宇多丸:
ここから11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。その<監視結果>を報告するという映画評論コーナーです。今週扱う映画は先週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して決まったこの映画……『ムーンライト』。
(曲が流れる)
マイアミを舞台に、自分のアイデンティティーを模索する少年の姿を、少年期・ティーンエージャー期・成人期の3つの時代ごとに描いた人間ドラマ。第89回アカデミー賞で作品賞、脚色賞、助演男優賞の3部門を授賞。主人公・シャロンの少年期をアレックス・ヒバート、ティーンエージャー期をアシュトン・サンダース、成人期をトレバンテ・ローズがそれぞれ演じている。共演はナオミ・ハリス、マハーシャラ・アリ……マハーシャラ・アリさんが(アカデミー)助演男優賞をとったということですね、『ハウス・オブ・カード』などでおなじみです。ほか、ジャネール・モネイなど。製作総指揮はブラッド・ピット。監督はバリー・ジェンキンス、ということでございます。
ということで、『ムーンライト』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールなどでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、普通。あら、そうですか。ねえ。作品賞をとって話題なんですけどね。賛否の比率は8割が「賛」。8割ぐらいの方が褒めている。わずかに、「意外と薄口だった。面白味に欠ける」という意見があったぐらいで、あとは軒並み高評価が並んだ。ただし、熱量が高い推薦というよりは、「自分にとって大切な一本になった」と静かにしみじみと、慈しむような賞賛メールが多かったということでございます。
代表的なところをご紹介いたしましょう。ラジオネーム「リリ」さん。「はじめてメッセージをお送りさせていただきます。『ムーンライト』、いまのところ今年ベスト1の勢いで大好きな作品です。作品を見る前は『黒人、ゲイ、貧困、ドラッグ』などのキーワードの羅列から、マイノリティーの視点から問題提起する社会派作品を想像していました。しかし、実際はそれらの要素をとても普遍的な感情で捉え、非常に美しく詩的に包み込む叙情作品でした。しかも、少女漫画的な意味でとてもキュンと来てしまうのです。好きなところを挙げるとキリがありませんが、シャロンとケヴィンの関係性に寄り添う月明かりや料理、車などの描写がたまりません。
本作のアカデミー賞作品賞授賞は昨年の、いわゆる『白すぎるオスカー』、あるいはトランプ政権へのカウンターだという見方もありますが、それを想定して見ると、もしかしたら肩透かしを食らうかもしれません。しかし、1人の青年の孤独と苦悩に向き合い、その心に月明かりを差し込むような本作は私にとってとても大切な1本となりました」という「リリ」さんのメールでございます。ありがとうございます。
一方、ちょっと物足りなかったという方。「ビンゴ秋風」さん。「『ムーンライト』、見ました。良いとも悪いとも言えない不思議な映画でした。『ムーンライト』というタイトルの通りに薄く淡い話だったと思います。ガツンと来る重いLGBTの話や薬物の話を期待していたので、どちらかと言えば濃い口醤油の方が好みの私にとっては物足りないものを感じました。それでも、よい映画を見たという鑑賞後の感覚を与える、よい映画だったと思います」ということでね。まあ、同じことをおっしゃってますよね。そういう部分で重たい映画ではなかったということかもしれませんね。
はい、ということで『ムーンライト』。私もTOHOシネマズ六本木などで、このガチャが当たる前にも……アカデミー賞が発表される前に、僕は実は一足早く拝見していてですね。で、計3回、拝見させていただきました。『ムーンライト』ね、もちろんアカデミー作品賞史上、LGBTテーマ……なおかつ、人種(的なことを含めた)マイノリティー(を扱った作品)という、そういう映画として(アカデミー作品賞をとったのは)はじめてというところで。もちろんそういう歴史的な意義も大きいんですけど……それと同じぐらいね、僕、まず間違いないこととして、ここまで製作体制も、そして実際の作品の作りも、「ザ・インディペンデント映画!」な1本がアカデミー作品賞をとったという、これがなかなかないだろうなと思いますね。 すっごくインディペンデント映画!っていう感じの映画なんですよね。
監督・脚本のバリー・ジェンキンスさんという方。この方は、長編はこの前に、もちろんインディー体制で、もっとさらに予算がない体制で、それも(『ムーンライト』から)8年前に1本撮ったきりの人なんですよね。2008年の『Medicine for Melancholy』という作品がございまして。これはネットとかでも見ることができるんで。日本版は出ていないけど、アメリカ版のソフトも出ていて、インターネットなどでも見ることはできるんですけど。僕もこのタイミングではじめて見たんですけど……お話ね、要は一夜限りの関係をうっかり持ってしまった男女。黒人の男女が翌日の1日、サンフランシスコの街をぶらぶらしながら、いろいろと会話しつつ……それも、「黒人としての自分」っていうのをめぐる、アイデンティティーの議論とか、ちょっとポリティカルな話題とかも含めて会話をしつつ、互いに距離を縮めたり、でもやっぱり離れちゃったり、っていうまさにちょっと「ムズキュン」なやり取りを重ねていくという、それだけの話なんだけど。
たとえばですね、ほとんど白黒に見えるぐらい彩度を落としつつ、シャツの黄色とか、キーになる色だけを際立てるような、すごくアーティスティックな画面設計、色彩設計をしていたりとか。本当は惹かれ合っているのに、なかなか本当の本音は口に出せないまま一進一退を繰り返す、カップルの丁寧なコミュニケーション描写。本当にムズキュン描写というか、もどかしくもドキドキするという、そういう描写とか。しかも、その背景には、でもたしかに……要はカップルの、ある意味ロマンティック・コメディー的なやり取りなんだけど、たしかにその背景には、否応なく「社会」というものが横たわっている、というような視点であるとかですね、たしかに今回の『ムーンライト』につながっていく要素に満ちた、非常に愛らしい、よくできた小品でした。『Medicine for Melancholy』。
ちなみにその『Medicine for Melancholy』、監督の前作で撮影をしているのは、今回の『ムーンライト』でも撮影監督をしているジェームズ・ラクストンさんという方なんですけども。後ほど言いますけど非常に『ムーンライト』、映像が印象的ですよね。このジェームズ・ラクストンさんという方、先々週の『キングコング: 髑髏島の巨神』評の中でも一瞬タイトルに触れました。デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督……後に『イット・フォローズ』っていうホラーで大ブレイクする、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の長編デビュー作、『アメリカン・スリープオーバー』っていう、知る人ぞ知る傑作青春映画がございまして。で、この『アメリカン・スリープオーバー』も、色彩と闇のコントラストがものすごく鮮烈な作品なんですけど、それもこのジェームズ・ラクストンさんが撮影監督をしていると。
しかも、さらに言えば今回の『ムーンライト』のプロデューサー、アデル・ロマンスキーさんという方は、そのまさに『アメリカン・スリープオーバー』を、一から手がけたプロデューサーの方なわけですね。あるいは、また別の話をすると、たとえば今回……後ほど詳しく言いますけども、非常に音のつけ方も面白い。非常に面白い、実験的な音楽のつけ方をしているニコラス・ブリテルさん。こちら、たとえば『マネー・ショート』でアカデミー賞にノミネートされた方ですけども。この人も実は、『ラ・ラ・ランド』の――作品賞でいろいろとゴタゴタがありましたけど――『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼルの前作で出世作『セッション』、ありましたね。『セッション』の共同プロデューサーも務めている。どころか、そもそもその土台となった短編。デイミアン・チャゼルが『セッション』を作るために作った短編。『Whiplash』っていうタイトルのその短編の、プロデューサーもこのニコラス・ブリテルさんは務めているということで。
要は、どういうことが言いたいかというと、この『ムーンライト』、製作布陣からして、そして実際の作品の出来上がりからして、完全に本当に、インディペンデント映画の人脈と布陣、そして出来上がり、という作品なんですね。なので、アカデミー作品賞をとったからと言って、なんていうかな? 万人にわかりやすいタイプの「面白さ」とか「良さ」みたいなものを用意してくれている作品じゃないというか。「あ、作品賞なんでしょ?ってことは、万人が見て”いい”と言う映画なのね?」って行くと、「ああ、なんか、うん……なんか難しい映画だったな」みたいに思う人も出かねない感じの映画だと思いますね。
万人に開かれているというよりはむしろ、ストーリーテリングにしろ、映像にしろ、音にしろ、かなり実験的な、アーティスティックな試みをガンガンにしている作品なので……ということです。まず、いちばんわかりやすいところだと、やっぱり映像ですよね。もう映画が始まってしばらくで、たぶんみなさん誰もが思うところでしょうけど、非常に映像が美しいんですけど。これね、話としてはいわゆるストリートの現実……差別と貧困と犯罪、ドラッグがあって……みたいな。そういう現実の、非常に厳しい社会問題を背景としながらも、本作ではそれを、普通はそうやって扱うように、いわゆる自然主義的にというか、ドキュメンタリックに切り取ったような……いわゆる「リアル」な見せ方みたいなのを、あえてしていないと。
つまり、そこんところのメッセージを声高に主張するタイプの作品ではなく。画面はこういう感じですね。たとばね、黒みの部分……影ができている部分とかに、後からデジタル処理で、青みを足していたりとかね。あるいは、舞台となるフロリダ……まずフロリダですから、そもそも非常に陽光がさんさんと降り注いでいるんだけど、それをさらに白く輝かせて。で、その中にたとえばやっぱり、特にブルーを――ブルーっていうのは言うまでもなく、本作ではいちばん象徴的な色ですけど――ブルーをより鮮やかに際立たせて。画面の中で、とにかくいろんなところにある青が、ものすごく印象的に際立つようなカラーリングをしていると。ということで、非常に美しい、一種抽象的な映像空間を作り上げている。
映しているのは現実の、非常に悲惨な社会問題があるストリートなのに、それが美しい、ちょっと抽象的な映像空間に見えるようになっていると。このあたり、さっき言ったカメラマンのジェームズ・ラクストンさんと、カラリスト――要するに色の調整ね。いま、デジタルでいろいろできますから――カラリストのアレックス・ビッケルさんという方。これが非常に見事な仕事をされているわけですけど。これによってどういう効果が生まれるかっていうと、要は主人公がですね、主人公を取り巻く環境、社会といった現実……主人公はそこから、現実の社会っていうものから常に乖離した、周囲からちょっと浮いているっていう感覚を抱いている主人公なわけですよ。同じ世界に生きているのに、自分はそこに生きていないような、その社会に属していないような、ちょっと乖離した感覚を常に持っているわけですね。
その、主人公の内的な視点っていうのと、観客の目線、それが一致するわけですよ。主人公が見ている世界。つまり非常に主観的な、主人公――「シャロン」って字幕とかでは出ていますけど、発音から言っても「シャイロン(Chiron)」だと思うけどな――主人公シャイロンから見た世界、っていうのが映し出されているっていうことですね。なので、この映画全体に、主人公が歩いていく背中をカメラがずーっと追っていくっていうショットとか、主人公の見た目の、主観ショット……しかも、そこだけたとえば画がスローになって、聞こえてくるセリフは口と合っていないとか、そういうちょっと、あえてそういうずらした音響効果なんかを加えて、より主観的な感覚みたいなのを強めていたりして。
まあとにかく、そういう主人公の主観ショットであるとか、背中から追ってくるショットが多用されるのも、同じくやっぱりこれ、全体が主人公シャイロンから見た、主人公が見た世界っていうのを強める効果なわけですね。それを狙っているわけです。そして、その主人公シャイロンから見たこの世界っていうのはですね、もちろんたとえば、お母さんがドラッグ中毒であるとか、あるいは苛烈ないじめを受けているとか、そういう残酷さももちろんはらみつつ、そして暴力性をはらみつつも、でもやっぱり常に、「画としては美しい」ということで。どこかでやっぱり、この世界には本質として美しさというものが秘められているんだ、本当はこの世界っていうのは美しいんだ、と……で、それはやっぱり、このシャイロンという主人公がそうであるように、見た目が、あるいは社会的地位がいくらギャング的であろうと、本質には美しさがあるんだっていうのが、この画の美しさで、やっぱり観客も、世界に本質的にはあるはずの美しさっていうのを、無意識に理解するようになっているという、そういう効果があると思うんですよね。
ちなみに、さっき言ったカラリストのアレックス・ビッケルさんはですね、さらに少年期、青年期、成人期。これ、三部でできているんですけど、それぞれを異なるフィルムの質感を、もちろんデジタル的に再現して描き分けしていると。フジフィルム的な質感、アグファフィルム的な質感、コダック的な質感っていうのをデジタル的に再現して、というような、そういう描き分けもしているということで。要はね、デジタルカメラ時代だからこその映画的表現の広がりっていうのを追求しているという意味でも、この『ムーンライト』は結構革新的な一作というか。だからこれがアカデミー作品賞っていうのは結構歴史的に意味があるなという。デジタルカメラでやる映画的表現っていう……フィルム的表現まで含めた、デジタルカメラ表現の可能性、みたいなものを示しているということですね。
また、さっきも言いましたけど、音。音楽の使い方もこの『ムーンライト』、大変面白い作品です。まずド頭ね。ボリス・ガーディナーの『Every Nigger is a Star』っていう曲が流れるんですけど。これね、ただ曲が流れるというよりは、どちらかと言うと完全に、ケンドリック・ラマーの名アルバム『To Pimp A Butterfly』のオープニングと同じ感じ……『To Pimp A Butterfly』も、この『Every Nigger is a Star』のループで始まるんですよ。だから、ケンドリック・ラマーの『To Pimp A Butterfly』が始まるような感じで……つまり、「あのケンドリック・ラマーの名作同様、タフでラフなゲットーライフの中で、“本当の自分”、アイデンティティーを、詩的に、ポエティックに見つけ出していく物語ですよ」というような宣言を、まずしているとも言えるんですよね。
ということで、事程左様に、「わかってんな!」と。オープニングでそれが流れ出した時に、「おっ、待てよ? バリー・ジェンキンス……こいつはひょっとして、ヒップホップIQ、高いぞ?」と(笑)。事程左様に、非常にヒップホップリテラシーが高いと思われる脚本・監督のバリー・ジェンキンスさんと、音楽監督ニコラス・ブリテルさん。あちこちでね、このお二方が公言されている通り、本作の音楽はですね、なんと「チョップド&スクリュード」の手法を持ち込んでいるというところ。ここが非常に面白い実験なんですね。チョップド&スクリュードとは何か? というと、いわゆるサウス・ヒップホップ。南部のヒップホップ発のリミックス手法で、ものすごくざっくり言えば、まあ早い話が曲のスピードを落とす。
曲のプレイ速度、ピッチを極端に落とす(下げる)ことで、独特の酩酊感……これは要は、アメリカのヒップホップっていうのはその時その時で流行っているドラッグの流行と非常に密接に関係があることはちょっと否めないところがあって。これも、コデイン含有の、いわゆる風邪薬シロップですね。ブロンなんてありますけどね。風邪薬シロップが、ドラッグとして流行したことと密接な関係があるんですけど。とにかく曲(トラック)をものすごくスピードを落として、「ウーォォワァーン……」っていう感じになって、酩酊感を表現するという。で、後にこれ、ヒップホップシーン全体を席巻した。一時期はもう、いろんなアーティストが、チョップド&スクリュードバージョンのアルバムを別個に出す、なんてことをやっていましたけどね。
今回の『ムーンライト』でも、既存の曲でやっているのでは、エリカ・バドゥの『Tyrone』っていう曲とか、あとジデーナの『Classic Man』っていう、このあたりの既存の曲のチョップド&スクリュードバージョンを、大人になったシャイロンが車の中で聞いている、という描写が出てきますけど。まあそれも、チョップド&スクリュード、彼がいるのはアトランタですから、さもありなんっていう感じなんだけど。本作ではさらに、通常の劇伴……要するに、オーケストレーションによる曲にもその手法を取り入れているというあたりが、「面白いことをするな!」というあたりですね。まず、こちらをお聞きください。『リトルのテーマ』。ちょっと聞いてね。これね。
(曲が流れる)
これ、要するに主人公の、いわゆるライトモチーフというか、主人公のテーマですね。主人公の本質……要するにタフでラフな環境の中にいて、最終的にはそこに染まっていってしまう主人公なんですけど、その主人公の心の中にある繊細さであるとか、寂しさであるとか、孤独であるとかっていうのを表現するのが、この主人公の基本的なテーマ。これが『リトルのテーマ』というタイトル。で、これがいろんな形で繰り返し変奏されるわけです。たとえば第ニ部。青年期を迎えたシャイロンは、この『シャイロンのテーマ』。こんな感じで変奏される。ちょっと『シャイロンのテーマ』、お願いします。
(曲が流れる)
ね。ちょっとキーが変わって暗い感じになっていますよね。ちょっと重たい感じになっていますよね。で、ですね、ここまでなら普通のライトモチーフっていう感じ、音楽の使い方なんですけど……劇中、主人公の人生を狂わせる、ある決定的な事件が起きてしまうわけですね。ある、すごく悲惨な事件が起きてしまうわけです。その事件のせいで主人公の人生は決定的に狂ってしまうんですけど、そこで流れるのはいま流している『シャイロンのテーマ』の、チョップド&スクリュードバージョンなんです。お聞きください。
(曲が流れる)
はい。めちゃめちゃピッチを落として……これ、単に遅く楽器を弾いただけではできない、こう、「ブボボォォーン……」っていう、もうなんかどよーんとした、重たい膜が全体にかかったような……これはもう、チョップド&スクリュードでしか表現できない感じなわけですね。つまり、彼のアイデンティティーが、その直前まではね、ついに……「あ、本当の自分、見つけられたかも、俺。しかもその、本当の自分を受け入れてくれる身近な人、いたかも」って、そこまで行けた、思えていただけに、それが完膚なきまでに、文字通り叩きのめされ……「変形してしまう」ということですね。主人公のアイデンティティーが、ついに決定的に、変形してしまったという。これをまさにチョップド&スクリュードという、この音でも表現しているということでございます。
これ以降、全体にチョップド&スクリュードな、どよーんとした音像というのがこのくだり、増えてくるという感じでね。ただ、それが彼が三幕目というか、クライマックスを通して、最終的にどんな感じの音、曲に落ち着いていくか? その変化っていうのを見るだけでも、それがドラマ的な感動と完全に一致している、という作りになっているという。さっきの主人公のテーマがもう一度、どう鳴りだすか? とかですね。あと、ケヴィンと話している時に流れているテーマが、どこでまた流れ出すか? とか、そういったあたりだと思います。とにかくですね、ラップ/ヒップホップという音楽は、とかく劇映画の中では、要はストリート……タフでラフでワルでっていう、そういう表現として、あるいは「イマドキ感」の表現として使われるっていうのがまあ普通、ありがちな表現ですけど。この『ムーンライト』では、主人公の心情的変化を表現する、非常に繊細な手段としてそれを使いこなしているというあたり、面白いし、見事だなと思います。
だからこそですね、もうちょっと第三部の話に行っちゃいますけどね。第三部。大人になったシャイロン。これはトレバンテ・ローズさんが演じる、完全に……もう言っちゃいます。50セントです!(笑) 完全にラッパー50セント風のゴツいルックス。50セントっていうのはドラッグディーラー出身で、もちろん強面で……ただ、目が優しいんだよね、50セントもね……で、知られるラッパーですけども。そういう50セント風のゴツいルックス。ムキムキの筋肉に、金歯して、ゴールドチェーンして、大音量でヒップホップをかけて。で、車を転がしつつ、クールに手下をコントロールするドラッグディーラーというね。これだけ言ったら、これ以上ないほどベタな「ストリートのワル」ですよね。まあ要するに、彼はそういう風にしかここでは生き残れなかったということなんですけど。
ただ、彼がそうやってタフぶればタフぶるほど、強がれば強がるほど、それが痛々しく、そして愛おしく見えるっていう。(一見ベタな「ストリートのワル」を)こんな描き方をした映画作品ってありますかね? と、思いますね。要するに、ムキムキであるとか、そういう強面な態度っていうのはですね、傷ついたハート、あるいは自分の人生を、なんとか守るための「鎧」なんですよね。っていうことを、僕らはその少年期、青年期ときて、彼がなぜベタなストリートのワルになったのか?っていうのをわかるから、やっぱり彼の人生の痛みそのものとして、それが伝わってくるわけですよ。
なので僕は第三部。彼がね、悪夢……繰り返し見ている悪夢なんでしょうね。彼の生い立ちに関わるある悪夢を見て、パッと目覚めた。そこで彼の見た目がすっかり変わっていることを観客は知るわけですよ。パッと、ムキムキの男になっている。彼の見た目が完全に変貌しているその時点から、僕は正直ずっと泣きっぱなしでした。っていうのはやっぱり、「あっ!」っていう……僕はもちろんヒップホップが好きで。で、まさにそのマッチョな環境の中で、時にはやっぱり自分のアイデンティティーとの違和感を感じながら……やっぱりすごく、シャイロンによく似た疎外感とか違和感を感じている瞬間もあるし。同時に、僕らがいろいろ聞いてきたラッパーとか、そういう強面ぶりの向こうにある痛みみたいなのを、つまり彼らの内面を垣間見た気がして、「あっ!」っていう感じでですね。正直、そっから先は本当に、泣き続けでございました。
ちなみにこの3人のシャイロンの演じ分け……別の役者がやっているわけですけど、その3人それぞれを、顔合わせとかさせずに、要するに演技の打ち合わせとかをあえてさせず、全く異なる人物としても見えるようにあえて演出したというのがバリー・ジェンキンスさんの今回の狙いだったようですけどね。ということで、このすっかりドラッグディーラーとして一応は成功しているらしいシャイロンくん。彼の矛盾した人生を象徴するかのように、いろんな過去の、彼がなぜこうなったか? の片鱗があるわけですよね。車には、幼い頃にかわいがってくれたフアンっていう、やっぱりドラッグディーラーですよ。彼と同じような人になっちゃっているわけですけどね。(そのフアンがしていたように)王冠、これがダッシュボードに置いてある。
一方、ナンバープレートの文字は「BLACK」。あのケヴィン。彼が唯一心を開いた相手であるケヴィンとの思い出の名称である「BLACK」。「あっ、お前、引きずっているじゃねえか、全然!」っていう。それがナンバープレートに表れていたりとか、ということで。ただ、かつて子供時代にかわいがってくれたドラッグディーラーのフアンと彼が違うのは、やっぱりシャイロンは、1人なんですよね。で、彼は、忘れようとしていた過去から呼び出しがあって、改めてそこに向き合う。しかも、その向き合う時に、ここがいいなと思うんですけど、改めてドラッグ中毒だったお母さんとも向き合うことで……ある意味、自分の人生をこうしてしまった人、お母さんを、まず「許す」っていう。その段階を経てから、本当に向き合うべき過去、あるいは本当に許すべき誰か、そして本当の自分に、会いに出かけて行くという、終盤の展開があるわけですね。
で、ここね。クライマックス。もう画面に映っているのは、さっきから言っているように、50セントばりのムキムキの強面男と、ヒゲ面の、ちょっとくたびれたおっさん2人です。でも、なのにというか、だからこそ、そのやり取りのもどかしさ。「もう……もう! 早く気持ち、言っちゃえよ! もう~!」みたいな(笑)。遠回しの告白の愛おしさみたいなのも、本当にムズキュン。あるいは、丁寧に丁寧に料理を作る、その料理を作る手つきだけでももう、ドキドキするようなこの感じ。「なんだ、この胸キュンは?」っていうね、感じなんですよね。そして、最終的にこの2人、いろいろと一進一退のコミュニケーションを繰り返した後に最後……劇中、3回海辺が出てくるわけです。そして、主人公のシャイロンは、その海辺でだけは、本当の自分を常に見つけることができる。
1回目は少年時代。さっき言ったフアンにね、海に連れてこられて。で、こうやって……ある種、ちょっと洗礼を思わせる儀式的な感じで、フアンからいろんな言葉を授けられるんですけど。要はあそこではじめて……彼はいままで世界に対して、違和感を感じていたわけです。「なんか自分は違うんじゃないか?」って思っているのを、フアンによってはじめて、世界との一体感っていうのを実感させられる。ちなみにフアンは、シャイロンのやることとか言うことを、1回も否定しないんですよね。かならず、彼が黙っていても受け止めて、肯定してあげる。あれは本来は親がやるべき仕事なんだけど、それをフアンがやってあげる。(そうやってシャイロンは)やっぱり海辺で、本当の自分を肯定することを1回、覚えるわけです。
で、2回目の海辺は、ケヴィンと過ごしたあの海辺。本当の自分。そしてその本当の自分を他者に受け入れてもらうという体験。それをしたのが2度目の海辺。そして3度目。大人になったシャイロンとケヴィンが、お互いにそれぞれ傷ついた人生を送ってきた2人が、車を停めて。下りたら「ザザーッ……」。潮の音が聞こえてくる。さざ波が聞こえてくる。「ああ、海に来た」。観客もやっぱり、そういう感じがするわけです。ついにここで本当の自分を取り戻す、のか? というこのくだり。もう一言でいえば、こういうことですよね。ここまで見てきてようやく、「ああ、なんてロマンティックな映画なんだ!」っていうことですよね。
でも、ロマンティックなんだけど、同時に非常に苦い場面でもあると思います。要するにこの2人っていうのは、まあ結構いい歳になるまで、人生思うように生きられなかった。要するに、社会のいろんな……周りの軋轢とか抑圧に、負けてしまった部分がある2人なわけですね。フアンの教えで「周りに振り回されるんじゃない。自分で決めろ」って言われてたのに、2人ともそれができなかった。で、ここまで来てしまって。ある意味人生ここまでをドブに捨ててしまっていたかもしれないその2人が、ようやく自分というものを取り戻し、その人生の隙間を、2人で埋めようとするという、その苦さもちゃんとあるからこそ、このロマンティックには、ちょっと重みもあるということですよね。ラストショット。青く光った少年が振り向く。要するに観客側にも、「あなたの海辺。あなたが自分を取り戻す場。何処かにありますか?」という感じで問いかけるような感じ。これも本当に素晴らしいですね。
まあだからつまり、貧困とか人種差別、LGBT、そういうところで自分と環境が違っていてもですね、疎外感とか孤独を感じたことがある全ての人にこれ、通じる話ですよ。僕も、子供時代に「ウワーッ!」とか騒いでいる男の子たちが、「なんか怖いし、面白いか、これ?」って……(笑)。すごく、そこからもう共感できましたし。これね、ちょっともう時間がないんでね、役者陣の素晴らしさとか、あと、たとえばウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』とか、あるいは大島渚『御法度』との共通点、そんな話とかもいろいろとしたかったんですけどね。すいません。もう時間がない。本当に素晴らしい作品です。アカデミー作品賞にはむしろもったいないくらい、私は結構、心の奥にしまっておきたい大切な作品になってしまいました。ぜひ、劇場でウォッチしてください。
(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『夜は短し歩けよ乙女』に決定!)
以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
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