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正法眼蔵 坐禅箴 27

道元禅師の注釈は続きます。

南嶽懐譲禅師の指導していた教団には、この様な工夫があり努力があった。 また薬山惟儼禅師が指導していた教団には前に述べたような言葉が残されている。

銘記せよ。釈尊以来代々の祖師方が、一番大切なものとして代々受け継がれて来られたところのものは、すなわち坐禅をすることによって、即座に釈尊と同一の人格になるという事であるということを。 過去において仏と言われ祖師方と言われた方々というものは、いずれも、この肝心要の事実、すなわち坐禅において真実と一体になっているという状態を活用してこられたのである。

まだこの坐禅と言うものの経験がなく、坐った時の状態と言うものを経験していない人にとっては、仏と言われ祖師方といわれる方々の肝心要の事実と言うものは夢にさえ見た事がないものに他ならないのである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

その人が私の英語のテキストにこの本(The Tao of Phisics)を使い始めたわけです。で、一冊私のところへおいていってくれましたので、否応なしに読むことになりまして読み始めたところがなかなか面白くて、一週間その本ばかり読んでいたという事で、まあ想像したような難しい本ではなくて非常にわかりやすい言葉で近代の物理学――量子論とか相対性原理とかの説明があったわけです。その本の中でどういう事を言っているかというと、近代の物理学と古代インド、あるいはヒンズ-教で考えられておるような世界とが非常によく似ておる。そのことはどういう事かというと、この世界とは相対的なもので、しかも流動的なものだと。
          
ニュ-トンの考えた物理学では、固定的な物というものがあったわけですが、今日では物質そのものが流動的になってきて、精神的な世界と近づいてきたという風なことが書いてあったわけです。そういう本を読んでみますと、世界の思想が我々が予想しておる以上に東洋の思想に近づきつつあると言えようかと思うわけです。今日世界を支配している民族がどこの民族かという事になりますと、私の感じではアングロサクソンという民族がかなり中心になっておるんではないか。

そのアングロサクソンという民族の特徴があるわけですが、一つは非常に理屈っぽい事、理屈の通らんことは絶対に認めないという性格がある様です。それからもう一つは行動の面で妥協しないという面がある。そういう二つの性格がありますと、仏教思想を勉強する上に置いては非常に早く目標に到達するんではないかと、こういう気がするわけです。仏教の勉強を考えてみましても、非常に理屈っぽいという事が一つあるわけです。理論的に通らないことは認めないという立場が仏教の勉強の中にはある訳です。

それと同時に行いの面で妥協しないという事、それが仏教の目標に到達する一つの特徴だと言えようかと思う。その点ではアングロサクソン民族というのはそういう二つの特徴を持っておる。彼らが仏教思想にかなり関心を持っている裏側には、近代物理学を生みだしたような非常に理屈っぽい妥協しないという性格があって、そのような傾向が仏教を勉強する上に置いてもかなり有利に作用するのではないか、まあそういう風なことを先週ちょっと本を読んでいて感じたわけです。その点では、世界における仏教の今後は我々が考えている以上に早く一般にいきわたっていく可能性があるんではないかと、そういう気がするわけです。

※私の独り言。  
先生のご自宅にお伺いした時に「私の講義を聞きに来ている外国人は納得するまで徹底的に質問をする。仏教も外国で広まり、そして仏教が逆輸入という形で日本に入ってきた時に始めて日本で仏教思想が今より広まるのではないかと思う」と、先生が話をしてくれました。


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正法眼蔵 坐禅箴 26

道元禅師の注釈は続きます。

人が普通に坐っている姿というものは、坐った形での仏( 真実を得た人)に外見は似ており、あるいは仏が坐った状態に外見は似ているようではあるけれども、人間が仏になるという意識的な努力をしている場合もあり、すでに仏となってしまった人がそこにいるというふうな状態であるという二つの場合の区別があることと関連して考えるべきである。

確かに坐禅をすることによって自然に仏になってしまった人というものが現実にあるけれども、坐禅をしていない人も含めてすべてが仏であるとは言えない。仏とすべての人とが全く同じというわけにはいかない。すべての仏と言うものが、すべての人とまったく範囲を同じにしているとは言えないから、普通の人間が常に例外なしに真実と一体になっているとは言えないし、真実と一体になった人というものは人間の境涯をも脱け出した面もある。

実際に坐禅をしている時の様子もこれと同じ様な状況にある。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師とが、師匠も優れていたし弟子も優れていたために両者の間で様々な問答が行われたけれども、その問答の中身と言うものも今まで述べた様な事情と同じものである。 坐禅をする事によって仏になった状態を実際に体験していたのが馬祖道一禅師の立場である。仏になる事がどういう事かを説明するために、坐禅の中における真実と一体になった人と言うものを説明していたのが南嶽懐譲禅師の立場である。



              ―西嶋先生の話―

日本は一般に仏教国と言われているわけですが、今日我々の周囲の状況を見ますと仏教思想が本当に理解されておるかというと大変心もとない感じがするわけです。確かに日本の国民で自分の家が仏教に所属しておるという人は多いわけですが、今日書店に並べられている仏教書というものを見ましても本当に仏教思想が書いてあるのかどうか首を傾けるような本が非常に多いわけです。そういう点では、今後日本に仏教がどんな形で広まっていくかという問題を考えますと、必ずしも楽観できないような気がするわけです。

ただそれと同時に、世界と仏教という関係を考えてみますと、必ずしも悲観しなくてもいいのではないかと最近感じたわけです。どうしてそういう事を感じたかというと、先週英語の本ですが「The Tao of Phisics」という本を読んだわけです。私はこの本を一年ぐらい前に、現在、私の「正法眼蔵」の英訳の手伝いをしてくれているラッチフ-ォド君から読んでみないかという話を聞いたわけです。

ただその時、私は自分が旧制中学の時に物理学をやったわけですけれども、物理学というのは非常に難しい学問であんまりおもしろい学問でなかったという記憶があったものですから、どうも物理学の本を英語で読んでみてもわかりっこない、まして量子論とか、相対性原理というのは日本語の本で読んでもわからないんだから、まず自分は読んでも無理だと思って読まなかったわけです。

で、この9月に洞慶院で英語で坐禅会をやったわけですが、その時にレ-ニ・レベテッツという映画監督が参加しまして、この人は現在メキシコとコロンビアと両方に家を持っておるというスペイン系の人ですが、その人がやはりこの本を読んでみないかと言ってくれたわけです。その時にもあまり踏ん切りがつきませんで、その頃英語の歴史の本を読んでいましたから、その本でも読み終わったら読もうかなと思っていたところが、皆さんの中でもご承知の方がおられると思いますが、私のところへほとんど毎日のように英語を教えに来てくれるベリ-という人がいるわけです。
                             つづく--


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正法眼蔵 坐禅箴 25

坐禅に関してまた別の言葉がある。「坐相(坐っているときの姿)に執着するならば、仏道の基本的な原則の全てに通達したことにならない」と。

この言葉について道元禅師が注釈されます。
坐相に執着するという事は、坐相はどうでもいいという考え方にとらわれて坐禅をしているときの姿を穢すことである。ここで言っている言葉の意味は、すでに坐るという形で仏(真実を得た人)になっている以上、坐相に執着しないということはあり得ないと言っているのである。そして坐禅をしている時の姿に執着しないということはあり得ないのであるから、坐相を整えなければならないという考え方で一所懸命に坐禅をしている場合もまた、必ずしも坐禅の基本原則に通達した状態と言い切れないものであろう。

この様に坐禅をする事に一所懸命になって、坐相に執着するとか坐相に執着しないという状態を超越する努力と言うものを、身心脱落(体とか心とかという区別を超越してしまった状態)と言うのである。いまだかつて坐禅をした事のない人にこの言葉があり得るのではない。ただ単に本の上で文字を読んで坐相に執してもいけない、坐相に執しなくてもいけないという事を理屈として言っていても、実際に坐禅をした事のない場合には本当の意味でこの言葉を説く事はできない。

この言葉というものは、人が現実に坐禅をしているときに初めてあり得る事であり、坐禅をしている人に初めてあり得るところであり、坐禅をして仏になっている人に初めてあり得るところであり、一所懸命に坐禅をしている人にあるのである。坐禅とは関係なしに日常生活で坐ったり寝たりしている際の坐ると言う事が、坐禅をしていて真実と一体になっている仏というものと同じだという事ではない。



              ―西嶋先生の話―

坐禅をなぜやるかといえば、自分自身が主人である状態を持つと言う事。坐禅の状態はどう言う事かと言えば、暑さ寒さがどうであろうと、生活がどんなに苦しかろうと、仕事がどんなに辛かろうと、そういうものを乗り越えて自分自身が自分の主人であるという状態、それが坐禅の状態。そういう点では、坐禅の状態というのは我々が経過している人生の一番基本の状態。

この人生というのは、楽しみもあれば苦しみもある。だから我々はいろんな楽しみを考えて熱中するわけです。楽しみの原点と言うのは何かといえば、気持ちが落ち着いてくる事。人間が幸福を感じる時と言うのは、気持ちが落ち着いている時。坐禅と言うのは、特別の道具立ても何もいらないけれども、自分自身の境涯に落ち着いている状態。だから坐禅の時の境涯というのが人生の出発点、人生の一番普通の状態と言う事にならざるを得ない。

そういう普通の状態というものを経験した事があると、ものの見方が歪まなくなる。ところが、そういう基本的な自分自身の状態を経験した事がないと、どれが基本かわからない。世間につられ、あっちへウロウロこっちへウロウロと言う事の繰り返しになる恐れがある。我々の人生と言うのはそういう繰り返しになる恐れがある。大事な事は自分自身が主人であるという事。だからそう言う自分自身が主人であるという立場で、どうしたらいいかと考えれば楽しみと言うものが本当に楽しくなってくる。自分自身で本当に楽しむという境地が出て来る。

自分自身と仲良くなる事。本当の自分と言うものをつかむと言う事、これが大切な事、それが坐禅でありそれが仏道であるという事になろうかと思うわけであります。


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正法眼蔵 坐禅箴 24

馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師言う。「お前がもしも坐禅をしているならば、そのときの状態というものは、仏の境地を超越した状態である」と。
         
南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈です。
南嶽懐譲禅師の言葉に従ってさらに坐禅と言うものを勉強していくと、今度は仏の境地を超越するという性格があるのである。坐禅をしているまさにその瞬間というものは、仏というものを超越しているのである。仏の境地を超越しようとするならば、坐った形で仏になるという坐禅を実際にやらないならば、とうてい仏の境地を超越した素晴らしさというものに巡り合うことはできない。

この超越するという言葉は我々が日常生活でいくらも使うところであって、凡夫が使う超越するという言葉の意味と同じような言葉に聞こえるけれども、同じだと考えてはならない。そして坐禅の形で真実と一体になっているという事が、実は仏の境涯を超越することだと言われているけれども、その内容というものには、一体どういう区別がありどういう段階があるかと言う事を勉強してみるべきである。

そしてその問題に関連しては、仏の境地はすでに超越している、問題にしていないという点があることを頭において、我々が日常生活で人間を超越するとか、人間の境涯を超越できていないとかという事を言うけれども、そういう問題も、この仏の境地を超越すると言う言葉と同じ意味で勉強すべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」の教えは尊いものではあるけれども、私は先生の様に世界唯一とは思えないんですね。先生が「私は経験しないことはしゃべらない」と。「本にどんなことが書いてあったってそれを直ちに信じない」と。私もそうなんですね。経験しないことは信じられないけれども、経験したことは相当信ずる。その立場から言いますと、必ずしも「正法眼蔵」が世界唯一の教えであるとは信じきれない、そういうところがある。

先生
私が「正法眼蔵」に近い思想として最近感じているのは近代物理学です。これは仏教との間に非常に近親感があるように思います。「正法眼蔵」に説かれている思想に一番近い思想と言えば近代の物理学です。相対性理論とか量子論というものです。これは「正法眼蔵」の内容を検討していきますと非常に近い。ただそれ以外に近いものを、私は今まであんまり発見できていない、そういう感じです。

質問
「私は先生の様に必ずしも正法眼蔵が世界唯一の教えであるとは信じきれない」と言われた方がありますが、先生の言われている通りに、「そうか」という事で時間があったら坐ればいいんじゃないかと、ただそれだけのことなんだから、信じるか信じないじゃなくて、坐ればいいんじゃないですか。それ以上、頭でゴチォゴチャいう事でもないし。
        
先生
確かに仏道というのは坐禅することが一番最初ですね。それがすべてだと言ってもいいと思います。ただ人間というのは理屈が好きなんです。だから、坐禅をしているだけではどうも満足できなくて理屈の方も知りたいと、こういう事は人間の本能としてあると思います。だから本を読むこともやっぱり避けるわけにはいかないと、そういう問題があると思います。

私の独り言。
私も先生の様に「正法眼蔵」が世界唯一の教えであると信じています。だから毎日坐禅をやり「正法眼蔵」を頼りに暮らしています。


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正法眼蔵 坐禅箴 23

また南嶽懐譲禅師言う。「仮に坐禅を実際に勉強した場合には、仏(真実を得た人)というものが、必ずしも固定した姿のものでないという事がわかってくる。

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
坐禅というのはどういうものかという事を言おうとするならば、この様な南嶽懐譲禅師の言葉にならざるを得ない。坐禅をやっている一人一人の姿というものはそれぞれが様々の内容の坐禅をしている。各人各様の内容を持った坐禅というものによって飾り立てられた姿というものが、坐禅の本当の内容である。

今、ここで南嶽懐譲禅師が「仏の中身とは、必ずしも決まった形のあるものではない」と言われた言葉というものが、釈尊の持っておられた内容、姿と言うものがどういうものであったかという事を言っておられるのである。そして坐禅というものはこれと言う決まった姿、決まった内容のあるものではないけれども、それだけに坐った形で真実と一体になるという事は、どうしても逃れることのできない、避けることのできない、あるいはそれなしにはいられないところのものである。

この様に考えてくると、坐禅というものは、仏のこれと決まった形ではない姿に飾り立てられた修行であるから、坐禅をやっているときというものは、直ちに坐った形における真実を得た人そのものである。固定的なものを一切持っていない宇宙の中で、これは仏でないとして選り好みをしたり、これは仏であるとして選り好みをしたりする者があろうか。

坐禅というものは坐禅を始めた瞬間から、選り好みなどという心理作用を超越したものであるから、坐っている形の仏(真実を得た人)以外の何者でもない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は今でも坐禅は好きなんですけれど疑問が起こる事があるんです。最近シ-ズンになりまして、よく接心(坐禅会)に誘われるんですね。一日15炷(45分を一炷と言う)を一週間続けてやるんですね、もう足のほうがまいってしまい、ああいうのは難行苦行だと思うのですが、先生はどうお考えになりますでしょうか・・・。

先生
まあ私もそういう考えに近いですね。私はこう言う事がいえると思うんですよ。 毎日1時間365日やるのと、15炷を一週間やるのとどっちが貴重かと言う事。365日欠かさずにやるという事が私は絶対に必要だと思う。坐禅修行に関する限り絶対必要だと思う。だから15炷の接心終わった翌日も必ずやらなくてはいかん。
    
「15炷接心が終わった、よ-しこれで終わりだ、一杯飲め」と言う様な事で、 ドンチャン騒ぎをやるというのでは仏道修行にならんと思う。ならんと言っては語弊があるかも知らんけれども、それよりは毎日の坐禅を 365日欠かさずにやる方がはるかに貴重。 これは私の経験から言うんですよ。
    
坐禅を毎日やる様になる前は、坐禅と言うものが全然わからなかった。あっちこっちへ行って坐禅の接心をやらなかった訳じゃないですけど、そういう努力をしておった時には坐禅と言うものがよくわからなかった。毎日やる様になってから「アッ」と言うふうに感じた。これ以上の事はないじゃないかと言う感じだった。 毎日やっている限り、あともうこれ以上望むものがないんじゃないかと言う実感が、毎日やっていると出て来るものだ。

だから、とにかく人のやらん事をやろうと言う様な事で、15炷、16炷やるという事、これも非常に結構な事だと思いますけど、 365日一日も休んじゃいかんと言う事、この事の方が私は大事だと思う。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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