唯識で読む菜根譚
興福寺貫首 多 川(たがわ) 俊 映(しゆんえい)
1947年、奈良県奈良市生まれ。1969年、立命館大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1989年より興福寺貫首を務める。中金堂再建など、伽藍の復興に精力的に取り組んでいる。また、法相宗の理論である唯識の研究や仏教文化論の研究を行い、執筆活動や講演活動なども行なっている。能や詩、音楽などにも関心が深い
き き て 杉 浦 圭 子
多川: 今日はですね『菜根譚(さいこんたん)』のお話をしたいと思います。仏教界ではですね、入ってきてからすぐに実は経典並みに扱いましてですね、その『菜根譚』をもって、この提唱といいまして、特に禅宗辺りでは、経典と同じようにそれをテキストにして、それでこの講話をする、法話をするということが結構盛んでございまして、それでまあ現在に至っているということです。


杉浦: ここに『菜根譚』が採録されている文庫本があるんですけど、これをいつもお持ちになっているんですか?
多川: はいそうです。
杉浦: ちょっと拝見して。こんなふうに付箋がいっぱいついているんですけども、いやぁ黄ばんでいまして、もう長年使ってらっしゃるんですね。
多川: ええ古いですよ。もう昭和五十年ぐらいからですからね。
杉浦: 『菜根譚』という書物は、今から四百年前、中国の明の時代に書かれたものと伝わっていますけれども、そのような古い書物のどういうところが優れていると、多川さんはお感じになってますか?
多川: 洪自誠という人が著者なんですけどね。もともと官吏だったと言われているんですよ。官吏というのは、儒教がベースになっているわけですけどね。それで中年以降になりますと、儒教だけでは飽き足らなくて、道教であるとか、それから仏教であるとか、そういう経典とか書物をお読みになって、それで儒教と道教と仏教の三つの教えですね。これはまあ考えてみれば、東洋を代表する思想ですけれど、そういうものを研修兼学なさってそのエキスを自分なりに誠に切れのいい短文で書き改める。それが三百五十七集まっているわけですね。ですから簡単にいえば、生活する知恵の宝庫といいますかね、大人の人生作法というか、そういうものがもうほんとにいっぱい詰まってると。これが『菜根譚』の魅力だと思います。
杉浦: ということは、四百年前に書かれたものですけれども、今の日本で生きるうえで役に立つといいますか、私たちに必要なものだと考えてよろしいんでしょうか。
多川: それが古典の古典たるゆえんですけどね。でまあ時代はもちろんどんどん変化しますけれど、人間そのものというのはそんなに変わるもんじゃないっていうか。ですから四百年前であろうが、仏教でいえば千年前であろうが、あるいはお釈様からいえば二千五百年ほど前の話ですからね、それで十分現代に生きる私たちがいかに心豊かに生活するかといううえで、それはもういっぱい学ぶべきものが詰まってる。
杉浦: 心豊かに過ごす?
多川: まあ私たち、この社会に生活しているわけですよね。そういう意味では調子のいいことっていうか、自分にとって都合のいいことばっかりあるわけではないと。むしろ逆で不都合なこと、気に入らないことがわんさとあるわけですよね。そういうものをいちいちカッカなって、それに向かって暴発していってもしかたがないことだし、それからやっぱり好都合と不都合と分けるでしょう?
杉浦: はい。
多川: そうすると、どうしても私たちは好都合なものにすり寄って、そういう状況が長いこと続いてもらいたいと。一方不都合なものはなるべく早くそういう状況は変わってもらいたいと。あるいは不都合な状況はこれを切り捨てる、というわけですよね。それから好都合不都合も、永遠に好都合不都合じゃないでしょ。今、現在、今日ただいまの時点で、自分がそれを好都合不都合だと分けてるだけですよね。これが例えば一ヶ月後どうなるか、半年後どうなるかってこと分かんないですよね。ばさっと今の時点で切り捨てたらもったいないですよね。だから不都合な状況、不都合な人間でも、それを何ていいますか、少しばさっと切らないで関係性を保っていくというか、これ大変難しいですよね。嫌な状況ですからね。嫌な状況を関係を抱いていくというか、包含していくっていうのは、なかなか難しいですけど、そこがちょっと何ていいますか、私たちの思案のしどころで、それをやらないと心豊かな生活というのは出てこないと思いますよ。それで基本的に「菜根譚ってどんなもんですか?」っていえば、君子としての心の在り方とか、それから身の処し方ですね、そういうものが先ほど言いましたように非常に切れのいい文章で表現されているわけですよ。それが一つ。同時に、そういうことをやれば、難しいですけども日常生活でそういうことを実行すれば、社会生活していくうえで実利があると。ちゃんとそういうところもきっちり押さえているわけですね。
杉浦: 『菜根譚』には、儒教、道教、仏教、三つの教えが融合されているというふうに伺いましたけれども、そのメリットをどういうふうに考えてらっしゃいますか。
多川: メリットというのは、それは本当に『菜根譚』を読めば三つ分かるわけですから、こんなに時間の節約になるわけですけどね。それから非常にバランスがいいんですよ。その三つの教えというのはね。それで例えば儒教というのは、私たちが社会で生きていくうえで人様とおつきあいをしなくちゃいけませんですけれども、そういう人様とのおつきあいの仕方、ある意味で社会の中の人間はどうあるべきかという、そういうことを語っていると思うんですよね、儒教はね。で道教は―道教のこと私はあまり詳しく知らないんですけども、大宇宙というか、大自然というか、その中の人間がどうあるべきかと。そういう立場だと思うんですよね。じゃ、仏教は何かというと、大自然の中、宇宙の中で、私たちは社会を構成してるわけですけど、その社会の中で私たちが生きる。その時に私たち人間の心、そういうものは一体どういうものなのか、ということを端的に教えていると。ですから非常にバランスがいいと思うんですよね。ですから、この『菜根譚』一冊があれば、儒教のエッセンス、道教のエッセンス、仏教のエッセンス、これを同時に学ぶことができる、というのが最大の魅力だと、私は思っております。

ナレーター: 今に伝わる昔の『菜根譚』は、前集、後集、合わせて三百五十七の文章が収められています。著者の洪自誠は、『菜根譚』を通して人々に何を語りかけようとしたのでしょうか? それを端的に表しているのがこの言葉だと、多川さんは捉えています。
多川:
悪を為して
人の知らんことを畏(おそ)るるは
悪中にもなお善路あり
善を為して
人の知らんことを急にするは
善処即ちこれ悪根なり
(『菜根譚』前集六七)
という文章なんですね。それで「悪を為して人の知らんことを畏るる」というのは、いけないことを私たちがするわけですよね。そうすると他人がそれを知るっていうか、つまり人に知られると困るわけですよね。それは困りますよね。そういうところに実は、悪いことしたんですけど、まるっぽ悪ではなくて、その人の心の中に善の方向性というか、良くなっていく―何ていいますか芽がその中にあるんだ、ということをいうわけですよ。
杉浦: つまり自分がしたことは悪だと分かってるから隠そうと、隠したいと思うわけですね。
多川: その隠す気持ちの中に、いい方向性っていうのは実は芽生えてるんだと。これ分かりますよね。
杉浦: はい。
多川: これ前段と後段に大概分かれているんですね。今のが前段なんですね。で後段はどうなるかというと、「善を為して」ですから善いことするわけですよ。そうすると、「人の知らんことを急にするは」っていうのは、人に早く自分の善いことを知ってもらいたいんですよ。それはごくごく当たり前じゃないですか。自分が思ってるような評価が、人様から頂ければ、それは我が意を得たりですね。
杉浦: 嬉しいですよね。
多川: だけど社会には、そう簡単に「そら、そうです」と言わないと。そんなの誰だってやるじゃないですかと。それか無視するとかね。それは評価にもならない、というふうに、けちょんけちょんに言われたら、何だと思うでしょ? その何だと一瞬思うその不満、その中にこれだったら悪根だ。悪い種が、悪い性質がそこんところで芽生えているというわけですよね。これもまた分かりますよね。
杉浦: ただ善いことをして、早くたくさんの人に知ってもらいたいと思うのは、悪いことではないんですか?
多川: 悪いことではないですよね。だけど何といいますか自分が思ってるような評価、それを頂戴できなかったらどうなるのかということですよね。
杉浦: なるほど。
多川: そういう状況の方がむしろ社会生活してたら多いわけでしょ? 自分がこんだけやってるのに何で評価してくれないのかというのが、それこそ掃いて捨てるほどあるじゃないですか。そういう時に、〈なにを〉って思うじゃないですか。その〈なにを〉っと思うその心の動きが、もう既に悪の世界にいるわけですよ。だから善悪っていうのは、善い悪いで非常に線引きがしっかりしてるんじゃなくて、まあいわば点線なんですよね。だから善だと思ってたら悪にいるし、悪いと思ってても善の方向性があるということで、非常にそこのところは仕切りが曖昧なわけですよね。
杉浦: なるほど。
多川: 特に『菜根譚』ではそういうふうに書かれてませんけど、仏教ではその曖昧なところを、善と悪の間というのは「無記(むき)」って言いまして、善でも悪でもないというそういう領域があると。そういうものがベースになってて、それで私たちは悪いことをやったり善いことをやったりすると。そういう意味では、私たちが日常で慣れてる考え方というのは「善・悪」って、二元ですよね。そうではなくて、「善・悪・無記」という三つの性質があると。
杉浦: 善の中にも悪の兆しがあり、悪の中にも善になる変わる兆しがあると。
多川: そうそう。これが東洋の人間観というか、人間とはこういうもんなんだという、そういう見方だと思うんですよね。これ一つ味わうだけでも、人間っていうのはそんなに単純なもんじゃないんだと。少し見方が変わると思うんですよね。これはなかなか素晴らしいとこだと思います。
ナレーター: 人の行いや気持ちは、善と悪という単純な二元論で語ることはできない。『菜根譚』は、人の心の奥深さを説いているというのです。そして社会生活を送るうえでの心構えや身の処し方が数多く記される中で、多川さんが特に注目するのが次の言葉です。

多川:
人の小過を責めず
人の陰私(いんし)を発(あば)かず
人の旧悪を念(おも)わず
三者以(もつ)て徳を養うべく
また以(もつ)て害に遠ざかるべし
(『菜根譚』前集一○五)
「人の小過を責めず」っていうのは、他人のちょっとした間違いですね、それを責めない。
それから「人の陰私(いんし)」っていうのは、隠しておきたいことですね。これ人間なら誰もあると思うんですよ。それを暴かないということですね。そっとしといてあげる。それから「人の旧悪を念(おも)わず」っていうのは、人の古いちょっと間違いですよね、そういうものをねちねちといつまでも記憶していないと。この三つだというんですよ。いずれにしてもその三つを日常でやらないと。そうするとどうなるかといいますと、「以て徳を養うべく」と書いてますから、それでつまりその三つのことを日常生活で行えば、その人の中に徳というものが養われていきますと。こういうふうにすれば徳というのは養われるんだ、という説明はできるっていうわけですね。だから日常で三つのこと―人のちょっとした間違いを責めない。それから人の隠しておきたいことを暴かない。人の古いよくないことですね、それをいつまでもねちねちと覚えていないと。これだけやればいいと。これ誰もやれるわけですよね。 同時に「また以て害に遠ざかるべし」って書いてますね。つまりそういうことをやれば、まあ人に恨まれることもないと。そうするとこれ実利になりますね。この社会を渡っていくのに、人から恨まれたり何かしない。そうすると、それは生活していくうえで本当の実利ですよ。こういうものをちゃんと押さえてある、というところが『菜根譚』の非常にいい部分だと思うんですよ。
杉浦: 処世術とおっしゃったところなんですね。
多川: そうです。君子としての心の在り方とか、身の処し方っていうのは、なかなか手の届かない高いところにあるわけですけど、そういう実利だってあるんですよ、というふうに私たち言われると、ああそうかと思いますよね。これ文句なく納得するわけですよ。
杉浦: そうですね。
多川: あとは私たち一人一人がそれをやるかどうかだけですね。三百五十七ありまして、ちょっと正直なことをいえば、ちょっとまだ解(げ)しかねるというのはたくさんありますけどね。半分近くはやっぱりいいと思いますよ。そのぐらいは繰り返し繰り返し読んで、〈う?ん、なるほどそうだ〉というふうに日々納得してるわけですけど。それがそのまま私の日常生活に反映してるかどうかというのは、もう一つよく分かりませんですけども、できるだけ反映したいというふうに思っています。
杉浦: 長年読んでこられて、『菜根譚』の文言の響き方が変わってきましたか?
多川: それは変わりますね。ですから逆にいえば、私はこれからどのぐらい生きれるのか分からないんですけども、仮に八十になった時に、どういう響き方をするのか、楽しみといえば楽しみですね。時代によって変わるというか、自分の年齢によって、どの古典もそうだと思いますよ。またそう変わらないといけないと思いますし、変わって当然でしょうしね。だからそういう長くおつきあいできる本に巡り合ったというのが、ある意味で最大の幸せですよね。皆さんにもそういう本がきっとあると思うんですけど、そういうのを大事になさって、それを読み込んでいくというかね。そうすると古典はいろんな顔を見せてくれると。そこはなかなか古い本。だからよく新しい本が出れば、古い本を読めといいますけど、それはやっぱりいろんな顔を見せてくれるというか、風雪に耐えてきた本ですからね。
杉浦: 二十代の後半、多川さんはどういうふうな暮らしをされていたんですか。
多川: 大学を出ましたから、あるお寺にお世話になって、基本的な行をして、こっちに戻ってきたんですけども、たまたま大学時代から私の母親が入退院を繰り返しまして、それで家事のようなことも足かけ七年ぐらいやりましたもんですから、えらく忙しかったんですよ。家事もしなくちゃいけないし、お寺の仕事もやらなくちゃいけないし。朝の勤行もありますし。だから一日がものすごく早く過ぎていくんですよ。だから数年は何をやっていたのかな。ほとんど記憶にないんですよね。ひと口にいいますと、訳が分からないというか、どうしてどう自分の人生をつくり上げていけばいいのかっていうのは、本当に五里霧中というか、分かんなかったですね。そんな時にいろんな方のお話を聞いたり、そのころの新聞とか、雑誌とか、心のページとかよくあるでしょう。ああいうところの少し気に入ったエッセーなんかを、いわばスクラップにして、今でも持ってるんですよ。黄ばんでもうえらく古いですけども。今から思えば、何かそういう新聞エッセーとか、そんな短文にも人生の参考になるようなものが書いてないかと思って探してたと思うんですけど。そういう時期に『菜根譚』に出会ったわけですね。『菜根譚』という本があることは、前から知っておりましたけども、実際に手に取るようになったのはその頃で、初めはなかなか難しくてあれでしたですけど、読んでいきますと、ぽつぽつといいんじゃないかというような、自分にフィットするような内容が少しありましたもんですから、それで今現在でも読み続けているという感じですね。
多川: 現在はどういう読み方をされてるんでしょうか。
杉浦: 今は仮に分からないその意味文章でも、なるべくそれをきっちりと注釈に従って読んで、自分だったらこういうふうに解釈できるのかなという、そういう読み方にだんだん変わってきてると思うんですよね。それから私の仏教における立場というのは、唯識というこの興福寺に伝わった大乗仏教でございますんで、そういう唯識的な読み方といいますか、そういうことを自分では気がつかないと思いますけれど、やってるんだと思いますね。というか、皆さんそれぞれの立場でお読みになるということが、ある意味でみんな唯識的な読み方で。こういう読み方をしなくちゃいけないんだという、そういう縛りがないんですよね。そこが非常に『菜根譚』の一つの私は魅力だと思うんですよ。
杉浦: 「唯識」という言葉が出ましたけれども、こちらの興福寺さんが創建以来守ってらっしゃる教えですよね。その唯識とこの『菜根譚』の教えというのは両立するんでしょうか。矛盾はしませんか?
多川: 全然矛盾しないです。それは唯識の立場からね―いろんなお経がございますでしょう仏教にはね。それを私たちは唯識の立場から読み解くわけですね。それで例えば浄土宗の人たちにとれば、浄土という考え方をベースにしていろんなお経をお読みになるわけですね。それでいろんな解釈をするわけですんで、全然矛盾するということはないです。逆にいえば、何かをベースに持っていないと、本当に読んだことにはならないんじゃないですか。例えばキリスト教の人が、例えばこの『菜根譚』をお読みになると。そのキリスト教というベースがあるからこそ、初めてキリスト教徒としての読みができるわけですからね。ですから何ら矛盾することはございません。それから儒教、道教、仏教という、むしろバランスはよろしいわけで、仏教だけでしたら何か心の世界だけの話になりますけど、私たち現実にこの自然の中にいるわけですし、社会の中にいるわけですから、その自然の中の人間、社会の中の人間が一体どう暮らしていけばいいのかということですから、非常にバランスがよろしい。それを唯識の立場から読んでいるということですからね。
ナレーター: 多川さんが、貫首を務める興福寺は、「唯識」と呼ばれる教えを創建以来、千三百年余り守り伝えてきました。唯識では人の心の仕組みを自分では意識できない奥底にまで踏み込んで解析し、人のありようを洞察しています。それは端的にいえば、「全ては人の心がつくり出している」という考え方です。
多川: 唯識ってのは、「唯識のみがある」というように読むんですね。その「識」というのは、ある意味で心というように置き換えても、そんなに間違っておりませんので、当面は、ですから「唯心」というかね、「唯(ただ)心だけがある」と。じゃそんなこと言ったって、私たちには肉体もあるし、その肉体を取り巻く自然や環境もあるし、物質ですからねそういうものは。でそういうものがあるじゃないかというわけです。なるほどそれはあるんですけどね、あえて全てを心の要素というものに還元して考えてみましょうと。心の要素に還元して、自分の心の問題として捉えていくと。肉体も物質ですけれど、それを心の要素に還元して考える。自分の問題として考える。この自然もそういうことをするというのが、唯識の基本的な構造なんですね。でその心だっていってるものも、そんなに単純なものじゃございませんで、私たちが意識できる、自覚できる領域と、それから自覚できない無意識の領域というのに分かれるとかね。
杉浦: 深層心理ということで。
多川: そうです。それを大乗仏教では、四世紀、五世紀の段階から、そういう意識できない無意識の世界がちゃんとあるんだというふうに捉えてるわけです。それを唯識仏教というふうな言い方をするわけです。それで唯識ね。一人一人の世界が―例えばこれ同じ所を見てるわけですけど、私とあなたでは見てる世界が違うわけですよね。一人一人の世界を見てるわけです。自分がつくり上げたね。自分の心がつくり上げた世界を見て、この世界はこうだと思ってるわけですよ。
杉浦: でも床の間があって、掛け軸があって、障子が閉まっていて、そういう部屋にいますよね?
多川: 同じですよ。同じですけども、例えば私が見るこの掛け軸の意味と、あなたがご覧になってどう思われるのかっていうのは、そういう認識は違いますよ。
杉浦: 同じ場所にいても、一人一人見ている世界は違うというふうにおっしゃいましたけど、それは心の働きによって違っているということですか?
多川: そうです。私たちの心が描き出した世界を、もう一度自分が見ているということですから、一人一人の世界、見ている世界は違うということですね。ただ人間同士ですと、どうしても同じじゃないかと思われますんでね、ちょっと例を挙げますと、例えば愛犬家が夕方でも散歩すると。犬を連れて散歩するわけですね。全く同じ道を通って同じ野原を散歩してると。で今日はよかったと思いますけども、犬の世界、犬が描き出してる世界と、飼い主が描き出してる世界は全然違うわけですよ。
杉浦: うん?
多川: 全然違うわけですよね。
杉浦: 同じ所を一緒に散歩しているわけですよね?
多川: 例えば犬の嗅覚と人間の嗅覚では全然違うでしょ。一説に人間の六千倍の嗅覚だっていうんですよね。犬は。目はどっちかといえば近眼っていうか、ちょっと犬が弱いでしょう。ですから逆に臭いの世界を頼りに彼らは歩いてるわけですよね。それも地表のね。ですから他の犬がおしっこした臭いだとか、そういうものは人間は分かりませんですけども、そういうものを頼りに歩いてるわけですから、全然別の世界を犬と人間―飼い主は歩いてるわけですよ。それをいや一緒に散歩したと。それは人間がそう思ってるだけですよ。だから人間同士も結局は同じことでね、それぞれの世界にいるわけです。これを「人人唯識」っていうふうにいうんですけどね。これが唯識の根幹の一つなんですよ。これはね、なかなか見逃しがたい重要なことをいってると思うんですね。例えば私たちは―日本人ですね。そうすると、日本列島にいる民族というのは単一ではないわけですよね。少しいろんな民族の人がいらっしゃるわけですけど、全体的にいえば単一民族に近いわけですよね。それで同じような考え方をしていると。だから何か私たちのつきあいの根幹はみんな同じだというところから、何か出発してるようなものですよね。ところが唯識の立場からいうと、みんなそれぞれの世界を持って生きてるわけですから違うわけですよね。その違うというところから始める人間関係と、みんな同じだと思って始める人間関係では、どっちがいいかっていったら、それは同じだと思ってると、よくよく話を聞くと違うと。何で違うんだといって、そういう違いについてものすごいナーバスになりますよね。それで場合によっては争いにもなっていると。だけど、もともとは違うものだというところから出発して、でもこういうところは同じですよね、ということになると、そこで非常に親密になるじゃないですか。ですから「人人唯識」、それぞれの世界に生きているんだと。みんな違う世界を持って生きてるんだという、そういうところの人間関係に派生していくと、大変大事な教えということになると。
杉浦: そういった一人一人が違う世界を見ている、感じている、そのような心の働きについて、『菜根譚』の中にも書かれているところがあるようですね。
多川: ちょうどいい語録がありまして、後集の四番なんですけど。これね唯識的だと思います。
歳月は本(もと)
長くして
忙しき者自から促す
天地は本(もと)寛(ひろ)くして
鄙(いや)しき者自から隘(せま)くす
風花雪月は本(もと)(かん)にして
労攘の者自から冗(わずらわ)しくす
(『菜根譚』後集四)
という文章があるんですね。「歳日は本長くして」というのは、いわゆる月日は長いわけですわね。というか、時間の流れというのは、時々刻々というか、淡々と流れているわけですね。例えば京都から新幹線に乗りまして、品川に着きますと、大体今二時間十五分ぐらいですね。二時間十五分は誰にとっても二時間十五分のはずですけど、とても心が焦ってる時に何とかして早く着かないかと思うと、その二時間十五分は何か遅いと。ですけど例えばブラジルなんかにのんびりとお住まいの人が、新幹線に乗ると、なんて速いんだと。何かある時に、三分ぐらい事情で遅れて、そしたらコンダクターが「大変申しわけございません。お急ぎのところ遅れまして」とそういう謝りのアナウンスを流したらしいんですよ。そしたらそのブラジルから来た人は、「三時間の間違いじゃないの」って言ったっていうんですね。三分ぐらいどうってことないと。ですから同じ二時間十五分なんですけども、人それぞれの気持ち、抱えてる問題によって、速かったり遅かったりすると。「天地も本寛くして」って、これはもう広いわけですよね、宇宙ですからね。でもそれを私たちの都合で、切り刻んで、あるいは切り取って考えるもんですからね。茫漠とした広さのところにせっかく生活してるのに、それを狭く感じるとか。全ては私たちの心が描いた世界に私たちはいるわけですね。ですからそういうのを取っ払うとね。ですから、誰がそういうことをしてるんじゃなくて、自らがそうしてるわけですからね。ものはよく考え方しだいだとよく言いますけど、考え方を改めたり、いろいろなことをしていくと世界がだんだんだんだん広まっていくと。それは私たちがいくらもできることですよね。だから唯識っていうのは、私なら私が描いた世界というものを私が見ている、ということですけども、ですから私の描き方を変えればいいわけですからね。だからそれにはこう問題意識の濃淡とか、有無とか、問題意識がなければ話になりませんですけども、あればそれを濃密なものにしていくと、目の前に広がってるものがやっぱり違って見えますよね。
杉浦: その手助けになるのが『菜根譚』ですか。
多川: そうですね。ですからまあこういう東洋の知恵がほんとにギュッと凝縮したものがせっかくあるんですから、多くの人たちがそれを読んで頂いて、何度も読んで頂いて、そこから自己改革というか、ちょっと大げさですけどね、それは改革できるもんですから、是非やって頂きたいと思います。
ナレーター: 「昔の言葉遣いなので読むのに苦労するかもしれないが、硬いごぼうでも噛むように何度も読めば言葉の味わいが心にしみるようになる」という多川さん。いつも心に留めている『菜根譚』の言葉がこれです
多川:
小処に滲漏(しんろう)せず
暗中に欺隠(ぎいん)せず
末路に怠荒(たいこう)せず
纔(わずか)に是れ個(こ)の真正の英雄なり
(『菜根譚』前集一一四)
「小処に滲漏せず」っていうのは、ちょっとしたことだから、といって、手を抜かないってことですよ。
杉浦: そこをきっちりとやっていく?
多川: そうそう。でもそういう小さい所というのは意外に小さいがゆえにまあいいやというふうに流してしまうとか、ついついそこを押さえない。でもそれは駄目ですよと。小処だからこそ滲漏してはいけない。ちゃんと対処しなくちゃいけませんと。もうこれだけでも私たちの日常に対する取り組み方というのははっきり分かるわけですけど。次は「暗中に欺隠せず」。「暗中」っていうのは、人の見ていないってことですね。見ていないところっていうことです。そこでは人が見ていないと、欺いたり、悪いことしたんですけど。人が見てないから知らんぷりして通り過ぎるというのが私たち当たり前です。だけどそこを暗中だからこそ欺隠しないっていうか欺かない。人が見ていないからこそ欺かないんだと。そこが大事ですよ、というこう押さえてるわけですね。暗中の一番典型的なものは何かというと、私たちの心の中です。心の中というのは、みんな見ていないとか、思うだけの話で、実は一番大事な部分なんですよね。つまり誰が見てるかといったら自分自身が見てるわけですよね。
杉浦: はい。
多川: それから私は仏教徒ですけど、そういう心中、暗中のところのを見てる人がいると。それは誰だというと仏様ですね。それから神道の人だったら神様。神仏の視線というか、そういうものが心の中に一直線にさし込んでいると。誰も人は見ていない。人は見ていないんだけど、神様・仏様っていうか、人間を超えたものですね。最近流行でいえば、「サムシング・グレート」っていう。
杉浦: 偉大なる何か。
多川: 何ものか。つまりそれは人間を超えたものでしょう。そういうものの視線が心の中を貫いていると。だから見てる人はいますよということですね。それで心の中でいろいろあれこれ思いますね。これは仏教でいえば、立派な一つの行為なんですよ。行動。
杉浦: 思うことも?
多川: そうです。思うことこそ実は行為なんですよ。だから思っただけだと。思っただけで。
杉浦: 実際にはやってないってよく言いますよね。
多川: これは別にだから何も事件にもならないし、罰せられもしないわけですよね。だけど心の中で、あの人憎いから殺してやると。もしそういうふうに思えば、社会的には何の問題もないですけど、心の世界としては大変大きな問題をその人が抱えたことになるんです。
杉浦: ただ心の中のことまで責任持てないというか、自然に思いが湧き上がってきますよね。それどうしたらいいんでしょうね。
多川: いや、そこをクリアしないと人間の完成度っていうのは上がらないっていう。そこが宗教なんですね。
杉浦: その歯止めが、仏様であったり神様であったりするわけですか?
多川: 心の中を、じゃ誰がコントロールするのかということになると、誰もコントロールするものがないわけですよね。そうすると思ってるから、具体的な行動が出てくるわけです。だから暗中ですよね、心中というか、そういうところをちゃんとコントロールしなさいと。
杉浦: う?ん、難しいですね。
多川: 確かに難しいです。ただここ数年、例えば「心の時代」とかっていうでしょ。「心の時代」っていうのは、実は非常に古くから言われてまして、大体昭和四十年代の中頃には、「もう物は十分だ。これからは心だ。心の時代だ」というふうな論調になってたんですよね。それからみんな「心、心」っていうわけですよ。で「物と心とどっちが大事ですか?」と言われると、「いやぁ、それは心でしょうね」と、そんなことみんな言ったわけですよ。じゃ、その心を大事にして、心が豊かになったかというと、全然何十年たっても一向に心が豊かにならないんですよ。それはどうしてかということですよね。よく最近「安心・安全」ってよくいうじゃないですか。「安心・安全だ」と言っても、百万回言ったって、別に安心が安全が担保されるわけじゃないでしょ。やっぱりそういうふうなこと実際どうしたら安心・安全になるのかということをやらないと駄目ですよね。それと同じで「心の時代だ」といくら叫んでも、心の時代ってやって来ないんですよ。じゃ、どうなのかというと、例えば今の話で「暗中に欺隠しないんだ」ということをやるということですよね。でもこれは難しいです。難しいですけども、それを自分なりに少しでもやっていく。その中に豊かな心が育まれてくると。
杉浦: 自分自身の心の中を見詰めてみますと、人と比べて、ちょっと優越感に浸ってみたり、あるいは落ち込んでみたりっていう、日々惑いながら暮らしてるわけですね。
多川: 人と比較する。比較して、自分が人よりも上であれば非常に納得する。それで自分が他人よりも、ちょっと劣ってるようだとなると、甚だよろしくないと。というのは、もちろん誰もが経験することですよね。だけど、じゃどうすればいいかとなりますと、端的にいえば、人と比較しないことだということになるんですけども、これはなかなかそうもいかないと。だから自分を変えていくというのは、言葉では簡単です。ですけども、それを本当に変えるんだっていった時に、昨日までの自分じゃない自分をそこでつくり上げていこうと思えば、これはある種の覚悟っていうのが要りますよね。それはでも誰もが持てるものなんですよね。でも何か手ぶらで、そういうのはなかなかできないもんですから、例えば仏教の経典であるとか、今日話題になっている『菜根譚』だとか、そういうものを少し読んで、それで心にそういうものを蓄積して置いて、それでそういうものも一つの道具ですから、そういうものを使いながらやっていくと。それは一人一人の人間が覚悟を決めて、自分がここへ行くんだというふうな心を確立させていくっていうことが―これはそうでないと、豊かにはならないと。そこをはっきりと私たちは知るべきだと思うんですよ。
杉浦: その覚悟っていうのは、行動とも結び付いている覚悟なんですか?
多川: それはそうですよね。自分は明日からじゃなくて、今からこうするんだっていう、そういう自分の生活態度ですよね、結局はね。生活態度を少し今の状況から変えていくっていうかね。その変える変えないで、世界はごろっと実は違うわけですよね。
杉浦: 自分自身が見ている世界が変わるわけですか?
多川: 変わりますよ、それは。もともと自分で描き出した世界ですからね。だから忿懣もうやるせない世界だと思ってたのが、少し視点をずらせば、そう捨てたもんじゃないということだってたくさんありますからね。よく仏教で「空(くう)」っていいますでしょ。あれは時々刻々と変化する。どのようなものでも、不変で実体的なものはないと。どんどん変化する。変化のさなかにあるというもんですから、当然我々だって変化するわけですからね。いつの時代だって、人間が生きていくには苦労は絶えないと。それは承知のほどで、承知のうえで私たちは生きてるんだと。どうせ生きるんならやっぱり実りあるものにしたいじゃないですか。その時にどうするかというと、手ぶらでは豊かにはなれません。そこで宗教という問題が出てきたり、哲学の問題が出てきたり、それ具体的にいえば『菜根譚』というような古典もそこで登場してくると、まあこういうことですね。

ナレーター: 千三百年余りの歴史を紡いできた興福寺。今、境内では、およそ三百年前の火災で失われたままになっていた祈りの中心となる建物、中金堂の再建が平成三十年の落慶を目指して進んでいます。
杉浦: 興福寺の中核であります中金堂の再建の工事も大詰めを迎えているようですね。

多川: そうですね。大体八割五分から九割近くまで。あと二年ありますけども、大体出来上がったなという感じですね。
杉浦: 今日は大屋根のすぐ間近まで上がらせて頂いてるんですけど、これ高さはどのくらいありますか?
多川: 約二十二メーターぐらいですね。ですからちょうど奈良のシンボルの五重の塔の中ほどまでの高さですね。


杉浦: ちょうどいいバランスになるんですね。
多川: そうですね。
杉浦: 緩やかに反り返ったこのカーブがほんとに美しいなあと思うんですけど。
多川: そうですね。これは専門家に反りを計算して出して頂くわけですけど、いわゆる天平の反りっていう角度でしょ

うね。
杉浦: ではまさに天平の甍(いらか)になるんですか。
多川: そう。興福寺は、ご承知のように再三火事で伽藍が焼けているわけですけど、復興いたします時に、必ず元どおりにというか、つまり端的にいえば、天平の創建時のように、というのがテーマなんですね。ですから天平回帰っていうテーマにのっとって復興している。ですから五重の塔も中世の建物なんですけど、天平の雰囲気を十分に持っている。ですから、今度中金堂は天平様式で造るわけで、出来上がりますと、当然その間には天平の風が吹く

だろうと期待してるんですけど。やっぱり私どもにとりましては、唯識という大乗仏教の思想を受け継いでいるお寺でございますんで、ただこういう形のあるものを造って、はい、終わりではなくて、そこで唯識の教えというものを、もう一度天平のように盛んにしたいというのが、私たちの希望ですね。
杉浦: 今日はこれまで、ものの見方のベースとなる唯識について、そしてその具体策である『菜根譚』について伺ってきましたけれども、こうやって中金堂の建物の出来上がっている様子を拝見すると、ますます何かしみてくるものがありますね。
多川: 『菜根譚』は、完全に仏教の経典ではないんですけど、経典の扱いをして、明治以降非常に読み継がれてきたわけですけど、それをどう読むかということですよね。それはそれぞれの読み方があると思うんですけども、私はたまたま興福寺の僧侶ですんで、興福寺に伝わっている唯識、つまり心の構造とか、心の働きとか、認識の仕組みはどうなっているのか、そういった唯識の考え方をベースにしながら、『菜根譚』も読み解いていくというのが、私の流儀というか、スタイルなんですね。今後ともそういうものを踏襲して広げていきたいと思っております。
これは、平成二十八年十月九日に、NHK教育テレビの
「こころの時代」で放映されたものである