円谷プロの創業者である円谷英二は、不世出の天才映画監督でした。
当時の子ども番組制作費が1話平均200万円程度だと言われていたところ、『ウルトラマン』の撮影には1話1,000万円超の制作費を投じ、大赤字を出しながら、それでも納得がいかないとお蔵入りさせてしまう徹底した職人ぶり。
第二次世界大戦時に製作された『ハワイ・マレー沖海戦』では、プール内に作ったハワイ・真珠湾のセットがあまりにも精巧だったため、アメリカ軍から「オアフ島のどこであれを撮影したのか」と尋問されたほどの技術力を誇っています。
初代『ウルトラマン』は、一見子ども向けの中に隠されたストーリー性もさることながら、当時の技術の限界を超えた特撮映像に日本中が夢中になりました。
『ガンダム』や『仮面ライダー』が今も世界中で愛されているように、ウルトラマンもそのようなコンテンツになって然るべき、誰もがそう考えるでしょう。
しかし、ウルトラマンは違ったのです。
天才であった円谷英二が作った円谷プロに、いま、円谷一族はなにひとつとして経営に関わることを許されていません。
また、ウルトラQからウルトラマンタロウにいたるまでの海外利用権のすべてを他社が保持しており、円谷プロはウルトラマンを海外へ自由に羽ばたかせることすらままならないのです。
玩具の売上は、ガンダムや仮面ライダーに比べておよそ10分の1。
なぜ、こんなに明暗が分かれてしまったのか。
バンダイナムコによる2017年(平成29年)3月期 第2四半期決算短信 補足資料より
ウルトラマンは2013年で生誕50周年を迎えましたが、その中には16年もの空白期間があり、海外に向けての権利を手放してしまうなど、今のウルトラマンの状況を導いてしまう明確な理由がありました。
今回は、親子でウルトラマンを愛している筆者が、円谷英二の孫であり円谷プロ6代目社長である円谷英明氏の『ウルトラマンが泣いている~円谷プロの失敗』を資料としながら、円谷一族が円谷プロのすべてを手放さなくてはならなかった理由と、ウルトラマンの栄枯盛衰について綴っていきたいと思います。
円谷プロファンにとって、本書は大変厳しい本であり、筆者も思わず目をそむけてしまうような事実が書かれていました。
しかしだからこそ、その事実と歴史を見つめることで、改めて過去の名作への感謝とともに、今後の円谷プロの再起と発展を願うひとつの声援としたいと思います。
天才、円谷英二と初代ウルトラマン
円谷英二はそもそも発明家であり、カメラなどを製造して生計を立てていたところ、ひょんなことから映画監督としてお声がかかり、その天賦の才を発揮するに至りました。
彼が発明家として備えあわせていた『ひらめき』は特撮の常識を変え、ビルの壊れ方をリアルにするためにウエハースでビルを作成したり、海の上にリアルに艦隊を浮かばせるため、海を寒天で制作するなど、ありとあらゆる発想を用いて不可能な映像を可能にしていったのです。
現在のようなCG技術がなかった1960年代において、円谷英二の発想と技術は世界的に見ても先進的なものでした。
円谷英二は天才芸術家であり、どれだけ累積赤字を積み上げようとも、目の前の芸術作品さえ納得いく出来に仕上がればいいという、典型的な経営視点を持たない職人肌の人間であったとも言えます。
初代ウルトラマン(1966年)は、表面こそヒーロー物でも、その中に秘められたテーマには深い社会性があり、それらを組み立てあげていったのは天才脚本家であった金城哲夫や、TBSの演出家らが大きく尽力しています。
つまり、円谷プロは天才的な技術集団ではありましたが、ドラマを組み立てる演出家が誰もいなかったのです。
本来であれば、自分たちに不足している演出家を自社の社員とし、なにがあっても絶対に手放してはならないはずですが、『ウルトラセブン』(1967年)、『マイティジャック』(1968年)の放映で積み重ねた赤字から、1969年、円谷プロを金銭面で救済していた東宝の手により、大規模なリストラが行われました。
今でも高く評価されている『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の脚本家であった金城哲夫も、社員の脚本家ではなくフリーのプロデューサーとして自分で営業し仕事を取ってくることを命じられ、円谷プロを退社しています。
カメラマンや美術担当など、150人いた社員が40人にまで激減しました。
ここで考えなくてはならないのが、『ウルトラマン』はブラウン管の中にいたのではなく、制作した人間たちのノウハウの中にいたということです。
円谷プロの60%の資本を握る東宝のリストラ指示には従わざるを得ませんが、黄金期の多くの人材が散逸してしまったと言われています。
また、こうした経緯から、のちに番組を製作する必要性が出るたびにスタッフを集め、終われば解散するという方法が取られるようになりました。
これは社内にノウハウが蓄積されず、また、スタッフたちも一時的な腰掛けにしかならないので、円谷プロのために尽力する人材が育っていかず、必然的に企業は弱体化していきます。作品ごとのクオリティも維持できず、集まったスタッフの質によって上下してしまうでしょう。
円谷英二は天才であり、その下に集ったスタッフたちも当時の粋を結集した天才たちでした。
しかし、それを維持し続けるためには経営者として優れた手腕が必要であり、芸術家集団であった円谷プロはその観点を持っていなかったのです。
ウルトラマンは著作権ビジネスへ
円谷英二が1970年に逝去してから、長男、次男という順番で息子たちが円谷プロの社長に就任することになります。
長男は円谷英二の映画の夢を純朴に追おうとし尽力しますが、過労のため41歳という若さで亡くなり、その跡を継いだ次男は、円谷プロを『キャラクター・ビジネス』として昇華させようと試みます。
当時の日本社会では著作権ビジネスが一般的ではなく、メーカーから「商品にウルトラマンを載せたい」と言われれば、何の見返りもなく貸し出す時代でしたが、それをディズニーのようにビジネス化しようと考えたのです。
これが結果的には大ヒットとなり、傾いていた円谷プロが息を吹き返すきっかけとなりました。
また、玩具が売れれば子どもたちは新番組が見たいと渇望し、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)、『ウルトラマンタロウ』(1973年)など、次々と作品のヒットまでも呼んでいったのです。
初代ウルトラマン、ウルトラセブン放映時に続く黄金期でもあり、1973年には企業の納税額第2位になるなど、まさに円谷プロは飛ぶ鳥を落とす勢いで、著作権ビジネスを続ける限り、円谷プロは永遠に存続すると思われていました。
しかし、『ウルトラマンレオ』(1974年)放映時、日本をオイルショックが襲い、生活に必要のないキャラクターものはまったく売れなくなり、円谷プロはまたしても経営難に陥ります。
200人以上いた正社員を5人にまで縮小するなど、苦肉の策を講じていた中、のちに円谷プロを大変苦しめることになる大きな失敗が、タイへの進出でした。
海外進出への足がかりとして、タイから研修に来ていたチャイヨー・プロダクションと共同制作し、劇場映画『ジャンボーグA&ジャイアント(1974年公開)』を合作したのです。(ジャンボーグAの劇場版)
ノウハウを無料で提供し、資金までも投資して行われたこの映画ですが、タイでしか放映されなかったため知名度はいまひとつ。
それでもチャイヨー・プロダクションといい関係が築ければよかったのですが、その後手のひらを返すように、チャイヨー・プロダクションから「あれは合作ではなかった」と単独著作権を主張されます。
のちの話になりますが、円谷プロの次男社長が亡くなった際、チャイヨー・プロダクションは「次男社長より『ウルトラマン』~『タロウ』までの海外キャラクター使用権を購入した」と裁判を起こし、これは最高裁まで泥沼に争った結果、チャイヨー・プロダクションの言い分が認められました。
この次男社長の契約は円谷プロの誰も知らなかったのですが、契約書は真正であると日本でも認められたため、ウルトラマンが海外でどれだけ活躍しても円谷プロにお金が入ることはなくなったのです。
これは円谷プロにとって大きな痛手でした。
あってはならないTBSとの対立で、16年間ウルトラマンがテレビから消えた
『ウルトラマンレオ』以来、5年間も新しいウルトラマンは作られていませんでしたが、お茶を濁すために製作された『ザ☆ウルトラマン』(1979年)というアニメ作品が不評となった結果、視聴者から「実写の続きが見たい」という声が高まり、『ウルトラマン80』(1980年)の製作が決定しました。
しかし制作費が異常にかかる円谷プロの『ウルトラマン』ですから、TBSは難色を示し、当時の『3年B組金八先生』などの教師ブームを取り入れ、『熱血先生ウルトラマン』ならば製作の許可を出すと言い出したのです。
これにより『ウルトラマン80』は、教師ドラマと怪獣ものが同居する存在となり、ストーリーはちぐはぐで、初めて視聴率1桁を記録する悲惨な失敗作となりました。
当時存命だった次男社長が、「我々のウルトラマンをどうしてくれる」とTBS幹部に激怒したことで、TBS幹部も「お前のウルトラマンではない」と激昂し、その幹部が社長にまでのぼりつめたことにより、円谷プロとTBSの対立は決定的になりました。
その後TBSの歴代社長において、円谷プロの出入り禁止が申し送り事項となり、東京キー局でウルトラマンを放映できなくなってしまったのです。
しかし、ウルトラマン80自体は成功とは言えませんでしたが、それにより新たな怪獣ブームが起き、ウルトラマン関連商品は売れに売れ、また円谷プロは法人納税額ランキングに顔を出すようになります。
このブームはウルトラマン80終了とともに消えてなくなりましたが、この時、次男社長は制作部をまるまる解体するというリストラを行いました。
制作部を解体すると、もはや新作を作ることはできませんが、社員を減らせば過去の遺産の著作権ビジネスだけで十分に存続できるという目論見でした。
実際、契約社員含めても40人にまで減らされた社員は、年間2億円の著作権料で賄うには十分だったのです。
しかし、過去の遺産だけで食いつなぎ、新しい挑戦をしない場合、そのキャラクターが飽きられれば会社の存続の危機が訪れます。
また、制作部がなくなると、誰の目にも新作を作る気がないと映り、『ウルトラマン』に憧れて何かの仕事がしたいと訪れていた外部の才能ある作家たちが、誰も寄り付かなくなってしまいました。
人が離れ、会社は存続できてもジリ貧になっていくことが目に見えていても、それでも著作権ビジネスは決してやめられない麻薬のような側面があります。
それは、何もしなくても数億円がふところに入ってくるという魔性の魅力です。
TBSと対立し、テレビでの放映が見込めなくなりましたが、円谷プロ側も「もう新作はいい」と見限ってしまったこと、これは『ウルトラマン』の命運を大きく変えました。
のちに『エヴァンゲリオン』の庵野監督が、
「特撮は空白期間が長すぎて、若者の中に定着していない。自分たちの世代はアニメと特撮だったが、今の若い世代はアニメとゲーム。特撮なんて見ていないし興味がない。15年の空白期間は取り返しがつかない」
と『円谷英二生誕100年』の中で語っていますが、これはウルトラマンの凋落について正鵠を射た意見です。
ハリウッドで学べなかったウルトラマン
次男社長の念願であった海外進出は、タイでうまく実らず、次男社長の死後には海外での使用権を奪われるという痛恨の失態を晒すことになります。
しかしこの当時はそこまで測れず、タイでの失敗は「マーケットが狭かったからだ」という理由から、ウルトラマンをハリウッドで活躍させる運びとなりました。
1987年の映画『ウルトラマンUSA』を皮切りとし、莫大な費用をかけハリウッドで製作されたのが『ウルトラマングレート』と『ウルトラマンパワード』の海外シリーズです。
これらはハリウッドの有能な監督とスタジオのもと、潤沢なノウハウを投入して作られ、円谷プロのような赤字が出る撮影方法ではなく、極めて合理的に時間とコストを節約できるように作られていました。
また、脚本は分業制で行われ、複数の脚本家が入り交じるからこそ発想は多様になり、個人の癖が抜け、作品として素晴らしいものへと昇華されたのです。
ハリウッドではすでに映画製作のノウハウがある一定の高みに到達しており、提携したからにはこれらを学んで自社に活かすべきですが、円谷プロにはそれができなかったのです。
そして契約や著作権ビジネスにおいても、ハリウッドのほうが数段上手であり、一連の海外シリーズに関する著作権は、そのほとんどをハリウッド側に取られてしまいました。
これでもハリウッド版ウルトラマンが成功すればよかったのですが、残念ながら、アメリカの子どもたちが求めるヒーローは、『巨大ヒーロー』ではなかったのです。
彼らが求めていたのは、『スパイダーマン』などに代表される等身大の人間のヒーローたち。
昼間は普通に仕事を持ち、時にはヒーローに変身し悪と戦う姿こそが、彼らの胸を動かしていたのです。
巨大なヒーローが未知の宇宙から現れ助けてくれるという展開は子どもたちに評価されず、反面、日本初の『ゴレンジャー』の海外版である『パワーレンジャー』は高い評価を受け、ウルトラマンに立ちはだかるのは文化の違いという大きな壁でした。
それでも、少ないながらも利益があった放送権やグッズでの収入を生かせればよかったのですが、これらは日本の円谷プロのもとに届くことなく、すべて次男社長がハワイやラスベガスで豪遊し浪費してしまったのです。
かねてから次男社長・皐氏は、ファンクラブ会報で社内にカラオケルームを作ったことなど自慢したり、歌手デビューしたりしていましたが、これらの豪遊はすべてウルトラマンの利益を抜く形で行われていました。
ウルトラマンのハリウッド進出は失敗に終わったといえるでしょう。
しかしあとになって日本で放映されたこれらの海外ウルトラマンが、静かな人気を呼び起こし、平成になってウルトラマンが復活するきっかけのひとつともなったのです。
救ってくれた東宝とも決別
これまで、円谷プロを数々の窮地から金銭的に救ってくれたのは東宝であり、円谷プロの社長には決裁権がなく、代表印は東宝が保持している状態でした。
海外進出などもすべて東宝にお伺いを立てなくてはならなかったのですが、次男社長の念願であった全権掌握を実現させるため、東宝が所持するすべての株を買い戻したのです。
東宝からの返答は、「それならそれで構いませんが、今後、一切面倒はみません」というものでした。
円谷プロは下請けの中小企業です。
確かに東宝は初期の大規模リストラなど、黄金期の円谷プロの人材を損失してしまったことはありましたが、中小企業が大恩のある大企業と自ら決別するなど考えられないことです。
TBSと東宝との決別により、これら大企業が保持している大量の円谷プロに関する資料に触れることができなくなりました。
これは、創業者である円谷英二の生誕祭をやろうにも、古い写真やきぐるみが集められないほど深刻なもので、円谷プロにとっては大きな損失でもあったのです。
また、もうひとつの損失は、大企業が管理しているうちは経理について安心できたという点です。
大企業に経理監査してもらうメリットは、一族経営である円谷プロにとって大きな利点がありました。
『ウルトラマンが泣いている』の著者である円谷英二の孫、円谷英明が6代目社長に就任した際、円谷プロの人間が社長から末端まで、ことごとく会社のお金を私的に流用していたことが分かったからです。
イベント成功とウルトラマンランド建設
1989年頃、怪獣ブームは完全に沈静化し、円谷プロも風前の灯火だと言われていました。
しかし、そんな円谷プロを救ってくれたのは、過去にウルトラシリーズにプロデューサーとして参加し、現在はTBSの社員として勤めている人物で、冷戦状態になっていたTBSに根回しをし、TBS主催で『ウルトラマンフェスティバル』を開催してくれたのです。
池袋のサンシャインシティで行われ、期間は1ヶ月。
きぐるみなどを展示し、30分のショーや物販をすえたイベントで、サンシャインシティは場所代も高く、絶対に回収できるわけがないと思われていました。
しかし蓋を開けてみれば、オープン前から長蛇の列。きぐるみの前で親子は記念撮影し、カメラを持っていない親子は指を咥えてうらやましがっている状態でした。
試しにサンシャインシティのカメラ屋で使い捨てカメラを買い占め、会場で販売してみたところ、イベント期間中だけで600万円の売上となり、ウルトラマンのファンがいかに多いかを思い知らされました。
当時まったく売れていなかったウルトラマンの関連グッズでしたが、見向きもされなかったカードが会場では奪い合いとなり、売れ行きが悪く店頭から下げられていた『怪獣指人形ガシャポン』を全30種セットで販売すると、補充が追いつかない人気ぶりに。
ガシャポンでは目当ての怪獣が当たらず、全種揃えるのも難しいことから敬遠されていたのですが、セット売りによって潜在的なニーズを満たすことが出来たのです。
キャラクタービジネスとは、ほんのすこしの気配りで大きく売上を変えることができると感じさせられた出来事でもありました。
もちろんこれは円谷プロやウルトラマンの人気だけが起こしたヒットではなく、TBSがイベントを成功させるべく、CMのみならず各バラエティなどにきぐるみの怪獣を登場させ、入念に宣伝を行ったことに由来しています。
TBSの緻密な戦略と宣伝のもと、首都圏から地方に至るまでウルトラマンフェスティバルが開催され、円谷プロは考えられないほどの利益を得ました。
ここで、ウルトラマンフェスティバルを常設的に行うための手段として考えられたのが、テーマパーク『ウルトラマンランド』建設でした。
ウルトラマンランドの明暗
現在の感覚であれば、テーマパーク建設など到底不可能なものであると想像してしまうはずです。
これは当時の経済情勢を同時に紐解かなければ答えは見えてこないのですが、1987年に総合保養地域整備法(通称リゾート法)というテーマパークに優遇措置が受けられる法律が施行されてから、日本はバブル期ということもあり、多くのテーマパークが乱立しました。
もちろんそれらはほとんどが閉園し、今も運営黒字を残しているのは全国に数えるほどしかありません。
それでも、リゾート法施行時、企業にテーマパークが「絶対に儲かる」と夢をもたせたのは、1983年にオープンした東京ディズニーランドの存在です。毎年1,000万人ほどの来客数を維持し続けたディズニーランドの成功例を見て、どこの企業もテーマパーク事業に乗り出しました。
今考えれば至極当然のことなのですが、テーマパークの運営というのは、通常の企業の運営は全く違うノウハウが必要となります。
USJですら日本で苦戦し、最終的には映画のテーマパークという思想を捨て、クールジャパンと称して日本のキャラクターを大々的に誘致し、今や本国テーマパークの方向性はあってないようなものですが、そうでもしなくては存続できないのです。
人気のキャラクターがいつでもそこにいるから儲かる、というものではなく、いつでもそこにあるものに、いつも同じものしかなかったなら、人々はそのうち寄り付かなくなってしまうのです。
最初に莫大な資金を投入して箱さえ作ってしまえば、後は勝手に稼いでくれると考える経営者がほとんどでした。しかし、USJは年間利益の大半を投入してハリー・ポッターエリアを作ることに寄って業績を回復させたように、常に資金を投入し続けて攻め続けなければ、早晩破綻するのがテーマパーク事業なのです。
かくして、ウルトラマンランドは1996年の熊本県にオープンし、ウルトラマンたちをランド内にふんだんに登場させ、当時の子ども達を魅了しました。
その盛況ぶりはすさまじいものがあり、なんと建設投資額の2億円をわずか1年で回収。
この勢いは10年間続くだろうと円谷プロは予想し、『ウルトラマンランド』は円谷プロを長く支える屋台骨となるはずでした。初年度の成功により盲目になってしまうことは、当時のテーマパーク運営においてどこの企業も経験した落とし穴です。
そして、ウルトラマンランドが良かったのは2年目まで。
それを境に一気に来客数が減少し、当初毎年4~50万人の来客数を見込んでいたものが、10万人程度を推移し、時には9万人台に落ち込むことさえもありました。
これまでの経緯において、円谷プロに企業運営能力の高い役員がいなかったのは明らかで、テーマパーク運営など到底身の丈にあった事業ではなく、物珍しさに客が集まる初年度は良くとも、それを維持する運営能力がなかったのです。
円谷英明氏も、「無料なのに怪獣ショーを入れ替えず、席の独占が横行した」ことや、「入場時の手間を省くため、入場料を一律にしていたが、子ども料金を設定すべきだった」と悔恨されていますが、そんなことにも目が届かないほど、円谷プロはテーマパーク運営について見通しが甘かったのだと言えるでしょう。
ウルトラマンランドは毎年赤字を積み重ねていくことになりましたが、円谷プロは2013年に至るまで、ウルトラマンランドを閉園しようとしませんでした。
なぜなら、ランド閉園には莫大な撤去費用がかかる上、敷地の契約は50年契約であり、違約金も発生し、撤退を言い出した役員が責任を問われることは明白だからです。
早期撤退したほうが傷が浅いのは明白でも、その責任を恐れ、幹部は誰もが口をつぐみ、漫然と赤字を積み重ね続ける方を選択していったという悪循環でした。
また、前述したように、円谷プロの内部は売上金の私的流用で腐りきっており、後から分かったことですが、ウルトラマンランドの現地での売上と、本部に報告された売上では2500万円も差異があり、それらはすべて現地の社員が飲み代にと抜いていたことも発覚しました。
他のイベントで内部犯行により盗まれた500万円を、ウルトラマンランドの売上から拝借していた事実もあり、これらはすべて6代目社長・円谷英明氏の手によって『ウルトラマンが泣いている~円谷プロの失敗』の中に書かれていますが、目を覆うほどの腐敗ぶりです。
ついに2013年、ウルトラマンランドは閉園されましたが、ウルトラマンファンとしては、このテーマパークが運営のノウハウを持った企業のもと、末永く続いてほしかったと心底悔やまれてなりません。
平成ウルトラマン、度重なる視聴率低迷
TBSや東宝と決別して以来、16年間テレビで放送されなかったウルトラマン。
1994年には、ウルトラマンを復活させるべく、『ウルトラマンネオス』というパイロットフィルムを円谷プロ内で製作し、テレビ局へプレゼンにまわりましたが、状況はかんばしくなく、放送には至りませんでした。
やはりTBSに嫌われてしまった以上、テレビの放映は事実上不可能だと考えるのが妥当です。
しかしこの頃、バンダイが『ガシャポンHGシリーズ』でウルトラマンを販売したところ、予想以上の反響があったため、ウルトラマンに大きな著作権ビジネスの可能性があることをバンダイは確信しました。
バンダイの圧倒的なバックアップにより始まったのが、『ティガ』、『ダイナ』、『ガイア』の平成ウルトラマン3部作で、これらはTBSに嫌われていた円谷プロだけの力では絶対に放送できなかったテレビ復帰作です。
ウルトラマンが復活するのは喜ばしいことでしたが、この頃から製作体制は大きく変わり、デザインはバンダイが大きな決定力を持ち、玩具にすることを優先して作られるようになりました。
ティガ、ダイナ、ガイアが、すべて『タイプチェンジ』という方法で見た目が同じでも色だけ変わるという特異な変身をするのは、同じ金型を塗装だけ変えれば使いまわすことができるからという商業的な理由です。
上記の3人は3タイプにタイプチェンジしますが、続く『コスモス』では5タイプにまで変身し、視聴者からのクレームを呼ぶ結果となりました。
初代ウルトラマンが持っていたポリシーは、いつしか商業主義の中に流されていくこととなりました。
これまでも、熱血ものが人気の風潮にあわせて作られた『ウルトラマンレオ(名前はジャングル大帝レオから)』や、熱血教師ものブームにあわせたウルトラ先生『ウルトラマン80』など、数多くのブームにおもねった作品がありましたが、ついに玩具化を優先して活躍するウルトラマンになっていったのです。
その後、『ネクサス』、『マックス』、『メビウス』と平成ウルトラマンは続きましたが、視聴率や人気はふるわず、ついにスポンサーに敬遠され、放送したくとも、スポンサーを獲得できない状況に陥りました。
16年間の沈黙を破って復活したウルトラマンでしたが、またテレビの世界から離れ、7年間の眠りにつくことになります。
2013年に、『ウルトラマンギンガ』が1クールで放送されますが、2016年の現在に至るまで、かつてのように4クール(50話以上)続くウルトラマンは放映されておらず、13話から25話程度の小さなスポットに収まっているのが現状です。
お家騒動と、円谷プロ消滅の危機
円谷プロは一族経営であることから、その経営体制について昔からたびたび週刊誌に取り上げられてきました。
身内同士の癒着やさまざまなスキャンダル、もしかしたら記憶に残っておられる方もいらっしゃるかも知れません。
最も円谷プロを傾けたのは、一族経営よりも、社長になった者に誰も口出しできなくなるワンマン経営にあると、円谷英明氏は著書の中で訴えていましたが、メビウス終了後、これらの弊害は如実にお家騒動として現れてきます。
次男社長が次期社長に据えていたのは自分の息子・一夫氏でしたが、紆余曲折を経て、長男の息子である英明氏に6代目社長の椅子が譲られることとなりました。
しかし、これも株式の過半数を所持する一夫氏の画策により、あっというまに社長解任劇へと進むこととなり、英明氏の就任は1年程度にして7代目社長へバトンタッチ。そしてそれもクッションだと言わんばかりにこれも即解任され、再度一夫氏が8代目社長へと就任したのです。
当たり前ですが、このような同族間で揺れ動く企業に銀行が喜んでお金を貸すはずもなく、円谷プロは厳しい経営難にあえいでいました。
ずさんな経理と、私的流用が横行する中で、銀行から借りたお金は、使えるだけ使って常に大赤字。
平成になってからもこれだけの番組を放送していながら、それらの収支を計算しておらず、年度をまたいで放送された作品の経費は、前年度にも来年度にも算入されず、空中に消えているという事実まであったのです。
当時、『マックス』『メビウス』を製作するために銀行から15億円借りたにも関わらず、『マックス』だけですべてを使い切り、ついにふくらんだ借金は30億円にも到達、度重なる醜聞に銀行が態度を硬化したため、2007年には手元の資金が枯渇する事態に陥ります。
あの光り輝いていたウルトラマンはどこに行ってしまったのか。
最後に一夫氏が手を出したのは、外部資本からの資金導入でした。そして、円谷一族のすべてが終わることとなります。
円谷プロが乗っ取られ、すべてを手放す
一夫氏は、円谷プロ以外での社会経験がなく、若い頃から社長の息子として育ってきた人間でした。
ミーハーな性格なのか、ファンだという『有言実行三姉妹シュシュトリアン』に本人役で登場したりしています。
のちに9代目社長となる森島氏の弟が、CM制作大手『TYO』の弁護士だったことから、一夫氏と森島氏は、『TYO』に融資を依頼しました。
その額はわずか8,000万円。
これまでの円谷プロが湯水の如く使ってきたお金に比べれば、ごくごく少ない金額だと言えるでしょう。
しかし、この8,000万円を手に入れるために、円谷プロは株式のほとんどを担保としなくてはなりませんでした。
結果、わずか3ヶ月にして『TYO』は円谷プロのすべてを掌握し、その傘下としたのです。
『TYO』は企業買収も手慣れた会社であったため、ぬるま湯に浸かりきっていた円谷プロの人間は手も足も出ませんでした。
その後、『TYO』は円谷プロの株式をバンダイに売却。当たり前ですが、バンダイはこれまで著作権ビジネスのパートナーであった円谷プロの株式を、他社に購入されると非常に大きな痛手を受けることとなります。高額な資金を投入して、円谷プロの株式の半数を取得しました。
更に『TYO』は、残りの全株式をパチンコ業界に売却します。これらは『フィールズ』が獲得し、ウルトラマンのキャラクターを自由にパチンコに使える権利を掌握しています。
これらの買収劇で、『TYO』が得た利益は、円谷プロ買収にかかった費用のおよそ30倍。
更に『TYO』社長は、「CG全盛期の今、特撮は伝統芸能」と語り、ウルトラマン生誕の地である世田谷・砧の旧本社を処分し、社員を大幅リストラ。円谷一族も、円谷プロから完全排除したのです。
一夫氏は、『TYO』の社長から「円谷プロを救った」と円谷プロ全社員の前で持ち上げられましたが、その後なんの権限もない名誉会長へと祭り上げられ、現在は公式ページから名前も削除されています。
こうして、円谷英二が作り上げた『円谷プロ』は、いまや一族の誰もが一切関わることを許されず、円谷一族の円谷プロは終わりを告げたのです。
まとめ、ウルトラマンは泣いている
以上、円谷プロ6代目社長・円谷英明氏の『ウルトラマンが泣いている~円谷プロの失敗』からかいつまんで、円谷プロの歴史を紹介しました。
ここに書ききれなかった内容もございますので、興味が湧いた方はぜひ購入してみてください。ファンには厳しい一冊でしたが、よくここまで書いてくださったという、円谷英明氏に対する尊敬の念も同時に存在します。
もちろん、これらは円谷英明氏の主観ではないかという意見もあるでしょう。
しかし、円谷英明氏はかなり冷静な視点から円谷プロの歴史を記述しており、自分自身の責任も厳しく描写していることや、当時からスクープされていた円谷プロの恥ずべき醜聞も隠さず吐露していることから、書かれている内容は事実とそう剥離していないだろうと感じています。
そして本書の中に描かれている、円谷プロが一族放逐の道を歩んだ原因として、一族経営が度を過ぎて会社が私物であるかのようなワンマン化、上も下も腐りきり、円谷英二の初志を忘れてしまったことは真実であり、それはいつしか円谷一族から円谷プロを奪っていったのではないでしょうか。
本書とは離れますが、東洋経済オンラインの記事では、バンダイ幹部らが「円谷プロを経営していたのは人間ではなくウルトラマン」だと語っていることや、関係者の声として、社長の気まぐれで昨日よかったものがだめになったり、社長のご機嫌さえ取っておけばなんでも許されていたこと、役員たちはろくに仕事もせず、3時には帰途についていたことなどが取り上げられています。
円谷英二が作り上げたウルトラマンは偉大で、その権利収入だけで生活できるという麻薬が、社内の人々を狂わせていったのでしょう。
現在、ウルトラマンはバンダイナムコ主導のもと、カードをスキャンして変身する『ウルトラマンオーブ』など、玩具展開を念頭に入れたシリーズ展開を行っています。
もちろんオールドファンには不満がある形だと思いますが、こうしてウルトラマンが存続しているのは、玩具展開に注力したバンダイナムコのおかげです。今も子ども達を楽しませている事実には価値があります。
ウルトラマンがガンダムや仮面ライダーに比べ10分の1の売上規模のコンテンツであるのは、ウルトラマンが多くの資産といえるものを損失していったからです。
ウルトラマンの生みの親であるデザイナーの成田享ですら、円谷プロに対して民事訴訟を起こしています。
有名な事件ではありますが、もともと成田享が考え出したウルトラマンを、円谷プロが「みんなで考えたものだ」と言い張り、彼の作品集にクレームなどつけたことから対立が深まって、いよいよ民事訴訟に発展したのです。
しかし円谷プロから、「訴訟を取り下げるなら、新番組のデザイナーとして活躍してもらう準備がある」と籠絡されたことにより訴訟を取り下げたものの、約束は反故にされ、成田享が円谷プロで活躍することはありませんでした。
以後もずっと円谷プロに「ウルトラマンのデザインはスタッフみんなのもの」と公言されたことから、成田享はやるせない思いを持ったままこの世を去った経緯があります。
初代デザイナーに対するこうした扱いはあまりにも悲しいもので、製作者やファンを大切に出来なければ、そのコンテンツは容易に衰退してしまうという見本でもあります。
本来であれば、ガンダム、仮面ライダーと並び日本の3大コンテンツと言われていたであろうウルトラマンが、規模を縮小し斜陽産業だと言われているのは、いちファンとして悲しくてたまらない事実です。
本書の最後で円谷英明氏が、「祖父や父の思いに応えることができず、祖父や父が偉大なのか我々が凡庸なのか、この30年あまりのことを振り返ると、後悔と自責の念に心が押しつぶされそうになる」と語られていますが、ファンもまた同じ気持ちでしょう。
しかし、だからこそ、これまでの円谷プロを反面教師とし、今後のウルトラマンを活かして欲しい。いま、筆者の6歳の息子が隣で『ウルトラマンオーブ』を目を輝かせて鑑賞しているのを眺めながら、つくづくそう思います。
今後もウルトラマンというコンテンツを永遠に守り続けて欲しいと心から願っています。