先生も言われています)

◯御本尊は道具(これは戸田先生の「幸福製造器」発言からと思います)
◯人が本、仏が迹
◯ 「日蓮大菩薩論」
◯ 日寛教学の否定など

沖浦さんの主張する全ては
言葉の細かい表現や、教義解釈の違いはあると思いますが
根底にある想いというのは、創価学会を切り捨てた
日蓮正宗に対する、憤りであり、正義感であるとクジラは捉えています。

それプラス、沖浦さんの独特な性格も作用しています。
世界一を取るほどの強烈な性格であり闘争心が凄い!

だから、好きなように解釈をし、発言してもいいのか?
という「反沖浦さん」の声も聞こえてきそうですが
まずは根底にある、想いを汲んであげてから
対話を進めても良いのではないかと思います。

また、沖浦さんも学会員さんを簡単に怨嫉謗法だ!
などと断定せずに
「この方達も創価学会を守ろうとする想いから
これだけ執拗に私に意見してくるのか
よし、この人達も愛すべき学会員さんだ仏子だ!
誤解をとく為に、もっと言葉を尽くして
皆さんが納得できるように努力をしていこう。
俺もまだまだ未熟者だな」

こういうふうに捉えて、大らかに進めていけば
良い方向になって行くと思います。

あと、例え小さな事や、何気ない日常の出来事を功徳と捉えて
発言する事はとても良い事です。
功徳の体験は、もっと書いて欲しいくらいですから。


> ------
>
> ※しかし、そういうSGIメンバーほど「御本尊」をどれほど求めているか。
>  たとえ「御本尊」が無くても健気に祈り活動をする。・・
>
>
> そうですね。
> 物理的に御本尊様をまだいただいていない状態であっても功徳がでている
> のはなぜか、クジラ管理人さんの上記の言葉に明確にでているように
> 思います。
>
> 猛烈に「御本尊」を求めている事 そして 健気に祈り 活動 をすること。
>
> まさにこれが自行化他の信心を貫くことであると拙は思います。
>
> 御本尊がまだ安置されていない状況の方が
> 「お題目を唱えただけで功徳がでたから御本尊は必要ではないのでは?」
> と問われたときに、クジラ管理人さんはどのようにお答えになるでしょうか。
> 「日蓮大聖人も御本尊様がなくても仏になられたではないか」とか
> 「戸田先生は獄中で悟達を得られ時に御本尊様が無かった」と
> 言われたらどのように説明されるでしょうか?


クジラならば
日蓮大聖人は、御本尊様が無くても、御本尊様を顕す事ができたのは
何故か、日蓮大聖人が御本仏である証拠です。

「法華経の智慧」見宝塔品・第十一章
「我が身が宝塔」と見る──妙法流布の行動者こそ宝塔 より

戸田先生は、獄中で法華経を読み切られ、その真髄が大聖人の御本尊にあることを悟られた。法華経の一文一句が大聖人の仰せと寸分も違わないことを知って、歓喜の涙を流されたのです。

斉藤 その模様は小説『人間革命』の第一巻に記されています。牢を出られた戸田先生は、ご自宅の御本尊を拝して、一字一字たどっていきます。
そして、「たしかに、このとおりだ。まちがいない。まったく、あの時のとおりだ。彼は心につぶやきながら、獄中で体得した、不可思議な虚空会の儀式が、そのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った。彼の心は歓喜にあふれ、涙は滂沱として頬をつたわっていった」とつづられています。

遠藤 今の私たちには、その歓喜の程は想像するしかありませんが、獄中で体得したことに間違いがなかったことを、その時、いっそう確信されたのですね。

池田 その戸田先生の確信があればこそ、御本尊根本の信心が学会の中に確固として築かれたのです。学会の大発展の原点です。
先生は透徹した眼ですべてを見通されていた。小手先はいっさい通用しない。だから、体当たりでぶつかるしかなかった。それに必ず応えてくださる先生だった。年を経るにつれ、戸田先生のすごさを改めて実感してならない。身に染みて分かってくる。

たとえば、多くの宗教は、聖地巡礼のように、宗祖ゆかりの場所を特別の地として崇める。大聖人でいえば、流罪の地である伊豆や佐渡、法難の竜の口や小松原また活躍された鎌倉、聖誕の地・小湊、その他、身延、池上などの地があります。しかし戸田先生は、それらの地を″聖地″とするのではなく、どこまでも「御本尊根本」でいけ、と教えられた。ここに戸田先生の偉大さがある。
引用以上

と、御本尊がどれほど大事かを説明させていただきます。


> 拙と沖浦さんとの対論としてではなく、これがもし、自分の現場の会員さん
> からの質問ならば・・と考えてくださるなら、再対論のやり甲斐もあるかも
> しれません。

4人の方に負担になるかも知れませんんが、誰でも出来るとは考えていません。
見ている多くの方が納得出来る方と思い、ご指名させていただきました。
考え方を変えれば、使命(大袈裟ですか(^-^;)とも考えられると思うのです。
モウさんなんかは、イヤダイヤダと言いながら
結局すすめてくれています\(^o^)/ありがたいピョ~

特に沖浦さんと、阿部日さんの対話は、対話自体が成り立つのかどうか
いきなりプッツリ終わってしまうかも知れませんし
皆さんが考えていなかった新しい展開が見れるかも知れません。
何でもそうですが、やってみないと分からないので
皆さんもハラハラしながらも、期待感たっぷりで見ていると思います。
やっている当事者は大変ですが、皆さんも参加しているのは間違いありません。


> “それまでは、(他の方は)「沖浦さんの教義解釈」のお話しは一旦休憩”
> との提案ですが、管理人さんも読者の皆さんも話題に乗られないのであれば、
> リング上の対戦を見ているだけの観客状態となってしまいます。
>
> それは本意ではありません。
>

あ、休憩というのは、沖浦さんと阿部日さんの、対話がスタートするまでは
一旦休憩にして下さいという意味なんです。
もうスタートされましたので休憩は終わりです。


> 貴殿がいくら「私はそう聞いた」とか「たくさん学んだ」とか力説したところで、
> そういった指導が全くでてきません。
> 趣意の会長発言は「偽書」と同じようなものです。
>  元がたどれない以上、対論を受ける側が資料として精査できません。
> それに「音源」があるのであれば、「趣意」ではなく何度も聞き直して
> テキスト化することが可能なはずです。

これは可能だと思います。
ただ時間がかかると思いますので
沖浦さんも今後はコツコツと、努力してみて下さい。

また、先生の指導ならば会場と会合名、日時が分かればクジラや他の方も
お手伝いできるかも知れませんので是非、ご検討下さい。

ただ、「趣意」がまったく駄目だとも言えませんので
判断が難しい問題でもあります。もう少し考えさせて下さい。


>  管理人さんにも提案させていただきたいのですが、全スレッド共通で
>  学会の指導に反する事 の他に、信仰の根幹である日蓮大聖人や御本尊
>  を貶めかねない我説・邪義 の書き込みを追加してもらいたいです。
>
>  池田先生を愚弄する書き込みは即アウトなのに、日蓮大聖人や御本尊を
>  貶める発言がイエローというのは、なんだか変です。


あまり厳格にしてしまうと、解釈によっては法華講さん達は一切書けなくなってしまうかも知れません。
この対話を進めていく中で、もう少しお時間を下さい。

今回の対話に対する意見や反論は大河さんのように、喧嘩スレでドンドン書いていただいてOKです。
応援をするという気持ちや、対話をスムースに進めて行くという意味で、資料をUPしていただいてもOKです。

喧嘩スレで、と言うのは本スレでこの件を沢山の方が書いてもらうと、対話が分かりにくくなるのと、教義一色(本来のクジラ板の趣旨と変わってしまう)になってしまう可能性があるので、そういう対策になったのです。
あまり細かくルールで縛るのは好きではありませんので
だいたい守ってもらえれば良いと考えています。
実際、おっちゃんは遠慮して普通の投稿も喧嘩スレにしていました。
クジラの説明不足です。おっちゃんスミマセン:;(∩´?`∩);:

あまりに本スレが混乱してきたら、また言いますね。
仕事等で見れない事も多々ありますし
公平で厳格なジャッジはクジラは無理なので皆さん諦めてください(ノД`)・

今回の件ではグラスルーツさんが来てくれたり、大河さんが来てくれたり
今日なんかも、久しぶりにイルカさんが参加してくれて嬉しく思っています。
だから沖浦さん、阿部日さん、モウさん、雨煽りさんだけで対話
しているようですが、実際は皆さんも参加していると言う事なんです。






 

Re: 音源の引用

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月18日(水)14時22分49秒
返信・引用 編集済
  > No.9244[元記事へ]

> 音源も書籍などの著作物と同様に『引用』の要件を満たせば
 ネットにアップするのはセーフのようです。


たしかに一義的には「引用」の要件を満たせば他者の著作物でも
アップロードできると考えられがちですが、文字とちがって許諾なく
音声、映像ともに第三者がインターネットで誰にでも視聴できるよう
にすること自体が権利の侵害とされています。


参考にNHKのリンクを貼っておきます。
http://www.nhk.or.jp/toppage/nhk_info/copyright.html

あんな場合こんな場合 の6節目を御覧下さい。

ラジオ番組の場合を書かれていますが、講演・講義の内容も同じことです。
たとえ本人が実際に録音したものであっても、番組、講義・講演の内容は
著作物と見なされ勝手にアップロードし公開することは不可です。

 

音源の引用

 投稿者:イルカ  投稿日:2017年 1月18日(水)12時57分13秒
返信・引用 編集済
  自城魔突さん、フォローをありがとうございます。

音源も書籍などの著作物と同様に『引用』の要件を満たせばネットにアップするのはセーフのようです。

本題の対話の邪魔になるような投稿ですみません。
 

余談でござる

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月18日(水)12時53分39秒
返信・引用 編集済
  おっちゃん、ネットは苦手でござるが、レコードやオープンリールをCDRにコピーなんぞは個人的には経験があるぞよ。
懐かしいぞな(^o^)

しかしだ、先生のご指導や講義をレコードに頼らずも沢山あるのではござらんぞか。
ともあれぞよ、ネットでレコード盤を公開は、やはりNGでござろうぞよ。

それとだ、
おっちゃん、めちゃくちゃ厳しい部員さんに何度も通って、立ち上がってくれた方は幾人かおるでござる。
「来るな」って言っておった方か、
「唱題一時間じゃ足りないぞ」とおっちゃんに激を飛ばすまでになって、有難いやら複雑に感じた事もあるでござる。

一対一の対話は大事でござるぞな(^o^;)
 

グラスルーツさん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)12時52分49秒
返信・引用
  > No.9235[元記事へ]

> この件に関するそれ以外の方の書き込みは雑音以外の何物でもありません。
貴方は、工業用機械を取り扱われているからご存じでしょうが、雑音は何かしらの部品の
不具合によって発生します。古いのか壊れているのか不要な部分があるから雑音が出るんです。
そのパーツを正しく動く物に変えたら静かに作動するようになりますよ~~ホントピョーン(^^)/

話は変わりますが、随分以前になりますが創価非公式板で、外部の方が創価学会の事を知りたいといろいろ質問をされていたことがありました。
赤田青道というハンドルネームの方で、グラスルーツさんは「僕は花の応援団世代なので
その名前懐かしい。」だとかなんだか言ってましたけど覚えてますか?

グラスルーツさんは赤田さんに対して
「難しい事を勉強しなくても宇宙に向かって題目を唱えれば何でも願いが叶う。」(趣意)
とお話をしてましたが、宇宙に向かって題目を唱えよとはいつ何処で何方から受けた
指導をもとにされているのでしょうか?

結局青田さんとグラスルーツさんは、祈りで宝くじが当たる当たらないの問答で
話がこじれ、仲裁に入った管理人の「臭いものには蓋」的なアク禁処置で青田さんは
掲示板を追放されましたよね。
定期的にすべてのアク禁を解除しているという言い訳はあるでしょうが、話の途中で
板から放り出された人は、気分を害して簡単には戻ってきません。

外部の方から組織に興味があると相談された場合「空を拝め」などという折伏の仕方は
私は聞いたことがありません。
是非、詳しく教えて頂けませんでしょうか?
 

イルカさん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)12時22分48秒
返信・引用 編集済
  > No.9236[元記事へ]

> たぶん、沖浦さん所有の音源というのは、レコーおはようございますド音源かカセット音源ではないでしょうか。時代的に。
> だから、アナログ音源をネット上にアップするのは物理的に無理だということと思います。
> 今どきアナログ音源を編集する録音機器も希少ですし、ネットにアップするにはデジタル音源に変換する必要がありますし。
> (相応のスキルも必要ですし)




確かに普通はそう思いますが、沖浦さんの友人にパソコンの達人がいらっしゃると
お聞きしたので、アップは可能かと思い書き込みました。

>名前:沖浦克治 投稿日: 2010/07/21(水) 05:45:32 ID:AJ3hr85o0
> 私にはNTTコミュニケーションズや、
>マイクロソフト社にコンピューター専門の技術に優れた友人達がいます。
>彼らに頼めばIPアドレスやメールアドなどは一発で調べてくれます。




ところが、今ググってみるとアナログ音源をデジタル化することなんて
誰にでもできるみたいですよ。
TRENDERS NET
カセットテープをデジタルデータ化してパソコンに取り込む4つの方法 より
以下引用URL

http://trendersnet.com/archives/1200.html


オープンリールデッキでも大丈夫みたいですね
笛吹ピリオド楽器・音楽ライブ・オーディオの自分新聞
アナログ録音テープをディジタル化(WAVファイル化)する方法 より
以下引用URL
http://blog.goo.ne.jp/ibukitube/e/03ce9a5b22ff0fc0db6644df1a8ef617



阿部日ケ~ンさん、お疲れ様です。
この書き込みを投稿してから阿部日さんの書き込みに気づきました。

著作権の問題でアウトですか・・・
ご指摘ありがとうございます。
 

うーん・・それはどうかと(笑)

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月18日(水)12時16分24秒
返信・引用 編集済
  > No.9232[元記事へ]

> 全く持って激しく同意でございます。
> 普通、常識ある人間なら、引用する音源の確認を求められた場合
> 「うちに聞きに来い。」などと言わず音源を公開するでしょうね。
> 公開手段などいくらでもあります。
> そのためのインターネットなんですからね~~

--

個人的な討論で「証拠」を求められたからといってネットに他者の著作物を
アップするのはNGですよ~。

研究のため とか 論評のため という理由をつけてYOUTUBEに学会系の
動画をアップしているオバカ職人がいましたが、たいてい削除される運命です。

音源 といっても、いつ何処で指導されたものかは解るはずです。
カセットの時代ですからレーベルは手書きして分類したものです。
外部会場で指導されたようなものなら全集には必ずあるはずです。

//////////////////////////////////

> そのため世間体を保つため、信仰しているふりをしています。
> しかしながら信仰の必要性ゼロパーセントです。 世間へのポーズだけ学会員です。

--
 現場での学会員さんが、たとえそうであったとしても必ず人材になると
 こちらが決めて関わっていくことが大事だとおもいます。
 たしかにこれといった反応がなかったり反論されると凹むこともあるかと
 おもいますが、見限ってしまえば無慈悲となって成仏先送りです(笑)
 現場にもネットにもいろんな境涯、境遇の方がおられます。

 ただネットで、御本尊や日蓮大聖人を貶める発信だけは見逃しては
 いけないとおもいます。

 管理人さんにも提案させていただきたいのですが、全スレッド共通で
 学会の指導に反する事 の他に、信仰の根幹である日蓮大聖人や御本尊
 を貶めかねない我説・邪義 の書き込みを追加してもらいたいです。

 池田先生を愚弄する書き込みは即アウトなのに、日蓮大聖人や御本尊を
 貶める発言がイエローというのは、なんだか変です。
 

詭弁ですね沖浦さん

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月18日(水)11時32分50秒
返信・引用 編集済
  ※万人が納得できる回答をせず次の質問をしてごまかしてはいけません。
 それでは対話になりませんね。

---

万人が納得できる回答なんて、どだい無理難題ですね。
沖浦さんが納得していないだけのことを、ごまかしの論拠
に転換されるのは悪手だとおもいますよ。

すでに沖浦さんの発言から「人本仏(曼荼羅)が迹」と御本尊軽視論について
また、なぜ御本尊軽視論を説いている沖浦さんが御本尊を拝んでいるかについて
沖浦さんの主張をもとに返答をさせていただきました。
曼荼羅が不要だと述べた発言はあえて出しません。 元(ソース)が消されていますから。
沖浦さんはその「ソース」が見つからなかったことを安堵されている投稿もありました。


ともかく今度は沖浦さんが答える番ではないでしょうか。でないと対話になりませんね。
むしろ、対話にならないように論点をずらしている感があります。

では再掲いたします。

沖浦さんは
「功徳(結果)がでていれば、御本尊は絶対条件ではない」と論じました。
ですから解りやすいように「御本尊軽視論」と表現します。
沖浦さんが示された(イ)と(ロ)の状況は「御本尊がない」状況だからです。
(イ)日蓮大聖人が妙法蓮華経と日蓮を首題とされた御本尊を顕される前
(ロ)戸田先生が獄中で悟達を得られた時

繰り返しになりますが、絶対(必要)条件・充分(十分)条件は本来
対で相互補完となる条件です。ですから、一方を(迹)と断じるだけ
では本来の意味合いとは違う概念です。
仏法的な面で「人と仏が等しい」のであるならば、わざわざ人と仏(曼荼羅)
を 迹 と論じ差異をつける必要性を感じません。


まず沖浦さんなりに「絶対条件」と「充分条件」の関係性の説明をされたうえで、
なぜ「人と曼荼羅(仏)」をわざわざ、たて分けねばばらないのかを論じて
もらえませんか。
それから、沖浦さんが本迹のたてわけが信心において重要であるとされるのなら
御本尊(曼荼羅)は迹だから・・など言及された学会指導を提示いただきたいです。


----------

予告してあった沖浦さんの「日蓮大菩薩」説に関する質問は保留にしておきます。
読者の皆さんに「沖浦さんはこんなことを正しいと主張できる」方で
あることを知ってもらえればよいのです。

ところで。
貴殿がいくら「私はそう聞いた」とか「たくさん学んだ」とか力説したところで、
そういった指導が全くでてきません。
趣意の会長発言は「偽書」と同じようなものです。
 元がたどれない以上、対論を受ける側が資料として精査できません。
それに「音源」があるのであれば、「趣意」ではなく何度も聞き直して
テキスト化することが可能なはずです。

相手には一字一句違わない「証拠」を求めるのに、自分は曖昧かつ質問に
も踏み込まないまま時間とスレを消費するのは、投稿をひかえるよう
お願いされた他の投稿者さんにも、提案をされた管理人さんにも迷惑
ではないでしょうか。
 

グラスルーツさん

 投稿者:  投稿日:2017年 1月18日(水)11時00分49秒
返信・引用
  討論は指名された者同士に限るとされているが、
他の者に本スレへの書き込み制限はされていない。
だから各人の感想を述べるのは自由だと思う。
それにここの管理人さんは、いつもシッカリ状況を
見据え的確な判断を下すお方。
貴方が、余計な口を挟まなくても大丈夫。
それより早く自城魔付さんの質問に答えたらいかが。
 

おはようございます

 投稿者:イルカ  投稿日:2017年 1月18日(水)10時56分11秒
返信・引用 編集済
  おはようございます。

グラスルーツさんの指摘はもっともだと思います。
ですが、皆さんの言われているとおり、確かに公平性に欠けますね。
相手に明文化を要求し、自分は出典を明示せず「主意」のみの提示というのは。

たぶん、沖浦さん所有の音源というのは、レコーおはようございますド音源かカセット音源ではないでしょうか。時代的に。
だから、アナログ音源をネット上にアップするのは物理的に無理だということと思います。
今どきアナログ音源を編集する録音機器も希少ですし、ネットにアップするにはデジタル音源に変換する必要がありますし。
(相応のスキルも必要ですし)

時間的・労力的に 音源から文字起こしが無理ということなら、せめて、いつ・どこでの・何の音源なのかくらいは明示するべきではないでしょうか。

学会の公式の音源なら、何らかの書籍に掲載されてるでしょうから、閲覧者の皆さんも調べれば割と容易に探せると思います。
 

当事者以外は賛否を書くのを控えるべきでは・・・

 投稿者:グラスルーツ  投稿日:2017年 1月18日(水)10時25分17秒
返信・引用
  このテーマについては沖浦氏と阿部氏が、この板での対話(論争)をしなさいとの管理者の指示です。

ここまでROMさせていただいて、この基本がないがしろにされていると感じました。

他の方が、この件で踏み込んだ意見をいうのは管理者の意図を逸脱した行為だと感じました。

板が荒れるのを懸念されてのクジラさんのご采配と思いますので、他者が賛否を表明することは極力控えて、当事者同士の議論が進み深まるように見守るのが良いと思います。


対話の成り行きを見守りたいものにとっては、この件に関するそれ以外の方の書き込みは雑音以外の何物でもありません。

控えていただくべく、管理人様のご指示をお願いするものです。


 
 

自城魔突さん、こんにちは。

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月18日(水)09時45分18秒
返信・引用
  > No.9232[元記事へ]

沖浦さんは、阿部日さんとの対話の中で

>私が御本尊を不要だとした書き込みをダイレクトにアップして下さい。

と主張されています。
それならば、池田先生や学会の指導も『ダイレクトにアップする事』が公平なのではないか、そう感じた次第です。
 

普通の人さんおはようございます。

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)08時56分23秒
返信・引用 編集済
  > No.9210[元記事へ]

> 自城魔突さん。
> 御賛同、ありがとうございます。
>
> ただ、私は沖浦さんの事も、尊敬しております。
> 沖浦さんは、掲示板では、非常に誤解されやすい方だと、思います。
> と同時に、素晴らしい、学会員さんでもあります。

わたしは沖浦さんの事はまったく尊敬できません。
この度の阿部日さんとの対話でも、質問を繰り返し
全く真剣に対話する意思を感じられません。

そのうち「これ以上話をしても意味がない。」とか言い出して
退室するか、スルーするかでしょう。

これが自分の掲示板なら
「この答えが出ないならアクセスをお断りです。」の一言でアク禁。
沖浦さんが求める答えというのは、自分が納得するもののみが「正解」とされるのです。

男らしくないんですよ~~  残念ですが何年も同じ繰り返しなんです。
 

細野さん

 投稿者:自城魔突  投稿日:2017年 1月18日(水)08時50分49秒
返信・引用
  > No.9230[元記事へ]

> 管理人様
> お伺い致します。
> 池田先生、及び学会が現在、または過去に出版された書籍等からご指導等を引用する場合、『誰もが確認出来るもの』でなければ、不公平ではないのではないでしょうか。
> 当掲示板を含め、他の掲示板やSNS等でもほぼ全ての方が、引用元を明示しています。
> 御手隙のお時間等ございましたら、ご確認の上ご回答頂けますようお願いします。

全く持って激しく同意でございます。
普通、常識ある人間なら、引用する音源の確認を求められた場合
「うちに聞きに来い。」などと言わず音源を公開するでしょうね。

公開手段などいくらでもあります。
そのためのインターネットなんですからね~~
世界中の人が一瞬に確認作業できることをせず、どうしてわざわざ一人一人
その場に赴き確認する必要があるんでしょうかねぇ~~

まぁ あくまでもホントに音源を所有している場合ですけどねwww


阿部日さん、お疲れ様です。

私の知人で全くの未活の方がいますが、一応朝晩の勤行と唱題はしています。
でも対話すると全く信仰の必要性を感じていません。
二世会員で両親 奥さん お子さんは バリ活です。

そのため世間体を保つため、信仰しているふりをしています。

しかしながら信仰の必要性ゼロパーセントです。
世間へのポーズだけ学会員です。

そんな人もいますね~~

ま~~何を考えているか、他人の腹の中なんてわかりませんね~~
 

(無題)

 投稿者:細野  投稿日:2017年 1月18日(水)08時03分46秒
返信・引用 編集済
  管理人様
お伺い致します。
池田先生、及び学会が現在、または過去に出版された書籍等からご指導等を引用する場合、『誰もが確認出来るもの』でなければ、不公平ではないのではないでしょうか。
当掲示板を含め、他の掲示板やSNS等でもほぼ全ての方が、引用元を明示しています。
御手隙のお時間等ございましたら、ご確認の上ご回答頂けますようお願いします。
 

おはようございます、皆様方

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時41分10秒
返信・引用
   今聖教新聞の、田中正浩さん(56)=綾南支部、地区部長さんの体験を読みました。

 素晴らしい!!

 こう云うお方が同志でおられる創価学会。
 その創価に縁あって入り、創価人となった自分自身。

 功徳を噛みしめる思い・・・・・

 田中さんの体験の中に先生のご指導があります。

 「信心を根本に生きる人は、どんな状況、どんな場所にあっても、『ここ』から『新たな出発』を切っていける。『いま』から無限の『希望の未来』を開いていける」
 ~引用終わり~

 今はこの指導は本当だとわかります。
 これが本当だと実感できる人生。

 功徳の証拠~~!!
 

管理人様

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時11分23秒
返信・引用
   おはようございます。

 私が引用する先生のご指導はほぼ音源を所有しています。
 暗記するまで聞きましたので覚えていて、主意として引用致します。

 主意が困る方々は、拙宅に来ていただけるならお聞かせ致します。

 以前から書いて来ましたし、その通り来られた方々も沢山おられます。

 ですので、主意がお嫌いな方は私の家に聞きに来られるか、その引用が嘘である証明をお願い致します。

 でないと対話が進みませんのでご配慮下さいませ。
 

阿部日さん、おはようございます。

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月18日(水)06時04分2秒
返信・引用
   ダメですよ、万人が納得できる回答をせず次の質問をしてごまかしてはいけません。
 それでは対話になりませんね。

>人本仏迹論に当てはめると、沖浦さんにとって利益(功徳)を主張するための
「道具」にすぎないからですね。

 人が本、仏が迹は大聖人仏法の基本ですし、創価の根本理念。
 貴方はここに迷いがある。
 師匠が云われましたでしょう。

 『これまで世界は、宗教のために人間があるとの思想で民衆支配が行われて来た。
 今私どもはそれを逆転し、人間のための宗教を高々と掲げる。』(主意)

 御書には、

 『云、一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し、』
 (爾前二乗菩薩不作仏事)

 一切衆生がいないなら、菩薩の四弘誓願はございません。
 衆生を救済するために菩薩は仏法を弘めます。
 仏法とはそういう教えなんです。

 衆生である人が本、仏法全体がその幸福のために説かれる方ですから迹。

 ここをキチンと理解なさいませ。
 その上で書きますが。

 貴方のこの書き込みに悪意を感じます。
 私は御本尊が道具に過ぎないと見下した書き込みをしておりません。
 今一度確認致します。

 御本尊は道具ではあるが命の次に大切なもの!!!

 何度も何度も書いております。
 理解する努力をなさいませ。

 次に、功徳を出すための道具として私が御本尊を必要とし拝んでいる。

 概ねこう云うご意見です。
 すると、貴方がお気に召す召さないに関わらず、私は功徳を出すために御本尊を必要としていることになります。

 この点を先ず明確にして下さい。
 私の意見を整理しておきましょう。

 私は御本尊を必要としているからこそ、仏間に御安置し毎朝毎夕拝み、30分の唱題を心がけています。

 この私の行為が何故、御本尊不要と云えるのですか?
 不要ならそう云う事は致しません。
 巻いておしまいしておきます。

 必要だから拝む私の何処が御本尊不要論者となるのか?

 明確な回答をどうぞ。

 その後次に進みましょう。


 

困りましたね。

 投稿者:モウ  投稿日:2017年 1月18日(水)00時29分12秒
返信・引用
 
私の理解はこうです。

天台大師は、法華経に「みんなが成仏できる」という法理が説かれているのを詳しく
教えてくれました。それは法華経の前半に「理屈」でほぼ書いてあって、法華経の後
半になると、釈尊の姿が説かれて「現実」として理解できるようになっています。

迹門の不変真如の「理」と本門の隨縁真如の「智」は、この法華経の内容を踏まえて、
真理を信じることと、そこから智慧が現実に顕現することの大切さを教えてくれてる
のだと思います。

本来は、法華経の内容についての「理」と「智」です。

ところが話が変な方向にいってしまいがちです。
それを流用して、一般的な「真理」と「現実」の関係を考えるのはいいでしょう。
しかし、「真理」と「現実」の関係を言うだけにわざわざ使うのって変ですけどね。

あるいは、この「真理」と「現実」の関係を説明するために、いろいろな譬えも使わ
れてきました。「水」という抽象的な言葉と「氷った水」や「海の波」とか。
あるいは、「目を閉じれば不変真如の理」で、「目を開ければ隨縁真如の智。」など。

しかしそれはあくまで譬えですから、説明するために使った譬えのほうが、一人歩き
してはいけません。何でもそうなら、目を閉じて「お腹がへった」と考えれば「理」
で、目を開けて同じく「お腹が減った」と思えば「智」なのか、なあんて変なことは
ありませんから。

全ての「真理」が「不変真如の理」で、「現実に顕現した姿」が「隨縁真如の智」に
なるという理解だったら、「法身」が「迹門」で、「応身」が「本門」になってしま
います。それでは、おかしいですね。


何のために説かれたかを考えれば、転用するときにも気をつけて考えなければならな
いと思います。「迹門の不変真如」の「理」と「本門の隨縁真如」の「智」の2つが
どちらもあって「南無妙法蓮華経」ということになります。

御本尊は真理で、これを拝んで顕現するのだから、迹門だという言い方はありません。
何よりも「本門の本尊」だと宣揚されてきた大聖人が、「迹門」の本尊という言い方
を好まれるかどうか、考えてみれば分かることではないでしょうか。

理屈の上では、紙の御本尊は、真理でしかなくて、衆生の上に顕現する御本尊こそが
智慧の姿ではないかという発想は分からないではありませんが、厳密には、御本尊は
物体としてあるだけでは御本尊(真理)とは言えません。信心を持って衆生の側に
御本尊として顕現するときに、同時に御本尊になりえるのですから。


「本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、その信心に本尊が具するのである。
 この二つの次元が揃って初めて大聖人の御本尊の意義が完結する。」
(1993年、創価学会教学部)

境智の妙法ですから。たとえ己義であろうが、誤解を生もうが、御本尊を不変な真理
だと言いたいだけなのだというのであれば、同時に、題目もそうです。唱題できない
時でも「信じる」ことが根本ですから、功徳はあることになります。

私としては、こういった理屈に拘泥するのは本当に不本意です。これで意見表明とい
うことで、あとはお許しさせていただこうと思います。
 

次に沖浦さんにお尋ねするのは

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2017年 1月17日(火)22時07分30秒
返信・引用 編集済
  ※私が御本尊を不要としているなら、何故自宅にご安置して拝むのですか?

人本仏迹論に当てはめると、沖浦さんにとって利益(功徳)を主張するための
「道具」にすぎないからですね。

次にお聞きしたいのは

https://archive.is/vZOLK



グラスルーツさんに説かれた
「日蓮大菩薩論」です。

これも「趣意」ばかりで、元となる会長指導がみあたりません。

どうぞ「人本仏迹」論とともに、該当する会長指導を明示してくださいませ。



 

阿部日さん

 投稿者:沖浦克治  投稿日:2017年 1月17日(火)22時03分55秒
返信・引用
   私が御本尊を不要としているなら、何故自宅にご安置して拝むのですか?

 具体的にどうぞ。
 

普通の人殿へ

 投稿者:おっちゃん  投稿日:2017年 1月17日(火)22時01分38秒
返信・引用
  おっちゃん、阿部日殿の下記投稿は、理解できる内容が多いでござる。
普通の人殿はどう思うでござるぞか。

こういったおっちゃんの内容は、ここでよろしかろうぞか。
おっちゃんも別に沖浦殿に敵意がある訳ではござらんぞよ。
本スレで色々と発言するとやはり読みづらくなるなる気もするでござる。
おっちゃんにわかに普通の人殿を尊敬しておるゆえ、ご面倒でなければコメントを頂くと有り難きでござる。


> ※沖浦さんは「御本尊不要主義者」ではないと、クジラも思います。
>  本人が言ってない事は判断はできません。
>
> ---
>
>
> 以前沖浦さんの投稿は自営業の自家宣伝も兼ねていると指摘させていただきましたが
> その時とおなじように「直接(明確に)書いていないから」そうは思わないと
> いうご判断と同じ考え方のようです。
>
> 実際にその文言を一字一句間違えずに書いたか、書いてないのか・・という弁証法は
> 「いった・いわない」の確認で終始してしまいます。 シアトルでの阿部日顕の証言
> のように、ある事実に対し単純に否認することができれば「事実ではない」と認められる
> わけではありませんよね。
>
>
> おそらく、管理人さんは沖浦さんが、御本尊に向かって題目を唱えているという事実を
> みて「御本尊不要論」ではないのではないかとお考えになっているのではないかと
> おもいます。
>
> 事実、沖浦さん自身もそのように書かれています。
>
> ※御本尊は道具で迹ですよ、でも不要とは言いません。
>  事実きちんとご安置しておりますし、朝夕拝んでいます。
> (2013/05/28(火)
>
> しかし、次の日にはこのようにも論じています。
>
> ※創価のご本尊は必要です。しかし、日蓮正宗では無い方がいいですね。
>  寛師の邪義に毒されていて、漫荼羅本尊を人の上に位置づける邪義ですから、
>  そう言うご本尊は無い方がいいです。
> (2013/05/29(水)
>
>
> 日寛教学が御本尊を“人の上”に位置づけているとは初耳ですし
> その文証は示されていません。
> また 「そう言う本尊」 とはなにを指すのか。
> 日寛教学は邪義という沖浦さんの主張ですから日寛書写の本尊の全否定
> と考えられるのではないでしょうか。
>
> いちおう沖浦さんの主張のソースを示しておきますね。
> http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9645/1366715670/
>
> -----------------------------------
>
>
> 拙がクジラさん掲示版において根本的問題としているのは、
> 沖浦さんの論そのものではなく、ルールと運用 についてです。
> これを念頭においたうえで、管理人さんの見解を明確にしていく形
> をとりたいと思います。
>
> 沖浦さんは 人(凡夫・衆生)本 御本尊迹 と説かれました。
> このように書くと「人本仏迹」ではないじゃないかというご指摘をされた
> 方がおられましたが、あらためていうまでもなく御本尊は末法衆生の「成仏」
> の為に「仏」を書き顕されたものですよね。
>
> ところが沖浦さんはこのように主張されます。
>
> ※更には、御本尊はそのままで仏ではございません。
>  私共は自行化他の唱題をしてこその御本尊。
>  謗法の地にあろうがなかろうが、私どもが前で唱題するなら、
>  キチンと功徳は出ます。
>
> (2014/11/10(月)
>
> 御本尊は、そのままでは仏ではない。自行化他の唱題をして「仏」となる。
> おそらくこれを説明するのに沖浦さんは「草木成仏」の御書等を引用される
> でしょうけれども、謗法の地にある御本尊に唱題しても「功徳」がでるという
> 主張は池田先生の指導に反します。 あえてその指導は引用しませんが
> 沖浦さんの論理は「正しいこと」と「我見」をまじえて強引に結論づける
> のが特徴です。
>
> 正直なところ、すでにこの件についての対話は八年前に終了しているので
> 両論併記の状態になるとおもいます。
> 沖浦vsあべひでは、管理人さんがおっしゃるように「長文テキストの羅列」
> にしかならないでしょう。
>
> となると、どこかで判断をしていただく人間が必ず必要となってきます。
>
> まず管理人さんにお願いしたいのは、「人本仏(曼荼羅)迹 の考え方を受け入れ
> 難い方」 は 怨嫉謗法が原因である とか 沖浦さんを怨嫉しているなどと、断定する
> やりかたに、不快感を感じている方が何名かおられるようですが(拙も同意見です)
> これは「学会員さんが不快に感じる投稿」にはあたらないのでしょうか。
>
> たとえば拙が管理人さんに対し
> 「私の論を批判するのは怨嫉謗法からの頭破七分故です」
> 「怨嫉謗法の書き込むを見て置いて責めないなら、
>  書き込んだ人も責めない人も共々に無間地獄です」と書けばどうでしょうか。
>
> ハッキリいって「功徳」とやらを書きつらねながら、同時に相手を中傷するやり方に
> 飽き飽きしています。
>
> ------
>
> ※しかし、そういうSGIメンバーほど「御本尊」をどれほど求めているか。
>  たとえ「御本尊」が無くても健気に祈り活動をする。・・
>
>
> そうですね。
> 物理的に御本尊様をまだいただいていない状態であっても功徳がでている
> のはなぜか、クジラ管理人さんの上記の言葉に明確にでているように
> 思います。
>
> 猛烈に「御本尊」を求めている事 そして 健気に祈り 活動 をすること。
>
> まさにこれが自行化他の信心を貫くことであると拙は思います。
>
> 御本尊がまだ安置されていない状況の方が
> 「お題目を唱えただけで功徳がでたから御本尊は必要ではないのでは?」
> と問われたときに、クジラ管理人さんはどのようにお答えになるでしょうか。
> 「日蓮大聖人も御本尊様がなくても仏になられたではないか」とか
> 「戸田先生は獄中で悟達を得られ時に御本尊様が無かった」と
> 言われたらどのように説明されるでしょうか?
>
> 拙と沖浦さんとの対論としてではなく、これがもし、自分の現場の会員さん
> からの質問ならば・・と考えてくださるなら、再対論のやり甲斐もあるかも
> しれません。
> “それまでは、(他の方は)「沖浦さんの教義解釈」のお話しは一旦休憩”
> との提案ですが、管理人さんも読者の皆さんも話題に乗られないのであれば、
> リング上の対戦を見ているだけの観客状態となってしまいます。
>
> それは本意ではありません。
>
 

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